というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
■四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
□後記
四杯目の火酒
1
__グラスが空なようだけど、もう一杯もらいますか、同じものを。
「うん、もらいたいな」
__まだ4杯目だから、引っ繰り返りはしないよね?
「平気だよ。昔はそういうこともあった、って言っただけじゃない。そんなに簡単に引っ繰り返りはしませんよ、あたしだって」
__それなら安心。こんな高い階からかついで降りなけりゃならなくなったら、まったくの悲劇だからね。
「昔に比べたら、少しは強くなってるよ」
__昔からウォッカトニックを専門に呑んでるの?
「前は、ウォッカ・コリンズを呑んでたんだ」
__それ、どんなの?
「ウォッカ・トニックと大して変らないんだけど、少し面倒なの。ウォッカと炭酸にガムシロップを入れるから。店の人に説明しなければならないことも多くて、だからついウォッカ・トニックでいいわっていうことにしてるうちに、ウォッカ・トニックということになったわけ。ウォッカが呑みやすいんだろうね、あたしには」
__いつ頃から、呑むようになったの、ウォッカなんかを。
「そうだなあ……前川さんと離婚したあとくらいかな、よく呑むようになったのは。そうだ、あの頃、よく遊んでたなあ、毎晩。そして、いつも、ウォッカ・コリンズを呑んでいたな」
__あなたが、クール・ファイブの前川清氏と婚約したのが昭和46年の6月。歌謡大賞、レコード大賞、紅白歌合戦の初出場と、藤圭子の大旋風が巻き起こってから、たった半年しかたたないうちに、婚約しちゃったわけだよね。かなりの度胸だと思うけど。
「勢いでそうなっちゃったみたいなとこもあるんだ」
__そもそも、前川さんとは、どういうふうに知り合ったの?
「どういうふうもなかったんだけど……あたし、クール・ファイブの歌が好きだったの。いまでも大好きだし、あんなうまい人はいないと思うけど、ね。その頃も、知り合う前からレコードを買って、聞いて、うまいなあって尊敬してたんだ、前川さんのこと」
__その頃のクール・ファイブの歌っていうと……。
「〈逢わずに愛して〉かな」
__ああ、あれもいい歌だったね。ぼくもクール・ファイブの歌は好きなんだけど、これもどういうんだろう、あなたの場合と同じにデビュー曲が、あんまり好きじゃないんだよね。それより、〈逢わずに愛して〉とか、〈そして、神戸〉とか、〈恋唄〉の方が、ずっと好きなんだ。
「あっ、あたしも同じだ。〈長崎は今日も雨だった〉よりも、そのあとの中ヒットくらいの曲に、すごくいいのがあるんだよね」
__そうすると、その頃は、前川さんに対して、かなり熱い思いを持ってたというわけ?
「いや、そうじゃないんだよ。寂しかったんだよね、お互いに。デビューしたばかりで、スタジオに行っても、どこに行っても、友達なんかいなくって。同じレコード会社だったし、演歌だったし、仕事なんかでよく顔を合わすようになって、少しずつ話すようになったんだ、二人で。出身はどこなのとか、そういうのを少しずつ話すようになって、友達になったの。あたしも前川さんも、芸能人同士でヤァヤァって調子よく誰とでも付き合う、ということがぜんぜんできないタイプだったでしょ、だから寂しかったわけ。そのうちに、二人だけで会うようになったの」
