獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(7)

2021-11-20 04:20:20 | 対話ブログ

前回に引き続き「対話が進行中です。」のスレッドについたコメントです。

●木花(2013年8月10日 10:12)
>四箇の格言では「念仏を唱えるのはいいけど無間地獄におちるかもしれないよ、知~らないっと」「禅宗って頭よさげで謎めいてかっこいいけど頭割れちゃうかもね」って感じでしょうか。
signifieさんはそういう風に思われていたのですね。

救われると劣っているがsignifieさんにとっては同義語のようですが
「芸術と宗教(つづき)」にもコメントしましたが、大聖人が念仏・禅宗を破折したのは念仏・禅宗が広まり日本国が混乱したからです。
上から目線で「優劣」を語り自慢したくて布教活動していたのではありません。
法華講は日蓮正宗の信仰を自慢したくて信仰をされてる思われているのかしら・・・。
だから「劣っている」という言葉が出たのでしょうか。
signifieさんは他宗より創価の信仰が優れているから、長く創価の信仰をされていたのですか?

白バラでの私のコメントにも「自慢」と言ってましたよね。
事実を述べたら自慢?ん?って思ったんですが、どうしてそう思うのかなぁと不思議でした。
創価学会は信者に役職を持たせ上下をつけて、常に上か下かで判断してますが、仏教は上か下かではなく自分の境涯を高めるものです。
signifieさんの言葉からは大聖人をやり込めたい気持ち、ちょっとした憎しみみたいなものを感じられるのですが、頑なに大聖人は芸術を認めない。日蓮宗系はそういう宗教と思われるのならそれはでいいと思ってます。
日蓮大聖人の教えは間違っている。そう思う方も実際いますし・・・。
この話はsignifieさんの考えによって変わることので、signifieさんの考えが変わらない限り平行線だと思います。
私は人を変えようとは思ってないし、できないと思ってます。
誰でも今の選択がその人にとってベストである訳だし、人によって学ぶことも違います。
ただそれだけのことなんだと思います。
そこに上下・優劣はないです。すべてはその人の学びであり、罪障(カルマ)です。
だから私たちは創価学会に縁しなければならなかった。

《学会に敵対する人物の不幸や打倒を祈るというのは本当ですか》
これは本当です。
日顕上人の乗った飛行機が落ちるよう祈ったり、踏み絵した学会員もいます。
ありもしない日顕宗をでっち上げ仮想敵としています。それは創価の教学試験に出ます。
日顕上人ほど学会員に恨まれ不幸の祈りをされた方はおりません。
でもその不幸の祈りは全部学会員に返るでしょう。
因果応報ですから。
学会員は自分達を仏教徒と言いますが、なぜそんなことをするのでしょうね。
そして学会員は何がしたいのでしょう。

●祥蘭(2013年8月10日 11:47)
はじめまして。約一年前からこちらのブログを拝見させてもらっています。
私は学会3世で、40代です。女子部時代は部長を経験した活動家でした。
昨年あるきっかけで創価が宗教のかさを着た巨大搾取集団であることに気付き脱会を決意。 
現在も籍はありますが一切の活動・献金(財務や新聞、書籍購読)をやめ、非活です。

excommunicateさんはまだお若いのでしょうか。 
宗門問題(正宗が創価学会を破門・平成3年)当時の年齢で、創価への印象って差異があると思います。
当時まだ少年部くらいなら、なかなか解らないでしょうね、創価のダーティな部分が。
私は当時20代初めでしたので、手のひら返したように創価の会員が正宗打倒撲滅に向かい狂乱していたのをはっきり覚えています。 正気の沙汰じゃ無かったですよ。

私が女子部で活動家だった時代(12年前)でもなお、青年部で「日顕宗撲滅」を祈念していました。
撲滅の意味を辞書で引くと、「完全にうちほろぼすこと。根こそぎなくしてしまうこと」とあります。
これが折伏・破折精神なのでしょうか? 存在を消してしまえ、ということのどこに慈悲があるんでしょうか。

個人指導でも、悩みがなかなか解決しないと大幹部(学会職員)に話すと真顔で“それはあなたが真剣に日顕打倒を祈っていないからだ、他人事と思っているからだ、師匠の敵を倒す事こそ弟子の使命。 その一凶を認識しない限り壁は打ち破れないよ”と言われて。
会った事もない日顕さんを、自分の敵・自身の一凶だと思えという指導が平気で行われてましたよ。
地域の個人宅の会合席上じゃないですよ。本部で行われている指導会で、です。

私が住んでいた地域では当時、組織から配布されるご祈念板?に、日顕宗と共に乙骨さんの名前ものってました。
池田氏の敵=仏敵。だから倒せという解釈は創価学会員の共通認識でした。
改心してもらって共に幸福にというのは一回も聞いたこと無かったですね。
「言葉尻だけをとらえて本質に肉薄せず邪推」はたんなる言い逃れです。
本当にそう(相手の幸福)考えているなら、ご祈念板に長すぎて書けなくても、日常的に言葉にして指導するはずですよね。
そこを「撲滅、打倒」で止めているのはどうしてでしょうか。
一度、現役幹部の方にその理由を聞いて来てここで教えてもらえませんか? お願いします。

シニフィエさん
約一年前に創価の実態に気が付き、まさかと思いながらもネットで調べている時にこちらにたどり着いて真実を訴えてくれる方が存在しているということに、とても安心し、勇気をもらいました。
当時の私は組織がおかしいと気づきながらも、生まれてから40年近くも創価で刷り込まれてきた「仏罰」を恐れ、どうしたらいいのか右往左往していたのです。
この一年間でやっと現実を受け止められるようになり、仏罰への恐怖感もなくなりました。
心がおれそうなときシニフィエさんの言葉に励まされ救われました。本当にありがとうございます。

●signifie(2013年8月10日 17:22)
祥蘭さん、はじめまして。
コメントありがとうございます。2世と3世という違いはありますが、私とほとんど同じような変遷をへて、やっと気づいたクチですね(笑)。ブログも少し読ませていただきました。うんうんそのとおり!って何度もうなづきました。
「仏罰」なんてない、功徳と思っていたことも信心したからじゃない。自分で努力して自分でつかみとった幸せなんだと素直に思えるようになりました。それを悪いことは信心が足りないから、いいことは池田先生のおかげっていうことをまともに信じている人がいること自体が今となっては不思議ですが、それがわからなくなるくらい思考停止させられてしまうんですよね。私は若い頃、そういう思考停止の中で、とりかえしのつかないことをしてしまっていました。そのことに去年やっと気づいて、めちゃめちゃ落ち込みました。病気にもなりました。そしてそれをなんとか残りの人生でとりかえそうと思っています。具体的にはとても言えないことですが、この歳になって思ってもみなかった人生の転換期を迎えています。まだまだ老いるわけにはいかないなと思っています。
今後ともよろしくお願いします。

