獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

対話ブログ・ステージⅡ:論客ウトロさん登場(2)

2021-11-25 01:38:36 | 対話ブログ

前回に引き続き「日蓮本仏論について思うこと」のスレッドについたコメントです。


●signifie(2013年8月17日 15:30)
ウトロさん、私の思いをドンピシャリに表現していただいて、ほんとうに感謝です。このごろ釈迦はどんな人だったんだろうと考えることがあります。結局釈迦は徹底したリアリストだったんじゃないかという気がしています。カースト制度が普遍の社会構造として受けいられていた時代に、釈迦の考えはそれこそとんでもない邪教だったんだろうと思います。しかしそれまでの宗教が持っていた権威や神秘性やまやかしの部分や土着的な伝承などを、徹底したリアリストの視点で見つめ、考え、人間の幸福について、また目の前にある不幸についての考え抜き、この世の法理法則を見極めていった。今でこそ原始仏教という呼び方をしますが、釈迦の思想が人類に与えた影響はやはり史上最高のものだと思います。私もそんなリアリスト・ゴータマが地獄に堕ちるなどの罰論を展開したとは思えません。自ら死を迫らせるほどの苦行を経験した結果、それが何にもならないと悟り、真に人としての幸福とは何かということに行き着いた彼の思想に懲罰で人を戒める発想はなかったと思います。その点は一神教との大きな違いなのかもしれません。その後、いろんな変遷の中で彼の思想がインドから中国、あるいは東南アジアを経由して伝えられ伝承される中で、その土地土地によって様々に変わっていった。玄奘三蔵や鳩摩羅什などの使命に燃えた超人的な名僧を経て、日本に来る頃にはすでに相当な変化や修正や付加があっただろうし、それから時代や社会構造が変わり、鎌倉時代にも多種多様な考え方に別れました。そして日蓮が登場し、さらに独自の仏教の考えかたを広め、なんと本仏が釈迦ではなく自分自身こそが未来永劫の救世主であるとの宣言をしたわけです。その考えの唯一の伝承宗派が750年続いている日蓮正宗であり、現代になってその教義の排他的な部分をことさら利用して多くの人を騙し続けてきたのが新興宗教創価学会なのだというふうに考えるようになりました。創価学会の真実に気がついてまだ日が浅く、宗教そのものについて学ぶ時間がありませんので、勝手にこのように解釈しているだけかもしれませんが、みなさんのお知恵をここに紹介してくださることで、みんなで考えていける場所にできればと思っています。よろしくお願いします。

●木花(2013年8月17日 19:14)
コメントは控えようと思ったのですが、ひとこと言わせて下さい。
元学会員の方が法華講をどう思おうが勝手なのですが(個人的はいろいろ思う事はありますが・・・)、学会は破門されているので、日興門流の中の大石寺圏にはないこと。
そして「大石寺の信仰は750年間、日蓮の時代と寸分違わず続いていると主張」と仰っている方がいますが「寸分」なんて一言も言ってないのに、「寸分」という言葉が入って話が微妙にすり替わっていることを不快に思います。
日蓮正宗・法華講批判をして痛快なのかもしれませんが批判すればいいってものではないと思います。
日蓮正宗は間違っているという元学会員さん達だって、結局自分の考えが正しいと主張しています。
人は自分が信じていることが正しいと思うわけです。
それが本当に正しいかどうかはわからないだけということですよね。

●signifie(2013年8月18日 02:55)
創価学会が日蓮正宗を創価新報紙上でいつも口汚く罵り続けているのは、学会青年部へ向けてのプロパガンダではないのでしょうか。宗門へ向けて発しているのではなく、内部の会員へ向けて日蓮正宗がどれだけ害悪かということと、日蓮正宗を仏敵と刷り込むことによって、会員が宗門へ寝返らないための、恥も外聞も捨てた人としてとてもみっともない行為だと思います。それもとても見え透いた低俗で卑しい行いだと思います。いまどきそんな見え透いたネガティブ広告は暴力団でさえしません。しかしMCが行き届いた創価学会員には効果的なのでしょう。私も日蓮正宗を目の敵にしてなんの根拠もないことを吹聴してまわる婦人部の方などをよく見かけました。身内ですが(笑)。創価学会が正しい信仰者であることを主張するのであれば、なぜここまで他人を公然と罵倒することができるのか、その理由を聞かせていただきたいと思います。それが仏教の教えなのか、池田氏の指導する人間主義なのかを聞かせていただきたいと思います。

●ウトロ(2013年8月18日 08:31)
木花さんへ

私のコメントへの感想を述べておられるのだと思いますので、私の考えを少し書いてみます。

まず、学会は破門されているので大石寺圏にないと言われていますが、学会の教義と本尊はいまだに大石寺に依拠しています。
これは顕正会についてもほぼ同じようです。大石寺の教学(日寛教学)をベースに置いているので、学会は教義の上では大石寺圏にあるという意味で、破門されているかどうかという組織的なことではありません。

つぎに「大石寺の信仰は750年間、日蓮の時代と寸分違わず続いていると主張」・・・ということについては、7月24日のコメントで「日蓮正宗は20年前も750年前も同じ。何も変わってません。」と木花さんが発言されていたので、このように書いてしまいました。
いま考えてみると、「寸分違わず」という文言は適切ではありませんね。これについては訂正のうえお詫びいたします。

それと、私は宗門だけを批判しているのではなく、学会も同様に批判しています。
また、批判することによって痛快だなどとは思っておりません。
8月17日の私のコメントを読むと、宗門批判とうけとれるような書き方になってしまいましたが・・・。
学会も宗門も、日蓮の正しい信仰は自分たちのところにある、と主張しているように私は受け取っています。
しかし、日蓮の教えというものが現代まで正しく続くことは考えにくいでしょう、また、日蓮の教えが正しいという保証はどこにもないでしょう。ということを言いたかったのです。

私は8月17日のコメントで、「法華講や学会は日興門流の中の大石寺圏にあるのですが、大石寺流の日蓮信仰が絶対だとの根拠を、ここで示して頂きたいと希望します。」と書きました。
法華講だけではなく、学会の活動家にも質問を投げかけました。このことについては、それぞれのお考えをお聞きしたいと思っています。

以上が私の考えていることです。

雑ぱくな書き方になってしまいましたが、疑問がありましたら、またコメントをおねがいします。

●ウトロ(2013年8月18日 12:57)
excommunicateさんへの質問です

はじめまして、いちおう籍は学会にありますが非活のウトロと申します。

excommunicateさんへ2点の質問をいたします。
お時間のある時でけっこうですので、excommunicateさんのお考えをお聞きできれば有り難いです。

①創価学会の理念は「反戦平和」だと思いますが、2003年におきたイラク戦争(アメリカによる理不尽なイラクへの侵略戦争)では、学会はこれを容認しましたね。
過去には、ベトナム戦争や湾岸戦争に明確に反対のスタンスをとっていましたが、イラク戦争になぜ反対しなかったのでしょうか?

池田大作全集に収録されている「立正安国論講義」の中に「生命尊厳を説く大聖人の仏法を学んだ者として、あらゆる戦争に反対するのは当然である」という意味の記述があります。
また、「戦争は人間の行う最大の蛮行である。学会はあらゆる戦争に反対する」との明確な池田氏の発言がありますが、イラク戦争の時の池田氏は、イラク戦争について公の場で一切の言及をしていません。
これは平和を理念とする学会の指導者として、あまりにも狡いのではありませんか?

②仏教の基本的な原則のひとつに「依法不依人」があります。
日蓮も御書のなかでたびたび言及しているように、どんな立派な人師・論師であっても人を根本にしてはいけない、ということですね。
ところが、いまの学会では「師弟不二」を強調しています。
師匠である池田氏の指導どおりに実践するのが弟子である、という意味ではありませんか?