__みんなに知られないあいだは、どんなふうに時をすごしていたの、二人で。
「前川さんのうちに行ってた。その頃、あたし、沢ノ井さんの二階に下宿してたでしょ」
__まだ、沢ノ井さんのとこに居たの!
「そう」
__忘れないうちに訊いておくけど、その頃のあなたの給料はどのくらいだった?
「はじめ5万。2年目くらいから50万かな。3年目で150万」
__そんなものなのか、やっぱり。で、どうしたって? 二階に下宿していたから……。
「二階に下宿していたでしょ。だから、夜、前川さんのとこに行けないわけ。沢ノ井さんに見つかっちゃうから。それでどうしたかというと、仕事から帰ってきて、夜だから寝るようなふりをして、二階から縄で外に降りたの」
__ほんと! それはロマンティックじゃないですか。運動神経の鈍そうなあなたが、縄をつたって二階から降り、恋人に会いに行くなんて。
「縄で、すぐ隣の家の塀まで降りて、そこから飛び降りたりして、抜け出してたんだ」
__なかなかいいね。で、前川さんちで何をしてたの?
「ぼんやりテレビ見てた」
__ハハハッ、こいつは傑作だ。決死の脱出を敢行して、なんとテレビを見に行ってたのか。二人してテレビを見てたの?
「そう。 前川さんて、外でみんなでワイワイするより、家でぼんやりしてるのが好きな人なんだよね、だから……」
__しかし、何だって、そんなに結婚を急いだの。まだ、あなたは、そのとき19歳だったのに。
「急いだわけじゃないんだけど……」
__結婚したかったわけ? 前川さんと、早く。
「そんなことはない。前川さんは結婚したかったみたいだけど……あたしは、別に」
__よくわからないね、その辺の事情が。まさか営業用の結婚というわけでもないだろうし……。
「そんなことすると思う? あたしが、そんなことを」
__思わない。でも、なぜ……。
「それはね、売られたわけ」
__えっ? 売られたって、あなたが?
「週刊誌に、ネタを売られちゃったの。あたしと前川さんの仲についてのネタを、沢ノ井さんに」
__沢ノ井さんが売ったって?
「そうなんだ、沢ノ井さんが売っちゃったの、話題作りのために」
__そうか、46年はあなたに思ったようなヒット曲が出なかったんで、沢ノ井さんも焦ったのかな。〈女は恋に生きてゆく〉も〈さいはての女〉もうまくいかなかったから……。
「それであたし、意地になったの。そんなことをするなら、絶対にもう結婚してやる、って。ほんと、意地になっちゃったんだ」
__沢ノ井さんという人も、かなり不思議な人だね。
「紙一重の人」
__天才と狂人は、っていう、その紙一重?
「そう。変った人なんだ。この世界では評判の悪い人でね、嘘つきだって。でも嘘をつこうと思ってついているんじゃないんだよね、そのときは。たとえばハワイに連れて行ってあげるよって本気で言ってるんだけど、すぐに気が変って忘れちゃうの。あげるといってあげなかったり、するといってしなかったり、だからこの世界では信用されてないんだ。しかし悪人じゃないの。みんなはね、わからないって言うけど、あたしには理解できるんだ。もしかしたら、あの人を理解できるのは、あたしだけかもしれない。すぐ、あの人、女と見れば口説こうとするの。タレントさんばかりじゃなくて、そのお母さんにまで……」
__当然、あなたも口説かれた?
「うん、でも、あたしは、それは病気だと思ってたから、相手にもしなかったし、気にもしなかった。キャンペーンなんかに行くでしょ、そうすると、途中で、疲れたろう、あそこでちょっと休んでいかないか、無理することはないから、なんてホテルに行こうとするの。こっちは魂胆がわかるから、平気です、疲れてません、なんて頑張って。でも、憎めないんだよね、あの人」
__もし、沢ノ井さんが、あなたたちのことを週刊誌に売らなければ、結婚は……。
「してなかったね。そんな急いで婚約なんかしなかっただろうし、もう少しいろんなことを冷静に見れたろうし」
__意地になったのか……。
「あのとき、あたしが意地でも結婚するって勢いになったら、それはトントン拍子に話は進んじゃいますよ。前川さんは、あたししかいないっていうくらいに、大事に思ってくれていたし」