 


解説
木花さんは言います。
>signifieさんの言葉からは大聖人をやり込めたい気持ち、ちょっとした憎しみみたいなものを感じられるのですが、頑なに大聖人は芸術を認めない。日蓮宗系はそういう宗教と思われるのならそれはでいいと思ってます。

私の感想とドンピシャ、同じです。当時からシニフィエさんは「日蓮正宗は批判しない」といいながら、日蓮をやり込めたい気持ちがまんまんでしたね。

ブログ「わだかまらない生き方」で有名な祥蘭さんが初登場です。
理路整然とした文章にほれぼれしますね。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(6)

2021-11-19 04:16:01 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■対話が進行中です。          投稿日: 2013年8月8日

おかげさまでコメント欄には活発な対話が進行中です。私と同じように学会の真実に覚醒された方、そこから法華講に移られた方、現役の創価学会員の方による対話です。みなさん立場の違いを前提に、それぞれの意見を聞こうとする配慮のある方々ですので、とても意義深い対話がなされていると思います。おひとりだけそうした対話の趣旨を理解されないで自分の言いたいことだけを貼付けられる方がいらっしゃいましたので非表示とさせていただいています。
対話の内容はまだ平行線から脱していませんが、とても興味深い内容となっています。たいへんありがたいです。今後ともよろしくお願いします。

●木花(2013年8月9日 11:23)
サラマンダラさんへ
こんにちは!
サラマンダラさんのこと気になっていたので、コメント下さってありがたいです。
signifieさんとサラマンダラさんは宗教色の強い芸術は外道だから認めてはいけない、大聖人の教えに矛盾があると思われているんですよね。
でもそれは池田さんにそう教えられたからですよね。

とある法華講員さんも仰ってますが、日蓮正宗では芸術の見聞は禁止されていません。
音楽も建造物も文化なので、美術品として見て賛美するのは謗法にはなりません。
それを何度も言ってるのですが、伝え方が悪いのか理解していただけないようで・・・。
宗教色の強い芸術は外道だから認めてはいけないと思っているのはsignifieさんとサラマンダラさんで、私たちはそう思っていない。
日蓮正宗では整合性が取れているのに、signifieさんとサラマンダラさんは取れていない。
なぜ自分達が整合性が取れないのか、そこを考えたほうがいいのではないでしょうか。
日蓮正宗は関係ないと思います。
自分の器に創価の教義がは入っているから、いくら私やとある法華講さんがコメントしても、宗門の教えが入らない状態なのだと思います。
それでsignifieさんには創価の教えを捨てられないのですか。と言ったのです。

>法華経の敵を見ておいてせめずんは無間地獄疑いなし
この「せめずん」は相手を攻撃する事ではないです。
池田さんが表面的な解釈しか出来ず、攻撃することと勘違いしただけでしょう。
折伏は相手を納得させることです。
相手を納得させるには自分の人格や慈悲心にかかってくるので信心が大事と宗門では教えられています。
折伏は菩薩行であり、自分の仏性を開かせる修行です。
ですから菩薩界の次に仏界があるのです。

そもそも大聖人の教えを正しく理解している人は創価にいないので、そこで学んだものは大聖人の教えではありません。
それを学会員さんは大聖人の教えと信じているのです。
まずそこを壊さないといつまでも創価の教えというか指導を引きずってしまって、正しい解釈は入ってこないと思います。

学会員は一般の方と天地ほどの意識のずれがあるので、それを埋めることはかなり難しいことです。
signifieさんはかなり覚醒されてますが、全て覚醒された訳じゃないから苦しまれているのでしょう。
本当に覚醒したら苦しむこともないし、宗教を否定することもないと思いますよ。


●signifie(2013年8月9日 13:08)
木花さんへ

わかりました!木花さんのおっしゃることはほとんど理解できるのですが、芸術と日蓮正宗のことに関しては、どうも話がかみ合わないなと思っていました。それが今回の木花さんのコメントではっきりしました。

>signifieさんとサラマンダラさんは宗教色の強い芸術は外道だから認めてはいけない、大聖人の教えに矛盾があると思われているんですよね。

どうやらここのことろが完全に真逆に捉えられているようです。
私は創価学会からはほぼ完全に覚醒していると思います。創価の本尊ならその場でいくらでも破り捨てることができます。現に私が持っていた仏壇はこの手でたたき壊して燃えるゴミに出しました。私が持っていたご本尊は30年以上前に正宗の寺院でいただいたものだったので、その寺院にお返ししました。
何度も言うように創価学会は宗教ではないということがはっきりとわかったし、それ以上に創価学会は人の心を利用して金と権力を吸い上げるとんでもない社会悪だということを誰に対してもはっきりと断言することができます。だからこそこのブログを立ち上げたのだし、一人でも多く創価学会の恐ろしい真実に気がついてほしいと願っています。
そして宗教を基盤とした世界中の優れた芸術の厳然たる存在は、創価の教えに反しているから悩んでいるのではなく、創価学会や日蓮系の宗教では認められないものがあるのではないか。その矛盾をどう説明するのだろうかという疑問があるということです。ほんの少しだって学会の教えにとらわれていることはありません。まったく逆の立場で、この芸術との矛盾が解消されないかぎり、創価学会の教えは誤りだということになると思います。それはたとえば五重の相対や四箇の格言に照らしても、生命の永遠性を解いていない宗教が劣っていて、法華経だけが人間を救済する唯一の法であるとし、さらにその欄外でしかないキリスト教やイスラム教など問題にならないとするならば、世界中の人類が残してきた芸術はとるにたりないものにしかならないじゃないか。しかしそれはどう考えても日蓮の教えのほうに無理がある。私は宗教芸術を認めるか、日蓮の教え通り他の宗教を邪宗として否定するのかと訊かれれば、一も二もなく芸術をとります。それは厳然たる事実であり、崇高な文化であり、人類の遺産だからです。日蓮系の宗教から生まれた文化がどれほどあるでしょう。それ以外の宗教から生まれた芸術との比較ができるほどのものでしょうか?
木花さんおっしゃるのは今現在の日蓮正宗では他宗の芸術文化を認めているとのことですが、それは日蓮の教えとしてあるのでしょうか?「日蓮正宗では整合性がとれている」と仰っていますが、どの時点で他宗の芸術を認めるようになったのでしょうか。もしどこかの時点で変化したのであれば、それは整合性がとれていないということになるのではないかと思うのです。

