獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その18)

2024-06-19 01:44:14 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

「藤井教授に代わって、君たちに西洋倫理学史を教えることになった田中です」
代理の講師は顔の色が白く、いつも笑ってでもいるように温厚な表情をしていた。その白い顔に、遠くから眺めると三角形にしか見えない顎髭をたくわえ、長髪だった。ネクタイは赤であるから、見ようによっては異様に映った。だが、湛山は「哲学者らしい風采をしている」と王堂への第一印象を好ましく思った。
「私は、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)でも教えています。今日から私が皆さんに教える西洋倫理学史は、今まで皆さんが学んできた形而上哲学とは少しく考え方を異にします。その点をお含みおきください」
田中王堂はそんな前口上の後、メモを見ながら話し、時にはどう教えたらいいだろうか、というふうに天井を見て考え、数分間も黙ったまま表現を工夫してから語りかけるように教えた。その講義のやり方はその後もずっと変わらなかった。
「今度の倫理の講師。あれはどうにも駄目だぜ」
「なんたって工業学校の講師の出向だもの。大した講師じゃあないよ」
王堂の授業が始まって数週間経った頃から、講義を受けている学生の間に、そんな評判が交わされるようになった。
「内容だってちんぷんかんぷんで、何だかよく分からないし……」
「今まで中学校で教わってきたものとも、藤井教授が教えてくれたものとも違っているしなあ」
「俺はこんなことを聞いたぜ。何年か前に田中という先生は講義に来ていたが、あまりにも分からなさすぎるというので、辞めさせられたんだそうだ」
「ああ、俺も小耳に挟んだ。東京専門学校の頃だってな」
「とにかくそんな評判の悪い人を、また何で早稲田の教壇に立たせたんだろうか」
東京専門学校時代に、王堂の講義を受けた人物のなかに、近松秋江や正宗白鳥がいた。なかでも正宗白鳥は後年、「王堂哲学を文学で具現した人」と位置づけられ、湛山と並んで「王堂哲学」の具現者としての評価もある。
湛山にも初めのうち、王堂の哲学の内容はもうひとつ理解し難かった。
「難解すぎるんだ。もっと分かりやすければいいのに」
だが湛山は数カ月後、自ら学生に語った王堂の履歴に惹かれるものがあった。
「私は順調に人生を歩んできたわけではありません。埼玉県の田舎に生まれたのですが、物心ついた時に他家に養子として出されたのです。しかしどうしても勉強をしたい、学問の世界で生きたいという思いが強く、結局養家を出ました。その後、東京、大阪、京都を転々としたものの、念願の帝国大学に入って学問を修めたいという夢は果たすことが出来ませんでした。4年間の浪人生活でしたが、私はその夢に終止符を打ちました。だからといって、学問への情熱を失ったわけではありませんでした……」
最初、王堂の「4年間の浪人生活」を知った時、湛山は自分の生きてきた道を重ねてみた。自分は、2年落第、そして2年浪人。しかし、目の前の王堂師は4年の浪人生活である。その4年間の艱難辛苦と忍耐はいかばかりであったか。それだけで湛山には田中王堂という人間が分かる気がした。そうした経験が少しも屈折になっていない。それどころか、この温和な表情は一体どうしたこ とであろうか。
「決して失望感がなかったわけではありません……」
失意の王堂は、徴兵検査を潮に郷里に呼び戻された。そのまま生活のために郷里で教師をやる羽目になった。
「……その後、山形県鶴岡市に行きました。そこにはデサンプル教会というのがあり、そこの宣教師ガルスト師のもとで英語学校の補助教諭を務めたのです。ここで私はガルスト師の蔵書を読む機会に恵まれました。ガルスト師は、その蔵書を何でも読んで構わないと許してくれたからです……」そこで王堂は、宗教、哲学、自然科学の書物を端から読破した。英語が得意だったことも幸いしたが、王堂はそれらを原書で読むことで、書いてある内容の本質を掴み取ることが出来た。
「外国の書物が翻訳されることは、まだまだ我が国では多くはありません。しかし、翻訳されたものよりも、原書を読むことを私は勧めます。翻訳された本は、原書とは若干、意味合いや内容が異なることがありますから……」
湛山は、その言葉には共感を覚えた。日蓮上人の御教書」なども、誰かが分かりやすく口語訳したものでは、鎌倉時代の宗教の本質は伝わってこないことを経験していたからであった。
王堂はこれらを読み終えて「国家のための少数の大いなる狂人になろう」と、自分に言い聞かせたという。
「こうした縁が、私に大きな贈り物をくれました。それは、デサンプル教会が援助して私をアメリカに留学させてくれるという贈り物でした。私はケンタッキー州のレキシントンという町の聖書学校を経て、ケンタッキー大学、そして新設されたばかりのチカゴ大学に入学しました。そこで哲学の勉強に励んだのです。23歳の時でした」
「チカゴ」とはシカゴのことである。王堂は「チカゴ」と発音した。
聞いていた湛山は、王堂がシカゴ大学で哲学を学んだ、という言葉に驚かされた。多分、この人は英語も哲学もすべてが独学であったに違いない。そう考えると、湛山は身も心も震えるのを覚えた。興奮していたのである。
「ここで私は、素晴らしい先生に出会ったのです。人間にとってこの出会いほど、そしてその出会いを素晴らしいと思えることほど、幸せなことはありません……」
湛山は、王堂が淡々と「人生の師」と言えるべき人物との出会いを「幸せ」と語ったことに深く頷いていた。
「その先生とは、私より1年後にチカゴ大学にやってきましたジョン・デューイという人です。私より8歳の年長でしたが、デューイ教授が語る哲学は、それまで私が考えていたものとは全く異なったものでした……」

(つづく)


解説

こうして湛山は、王堂を通して、プラグマティズムと出会います。


獅子風蓮



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