__結婚するつもりだって言ったら、お母さんは、何とおっしゃったの?
「早いよ、純ちゃん、って」
__早いよ、純ちゃん、と言われたわけか。
「でもね、お母さんも、お父さんと一緒になったのが19歳のときだったんだ。それに、お姉ちゃんも、19歳で結婚した。みんな19歳なの」
__早婚の血統なのかな。
「19歳で結婚したけど、お母さんも離婚したし、お姉ちゃんも離婚したし……」
__そうか、あなたも別れた。なんだか、すごいね。
「お姉ちゃんは再婚して幸せになってるけどね」
__婚約してから、結婚式をあげるまで、2ヵ月しかなかったんだよね。
「そう。でもね、一度は結婚するのをやめようかと思ったんだ。何か無理なような気がしたんだ」
__どうして?
「それは前川さんを好きだったよ、あたしも。だけど、どういうのかな、あたしは前川さんのこと、身内みたいな感じで好きだったわけ。異性というより、兄弟みたいなお兄さんみたいに感じてたんだ。こう、胸が切なくて、キューンとするような思い方じゃなくて、さ。だから、あたしの方がクールに見られた、っていうことはあるんだろうね。こっちからベタベタはあまりしなかった」
__そういうところも、あなたの魅力のひとつに感じられてたんだろうな、前川さんには。
「結婚するのをやめる、って言い出したら、最初は反対していた周りの人たちが、もう婚約発表もしているのに、そんなことをしたらみんなのいい笑い者になっちゃうから駄目だって言うんだ、それはまずいよ、って」
__わりと危険な感じで結婚したんだなあ。しかし、それも、19歳の少女の結婚前の感傷と考えれば、結婚生活を続けていくうちにある種の安定した愛情が生まれるということもないではなかったろうに……どうして、1年で離婚しなければならなかったんだろう。
「やっぱり、何か違うな、っていう感じだったの。嫌いになるとか、いやになるとか、そういうんじゃないんだけど、どこか違ってたんだよね」
__どういうこと?
「言葉で説明しにくいんだよね」
__最初、新居はどこに構えたの?
「世田谷の太子堂」
__前川さんの家?
「仲人をしてくれた人がいて、その家の三階だかを借りて住んでたの」
__間借りしてたのか。なんだか、あなたたちみたいなスターの新居には似つかわしくないようだけど。
「そこに数ヵ月いて、とてもいやな思いをして、三田に移ったの」
__どういうこと?
「いま考えたら、二人とも馬鹿なんだけど、二人ともRCAというレコード会社にいて、お世話になった人はたくさんいたわけじゃない。仲人をしてもらわなければいけない人はいっぱいいるわけ。それなのに、前川さんの知り合いとかいう、大工さんに頼んだの。知り合いといったって、前川さんが東京に出てきて、スターになってから近づいてきた人なんだよね。その奥さんが洗濯やなんかをしてくれたというだけの人なんだ。あたしたちって、ほんとに常識がなかったね。笑われても仕方ないよ、恥ずかしいよ、まったく。その大工さんが、家を改築して、その上に住めって勧めてくれたわけ。あたしはまだ子供で世間のことがよくわからなかったから、前川さんがあの人に仲人を頼みたいと言えば、いいよと言ったし、あの人のうちに住もうと言えば、うんと言っていたんだ」
__なるほど。
「しばらくして、二人で土地を買うことにしたの。世田谷の東名高速の出口の近くに、1500万でいい土地があるからって。その土地についてのすべてのことを、その大工さんがやってくれたわけ。親切からやってくれたんだろうと思っていたら……1500万円の土地代の領収書が1150万しかないんだ。どうしたんですかって訊いたら、売り主が税金のこととかでそうしてくれと言ったからという説明なの。それはわかる、そういうこともあるでしょう、でも、これは表に出さないでほしいけどという、別の、本当の領収書がなければおかしいじゃないですかって、あたし、言ったの。前川さんはいいじゃないかと言ったけど、あたしはいやだって言ったの。お金はいいにしても、そんな納得のいかないことを、そのままにしておくのは気持が悪い、って」