話を整理しますね。
まず、創価学会に関して
私は創価学会は100%間違いだということに気づきました。創価学会の最高幹部たちは日蓮の教えを利用して多くの会員をだまし、金と権力を思いのままにしている。だから創価学会は日蓮の教えを、会員を思考停止させる手段として使ってきた。他宗に関わることはすべて法謗と決めつけて、学会の信仰だけを強制してきた。しかし学会にとって邪宗である宗教がすぐれた芸術を生み出してきたこと自体をどう説明するのか理解できないということ。ついでに「ガンジー、キング、イケダ」と題した本を出版するほど、学会にとっては外道でしかない指導者と自分を無理矢理並ばせて自慢する池田氏の行動も理解できません(笑)。

次に日蓮正宗に関して
私は日蓮正宗は宗教であると思っています。そして私は他の宗教と同様に宗教自体を否定していません。ただしいわゆる新興宗教は創価学会と似たりよったりだと思っていますが、それに関してとくに思い入れも反発する気持ちもありませんし、勝手にやってくださいといったところでしょうか。また正宗に関してもそれほど興味もありません。ですから木花さんがおっしゃるように日蓮正宗では他宗の芸術も認めているということに関して何も異論はありませんが、強いて言うならば、他宗であっても芸術的な面で仏像や賛美歌を鑑賞することが、日蓮の教えとしてどの時点で認められたのだろうかという素朴な疑問はあるなあということです。
木花さん、私は自分が信じていた創価学会のすべてが偽りであったということに傷ついたのであって、今は創価学会に何の未練もありませんし、創価学会の言ってることとやっていることの矛盾ならいくらでもあげることができます。それに何十年も気づかなかったことの悔しさと、まだ気づいていない人へなんらかのメッセージが伝えられたらという思いでこのブログをつくりました。何度も言いますが私は創価学会は批判しますが、日蓮正宗を批判する気はありません。私にとって日蓮正宗も日蓮宗も他の仏教もキリスト教もイスラム教も同じです。世界中の芸術を生み出してきた宗教は素晴らしいと思います。あえていうならば私は宗教によって昇華された人間の精神性を無視しての宗教芸術作品の理解は不可能だと思いますので、木花さんが仰るような宗教芸術を精神的な面と文化的な面にわけて鑑賞するということ自体、芸術に創作の面から携わっている私自身としてはなんとも納得はいきませんが、それはそれぞれの考えであって、まわりがとやかく言うことでもないと思っています。芸術はどのように見ようとも自由ですからね。

私は創価学会の考えが間違いであるということを証明するひとつの方法として、創価学会は邪宗として否定したきた宗教芸術の存在に対して何も答えられないのではないかという問いかけをしているのです。民音がグレゴリオ聖歌のコンサートをしたり、東京富士美術館でミケランジェロやルオーの展覧会などありえないでしょう。出品者のほうから願い下げでしょうけど(笑)。

●木花(2013年8月9日 17:03)
signifieさんへ

えっー!
日蓮正宗に問いかけているのではなく、創価学会に問いかけていたのですか?
それなら私はお答えする事はできないです。
私は学会員ではないので・・・。
ちょっと気が抜けちゃいました。
でもすこし意見を書かせて下さいね。
「生命の永遠性を解いていない宗教が劣っていて」とのことですが、
日蓮大聖人は他宗では救われないと仰ってはいますが、劣っていると教えてはいないです。
大聖人は衆生の救済のために立宗されたのですから、劣っているという解釈は間違っているかと・・・。
法華経以外は劣っていると教えているのは創価学会・池田さんの指導ですよね。
あと、大聖人の教えに芸術は認めないという教えがあるのですか?
まだ勉強不足でよくわかっていないのですが、そういう教えがあるのですね。

創価の話ですが、創価が文化事業を展開したのは海外に入り込むためではないかと思います。
海外ではカルト認定している国もあるので、文化を通せば入り込みやすいですから。
ロシアでは池田さんの顕彰買収が発覚しニュースになったそうですね。
日本と海外創価(SGI)の活動は全然違いますが、海外の学会員も騙されていて本当に可哀想です。

●signifie(2013年8月9日 17:53)
木花さんへ

すみません、私は日蓮正宗については勉強不足のようなので、これといって批判できるような知識も気持ちもありません。ですから単純に木花さんのおっしゃる生命観において「救われない宗教」と「劣っている宗教」との違いがよくわかりません。
五重の相対は教義の優劣を五つの基準に即してわかりやすく解いているというわけではないのでしょうか。それは優劣ではなく、救われるかどうかということでしょうか。それは優劣とは違うのでしょうか。それとも「他の宗教も立派だけど人々は救われないよ」っていう…なんだかよくわかりません。それから四箇の格言では「念仏を唱えるのはいいけど無間地獄におちるかもしれないよ、知?らないっと」「禅宗って頭よさげで謎めいてかっこいいけど頭割れちゃうかもね」って感じでしょうか。どうやら私は創価のご都合主義の教学しか知らなかったようなので、日蓮正宗における五重の相対と四箇の格言について教えていただけたら嬉しいです。またそれは日蓮宗との違いはあるのでしょうか。


●excommunicate (2013年8月9日 21:00 )
とある法華講の方からの
《学会に敵対する人物の不幸や打倒を祈るというのは本当ですか》
という問いに対してお答えします。まず背景や詳細がよくわかりませんので、お答えするのは難しいですが、まず、知りたいのは、その元学会員の方は、どういった会合でどんな形でご質問のようなことを経験されたのでしょうか。
経験されたのは婦人部の唱題会ですか?壮年部の唱題会ですか?少なくとも青年部の会合で、唱題会という名目で、ご質問のような光景は見たことがありませんし、そういった主旨で開催することもありません。
ただし、個人の仏壇にある御祈念版は個人の自由なので、何を御祈念されているか、そこには組織として踏み込むことはできません。
会員の中には、大恩ある学会を、供養を取るだけ取って無残に切り捨てた日顕や、同じく学会の手弁当で議員にまでさせてもらいながら、議員を辞めてから口汚く学会を罵る輩に対しては、破折の思いで『打倒』などの単語は使うかもしれません。
しかし、その意味は『大聖人の御精神に照らして間違っているから、改めなさい』という破折の精神からくる言葉でしょう。決してその人の不幸を祈るようなものではありませんし、学会指導においても、そのような指導は聞いたことがありません。
ゆえに、個人の意思で書いた『打倒』などの御祈念版のあるご自宅で、唱題会があったと推測しますが、いかがでしょうか。
御書《阿仏房尼御前御返事》に、
『涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の経文にせめられ奉りて日蓮は種種の大難に値うといへども・仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。』
(通解)
涅槃経には「若し善比丘がいて、法を壊る者を見て、置いて、呵責し駆遣し挙処しなければ、当に知りなさい。是の人は仏法の中の怨である。若し能く駆遣し呵責し挙処するならば、この人は我が弟子であり真実の声聞である」と。この経文にせめられて、日蓮は種々の大難にあうといっても「仏法の中での怨である」の誡まぬかれるために謗法を責めるのである。
とあります。『駆遣し呵責し挙処する』とは、『厳しくその責を咎める』ということなので、言論戦でそれをしようとすると、どうしても激しい単語が使われることがあります。
普通の会員では、日顕や竹入、矢野といった輩に直接会って破折することはできません。だから、祈りで破折するということはあると思います。
御祈念版ですから、短く要点をついて書かないと、だらだら『日顕、竹入、矢野などの学会破壊を企み、罵詈雑言する輩達が、一日でも早く自分の間違いに気がついて謝罪し、正しく日蓮仏法を行じてくれるよう御祈念します』とは長すぎるので、それを極端に短くして、『打倒!日顕、竹入、矢野』という風になってしまうのではないでしょうか。
それを言葉尻だけ捉えて、本質に肉薄せず、邪推の挙句、脱会されるのは大変残念でなりません。ただし、信教は自由なので、脱会する、しないは個人の自由です。一方、誤解を解いて頂く為に、脱会を考え直して頂けるか、その望みをかけて説得することはあるでしょうが、最終的には本人の自由意思です。