私がまだ本幹の衛星放送に参加していた時、池田氏は「師弟不二が仏法の究極」と言っていました。
原田さんが会長に就任した時の本幹では、「師弟不二の血脈は(池田)先生にしかない」という意味不明なトンデモ発言をしたことを、いまでも鮮明に覚えています。

釈尊も日蓮も「師弟不二」を言っていませんし、牧口初代会長も戸田第二代会長も言及したことがありません。
ましてや「師弟不二の血脈」とは???ですね。
これは仏教と言えるのでしょうか。

わたしは、仏法用語としての「依法不依人」と学会用語としての「師弟不二」は対立する考え方だと思いますが・・・。
この点については、いかがでしょうか。

以上よろしくお願い致します。

●木花(2013年8月18日 14:16)
ウトロ様へ

日達上人は「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。」と申し、これは学会のこと言っています。
ですので学会も顕正会も日蓮正宗の教義を歪めているので、大石寺とは関係ありません。
浄土宗もそうですが、自分の宗教が正しいといってますが、それはどの宗教もそうではないでしょうか。
別に日蓮正宗だけが特別だとは思いません。
ただ他宗に害があるとは言ってませんね。

>日蓮の教えというものが現代まで正しく続くことは考えにくいでしょう、また、日蓮の教えが正しいという保証はどこにもないでしょう。
それはウトロ様の考え・願望ですよね。
日蓮正宗を批判している方に日蓮正宗の信仰が絶対だという根拠を話しても、学会員の対応と同じように一蹴するだけではありませんか?
極論ばかり話されるので、非常に話にくいのですが、法華講みんなが絶対だと思って信仰しているわけではないと思います。
それぞれ温度差もあるし、信仰心がまだそれほどでない方もいます。
一方的に決め付けた話し方(日蓮正宗の信仰が絶対だ・・・という言い方など)は学会員には有効かもしれませんが、法華講さんは引くと思います。

学会員時代は宗門だけを批判し、今は学会も批判の対象に入っただけで20年以上も宗門批判していることに変わりはありません。
それでその批判は正しかったのでしょうか。
信仰は自分が選ぶものですので、宗門を否定されてもいいのですが、20年以上も批判する必要があるでしょうか。
日蓮正宗や大聖人の教えを批判・否定しなければ、自分が正しいという証明ができないのでしょうか?
それなら学会員と変わらないと思うのですが・・・。

●木花(2013年8月18日 16:36)
ウトロ様

追記です。

>たとえば、日蓮がどのように題目をあげていたのか。
「なんみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか、それとも「なむみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか。
それすら伝わっていないのが実状でしょう。

日蓮正宗及び日蓮宗には大聖人の直筆のお手紙が保管されているので、ウトロ様が心配されているようなことはないと思います。
御書の松野殿御返事にも載っていたと思いますが・・・。
学会員だから知らないことがたくさんあるのではないでしょうか。

●ウトロ(2013年8月18日 17:19)
木花さんへ

コメントありがとうございます。

>日蓮正宗を批判している方に日蓮正宗の信仰が絶対だという根拠を話しても、学会員の対応と同じように一蹴するだけではありませんか?

木花さんの示していただける根拠が納得のいくものであれば、私の日蓮正宗についての考えは変わると思っています。
私が知っている宗門は学会のフィルターをとおして見たものですから、私の認識が改まる可能性はあります。

>日蓮正宗や大聖人の教えを批判・否定しなければ、自分が正しいという証明ができないのでしょうか?

私は自分の正しさを証明するために、日蓮正宗や大聖人の教えを批判や否定をしているのでは無いのですが・・・。

私はいまの学会のあり方は否定します。シニフィエさんと同じように、ようやく学会の誤りに気づいたということですね。
さまざまな文献を漁り、いろんな人に会い、勉強をしていく過程で、日蓮の教えが正しく現代まで伝わることはあり得ないだろうし、日蓮の教えだけが正しいこともない、との結論にいたりました。

学会員でも法華講の方でも、日蓮の教えだけが正しくて自分たちがそれを実践しているとの自負があおりならば、その根拠を示していただきたいとの動機で、8月17日のコメントを書きました。

もし木花さんが、信仰はそれぞれであり、日蓮だけではなく日蓮正宗だけではなく、他の信仰にも良い点があるだろうとのお考えなら、これ以上なにも書くことはありません。

●木花(2013年8月19日 00:27)
ウトロ様

日蓮正宗は法華経を信仰しています。
法華経はお釈迦様の教えじゃないと否定されている方が多いですが、お釈迦様がいなければ仏教も法華経も存在しません。
私はお寺に戻るとき、自分なりにいろいろ調べましたが、概ね間違っていない(まだ日蓮正宗をよくわかっていないので)ことがわかったことと、法華経の教えが自分にはしっくりいくのでお寺に戻りました。
理由は他にもあります。

世の中には正しい行いをしている人がいるので、個人的には大聖人の教えだけが正しいとは思っていませんが、間違っているとも思っていません。
根拠を示していただきたいとのことですが、たぶんそれは無理だと思います。
私はウトロさんが納得いくような根拠を示せませんし、そんな必要はないと思っています。
知りたければ、お寺に行って御住職様に聞けばいいだけのことですから・・・。
学会での話ですべてを判断されていますが、お寺に行って確かめればいいのにそれをされないのはどうしてなのかな?・・・と思ってしまいます。

excommunicateさんへ

学会は嘘が多いですが、嘘が真実に勝つ事はありません。
いずれ真実を知る日が来ると思います。
宗門が間違っているというのなら、池田さんが猊下様と法論されて証明してほしいですね。
そう思いませんか?
あとですね、法華講さんに聖教新聞社の元職員が何人かいます。
元職員さんが池田さんの姿を側で見ていて信仰心がないと判断されて、学会を辞めています。
人間革命は篠原さんという方が書いていたとのことです。
それと、学会の墓苑から宗門の墓苑に移る時に、宗門に戻ったことは絶対に学会員に言わないことと学会側から強く言われた方がいますよ。
どう思われますか?

 


解説
私は日蓮正宗の信徒ですが、日蓮正宗の「法主に信伏随従」という窮屈な考え方には縛られません。
ですから、日蓮正宗の看板をしょってウトロさんと議論する木花さんが気の毒に見えるのです。
私は、ウトロさんの言うことに反論できません。
また、excommunicateさんも創価学会の公式見解しか答えられないので、創価学会の組織の矛盾をつかれると苦しいですね。

せっかくシニフィエさんが対話ブログという場を提供してくれているのですから、自分の属する組織の呪縛を離れて、思うところを忌憚なく話せばいいのに、と思わずにはいられません。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:論客ウトロさん登場(1)

2021-11-24 01:35:01 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。

以前のスレッド「自分の信じているものは、」に引き続いて、論客のウトロさんが登場します。


■日蓮本仏論について思うこと     投稿日: 2013年8月14日

さて、芸術と宗教という視点をとっかかりとして、創価学会の矛盾を考えてきたわけですが、やはり自分たちの信仰が正しくて、その他は間違っているという考え方は、芸術そのものの存在を考えることによって簡単に矛盾点が露呈されてしまうということが確認されたように思います。
創価学会は他の宗教を否定することによって信者の意識の団結をはかり、信者を組織のいいなりにするために、他宗を排他的にあつかう日蓮正宗の教義を都合よく利用してきたと考えられます。表向きは庶民が平和と文化を推進するリーダシップをとることによって世界中の人々に幸せをもたらすなどと掲げてはいますが、組織がやっていることは、あくまで信者に対する強制的な労働と散財でしかありません。それを宗教を隠れ蓑にして信者を精神的にしばりあげ、一生を組織のために尽くさせるという恐ろしい団体として巨大化していきました。しかし急速なネット社会の広がりによって、これまでとは比べ物なならない情報が世界中に行き渡るようになり、創価学会の信者の中にも、組織の矛盾に気がつく者が急激に増えました。もはやその流れは止めようがありません。これまで隠しに隠していた創価学会の闇の部分がネットによって明らかになりつつあります。ささやかではありますが、このブログもその中の動きのひとつだと言えるでしょう。
芸術と宗教について考えていくなかで、私のなかに新たな疑問が出てきました。それは日蓮本仏論です。世界にあまたある仏教の宗派の中で、釈迦ではなく日蓮を本仏とする宗派は、創価学会と日蓮正宗だけのようです。ただし創価学会は単に日蓮正宗の教義を利用しただけの詐欺団体ですから、宗派とはいえません。ですから、日蓮が本仏であるとするのは世界中でも日蓮正宗だけということになります。もちろん、細かく言えば例外もあるのかもしれませんが、総じて釈迦以外の人物を人類救済の仏としている仏教は、やはり日蓮正宗だけであるということです。そう考えると日蓮本仏論は世界でも珍しいものすごくマイノリティな宗派であるということです。たまたま創価学会によって一時は信者数がふくれあがりましたが、現在は創価学会を破門することで、本来の日蓮系宗派のひとつとして存在しています。
そこで思ったのは、自分はたったひとつの、それも全体からみればそうとう特殊な宗派の教義に縛られていたのだろうということです。日蓮正宗以外の日蓮宗もみな釈迦を本仏としています。だからといって私は日蓮宗日蓮正宗がどうのということではありません。何度も言うように日蓮正宗を否定する気持ちは微塵もありません。しかし、いったんカルト団体のMCから脱却した今、少なくともこれから自分が考える宗教とは、仏教なら仏教全体を見て考えなくてはいけないのではないかと思いました。また仏教を見るのなら、少なくとも世界三大宗教であるキリスト教やイスラム教についても知る必要があるだろうと。そしてそれを知りたいと思うようになりました。創価学会の活動をしていたときは、他宗はすべて劣っており、創価思想の高みにいれば、すべての宗教が見渡せるという馬鹿げた指導を鵜呑みにしていました。そして創価の欺瞞に気がついたとき、私は仏教についてすら何も知らなかったことに驚かされました。さらに他の宗教について知ること自体に嫌悪感さえ覚えるほどMCされていたんだということに気がついたのです。
創価学会から抜け出すことができて、世界の宗教芸術をなんの偏見もなく見ることができるようになりました。素直に他の宗教の芸術を受け入れることができるようになりました。それは普通の人にとってはあたりまえのことだったのですが、生まれてこのかた、なんと50年ものあいだ、否応無しに宗教芸術をなんらかの偏見と嫌悪感をもってしか見ることのできなかった自分を恥じました。芸術に携わる職業でありながら、その人類の遺産である芸術作品にまともに接することができなかったのです。そうさせてきた創価学会のどこが正しいと言えるのでしょう。創価学会の掲げる文化も平和もまったくうわべだけの偽物です。会員を欺くためだけのフェイクでしかありません。MCのための道具でしかありません。それにはやく気づいてほしい。私のように人生の終盤にさしかかって気づいては遅すぎます。若い学会員には、はやく創価の真実に気づいて、自分の本当の人生を取り戻してほしいと思います。