__あなたは、本当に潔癖な人ですね。
「そして、その売り主のところに行ったんだ。そうしたら、売り値は正確に1150万でしたと言うわけ。それなのに、銀行からは1500万が引き出されていたの、大工さんの手によって。もう、この家を出よう、って前川さんに言ったんだ。気持悪いって。信用できなくなった人のところに住んでいるなんて、耐えられないじゃない」
__それは、そうかもしれないね。
「もうひとつ、そこでいやなことがあったんだ。あたしたちは、その上に住んでいて、下に大工さん一家が住んでいたの。あるとき、何か用があって、階段を降りていったら、みんなで話をしていたのね。前川さんとか圭子ちゃんとか耳に入ってきたんで、ふと立ち止まったの。そうしたら、みんなでお金の話をしていたらしくて、いいんだよあいつらの金なんか、アブク銭がいくらでも入ってくるんだから、とか言っているのが聞こえてきたんだよ。ゾォーッとしたもんね、あたし。もういやだって思ったわけ。いつもは前川さん、前川さん、圭子ちゃん、圭子ちゃんとチヤホヤしているのに、陰にまわるとそんなふうに考えているのかとわかると、一時間でも早くその家を出たくなった。いままでは前川さんの知り合いだと思うから、調子も合わせてきたけど、もう我慢ができなかった。もし前川さんが出て行きたくないなら、ひとりでも出て行きます、この家かあたしか、どっちか選んでください、ということになったんだ」
__激しいね。
「それで三田にアパートを借りて移ったわけ。ところがね、このあいだ、前川さんと久しぶりに会って話したら、まだそこの人たちと付き合っているというから、ガックリしたんだ。美談かもしれないけど、あたしはいやだな。それは前川さんは人のいい、よすぎるくらいの人だよ。でも、それとこれとは違うことだと思うんだ。あたしは、人を憎みたくもないし、怨みたくもないから、そういう人とは無関係なとこで生きていたいんだ」
__でも、そういうギクシャクはあったとして、二人の関係には大したヒビは入っていなかったんでしょ?
「そう……でも、こういうことはあったと思うんだ。前川さんは、とにかく、外に出るのが好きじゃない人なの。大勢でいるより、家に帰って鯉の相手をしてる方がいいわけ。あたしはね、少数だけど気の合った人たちと楽しくすごす方が好きなわけ。何となく退屈だなあ、と思うことはあった。家で、黙って、鯉を相手にされたりしてるとね。あたしは、まだ子供だったから、二人で友達みたいに遊んでほしかったんだろうね」
__結婚して、あなたは変った?
「結婚して変ったし、離婚して変った」
__どんなふうに?
「気を使うようになったね、人に対して」
__そう。
「きっと、少し大人になったんだろうね。それまでは、人に気を使うなんていうことはなかったもん。子供は人に気を使わないじゃない、それと同じだよ。だから、あたし、無心に歌が歌えていたんだろうけどね」
__結婚して、無心じゃなくなった?
「そう、結婚してから、なんか現実的になっちゃったね」
__どうして?
「いやだった。確実にひとつ、人に秘密を知られてしまったような、ね。変な話をすると、マネージャー同士が会って話していたりするわけですよ。前川さんとあたしのマネージャーが。本当にいやなんだけど、あたしが一週間くらい地方に行って帰ってくると、二人で噂話をしているわけ。一週間ぶりなんで、今夜は大変ですね、なんて。そんなこと言われているのを聞いちゃって、いやになった。ああ、そうなのかって思って、情なくなった。そんなこと話されてるって思うだけで、あたしはいやだった。とてもくだらないことだけど、そういうことなんかで、自分がある現実の中に置かれているんだって、なんか意識をするようになっていったみたい。だから、ほかの人たちといて、前川さんと二人だけで家に帰るのがとても恥ずかしかった」