●signifie(2013年8月9日 22:07)
excommunicateさんへ

>会員の中には、大恩ある学会を、供養を取るだけ取って無残に切り捨てた日顕や、同じく学会の手弁当で議員にまでさせてもらいながら、議員を辞めてから口汚く学会を罵る輩に対しては、破折の思いで『打倒』などの単語は使うかもしれません。

私の父は戸田門下生として草創期の幹部でした。そして若くして公明党の議員に抜擢されました。衆議院の秘書もしていました。父はなにも好き好んで議員になったわけではありません。順風満帆な商売をやめさせられ、それでも広布のためにと秘書や議員として走り回りながら、生活をぎりぎりに切り詰め、毎年たいへんな額の財務をして、それでも絶対に愚痴一つこぼさない人でした。ある日突然脳溢血かなにかで倒れて亡くなりました。家族の誰も父の死に目には会えませんでした。学会員は公明党の議員に対して「俺たちが手弁当で議員にしてやったんだからな」って思っているのでしょうか。

●流れ星(2013年8月10日 08:30)
わたしが創価学会にいたころ(7年前)日顕打倒唱題会が最寄りの会館で定期的にありましたよ。
なにをうそぶいて平然とそのようなことをしら?っと言われるのか。。
各家庭の御本尊に置いて願うようにと印刷された日顕・竹入などのご祈念の厚い立て掛けて使うものも配られましたよ。。
創価学会総出でそれらの人の仏罰?を祈っていたことは明らかですよ。。

 


解説
木花さんとの対話の中でシニフィエさんは、
「何度も言いますが私は創価学会は批判しますが、日蓮正宗を批判する気はありません。」
と発言しています。
現在のシニフィエさんと意見が異なりますが、いつ頃からどのように変化してきたのでしょうか。

excommunicateさんが「仏敵打倒唱題会」への非難に答えて、
>決してその人の不幸を祈るようなものではありませんし、学会指導においても、そのような指導は聞いたことがありません。

などと答えていますが、これはごまかしのように聞こえました。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(5)

2021-11-18 04:12:08 | 対話ブログ

前回に引き続き「学会員の本音」のスレッドについたコメントです。


●excommunicate(2013年8月6日 23:49)
まず、なかなかオンタイムでご返答ができなくて大変申し訳ございません。もし、スピード感持って返信しないと失礼にあたるようでしたら、私はこの貴重なブログから去るしか術はありませんので、その際はご遠慮なく仰って下さい。

私はじき40歳になります。また、仕事も油の乗った時期で管理職でもありますので、日々、業務に忙殺されていますし、家では三児の父でもあり、学会では、ありがたくも多くのメンバーに激励させて頂ける責任職を頂いています。もうすぐ壮年部入りでしょうが、まだかろうじて、男子部の最後のひと時を満喫しています。

以上のような理由で、大変失礼にあたるのは承知ですが、どうしても毎日、コメント出来ない事情もありまして、時間も遅くなってしまうことを何卒、ご容赦下さい。繰り返しますが、迅速なレスポンスが求められるブログでしたら、私は続ける自信はありませんし、皆さんにご迷惑をお掛けしてしまいますので、退場勧告はいつでも甘んじてお受け致します。

さて、私の人生の師匠、池田先生のご様子についてですが、私見を申すならば、いつまでもお元気でいらして欲しいと毎日の勤行唱題で御祈念するものの、お年はすでに86歳(84歳と誤記してしまい申し訳ございません)で、一般的見地からしますと、辛いお別れがいつ来てもおかしくない御年齢です。

そういったことを深く考える時に、今までのようにもうご無理して、多くの会員の方に直接会う形での激励をされなくても、今のように執筆活動を通して激励下さるだけで感謝一杯というのが、不肖の末弟子の思いです。

ゆえに、これは感性の違いでしかありません。学会に批判的な方々から思う感性と、内部の末弟子が感じる感性の違いです。そこには虚飾も偽りもない純然たる思いだけです。先生がご病気ならご回復をお祈りするしかありませんし、ご健在なら、益々のご長寿を祈る。私はそういうスタンスです。

その上で、さらに深掘りするならば、今までに師匠が残された膨大な指導、執筆による書籍等に、全てが網羅されている今、これ以上何を望むのか、弟子として、もはや求める時代は過ぎ、自発能動的に師匠の構想を実現していくというのが、今、問われている弟子の道であると思います。

ゆえに、私は学会の組織においても、師匠の構想を実現すべく、その指導通りに闘っています。そう、会員1人1人に光をあて、1人1人と苦楽を共にし、この日蓮仏法をもってして、宿命転換を成し遂げて幸福になっていく、その闘いです。

人の宿業は御仏智でしか推し量れません。また、その人の幸不幸は、その人しか感じることができません。はたからみたら不幸に見えても、この十界互具の大生命哲理からみますと、決してそうではないこともあります。

創価学会は昔から貧乏人と病人の集まり、また、暴力宗教、ファッショ(今で言うカルト)と世間から非難中傷されてきました。破門後20年を経過した今でも、その構図は変わりません。

だからこそ、その矢面に常に立って、私たち会員の防波堤として、一心に罵詈雑言を受けて頂いていた初代、二代、三代会長、そう、池田先生に私たちの切実な思いが凝縮されるのは当然のことです。