●祥蘭(2013年8月16日 09:42)
芸術と宗教のお話、皆さんのご意見、興味深く拝見いたしました。
神話に基づいて描かれた絵画を見る時、その背景はなにもわからなくても、ただ見つめているだけで心が穏やかになったり
心洗われるような気持になった事があります。 
でも、創価で活動家をしていた頃の私はそれらの宗教芸術を「邪宗を背景としている」と見た事はありませんでした。
ただ素晴らしいな、素敵だなと、テーマや背景を深く掘り下げずにただ「見た目の感想・上っ面」で終わっていたんです。
他宗は全て劣っている・取り入れてはならないもの・世界に一つだけの正しい教えに出会っているのだから、
低いものの歴史はわざわざ知る必要が無い、というマインドコントロールで培われた潜在意識がそうさせていたのだと、今は解ります。
また日本古来の神社神道からなる神事についても、同じ認識でした。
外道だからと創価では切り捨てられ、敢えて知ろうとしませんでしたが、普段当たり前に使っている言葉や習慣なども、始祖祭祀に
はじまる事が多いと覚醒後に歴史の本を読んで知りました。
たとえば、祭りにおける考察の中で、お祭りのとき祭壇に供えた食べ物をあとでお下がりとして皆で頂く事に絡み
大和言葉のタベモノ(食べ物)が「賜ぶ物(タブモノ)=神々からの賜り物」からきていると知った時は、農耕民族である日本人が
自然からの恵みで生をうけてきたこと・そこに神の存在は不可欠で、崇敬の念をもって信仰されてきたことがよく理解できました。
宮中祭祀は国の平安と豊穣を願う神事で、それが現代にも受け継がれている事は、立派な「日本の文化」であって、
「邪宗」や「低い教え」と切り捨て、会員にそれらから目をそむけさせ・興味を殺いで行こうとすることのどこが「文化運動」なのか
さっぱり解りません。
創価の教義は日本人としての矜持を殺いで行く教えばかりだったなと、覚醒した今は心底がっかりさせられています。

話はそれますが、家の近くにキリスト教の教会があります。ある日、子供が外から戻ってきて「お友達と教会で遊んできた」というので
ビックリしました(覚醒後の話です)。遊んできたってどういう事?と尋ねると、その教会は信者でなくてもだれでも出入りが自由で
子供のための部屋(絵本やおもちゃや、クレヨンなどおいてあるそうです)もあり、そこで遊んできたそうです。
無理やり礼拝をさせられたのか?牧師様のお話はあったのか?と尋ねてみたらまったくそのような事も無くて、公園が減ったり・各家庭の行き来が
昔より難しくなって、子供の遊び場が減った事を問題に思った牧師さんの好意・慈善であったと後日お友達のお母様から聞きました。
そこで気づきましたが、神社も出入りはだいたい自由。誰人にも門戸を広げています。
創価の会館のように、外部の人間が来る日にカメラ&録音機材のチェックなんてしないのです。
また、これも覚醒後ですが、神社神道を信仰する方から「他の宗教を信じている人に対して、低い教えだから捨てろと言ったり、
自分の宗派に”入会”しろなんて、神様にそんな教えは無い」と言われた時、己の過去を振り返り心が痛みました。 
入会なんて形式ばったものもなくて、自分の心が神様を求めた時に神社に詣でればそれでいいんだそうです。
真に開かれた宗教とは、そういったものかもしれないと考えました。
 この教え以外のすべては間違っている・そう気づいた本人だけ「自己完結」でやってくれるならまだしも、低い教えを信じている人は
不幸だから、その低い教え・誤った信仰を捨てさせて入会へ導け(折伏)・それが幸せなんだ、平和への連帯なのだと教え込まれた
創価の教義がいかに異質で「信教の自由」を無視したものなのか、ちょっと一般社会に出てみればわかる事です。
といいつつ私も40年以上わからなかったんですけどね。

●signifie
2013年8月16日 21:27
白バラ通信によれば、池田氏は手の施しようのない脳腫瘍とのこと。老齢なので手術ができないのと、若い人より腫瘍が大きくなる速度が遅いのもあるでしょうが、いずれにせよ会員には一切知らされないまま、何年も経っているわけです。86歳とのことですから、そのような病気になるのも不思議ではないし、そのような体調で巨大な組織の指揮をとったり、執筆活動をするというのも可哀相ですよね。最高幹部はなぜ池田氏の病状を会員に伝えないのか。なぜ会員は会長の病状を知ろうとしないのか。会員にとっては親以上の存在だと日頃から言ってるにもかかわらず、なぜ何年も顔すら見せないことに何の不満ももたず、疑いもせずいられるのか。ときどき聖教新聞に載ってくる洗濯してよれよれになったぬいぐるみのような写真で「先生はお元気です」となぜ言いきれるのか。それになぜ聖教新聞に載っている池田氏の写真は過去の元気に太っている頃の写真ばかりなのか。まず会員が何年も池田氏の声すら聞けない状況に、組織の上層部はなにひとつ答えていません。自分の親が突然何の連絡もなしに音信不通になったら、普通の子どもなら心配しますよね。どうしているんだろうって心配するのがあたりまえだと思います。入ってくるのは執筆文やメッセージばかり。姿も見えなければ声も聞こえない。それもひと月やふた月ではなく、もう2年半になろうとしています。最高幹部がそのように会長を表に出さないようにしているのでしょうから、私はそのことを一般の学会員に説明してほしいと言っているのではなくて、学会員がその状況をなぜ不自然に思わないのかということを学会員の口から聞きたいのです。なぜ人生の師と仰ぐ池田氏が何年もまったく姿を現わさなくて、それでも病気かもしれないなどと心配しないでいれるのかを聞きたいですね。そのことになぜ不自然さを感じないで居続けられるのかを聞きたいです。ほんとに師弟の絆で結ばれていると言うのなら、弟子は師匠のことが心配で夜も眠れないのが本当ではないのでしょうか。
創価学会の現役活動家であるexcommunicateさん、お盆も終りましたことですし、そろそろその辺りのことを聞かせていただけると嬉しいです。
もし、かまわなければ日蓮本仏論についても、日蓮正宗とたもとを分つ創価学会の教義についてexcommunicateさんのお考えを聞かせていただけると嬉しいです。もし荷が重いとなれば、あなたの組織の上の方に登場していただいてもかまいませんが、excommunicateさんがこの状況を話した時点でシャットアウトされるでしょうけどね。それほどexcommunicateさんは創価学会員としては珍しいスタンスにいらっしゃいます。すこしだけ世間一般の心も持ち合わせていらっしゃるのではないかと思われます。どうかここでの対話を続けていただければと思います。気長にお待ちしていますよ。(^^)

●ウトロ(2013年8月17日 08:56)
どんな偉大な人であっても時代の制約を受けるのは仕方のないことです。
日蓮は民衆救済への高い志を持ち、深い学識をそなえた尊敬すべき仏教僧だったと思うのです。
しかし、今の仏教学や文献学の研究成果からみると、日蓮の仏教理解には誤りがあったことは認めるべきでしょう。