__それは意識過剰だよ。
「そして離婚したでしょ。それも恥ずかしかった。もう人前には出られないと思った。こういう仕事をしているかぎり、どんな秘密も知られていってしまう……」
__どうして離婚が恥ずかしかったの?
「結婚したら、絶対に、離婚なんかしてはならないことだと思ってたから。離婚は恥ずかしいことだと思ってた」
__結婚によって、あなたは突然、意識過剰の人になってしまったようですね。
「新婚旅行はハワイに行ったんだ、スタッフのみんなも一緒に。同じホテルだから、夜遅くまでワイワイやってるの。そのとき、初めてブラックジャックを教えてもらって、面白くて仕方がなかったの。あたしはみんなとブラックジャックをしていたいんだけど、前川さんは早く自分たちの部屋に戻りたいわけ。でも、あたしは、二人で部屋に行くのが恥ずかしくてしょうがなかった」
__いろんな意味で、あなたはまだ未成熟だったんだろうな。19歳の少女としては、ある意味で当然なんだろうけど、あなたの歌や雰囲気に欺かれて、人は錯覚していたんだろうしね。でも、あなたはワイワイみんなとやっている方が楽しかったんだね、そのときは。
「うん。いまだったら、ほんとに好きな人と、一緒にいられるっていうだけで幸せと感じるだろうけどね」
__結婚を契機に人から見られてるっていう意識を強く持ってしまったということかな。それまでのあなたにはほとんどなかった感じだったのに、ね。それが、恥ずかしい、恥ずかしいと思わせるようになってしまった……。
「どうだろう。でも、そんなこと、少しも恥ずかしいことじゃなかったんだよね」
__たぶん。
「本当に恥ずかしいことは、もっとほかにあるんだよね」
__そんなことがあるの? どんなこと?
「いや、恥ずかしいことじゃないのかもしれないけど、駄目なことってあるんだよね、少なくともあたしがプロの歌手であるかぎりは……」
__どういうことなのかな。
「あたし、二つの歌を殺してしまったんだ。自分の歌を自分の手で。とてもすばらしい歌を、自分の手で死なせちゃったの。生まれて間もない……歌が歌手の子供だとすると、自分の子を殺してしまったわけ。駄目だよね、歌手としては、なっちゃないよね、ほんとに馬鹿だよね」
__なんていう曲?
「ひとつはね、〈恋仁義〉っていうの」
__知らないなあ。
「そうだろうね、すぐ歌うのをやめちゃったから。でも、いい歌なんだよ、いちばん好きなくらいの歌なんだ。さっき、石坂まさをっていう人が、1年くらいで枯れちゃったっていう話が出たけれど、これも沢ノ井さんの作品で、久しぶりに石坂まさをとしていい歌ができたんだ。あたしも気に入って、さあって歌いはじめたとき、あたし前川さんと婚約しちゃったの。それで歌うのをやめたわけ。こんなの歌えないよ、って」
__どうして? 婚約なんか、別に歌と関係ないじゃない。
「関係あるんだよ。その歌の一番の歌詞はね、こういうんだよ。
あなたと死んでも 命は命
一人生きても 恋は恋
惚れていながら 身を引く心
それが女の それが女の
恋仁義
前川さんと婚約していながら、惚れていながら身を引く心、なんて空々しくていやだったの。前川さんを好きだった女の人はきっといくらもいただろうし、その人たちに対したって、白々しすぎると思っちゃったんだ。こんな歌は歌えないって、たった1ヵ月で違う歌を出してもらっちゃったの。だから、ほんの短かい期間しか歌わなかったから、知らないのは当然なんだけど、あたしのファンの中には、あの歌が好きな人がかなりいてね。時々、有線なんかで、ポツリとリクエストしてくれている人がいるんだ」
__あなたの性格を、ほんとによくあらわしている話ですねえ、それは。
「お客さんの反応でもわかるんだけど、やっぱり、この〈恋仁義〉っていう歌はどこか魅力のある歌なんだろうね。最近、舞台とかクラブとかで歌うことがあるんだけど、ヒット曲でも、みんなに知られている曲でもないんだけど、聞いている人が喜んでくれているのがわかるんだよね」