ここまで書きますと、私の洗脳度合いが高いとか、池田先生万歳論の結晶だとか、方方から厳しいご意見を頂戴するのは覚悟の上です。

しかし、この私の思いは、おそらくですが、今の学会の活動家と言われる方々の思いの多くをを代弁していると思います。

その思いを伝えたいこともあり、投稿させて頂きました。

皆様のご意見をお待ちしております。ただ、レスポンスが遅くなることは、どうかご容赦下さい。

皆様におかれましては、明日からまた、酷暑になると天気予報で知りました。どうか、お身体には十分ご自愛下さい。

ありがとうございます。


●signifie(2013年8月7日 00:26)
excommunicateさん、コメントありがとうございます。
excommunicateさんのお返事が遅いなどとは思いませんので安心してください。私も多くの仕事を抱える身なので、いつもこのブログを見はっているわけにはいきません(笑)。excommunicateさんの無理のないタイミングでまったくかまいませんので、よろしくお願いします。
(後略)

●signifie(2013年8月7日 06:38)
excommunicateさんへ

正直に申し上げますが、ちょっとがっかりでした。あえてここにコメントするということを申し出ていただいたのだから、もう少しつっこんだ回答がなされるのではないかと期待しておりましたが、最初のコメントと同じようなことでした。私がお訊きしたかったのは「なぜ池田氏が人前に出てこないのか」ではなく「なぜ人前に出てこないことに対して学会員は誰も触れないのか」です。excommunicateさんの回答はexcommunicateさん自身が考える想像でしかありません。何も言わずに二年以上も会員の前に姿を現さないのは、それなりの理由があるはずです。かといって執筆活動は驚くほどやられているので、年に一度ぐらいでも会員の前に顔を出すとか、せめて録画映像だけでも同時中継のときに流すことぐらいできそうなものではないかとも思います。まあ、それはこちらではわからない池田氏の事情があるのでしょうから、それはそれとして、そのようなことに対して会員が誰も何も言わないことの不自然さに対して、excommunicateさんから何らかの回答をいただけるのではないかと思っていたからです。

●木花(2013年8月7日 10:12)

(前略)
signifieさんへ
signifieさんは創価を宗教と思われていないのに、未だに創価の教義に縛られていることを気の毒に思います。
創価は日蓮正宗の教義を使っていますが、結果的に歪曲された池田思想なんですよね。
だから、それを信じなくてもいいと思うのですが、捨てられませんか?
2世・3世の学会員は生まれてすぐに親から池田思想を洗脳され、組織と学会員からも洗脳され何重にも洗脳されて育ちます。
最初に学ぶことが法華経ではなく、池田思想あり、それを仏教と思ってしまうと後々障害を引き起こすことになります。
法華講は芸術を芸術として捉えられるのに、学会員は捉えられないのはなぜなんでしょうね。
私はミケランジェロが好きなんですが(本も持ってます)、ピエタを見た時、純粋に素晴らしいと思いました。
感激しました。20代の人間が造ったものとは思えませんでした。でもキリスト教を信仰したいとは思いませんでした。
これが学会員的には謗法になるということですよね。
創価の謗法は脅しに使われていますが、宗門ではそんな風に使われていません。
創価が脅しとして使ったのは洗脳してお金を出させるためで、学会員はそれを疑いもせず従っただけなんだと思います。

創価を辞めた今も、創価の教えに苦しめられるのは、創価の洗脳が大成功した証でもありますね。
日本人から仏教を離すことに成功したのです。
法華講は日蓮大聖人の教えを日蓮仏法とは絶対に呼びません。日蓮宗系の信者さんもそう呼ばないはずです。
学会員は無意識にそう呼んでいますが、それは自分達が大聖人とは関係のない宗教であると認識しているからではないでしょうか。
創価は何宗か?・・・私は学会員や学会幹部の聞きました。誰も答えられませんでしたよ。

ネットに『法華経』に帰っていく人々というのがありました。
曹洞禅の祖、道元禅師という方は臨終が近づいて来た時、法華経の神力品を唱えたり、またその一節を壁に書きとめた後、亡くなりました。
ちなみに、今でもなぜかお通夜や葬儀などで法華経の寿量品第十六を唱えたり、中には棺にお題目が書かれたものを入れる人もいるという話です。
いわゆる念仏をひろめた法然さんも、晩年には、「禅も念仏も救われない・・」といった意味のことを金剛宝戒章という書物に書き残されています。
真言宗の開祖、空海さんも最初は「法華経は大日経などよりも劣っているお経だ」としてきましたが晩年には東大寺の真言院という所で、法華経の講義をされ『法華経釈』を書き下ろしましたこれが最後の著作となりました。(引用ここまで)

私は学会員時代から法華経が素晴らしいと思っていました。
だから法華経に背いている創価にはいられませんでした。
法華講さんは物静かで、学会員のように攻撃的な人はいません。
私の所属するお寺には90歳になってもお寺に通うおばあちゃんがいます。
たぶん、教学には詳しくないと思いますが、でも私にはおばあちゃんが菩薩に見えるのです。
信仰者の姿を見せられ、自分を反省したりします。
私もおばあちゃんのような信仰をしたいと思ってます。
創価で見て来た異常な光景は私の中にはもうありません。
学会員だったみさなんの創価の異常な教義、活動の記憶が心から消えるといいですね。
ご自分の人生を大切にされることを願っております。

●excommunicate(2013年8月7日 21:57)
前述させて頂いたように、ご高齢の池田先生に、本部幹部会などで、直接、激励を求める時期はもう終ったと思います。

しかし、聖教新聞やSGIグラフには直近の先生のお写真などが掲載されていますし、アフリカSGIの代表団が来日された際も、車中からでしたが、直接、激励されています。つい、先日も発展目まぐるしい創価大学に御来校され、大学関係者に対しても激励されています。この様子も聖教新聞にも記載されましたし、学長自らそのご様子を語って頂きまして、その内容を私は某会合で直接学長から伺いました。

繰り返しになりますが、先生はご高齢です。いつ、なんどき、何が起きるかわかりません。私は現在のご執筆活動でも十分過ぎるほど感謝一杯です。今は後事を託された弟子の出番です。そして、いずれ到来する悲しい事態になっても、動揺することなく、大聖人御遺命の一閻浮提広宣流布に向かって、師匠が切り拓いてくれた弟子の道を、遅滞なく歩み抜くことを託されています。だから、中途半端に多くの会員の前に出たりなされないのは、『私がいなくても闘いなさい』、『私がいないと思って闘いなさい、いずれその時期が来るのだから』という強烈なメッセージ以外の何ものでもないというのが、私の率直な思いです。