日蓮は法華経仏説の立場ですが、これは当時の常識から言えば間違いではなかった。
しかし今となっては、法華経は釈迦入滅の数百年後に成立したことは常識となっています。
法華経には、それまで伝承されてきた釈迦の思想が反映されている部分もあるでしょうが、法華経を創作したグループ独自の主張も述べられているのでしょう。

また、法華経を漢訳した鳩摩羅什の独自の考えも反映されているようです。
たとえば、有名な「諸法実相」はサンスクリット語の原本には記述がなく、鳩摩羅什が付け加えたもののようです。
このようなことを考えると、法華経に説かれたことは絶対である、とは言えないと思うのです。

日蓮は文証至上主義者だったと私は思っています。
「私の言葉にはあらず」と言って、さまざまな経・釈・論を引用しながら、それを根拠に自説を展開しています。
これは、きわめて理性的、科学的な態度ではないでしょうか。

であるならば、日蓮門下を名乗る人たちも、日蓮のこのような態度を見習うべきでしょう。
たとえ日蓮の所説であってもそれを絶対視するのではなく、いまの仏教学や文献学の成果をふまえて見直すべき点は再検討する。
これが、理性的、科学的な態度だとおもうのです。

もし日蓮が今の時代に生まれていたら、法華経をはじめとした多くの仏典について、最新の文献学や仏教学の知見にもとずいて再評価したうえで自説を述べるのではないかと思います。

日蓮は法華経を誹謗すると地獄に堕ちると言っていますが、これは法華経の譬喩品に書かれている「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん」を根拠にしています。
しかしながら、今となってはこれは釈尊の思想とはほど遠いものであろうと思います。
私が勉強した範囲では、釈尊は人を脅すような「罰論」や「地獄論」のようなことは言っていないようです。

ごく大雑把に言ってしまえば、釈尊の説いたものが仏教だとすると、今の日本で仏教と呼ばれているものの多くは仏教ではない。
このようなことが言えるようです。

中途半端な書き込みで申し訳ありませんが、長くなってしまったのでこれで終わります。

なお、日蓮本仏論については以下のサイトが参考になるかと思います。

http://senmon.fateback.com/soukagakkai/shukyou/dpj_honhutsu.html


●ウトロ(2013年8月17日 10:02)
シニフィエさん、連投をお許しください。

こちらでコメントをされている法華講の方や学会の活動家の方は、自分たちの信仰が唯一絶対だとの確信をお持ちのようですね。
以前にも投稿させていただきましたが、日蓮系の教団は分派を繰り返し、多くの門流に分かれています。
その中で、法華講や学会は日興門流の中の大石寺圏にあるのですが、大石寺流の日蓮信仰が絶対だとの根拠を、ここで示して頂きたいと希望します。

ある法華講の方は、大石寺の信仰は750年間、日蓮の時代と寸分違わず続いていると主張します。
本当にそのように言えるのでしょうか?

たとえば、日蓮がどのように題目をあげていたのか。
「なんみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか、それとも「なむみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか。
それすら伝わっていないのが実状でしょう。

ある人からうかがった話ですが、さまざまな門流に「相伝書」と呼ばれるものが存在するそうです。
この「相伝書」が伝わっていく過程で、さまざまな人たちがいろんなことを書き加えてしまい、どこまでがオリジナルの「相伝書」なのか良くわからないようです。

けっきょく、日蓮の所説が伝承されていく中で、伝言ゲームのようなことも起こっているでしょう。
このようなことを考えると、日蓮の教えがどの程度の正確さで今に伝わっているのかは、はなはだ疑問ですね。

●excommunicate
2013年8月17日 11:15
家族と共に、夏季休暇を満喫していました。実際は19日から出勤なので後2日の休暇がありますが、田舎へ帰り、マイナスイオンに癒されながら、清流で子供たちと水遊びし、親戚が釣った鮎の塩焼きに舌鼓をしつつ、その他の田舎料理を満喫しながら、多くの親族と酒を交わしました。ある日は麻雀にふけるなどしていました。ちなみに麻雀の腕はそこそこ自身がある方なので、全局勝利したのは言うまでもありません(笑)。

14日は親族が35人も一同に集まりました。ちなみにほとんど学会員ではありません。が、私の結婚式は学会の会館でやりましたので、たくさんの親戚が来てくれました。披露宴は有名な平安閣で行いました。当日、池田先生からの祝福の御伝言も頂き、夫婦箸の激励も頂きました。あれから15年の歳月が流れます。

親戚のご自宅へも伺う機会があり、浄土真宗の家ですが、仏壇にお供え物をさせて頂きました。また盆ですので、その親戚のお墓詣りもさせて頂きまして、懇ろに読経唱題をさせて頂きました。ちなみにそのお墓も浄土真宗のお墓です。

様々なコメントを一気に拝読させて頂きました。私へのご質問もあり、どれからご回答申し上げたほうがいいか、大変悩んでおりますが、順不同で大変申し訳ございませんけれども、愚見を申し上げたいと思います。

まず、裁判についてですが、聖教新聞や創価新聞に連戦連勝などという記載は見た記憶がありませんが(随分昔に、選挙絡みの記載ではあったかもしれませんが)、そう吹聴しているのが宗門側なのではないでしょうか。

確かに勝訴の記事は創価新報で見たことがありますし、ご指摘の芸者写真裁判の一審敗訴の件は聖教新聞にも記載されていましたので記憶は鮮明です。結果、この訴訟は学会勝訴というか、原告(宗門)側の控訴棄却で終わっているはずですが、私の記憶は間違っていますでしょうか。リンク先のWikipediaでもそう記載されているようですが。

あと、その他リンク先の「百禍繚乱」というおどおどしいサイトですが、これは宗門関係者がよく引用する有名なサイトですので存知あげていますし、私が気になる学会攻撃と感じるサイトのひとつでもありますので、特段、コメントするものではありません。

但し、その裁判記録についてですが、ひとつひとつの裁判の中身を知る労力と時間はありませんので、可能でしたら訴状内容と判決文を全展開して頂ければ助かります。

私の主観論を申し上げますと、学会が敗訴したという裁判は、大概は寺の所有権や代表権、遺骨の管理責任などが争点になっていると思いますし、どちらかが裁判を起こしたかわかりませんが、学会側から起した裁判の多くは、その学会員の義憤、つまりやむに已まれぬ裁判だったりするのではないでしょうか。それは、例えば学会が寄進した寺に居座り、学会攻撃をする坊主を見て、「我々の御供養で寄進した寺だから、寺から出ていけ」という裁判だったりします。逆に宗門側勝訴の裁判も、学会側についた住職に対して、寺から出ていけという内容であったり。

いずれにしても、学会が寄進した寺といえども、所有権は宗門側に移行しているワケなので、勝訴するのは難しいでしょうね。

正本堂に関わる裁判は特にその典型例と思います。当時、学会が供養した額は355億円、法華講の供養額は3億182万円、僧侶及び寺族は1億5787万円ということからしますと、ほとんどが学会の供養で建てられた建物でありました。しかも、高度経済成長期といえども、学会は昔から貧乏人と病人の集まりと揶揄されるような、その恩恵に薄い層の集まりです。その学会員が爪に火をともす思いで日蓮正宗に捧げた空前の御供養で建設された建物が、たかだか20年で取り壊されたという現実。

当時の新卒の初任給は約5万円くらいなので、現在の貨幣価値にしますと、1000億以上の御供養です。

私も両親から聞いていましたし、祖父母からも当時の御供養の闘いを聞きました。祖父母も両親もお山のためなら、ということで、財産のほとんどを御供養に回したそうです。

この正本堂はかかった額もさることながら、建築家・横山公男氏の設計で、その大客殿は日本の建築学会賞を受賞していました。池田先生のご案内で、小林秀雄氏や井上靖氏、松下幸之助氏などの識者や著名人が数多く訪れ、誉める人は多かった。それを50億円もかけて解体しました。反対したのは学会員だけではありません。横山公男氏をはじめとする多くの著名な建築家も「そんなばかなことはやめなさい」と声をあげました。しかし、宗門はそれを無視して、学会憎しのあてつけに解体しました。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地でいった話です。もっともやったのは坊主自身なんでしょうけれど・・・

さて、私が気になる他のサイト、つまり宗門側が学会攻撃に躍起になっているものですが、一部ですが以下のものがあります。

http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/p-deta/sokagakkai/soka_2j.htm
http://emyo.jp/
toyoda.tv