__二曲、そういうのがあると言っていたけど、もう一曲は何ていう歌?
「〈別れの旅〉っていうの。これも好きな歌だったんだ。阿久悠さんの作詞で、ね。その一曲前に、阿久悠さんが〈京都から博多まで〉を作ってくれて、これがかなり売れて、その第二作だったわけ。あたしは、むしろ〈京都から博多まで〉より好きだったくらいなんだ」
__どういう感じのメロディー?
「夜空は暗く、心も暗くっていう感じの曲なんだ」
__ちょっと、歌ってみてくれない。
「ここで?」
__そう、ちょっと、小さな声で歌ってくれないかな。
「駄目だよ、周りに人がいるのに……」
__だから、小さな声で、低くでいいから。聞かしてくれないかな、その〈別れの旅〉をあなたが好きだという曲を知らないのは、なんとしても話が進めにくいから。 お願いしますよ。
「じゃあ、一番ね。
夜空は暗く 心も暗く
さびしい手と手 重ねて汽車に乗る
北は晴れかしら それとも雨か……
愛の終わりの 旅に出る二人
という歌なの」
__いい歌ですね、ほんとに。どうして、こんないい歌を葬ってしまったんだろう。
「この歌を出して、1ヵ月後に、前川さんと離婚してしまったの。いかにもぴったりしすぎるじゃない。〈別れの旅〉だなんて。そんなこと思いもよらなかったけど、宣伝用の離婚だなんて言われて、口惜しくて口惜しくて、それならもう歌いません、という調子で歌うのをやめてしまったの」
__馬鹿ですねえ。
「ほんと馬鹿なの。それで、歌う歌がないもんだから、しばらくはB面の歌を歌ってた。馬鹿ですね、われながら。でも、やっぱり、あたしには歌えなかったよ。だって、四番なんて、こんな歌詞なんだよ。
終着駅の 改札ぬけて
それから後は 他人になると云う
二年ありがとう しあわせでした……
後見ないで 生きて行くでしょう
こんな歌詞を、離婚直後に、沢木さんだったら歌える?」
__どうだろう。
「歌手だったら、プロの歌手だったら、絶対に歌うべきなんだろうけど、あたしは駄目だった。駄目だったんだ……」
__結婚と離婚という、女性にとっての曲り角に、そういう歌がやって来るという巡り合わせになってしまったところに、あなたの歌手としての運命があったんだろうな。なにも、そんなときに、よりによって、そんないい歌が、しかもそんな歌詞で、できてこなくてもいいわけだからね。それに、あなたがそんなあなたじゃなければ、それを歌いつづけて、大ヒットさせたかもしれないしね。
「その二曲を殺さないで歌ったからといって、ヒットしたかどうかはわからないけど、残念だなあ、もっと歌いたかったなあ、歌っておけばよかったなあ、という思いはあるんだよね」
【解説】
前川清さんとの結婚と離婚のエピソードがたんたんと語られます。
「そんなことはない。前川さんは結婚したかったみたいだけど……あたしは、別に」
……
「それはね、売られたわけ」
……
「週刊誌に、ネタを売られちゃったの。あたしと前川さんの仲についてのネタを、沢ノ井さんに」
__沢ノ井さんが売ったって?
「そうなんだ、沢ノ井さんが売っちゃったの、話題作りのために」
ひどい話です。沢ノ井さんはかなりの変わり者だったみたいですね。
藤圭子さんは、沢ノ井さんを非難してもいいはずなのに、恩義を感じているのか、彼のことを悪くいいません。
ちょっと不思議な師弟関係です。
獅子風蓮