この私個人の思いは、多くの学会員の現在の心境と、さほど変わらないでしょう。

学会に批判的な方々は、やれ重病だとか、やれ仏罰だとか耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言を連呼されます。我が師匠になんの恨みがあるのか知りませんが、もしそうではなくて、ただの揶揄であるならば尚更、腹わたが煮えくりかえりそうな怒りを覚えます。

ある方のコメントでは、学会には光と闇があると綴られていました。

私はその闇など知りませんし、学会の現場には光しかありません。ただし、光が当たっていないメンバーが数多くいることは承知しています。だから、家庭訪問の激励がどうしても必要になりますし、会合だけではとてもじゃないですが、1人1人に丁寧な激励などできません。そのメンバーが今、何に悩んで何に行き詰まっているのか、悩みが無いならより幸福になって頂けるにはどうしたらいいのか。全て大聖人の御書に照らして、御本尊根本、お題目根本で激励させて頂いています。ここにしか、真の闘いはありません。この百年河清ともいうべき、地道な1対1の膝詰めの対話でしか、人の心は動きません。自分が心を開き、全てをさらけ出し、虚飾も何もない、一個の人格として、真っ正面から、相手の懐のど真ん中に入っていかなければ、人は動きません。学会は草創期から、そうやってきたからこそ、今でも強い異体同心の団結があるのでしょう。

しかし、中には学会指導から逸脱した活動をしたり、それを押しつけたり、人として疑問符がつく振る舞いの方もいらっしゃいます。そういった人と接してしまうと、純粋な方は学会が嫌になってしまいますし、離れてしまうこともあるでしょう。

それが闇と言われれば、そうかもしれませんし、現実、これだけの人間が集まる組織なので、全ての会員に100点満点を望むのは無理があります。所詮は仏道修行中の凡夫の集まりなので、いろんな軋轢もあるでしょう。ただ、組織内に問題があれば、直ちに解決向かって対応するのが幹部の役割であります。

話がかなり逸れてしまい、大変申し訳ございません。

また、忌憚の無いご意見を頂戴できましたら幸いです。

今日も日中は大変な猛暑でしたね。熱中症にはお互い気をつけてまいりましょう。

●とある法華講員(2013年8月7日 23:14)
excommunicateさんにぜひお聞きしたいです。

最近、創価学会を辞められて法華講員になられた方が仰っていたのですが、学会員は唱題会などで、学会に敵対する人物の不幸や打倒を祈るというのは本当ですか?
標的にされているのは、たとえば、御隠尊日顕上人様や、公明党の竹入、矢野両元委員長といった方や、脱会された人だというのですがいかがですか?もし、これが事実であれば、仏教という以前に、宗教として問題だと思うのですが。

日蓮正宗は謗法厳誡ですが、日興上人以外の五老僧の追善回向もしているのはご存知でしょうか。いくら、大聖人様の教えに違背したとはいえ、それはそれとして、どのような方でも成仏を祈るのは仏教として基本だということです。学会はそのようなことをされていらっしゃいますか?excommunicateさんの回答をお願いします。

あと、どなたのコメントか忘れてしまって恐縮ですが、学会で第九を歌ったことをご宗門が謗法だと言って破門した、というものがありましたが、それは事実と異なります。まず、ご宗門が問題にしたのは、当時、日蓮正宗の信徒団体である創価学会が、会合のなかで、わざわざキリスト教の神を賛美する歌を信徒に歌わせるのは、どういう理由からなのか、と尋ねただけです。それを学会が回答拒否されたのですが、これが直接の破門の理由にはなっていません。事実として書いておきたいと思います。

ご宗門は、学会が民音などで、さまざまな国、宗教に由来する芸術・文化活動を展開することに(第九を歌うことも、ワーグナーを演奏することも)疑義を差し挟んだことはないはずです。問題は、信徒団体の学会の会合(宗教活動)において、なぜわざわざそういうことをするのですか、ということでしょう。信徒団体だったのですから、それは学会がしっかり回答をすれば、済んだはずです。事実はそういうことですので、この話題はこれきりにしたいと思います。

 


解説
excommunicateさんは創価学会員として、池田氏の消息に対する正直な心情を述べ、シニフィエさんは、池田氏が何年も人前に姿を現さないことに疑問を抱かない創価学会員の気持ちに不信感を表明します。
なかなか議論がかみ合いません。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(4)

2021-11-17 04:07:29 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■学会員の本音           投稿日: 2013年8月2日

先日excommunicateさんというHNの方からコメントをいただきました。このブログには珍しく、学会側の方のコメントでした。いろんな立場の方からいろんな意見をしていただくのはとてもありがたいのですが、残念なことにexcommunicateさんのコメントは「何が問題になっているのか」という視点のない、通り一遍の学会の賞讃と宗門批判でした。
私はこうしたうわべの話をするためにブログをたちあげたわけではないことは、ここにコメントしてくださる方にはよくわかっていただいていると思います。ただ残念ながら学会を擁護されるexcommunicateさんのコメントはなんらリアリティもなく、口当たりのいい池田先生バンザイ論でしかないと思われます。
できれば学会側の方にも、本音で対話のできる方が登場しないかなと淡い期待もあったのですが、やっぱり無理なのかなと思っています。学会と言う組織は本音を話せない組織です。天皇の悪口を言おうものならたいへんなことになった戦時中の日本のようなものです。多少の矛盾や不満を感じても、それを自分で無理矢理もみけしてなかったことにしてしまうんですね。たとえ疑問をもっても、それは自分の信心が足りないからだと言い聞かせて、お題目をフラフラになるまであげて、トランス状態に近づけて思考停止させます。と同時に「地獄に堕ちる」という恐怖心で自分を縛り上げていきます。そんなことの繰り返しの中で、同じ境遇の組織の人間同士の連帯感は強まるものの、社会性は失われ、一般常識の通用しない怪しい集団となっていきます。だから池田氏が何年も会員に姿を見せなくても、会員から不満が表に出ることもないし、聖教新聞に連日のように載る何年も前の池田氏の写真を見て「先生はお元気なんだ」となんの根拠もなく確信しているのです。
ふつう自分が働いている会社の社長が何年もまったく姿を見せなかったら「いったいうちの社長はどうしてるんだろう」ぐらいのことは考えますよね。それがほんとうに不思議なことですが学会ではありません。「先生はお元気で世界の平和のために尽力されています」と口を揃えて言うのが学会員です。池田氏も人間ですから、人前に出ることができない事情はあるでしょう。問題は組織がそのことに何もふれずに、誰も問題にしないということだと思います。私はもう聖教新聞もとっていませんから、池田氏が新聞紙上でどのように活発な指導を展開しているのかは知りませんが、あたかも元気に動いているような記事を載せるなら、せめて会員にその姿をチラッとでも見せてあげたら、会員さんはどんなにか喜ぶでしょう。ますます選挙に財務に命がけで頑張るでしょう。でももう2年以上もまったく人前に出なくなりました。そのことに対しても学会員さんの本音を訊きたかったのですが、やはりそれは基本的に無理なのですね。そんなことを口に出したら地獄に堕ちると思ってるんじゃないでしょうか。