補足ですが、私は、内部のメンバーに対して、ネットのアンチ記事を見ないようにという話をしたことがありませんし、上の幹部からそういった打ち出しも聞いたこともありません。仮に誰かが言った話であっても、見るなと言われても逆に見たくなるというのが人間の性ではないでしょうか。つまり、見るなと言われてもなんら強制力なんてありっこないです。

また、古くは藤原弘達著の『創価学会を斬る』から始まり、山崎正友・原島崇著の「懺悔滅罪」、最近であれば矢野氏の『乱脈経理』など、学会のダークサイド(?)ともいうべきネタ本が数限りなく出版され、熟読いたしました。

かれこれ20年前になると思いますが、当時の週刊誌に、福島源次郎という元副会長が脱会した理由を長文にわたって掲載していました。父が購入して、仏間に置いてあったのを読んだ記憶が今でも鮮明です。特に記憶に残っているのが、当時、福島氏が便秘で苦しんでいた時に、御本尊に「池田大作と闘います!」と祈ったら、一気に詰まっていたものが排便され、功徳を頂いたという記載と、青年部当時に池田先生と銭湯に入り、先生に背中を流してもらった際に、「福島君、君が頼りだよ」と激励されて感動したという記載でしょうか。

つまり、何十年も前から古くから週刊誌などで学会に対するネガティブキャンペーンが展開されていて、今は、ネットにその舞台が移動しただけと思うのが、私の率直な感想です。

「乱脈経理」の内容も、前述した藤原弘達著の内容や「懺悔滅罪」よりも、さらに迫真の記載があるだけです。また、ここまでハッキリ脱税の告発をしておきながら、日本で一番冷徹で、優秀な官僚が集まる国税局の査察が入らないワケがありませんし、こんな違法集団が支援する政党が政権にいるならば、国会でも野党が厳しく問いただすのではないでしょうか。それが無いのは、関係者から見ると明らかに詭弁であり、まともに取り合うような程度の内容ではないからです。

さて、このブログに登場される元学会員の方のご意見に対してですが、今に始まったことではありませんけれども、私がいつも気になることは、脱会の理由が、「池田先生の指導のここがおかしい」という角度がさっぱりなくて、大抵が組織内の軋轢に端を発して、その裏付けを取るかのように、前述した脱会者の告発本や、ネットのアンチ記事にすがり、結末として、学会はオカシイという理屈になっているということです。

創価学会は、血もつながっていない、仕事も違う、年齢も性別も、趣味も感じ方も考え方も、育った家庭環境も違う人たちの巨大な集まりです。それが、日蓮仏法を根本とした代々会長、特に池田先生の卓越した指導によって繋がっています。だから師弟不二を説いているわけで、その日蓮仏法を行ずるにあたっての先生の指導の「ここが間違っているから脱会する」ということなら諦めもつきますが、私が知る限りでは、それが理由となっていない。

「組織内にこういう嫌な経験をした、だから学会が嫌いになった、その裏付けにしたのがネットのこの記事だ」という理由が多いのではないでしょうか。

学会には光と闇があると言われるならば、その闇の部分が、組織内の人間関係のもつれでしょう。財務にしたって、選挙活動にしたって、聖教啓蒙にしたって、それを打ち出す幹部の素質が問題です。みんなが納得して活動しているのか、嫌々やらされていないか、どこに不満があり、どうしたらみんなが嬉々として活動に参加して頂けるのか、一人で悩んでいる会員さんはいないか、悶々としている方はいないか等々、しっかりアンテナを張って取り組んでいかないといけません。

学会とは関係のない一般例でも、血がつながっている家族の間ですら、言葉の使い方や意見の相違で平気で争ったり、事件になったりする時代です。

いわんや、赤の他人同士の集まりが創価学会です。そこの丁寧さを欠いた打ち出しや、指導をする幹部がいたら、それが問題だと思います。池田先生ならどのようにされるのか、常に師匠と呼吸を合わすことが大事であるはずが、そうせずして、我流で身勝手に進めようとする幹部がると、そこに所属している会員は大変な苦痛を味わうでしょう。それが、学会への不信となり、脱会に繋がっていきます。

私は、会社でも上司と部下の関係で、とても苦労します。管理職でもありますから、多くの部下を持っています。通り一辺倒に結果を出すことを強制すれば、部下の心は離れていきます。なぜ、これを目標とするのか、そして、それを達成するためには、どうしたらいいのか、皆の意見を吸い上げつつ、全員野球で心をひとつにすることを心がけています。利害関係がある会社でもそうですから、何もない学会では、更なる丁寧さが求められるのは論を待ちません。

繰り返しますが、脱会される方は、先生が残された膨大な指導にはほとんど触れず、それについての意見もほとんどない。あるとしたら、よく宗門側が取り上げる「御法主上人を批判した」という盗聴された不鮮明なテープの内容くらいで、過去から現在に至るまで残されている、会員に対する莫大な指導について、何故、直視しないのか不思議でなりません。

そうではなくて、先生の指導は正しいが、他のオカシイところが一番肝心と思っているのでしょうか。そのオカシイところを先生が発信されたということでしょうか。それは、真ん中の幹部の発信(元学会の告発など含む)ではないのでしょうか。一度、御教示頂きたいものです。

だから、私は、古くから現在まで発刊され続ける告発本や、ネットのアンチ記事の内容については、御書にある三類の強敵「俗衆増上慢」程度にしか感じないし、以下の御書と池田先生の指導の方がはるかに説得力があります。

「兄弟抄」(御書P1087)

【本文】
 されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし(中略)其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。

【通解】
 さて、天台大師の摩訶止観という書は、天台の生涯における大事であり、釈尊一代の教えの肝要を述べたものである。(中略)摩訶止観の第五巻に説かれる一念三千の法門は、もう一重深く立ち入った法門である。この法門を説く時には、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらないならば、正法であると知ることができない。
 摩訶止観の第五巻には「仏法の修行が進み、その理解が深まれば、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。・・・だが、この三障四魔に、決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」とある。この摩訶止観の釈は、日蓮の身に当てはまるばかりではなく、わが一門の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたる糧とすべきである。

【先生の指導】
 まず、「行解既に勤めぬれば」とあります。これは、経典に対する理解が深まり、その理解に基づいての修行が整った時、という意味です。すなわち、いよいよ生命変革のための本格的な修行に入る時だからこそ、三障四魔が競い起こる。私たちの信仰で言えば、「行学の二道」に励み、「いざ前進」の時に必ず三障四魔が競い起こる、という意味になります。
大聖人は、凡夫から仏への境目の時に三障四魔が起こると言われています。
次に、三障四魔は「紛然として競い起こる」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意味です。まさしく「紛然として競い起こる」とは、三障四魔が、入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。三障四魔は、不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせてくる。
この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を、天台大師は明快に2点、挙げています。
それが「随う可らず」、そして「畏る可らず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を畏れれば、正法を修行する妨げとなってしまう。
結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利への根幹です。魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」。魔を恐れず、魔に断固立ち向っていく「勇気」。要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。妙法の力用が、「無明」を即「仏性」へ転じ、「難来るを以って安楽」(750㌻)という境涯を開いていくからです。

以上です。

大変、長くなりました。もし、ここまでお読み頂けたのでしたら、貴重なお時間をこんな拙文をお読み頂いたことに心から感謝申し上げます。
皆様におかれましては、酷暑が続いておりますので、健康には十分御留意されまして、充実した日々をお過ごしください。
ありがとうございます。


解説
久々に、excommunicateさんが創価学会擁護の論陣を張っていますが、シニフィエさんや他の参加者の反論にあいます。
excommunicateさんとしては、創価学会の公式見解しか言えないので苦しそうです。

論客ウトロさんのコメント、共感できます。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(10)

2021-11-23 01:32:48 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■コメントお待ちしています。      投稿日: 2013年8月13日

おかげさまで、ここにコメントしてくださる方が増えてきました。とてもありがたいです。かつて創価学会の活動家だった方、2世3世で、今でも活動をされている方、活動していない方、脱会された方、正宗に戻られた方、宗教はもうまっぴらと言う方、宗教の大切さはわかるけれども、今は特に何かを信仰する気にはなれない方など、さまざまな立場でのご意見が寄せられています。また、みなさんこのブログの趣旨をよく理解されての発言なので、感情的になったり、ブログが荒れることなく対話が進行しています。こうした対話から、創価学会の真の姿に気がついてくれる創価学会員がひとりでも多く出てくれると嬉しいです。急がず、じっくりと対話を進めていければと思っています。とくに創価学会の活動家であるexcommunicateさんは、ここが創価学会に批判的なブログであるにもかかわらず、勇気をもって自身の考えを表明していらっしゃることに関しては敬意を表します。こうした方がさらにここでの対話を通じて、お互いの信仰についてしっかりと確認をしていただけると、大いに意義のあるブログになると思います。よろしくお願いします。
なお、新しいコメントは、いちばん新しいページにお願いいたします。過去のページにコメントされても、管理者である私にはわかりますが、他の方は気づかないことが多いようです。よろしくお願いいたします。