●流れ星(2013年8月3日 08:32)
創価学会には光の部分と闇の部分があると思うのですね。。
ネットではもう既に大半の人が創価学会の闇の部分を知ってしまったわけですから、どんなにきれいな耳障りの良い言葉で語っても、そこの裏に隠された牙をわたしは感じるのですね。

創価学会で活動する大半の人は、そういう耳障りの良い善人のような言葉に騙されているわけですから、そこから抜け出すのは容易ではないと更に認識しました。

いまの創価学会の活動はなんでしょうか?選挙も終わり休ませる間もなく、でしょうか。。?
それとも次の戦いへ向けての友好活動と称するものでしょうか?
学会にいた頃、友好活動で友人と何人触れ合ったか、という報告まで取らされたのを思い出します。悪夢のような日々でした。

池田氏のことの詳細を明らかにされることを待っております。ほんとうに言う気持ちがあるのか甚だ疑問ですけれどね。。


●signifie(2013年8月3日 22:02)
流れ星さん、コメントありがとうございます。
学会三世というexcommunicateさんから丁寧なお返事をいただきました。
今後、池田氏のことについても学会員としての考えを聞かせていただけるものと期待しています。
芸術と宗教と日蓮仏法との関係についても、もうすこし考える機会になるのではないかと思っています。
いわゆるアンチさん、正宗さん、学会さん、まったくの無宗教さんなどなど
みなさんのそれぞれの立場から、忌憚のないお考えを出せる場にしていけたらと思います。
よろしくお願いします。


●木花(2013年8月5日 10:07)
初めからの法華講員に今も活動さんのような方はおりませんが、元学会員でお寺に戻られた方には同じような方がいるかもしれません。
私の両親は共に創価が宗門の信徒団体時代に教授の資格をとりましたが、未だにバリバリの学会員なので、御書を正しく理解していないと思います。
ですから、今も活動家さんが「ほとんどの御書は、理解しています。」と仰っていますが、そうじゃないかもしれないので、せっかく法華講になられたのですから、一から学ぶ姿勢を持たれたほうがいいのではないかと私は思います。

長く創価の地区部長をしていても、今も活動家さんはまだ創価の闇、隠れた意図をわかってはいないようです。
創価はsignifieさんの仰るとおり、カルトであり、宗教ではありません。
学会員は教団の金集めのために騙された人達です。
創価は反日団体であり、反社会団体です。
池田さんは韓国を祖国といい、日本を貶し韓国を褒めている記念碑を韓国に建ています。

確かに創価の御本尊は日蓮正宗の御本尊(浄圓寺への授与書入り御本尊)を改ざんしカラーコピーしたものなので、それを拝むと現証は出ます。
これは日蓮正宗の御本尊だからということではなくて、どの宗派の御本尊もしくはマンダラをコピーして拝んでも同じことが起こります。
なぜなら、してはいけないことだからです。
今も活動家さんが学会員を救いたい気持ちはよくわかります。
それは間違っていませんが、相手から拒否されては折伏にはならないこと理解していただきたいです。
正宗≠創価、これが理解できない学会員・元学会員がほとんどですが、それは三宝を知らないからなんです。
三宝があって仏教ということを知らないから、創価も日蓮正宗も同じに見える。
私が法華講になって最初に学んだ事は三宝でした。
日蓮正宗は三宝がある日本の仏教ですと教えていただきました。
・・・ということはそれを知らない学会員が多いということですね。
三宝も知らないのに仏教を語り、仏教じゃないものを仏教と認識している。そのこともわかっていない。
このように創価の洗脳はとても根が深いのです。
今も活動家さんは間違いに気付かれて法華講になられたけど、そうじゃない人がたくさんいます。
今も活動家さんはいろんな方から忠告を受けていますよね。
それは真摯に受け止めましょうよ。自分の行いが絶対に正しいなんてことはないのですから。
いつでも内省できて、自分の境涯を高められる自分でいましょう。
それが信仰者の姿ではないかと・・・。

●木花(2013年8月5日 23:05)

(前略)
signifieさんへ
白バラで私に投げかけて下さったコメントが縁で、こうして対話できたことありがたく思っています。
まさかここまで深く対話できると思ってもいませんでした。
ただ何度も正宗の教えと池田創価の指導・教えは違うものと言っているのですが、わかっていただけないようで・・・。
正宗は新聞啓蒙・選挙活動等を仏道修行にはしてませんし、そのために御書を使ってはいないです。
ここに集う方は圧倒的に元学会員と学会員であり、正宗の教えを知らない方ばかりで、正宗の教え=池田創価の教えという結論を出されるのなら、私は何もいう事はございません。
そのように思う方はそれでいいと思います。
創価学会に対しても、社会的な面をスルーして表面の宗教的なことを語っても、あまり意味がないと思っています。
創価学会が日本の社会に落とした影は大きく、学会員は長い間それを支えてきました。
そのツケの後始末を一般の方が一生懸命され、日本を護ろうとしています。
一般の方は創価学会・学会員を危険だと思っているため、どのアンケートでも嫌い・大嫌いが95%近く占めます。
知らないのは末端学会員だけ・・・。
だから騙され続けている。
創価の真実が明らかになれば、宗教は怖いものではないことがわかるのに・・・。と思っております。


●signifie(2013年8月6日 01:50)
木花さんへ
いつもコメントありがとうございます。
木花さんのおかげで日蓮正宗に対する印象がずいぶん変わりました。もちろんいい意味でです。今も活動家。さんと同じ信仰をしている人とはとても思えません(笑)。木花さんのコメントを読んでいるとホッとします。今も活動家。さんの頭がクラクラするようなコメントも、木花さんのお話によって平常心に戻ることができます。今も活動家。さんが本当に学会員を救いたいと思うのなら、どうしてあんなに悪態ばかりつくのか理解できません。だれもまともに話を聞く気がなくなるのがわからないのでしょうね。ほんとに日蓮正宗の信頼をぶちこわしているだけなのになあ。
私は創価学会=日蓮正宗とは思っていません。それは先にも言いましたように、宗教かそうでないかという決定的な違いがあるからです。それと正直言いますと、日蓮正宗についてそれほど関心がなかったので、木花さんのお話は「なるほど」と思うことが多いです。ただし日蓮の教義と芸術に関することについての疑問はそのままです。創価学会員のときに学んだ(それも中学生の時でしたが)五重の相対や四箇格言のような基礎的な教学に照らしても、単純な矛盾点から一歩も出ることができません。もしかしたら学会で学ぶ教学はMCのためのものですから、かえって邪魔になっているのかもしれません。でも仕事柄、日本はもちろんインドや中国の仏像彫刻にも詳しくなり、キリスト教文化もいやでも詳しくなるので、学会員ほど偏った教学ではないと思います。芸術が好きでいろいろと勉強したりしていると、どうしてもその作品が生まれた土地の宗教や哲学を知らなければならなくなります。現代芸術を学ぶには戦後の西洋思想もかじらなければわけがわからなくなります。私が大好きな哲学者はメルロ・ポンティです。また私のHNのシニフィエもそうした経過の中からソシュールの思想を引用したものです。それから心理学もある程度は知らないと話にならないので、そのあたりを勉強していると、どうしてもトランス・パーソナル心理学やアーノルド・ミンデルのような宗教に近づくような学問にまで興味が及んできて、そこでやはり古来からの人類が育んできた宗教の偉大さに感銘を受けます。やっぱりここに行き着くんだなと思います。
私としてはまだ創価学会のショックからまだ立ちなおれていないので、宗教について冷静に考えたり眺めたりすることができないのかもしれません。こうして木花さんと対話ができただけでも、このブログを続けてきてよかったなと思います。おたがいに思想信条の違いを認めつつ、対話を続けていければと思っています。

 


解説
ここでは引用していませんが、法華講員の「0001今も活動家。」さんが創価学会員のexcommunicateさんに創価学会の問題点を突きつけます。
ただ、その話し方が「地獄に落ちる」的な、乱暴な言い方なので、シニフィエさんおよび参加者の反感を招きます。

それに対して、本来の法華講員を代表する形で、木花さんがコメントしています。
最後に、「0001今も活動家。」さんをたしなめる言葉を残しています。
>今も活動家さんはいろんな方から忠告を受けていますよね。
それは真摯に受け止めましょうよ。自分の行いが絶対に正しいなんてことはないのですから。
いつでも内省できて、自分の境涯を高められる自分でいましょう。
それが信仰者の姿ではないかと・・・。

その後、木花さんは、
>signifieさんへ
白バラで私に投げかけて下さったコメントが縁で、こうして対話できたことありがたく思っています。
と書いていますが、木花さんは、「白バラ通信」でシニフィエさんから呼びかけられたことがきっかけで対話ブログにコメントするようになったのですね。
花子さんの記述と一致します。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(3)

2021-11-16 04:05:02 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■芸術と宗教            投稿日: 2013年7月27日

芸術と宗教に関して、先日は音楽を例に出しましたが、たとえば美術でいえば、ダ・ヴィンチの「受胎告知」や「最後の晩餐」は人類史上に残る名画です。システィナ修道院のミケランジェロが描いた「最後の審判」やサンピエトロ大聖堂にある彫刻の「ピエタ」にしてもそうです。もっと時代をさかのぼってギリシャ彫刻はどうでしょう。有名な「ミロのヴィーナス」をはじめ、みなギリシャ神話の神々です。一昔前、バーミヤンの石窟寺院がイスラム過激派によって爆破されました。それは宗教的な観点から仏像が否定されたからです。エジプトの彫刻は太陽神を中心とした宗教がもとになっています。日本においても山水画は茶道とともに禅の思想が基盤になっています。禅の思想を表す「十牛図」や「円相」にしても「不立文字」の考え方がよくわかります。そう言う意味では「南無妙法蓮華経」とは正反対の思想です。日本の仏像の芸術性は世界でも群を抜いています。有名な興福寺の阿修羅像をはじめ新薬師寺の十二神将や広隆寺の半跏思惟像など、あげればキリがありません。そうした人類の生み出した世界の芸術の多くというか、ほとんどといってもいいでしょう。それらを日蓮の思想に照らし合わせると否定されなければならなくなります。いい方を変えれば、特定の宗教によって思想信条、表現の自由を制限されることになります。
もし万が一、学会や日蓮正宗の言う広宣流布がなしとげられたとしたら、これらの人類の文化遺産はどういう扱いを受けるのでしょう。その先に芸術家は思想統制をされた作品しか世に出せなくなるのでしょうか。それが文化と言えるでしょうか。これは「それはそれとして」などといったいい加減なことでは済まされない問題です。

●北斗七星(2013年7月28日 09:02)
シニフェさんこんにちは。暑い日が続きますね。
体調に気をつけてお過ごしください。

私も最近、シニフェさんと同じような疑問を抱くようになりました。

『もし万が一、学会や日蓮正宗の言う広宣流布がなしとげられたとしたら、これらの人類の文化遺産はどういう扱いを受けるのでしょう。その先に芸術家は 思想統制をされた作品しか世に出せなくなるのでしょうか。それが文化と言えるでしょうか。これは「それはそれとして」などといったいい加減なことでは済ま されない問題です。』

全く同感です。日蓮自身が庶民感覚の上で一体何を幸福と感じ、何を平和と考えていたのか判りませんよね!
昔、聞いた話ですが、日蓮が佐渡流罪のときに何を考えていたのか?

まず一つ目は、自分が衆生救済のために身の危険も顧みず法華経を広めてきた結果、流罪された身を嘆いたそうです。

二つ目は、日蓮が予言した蒙古の二度目の来襲があるのかどうかが大きな気掛かりだったそうです。つまり、それがないと自分の予言が外れれた事になるわけです。すなわち、法華経にキズが付くのです。

人師、論師を通じて時代とともに本主釈迦の教えから乖離したのではないでしょうか。
私はそのような視点から、仏教の流れを一度自分なりに見つめなおしたいと考えています
それではまた、お元気で。


解説
北斗七星さんの日蓮が佐渡流罪のときに何を考えていたのか、との問題提起。
①自分が衆生救済のために身の危険も顧みず法華経を広めてきた結果、流罪された身を嘆いた
これは、私も何かの本で読んだことがあります。
人間・日蓮の心理としては当然だと思います。
②日蓮が予言した蒙古の二度目の来襲があるのかどうかが大きな気掛かりだった
これも、人間・日蓮の心理としては当然だと思います。
私は、時代の制約はあるものの真実を求めて誠実に生きた人間・日蓮を敬愛しています。
また、日蓮正宗の一信徒として、ご本仏日蓮大聖人を信仰しています。
人間的な日蓮と信仰の対象としての日蓮大聖人は分けて考えるべきだと、私は思います。

獅子風蓮