●signifie(2013年8月14日 12:20)
詳しくは知らないのですが、最近の学術的な仏典研究の成果として「法華経は釈迦が書いたものではない」ということがはっきりしたり「鎌倉における末法の時代解釈は間違っていた」となると、日蓮が言っていたことにいろんな矛盾がでてくるような気がします。世界がインド、中国、朝鮮、日本という範囲での記述で、キリストやイスラムや他の古代文明の基盤となった文化や宗教はまったく想定されていないのですから、たとえば御書を鵜呑みにするというのもどうなんでしょうね。たとえば十界論の「地獄」という概念も、もとは古代の土着信仰から生まれたんじゃなかったかな。なんか「地獄に堕ちるぞ」って言われると恐い気もしますが、よくよく考えるととっても不幸な状態を勝手に想像して怖がってるだけのような気がします。


解説
創価学会の活動家であるexcommunicateさんは、ここが創価学会に批判的なブログであるにもかかわらず、勇気をもって自身の考えを表明していらっしゃることに関しては敬意を表します

現時点では、excommunicateさんは「荒らし」認定はされていないようです。
前回のシニフィエさんをみると、木花さんも「荒らし」認定はされていないようです。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(9)

2021-11-22 01:27:49 | 対話ブログ

前回に引き続き「芸術と宗教(つづき)」のスレッドについたコメントです。


●excommunicate(2013年8月11日 11:54)
様々な方からの手厳しいご意見を頂戴しておりますが、私は私の個人的な確信で物申しています。

特に主張したいのは、学会の現実の現場から乖離した学会像を、虚飾も交えて吹聴する方がいるという事実。

そして、その方々は本質をあえて見ようとせず、うわべだけの文言を、さも鬼の首を取ったかのように邪推した挙句、学会にカルト教のレッテルを貼るという行為。

そのひとつが、仏敵に対する『打倒』などの御祈念版や唱題会についてでしょう。

それは実際、存在したというならば、全組織の活動の中にどれだけのウエイトを占めているのでしょうか。ごく稀な会合の一つなのではないでしょうか。その他の会合の中身や、実際の現場の闘いは一体、どうなのでしょうか。

また、逆を言えば宗門側は、創価学会を諸悪の根元・仏敵としていると思いますが、その学会に対する打倒や撲滅の祈りもせず、座して放置しているとでもいいたいのでしょうか。

私は1つ、御書を通しました。大聖人の御書には、他にも数多く、仏敵に対する強烈な御文があります。

別の御書《聖愚問答抄》では、

『此等豈(これらあに)謗法にあらずや責めても猶(なお)あまりあり禁めても亦(また)たらず』

とあります。

学会は御書根本、大聖人直結を標榜していますので、これは絶対に譲れない一線です。

さて、とある法華講員よりの

『日蓮正宗の信徒団体である創価学会が、会合のなかで、わざわざキリスト教の神を賛美する歌を信徒に歌わせるのは、どういう理由からなのか、と尋ねただけです。それを学会が回答拒否されたのですが、これが直接の破門の理由にはなっていません』

についてですが、当時のお尋ね文書を正しく精読して頂いたらわかると思います。

当時ですが、長年、対話による相互理解を積み重ねてきた歴史もあり、今回も『対話による解決を』ということで幾度も対話をお願いしたにも関わらず、対話には応じず、文書での回答を強要されました。

ゆえに、対話をお願いしていたその間は、お尋ね文書には回答はしませんでしたが、最後はラチがあかないので、回答に応じていることはご存知のはずです。

その回答には、第九の歌の中身について、それは、キリスト教の一神教を賛美する歌ではなく、万物の法則(それを神と表現)した曲なので、文化を尊重する学会としては問題ないという内容をご回答しています。

しかし、宗門は第九の歌の合唱は、外道礼賛であり謗法であると回答されました。

当時、私は高校生でしたが、お尋ね文書のやりとりとや、当時の法主・日顕との手紙のやりとりは、聖教新聞に掲載されていましたので、興味あった私は貪るように読んでいた記憶が鮮明です。

特に正本堂における意義のやりとりは、日達猊下の『広宣流布の暁には本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり』の《たるべき》についての解釈で、大変紛糾した議論があったことは記憶に鮮明です。(学会の主張は、たるべきは確定はしているが、未来のことなのでそういう言葉になるという日本語の権威の専門家の裏付けを元にした『確定のたるべき』であると主張しましたが、日顕は、未来のことなので、確定していないという主張で、全く噛み合いませんでした)

そして、最後はお尋ね文書も、日顕対論も、宗門側の回答不能で終了したことは周知の事実です。

そして、その結末は、学会への解散勧告、破門、正本堂破壊でした。

ある意味、建物は文化遺産にもなる性質でもあるのに、学会憎しの結晶として、問答無用に破壊するその所業は、これこそ、到底、仏法者がすることとは思えません。

つまり、私が主張したいのは、学会は、日蓮仏法を正しく世界に広宣流布するためには、それぞれの国の文化を尊重し、その土壌の上で、深遠な日蓮仏法を世界に広める、その大変な苦労と闘いを起こしてきました。しかし、その苦労をよそに、やることなすこと、それは謗法だなど何癖をつけて妨害してきたのが宗門だったのです。

ローマ法王との対談も反故にされたのも、理由はカトリックの人間と対話すること自体、謗法であるとの理由です。

どんな宗教を持ち、どんな立場の人であっても、原点は人間ですから、その人間に会いに行き、胸襟を開いた対話こそが、人類の平和の直道です。池田先生はそれを命がけでやってきました。そして、各国・角界のキーパーソンと友情を結べたからこそ、例えば学会が建設した富士美術館には、今迄、例がなかったような門外不出の芸術品の展示を許可され、学会員だけでなく、日本の多くの方に世界の芸術に触れ合う機会を提供して下さいました。

学会が建設した富士美術館は日本に2つありますが、今迄、どれだけの国の文化遺産を展示してきたことか、そこには、その国の宗教文化が内在した展示物も数多くありました。

学会がやってきたことは、日蓮思想は決して偏屈のものではなく、全ての人間に仏性があり、その仏性から芽生える大文化の枢軸となり得るのが日蓮思想であり、それを広めるべく、全世界に打って出ようとの壮大な大闘争であったのです。

しかし、私の話しを作り話とされるなら、どこに真実があり、どこにその真実を歪める働きがあるのか。その溝を対話によって、埋めていけたら幸いです。

本日も大変な猛暑日です。皆様におかれましては、とにかく、熱中症などには十分注意して、よい一日をお過ごし下さい。


●signifie(2013年8月11日 13:03)
excommunicateさんへ
コメントありがとうございます。

excommunicateさんにお訊きしますが、宗門側が創価学会を攻撃しているという事実を証明できるのであれば、写真なり文書等をネット上に公開してみてください。

>特に主張したいのは、学会の現実の現場から乖離した学会像を、虚飾も交えて吹聴する方がいるという事実。
>そして、その方々は本質をあえて見ようとせず、うわべだけの文言を、さも鬼の首を取ったかのように邪推した挙句、学会にカルト教のレッテルを貼るという行為。

他の大型掲示板などはともかく、少なくともここでコメントしてくださる方は、実際の学会の姿を知って脱会したり非活になられている方がほとんどですので、無責任に「学会の現実の現場から乖離した学会像を、虚飾も交えて吹聴する方」はいないと思います。つまりみんな実際の現場を知っているわけだからウソ言ってもすぐにばれちゃいますからね。私も含めて何十年と学会の中で活動してきた方たちばかりなので、事実関係にウソがあったらその方の言ってることはすべて信用できないということになります。ここではそれくらいの責任をもって発言していただきたいと思います。

宗門の方も、創価学会が宗門を批判・攻撃していると客観的にわかるような写真なり文書等がありましたらネット上に公開してみてください。聖教新聞紙上での恐ろしいほどの宗門バッシングは私もよく知ってはいますが、excommunicateさんにしてみれば正義の闘いということになるのでしょうね。

いまのところ、こちらに来られる学会側の方も、宗門側の方も、自分からは攻撃・批判などしないと仰られているようですので、ここはひとつ客観的な事実として誰にでもわかるようなもので確認するのが早いと思いますがいかがでしょうか。

そのあたりがはっきりすれば、対話もより深まるのではないでしょうか。

それにしてもexcommunicateさんの判で押したような学会優等生ぶりは失礼ないい方かもしれませんが、ここを訪れる方のほとんどがなかばあきれ気味だと思います。excommunicateさんのような純粋な方が創価の実体を知ったときのショックたるや、考えるだけでもゾッとします。おそらく「ああ、あのときあそこで言われていたことは本当のことだったんだ」と地団駄をふむときが来るでしょう。カルトから抜け出すにはそれ相応のショックが伴います。私も真実に気がついて一年以上になりますが、まだそのショックから完全には快復できていません。でも一生騙され続けて終わるよりは、どこかの時点で気づいて、自分の人生を取り戻してほしいと思います。私の父は結局創価学会にすべてを捧げたまま亡くなりました。私が一番尊敬してきた父の人生を否定しなければならなくなったときの気持ちがexcommunicateさんにおわかりになりますか?自分の父親の人生を「間違いだった」と否が応でも認めなければいけなくなったときの気持ちがおわかりになるでしょうか?私だってこれまでの50年以上の自分の人生を自分で否定するときが来るなんて思いもしませんでしたし、できれば創価学会は正しい宗教団体であってほしかった。でも真実はちがったのです。それは自分の目で見て確かめて、自分で気づくしかありません。excommunicateさん、ここで交わされる対話は、決してあなたを陥れようとするものではありません。私やここにコメントされている方から見れば、あなたは確実に創価学会のうわべだけしか知らないままを発言されています。だからexcommunicateさんにとって厳しいコメントが寄せられるのです。それは学会を攻撃しているのではなくて、あなた自身に学会の真実に目を向けてほしいとの思いからです。どうかそのことを勘違いしないでいただきたいです。対話とは相手の思いを理解しようという姿勢がなければ成立しません。自分の主張を吐き出すだけでは対立は深まるばかりです。客観的な事実関係が明らかにできるところは、できるだけ明らかにしながら、それぞれの考え方を正直に出し合いましょう。

●木花(2013年8月11日 18:02)
文のみの対話って難しいですね。
私の書き方が悪くて誤解を招いてしまいました。
元学会員・学会員とはここにコメントされている「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」という意見に賛同された方のことです。
ややこしくてすみません。
sinifieさんが日蓮正宗の矛盾点を追及している訳ではないことわかってます。
途中混同したこともありましたが、sinifieさんの真意はそこじゃないことに気付いて、あのようなコメントになりました。
ただ劣っているという表現が私には理解できないのです。
他宗は法華経じゃない仏典を使っていますが、それらの経典が劣っているという話はお寺で聞いた事はありません。
創価学会では法華経の話(これも正しくない解釈ですが)しかされませんが、日蓮正宗では違うお経の話もされるんです。
とにかく御住職様に確認してみますね。
sinifieさんが法華経以外は劣っていると表現したので「創価の教義に縛られて苦しんでいるようで気の毒だ」と思ったのです。
申し訳ありません。
誤解した理由はあるのですが、書くとまたさらなる誤解を招くので書かないことにします。

sinifieさんの仰るように日蓮正宗は750年以上、何も変わっていませんし、丑寅勤行も欠かさず続けております。
学会員は法華講が同じ信仰をされていると思っているでしょうけど、信仰に対する姿勢や大聖人様に対する想いがこれほど違うことをどう思われているのでしょうか。
21年前日蓮正宗が間違っていると去っていったわけですが、法華講は何も変わることなく信仰を続けているのに、学会員はおかしいとか嫌だと辞めていく人が続出しています。

excommunicateさんは自分が憎むものに対して、敬称もつけずに呼び捨てしていますが、それは世間では非常識なことです。
私は日蓮正宗と創価学会の関係がよくわかっていなくて、つい最近まで創価学会が日蓮正宗だと思っていた大ばか者でした。
これは私が無関心で無知だったからです。
仏教の基本も知らず、創価学会を仏教だと思っていた自分がとても恥ずかしいです。
世間はそんなこととっくに知っていたから創価学会を危険視していたんですよね。
池田さんは聖者なんかではありません。
創価学会は二大カルトの一つです。
人の不幸を祈る・・・これは人の道に外れる行いです。洗脳された学会員であっても出来ない人は絶対にしません。
でもそれを出来る人もいる。
これは大きな分かれ道だと思います。

excommunicateさんは自分より創価学会をよく知っている先輩方の話を聞けないようですが、そこがもう間違いなんですよね。
どうしてそう言われないといけないのか、一方的に学会員が正しいと言ってもそれは正しいことにはならないです。
excommunicateさんの語っていることは池田さんの思想であり、大聖人の教えではありませんよ。
学会の会館に行けばそれはすぐわかります。
あの会館に入って、ここは日蓮宗なんだと思う人はいないです。
第一、日蓮宗系の寺院には決まりごとがあります。学会はそれを行っていないのになぜ仏教と言っているのでしょうか?
新聞啓蒙・選挙活動を仏道修行なんていう宗派はありません。そんなおかしなこと言ってるの学会員だけです。
迷惑な学会活動で人と摩擦を起こすことが修行なのですか?

私の祖父母、両親は草創期の学会員ですが、祖父は亡くなる前に創価学会が正しくないことに気付いたようでした。
でも父は気付けず、今もバリバリの学会員です。
両親は学会に多額のお金を使い、現在お金に苦労しています。
それでも幸せだと言い張っているのは、自分が間違った選択をしたことを認めたくないからです。
学会員にとって一番苦しく辛い事は自分の人生を否定することでしょう。
excommunicateさんだって本当は真実を知るのが怖いから、耳も目も塞いでいるのではないですか?
覚醒したら辛い作業をしなければいけない、sinifieさんは正面からその苦しい壁を越えられた方だと思います。
これは心理学的にも大変なことで偉業なんだそうですよ。
いずれ創価学会の嘘は明らかになると思います。
日本人はサイレントクレーマーなので、何も言いませんが創価学会・学会員に対しての怒りは相当なものがあります。
創価学会の話は今までタブーでしたけど、それもなくなりつつあります。
もう嘘が通じる時代ではないのです。早く気づかれて脱会してほしいです。

●とある法華講員(2013年8月11日 18:20)
excommunicate様

 まず、御隠尊日顕上人を呼び捨てにするのは、やめていただけませんか。私が池田名誉会長を呼び捨てにしたら、あなたは不愉快だと思いませんか。失礼だと言いましたよね。「上人」や「猊下」などの尊称を付けてくださいとまでは言いません。その失礼な態度が学会員の特性をよく表しているのではないですか? ここは対話の場です。学会員のアジテーションの場ではありません。学会が敵視する人物、団体は何と呼んでもいいということにはなりませんよ。

>また、逆を言えば宗門側は、創価学会を諸悪の根元・仏敵としていると思いますが、その学会に対する打倒や撲滅の祈りもせず、座して放置しているとでもいいたいのでしょうか。

 すみませんが、御宗門および法華講は、創価学会を諸悪の根源や仏敵などと目してはいません。それはあなたの自意識過剰というものです。法華講は何も学会のみならず、あらゆる人たちを折伏していますので、学会さんを特別視することはありません。同じような異流儀に、顕正会や正信会などもありますし。先だっても浄土真宗の僧侶が正宗に改宗されるということがあり、その方は一信徒として修業に励まれています。

excommunicate様は、かなり学会の洗脳が進んでいらっしゃるので、論争だとか反証などを示しても、無意味だと感じております。sinifie様のご好意を頂いておりますが、以下の裁判についてのリンクを明示するに留めます。裁判結果は客観的事実ですので、excommunicate様は、ご自分の眼で確かめられてはいかがでしょうか。 ちなみに、以下のような正確な裁判結果は、学会内でしっかり知らされましたか? 聖教新聞は、学会が勝訴しようが敗訴しようが、事実をその都度報じていましたか? excommunicate様の回答をお願いしたいです。

御隠尊日顕上人に対する、学会の芸者写真捏造裁判
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E9%80%A0%E5%86%99%E7%9C%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

宗門と学会の裁判結果
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/souka_7.html

破門の経緯については、まず、昭和52年路線と呼ばれる、池田大作名誉会長や最高幹部による、本尊模刻事件などの数々の教義逸脱問題が根底にあります。その後、折に触れ猊下様からの御教導と御慈悲を賜りながらも、結局、改悛することなく、創価学会は破門という事態に至ったのです。正本堂については、法華講も御僧侶、寺族の方々もこぞって御供養申し上げたのです。いいですか。学会員だけで正本堂を建立したのではないですよ。そして、御隠尊日顕上人のご判断に、学会の方以外は、誰も疑義を差し挟んではいないのです。


●signifie(2013年8月11日 19:43)
木花さん、コメントありがとうございます。
とりあえず誤解は解けたということでよかったでしょうか?(^^)
教の勝劣については私はあっていいと思っています。それはソクラテスの対話の哲学においても基本ですし、古代インドの修行者の討論も勝つか負けるかの真剣勝負で互いの考えを磨いていたそうですから。
ただネット上では文字だけのやりとりですので、ちょっとした誤解がさらに誤解を生み、本来の趣旨から離れてしまうことがままありますから、論争ではなくあくまで対話という形式でやれればと思っています。
これからもよろしくお願いします。

とある法華講員さん、コメントありがとうございます。
excommunicateさんへ具体的な資料の提示をしていただきありがとうございます。
excommunicateさんもそう簡単には納得はしないでしょうが、ここでの対話によって何かしら今までとは違う空気を感じてもらえると嬉しいです。

ところで、ちょっと気になったのは、とある法華講員さんが紹介されている日蓮正宗の信徒さんのHPでは池田氏をふつうに「池田」と呼び捨てにしていますが、そこはよかったのでしょうか(^^)いや、私はべつにかまわないのですが…

●とある法華講員(2013年8月11日 21:42)
sinifie様

私のコメント掲載、またコメントをいただき有難うございます。

私は基本的に誰かを呼び捨てにすることは好きではありません。ですから、少なくともこのコメント欄ではやめてください、というお願いです。ここは、sinifie様のご案内のように、「対話の場」ですから。他のブログについては、もう仕方ありませんね(苦笑)。私がご紹介したリンクは、裁判結果が一番分かりやすいと判断したからです。理由はそれ以外にはありません。

裁判結果については、宗門側は、事実を信徒に公表しています。勝訴・敗訴関わらず、です。学会側はどうなんだろうな、と。学会員さんは、いつも連戦連勝のように仰るので、事実を知らされていないのでは? と疑問に思ってきました。


解説
法華講の木花さん、創価学会のexcommunicateさん、それに信仰を捨てたシニフィエさんの三者が三つ巴で議論をするので、分かりにくい内容になっています。

私としては、三者のうち、どれかが全面的に正しいとは思えないし、それぞれの言い分に賛同するところがあります。
ここまでの流れを見ると、シニフィエさんがどうしてここまで日蓮と芸術の関係にこだわるのか分からない部分はありますが、比較的冷静に議論を進めていると思いました。

獅子風蓮


対話ブログ・ステージⅡ:excommunicateさん登場(8)

2021-11-21 01:22:21 | 対話ブログ

■の文章は、シニフィエさんの対話ブログからの引用です。

●の文章は、それについたコメントの引用です。


■芸術と宗教(つづき)       投稿日: 2013年8月9日

たとえば、バチカンにあるシスティナ礼拝堂に描かれたミケランジェロの「最後の審判」と「天地創造」。私は実際にこの絵と出会って感動のあまり動けなくなりました。ずっとここにいたいと思いました。ご存知のようにこれらの壁画は聖書の物語をあらわしています。この絵から宗教的側面を取っ払って見ることが可能でしょうか。もし可能だとして、それにどんな意味があるのでしょう。それが文化といえるでしょうか。ミケランジェロの見事な造形力にだけ注目することが文化なのでしょうか。私はそうは思いません。この絵が聖書の物語だからこそ成り立つものだと思います。

同じくこれもバチカンにあるミケランジェロ25歳のときに彫られた「ピエタ」です。とはいえ観光客が見れるのはレプリカのようですが、それでもこれが聖母マリアと主イエス・キリストであることを無視してみることにどんな意味があるのでしょう。
ここにあるのはまぎれもなく宗教性です。ローマカトリックと聖書がなければ存在しなかった至高の芸術作品です。これらの作品の芸術性を認めるということは、ローマカトリックの宗教的意義をも含めて認めるということだと私は思います。人類が芸術作品に意識的に宗教性を排除するのは第一次大戦前後のヨーロッパに起きたダダイズムぐらいからの、いわゆる現代美術とよばれる運動から以降の作品です。わずか100年かそこらの話です。それまで人間は宗教とともに芸術作品をつくってきました。それを今になって芸術は文化だから宗教的側面とは切り離して鑑賞するなんておかしな話だと私は思います。
もし日蓮がバチカンに行ってミケランジェロの作品を見たとしたら、「これはすばらしい作品だ、外道だけど」って言うんでしょうか(笑)。
池田氏はローマ法王と対談する話があったと言ってましたけど、外道の総大将であるローマ法王と接見してどうするつもりだったんでしょう。折伏でもしたんでしょうか。「あなたはそんな信仰をしていると地獄に堕ちるよ。悪いことは言わないから謗法払いして、こんなものみんな焼き払いなさい」って(笑)。創価学会にとっては外道の指導者となるキング牧師やガンジーなのに、池田氏は彼らと肩を並べたかったのを考えれば、ローマ法王と会えるほどオレ様はエラいんだと会員に自慢して尊敬を集めたかったというのが実際のところだと私は思います。あさましいかぎりです。

人類最古の絵画と言われているラスコーの洞窟壁画は、狩猟祈願の祈りの絵として描かれたというのが一般的な学説です。1万5千年前の旧石器時代にクロマニヨン人によって描かれたものだそうです。おそらくこれ以前にももっと多くの「祈り」としての絵画が存在したのだと思います。絵を一度も描いたことのない人間が、突然このようなすばらしい絵を描けるわけがありません。しかしいずれにせよ絵画の発祥は「祈り」から始まったものであることに違いはありません。芸術はその原初から宗教的側面と切り離しては考えられないということがわかりますよね。
芸術が太古の昔からその土地の宗教に根ざしてつくられていきました。ネイティブ・アメリカン、アステカ文明、マヤ文明、オーストラリアのナバホ族、エジプトの他にもアフリカ各地の民族芸術、ギリシア、トルコ、地中海沿岸、メソポタミア、インド、中央アジア、東南アジア、中国、エスキモーなどなど、何千年もの昔から世界中の人々の暮らしの中になんらかの信仰とともに芸術がつくられていったのです。その芸術から一宗教の教義にそぐわないからという理由で宗教的側面を剥奪して芸術を鑑賞するということに、どんな意味があるのでしょう。
芸術と宗教とはそれだけ切っても切り離すことのできない表裏一体のものです。そのへんの美術館に行って絵を眺めて「きれいな絵だね」というような簡単な話ではありません。芸術が見るものに投げかけるものとは、人間の本質に迫る重要な問題であり、世界の有り様に関わるたいせつな哲学的命題であります。
創価学会の方も、日蓮正宗の方も、どうも芸術に関しては軽くとらえているような気がします。つまり芸術をなめてかかってるから、宗教色のある作品でも見たり聴いたりしますよなんて軽く言えるのではないでしょうか。
日蓮は自分が末法のご本仏であり、三大秘法以外を信じるものは救われないと明言しているのであるならば、ましてや外道の考えを賞賛する芸術を認めるわけがないのではないですか?それとも創価学会にしても日蓮正宗にしても、そのあたりはなんとなく現代の世情に合わせた懐柔策をとっているのでしょうか。


●木花(2013年8月10日 09:06)
おはようございます。
私がsignifieさんのブログで感じる事は、他宗信仰者を否定しているなぁということです。
鎌倉時代に念仏が広まり法華経への帰依が希薄になりました。
そのため日蓮大聖人は諸大善神は法味を得られず天上界へ去ってしまい、悪鬼が盛んに災難を起こしていると示され布教活動をされました。
日本国の安寧のために折伏されたのです。
迷っている無明の人を法華経に導くために布教活動されたのです。
ですから芸術を否定などしていません。
signifieさんはそう学会で教えられたから、そう思うのではないでしょうか。
それで他宗信仰者の芸術作品は否定しないといけないと頑なに思われているのでは?

>もし日蓮がバチカンに行ってミケランジェロの作品を見たとしたら、「これはすばらしい作品だ、外道だけど」って言うんでしょうか(笑)。
これは言い過ぎではないでしょうか。
signifieさんは日蓮大聖人のことよくわかっていて、このような発言をされたのでしょうか。
私はいつも学会員に対して思うのですが、どうしてよく知りもしないことをあたかもそれが事実であるように発言されるのか不思議です。
疑問を持ったならまず調べて、自分の頭で考えるべきで、それをされないのはなぜなのでしょう。
池田さんの指導が基礎としてあるからではないかと私は思うのですが・・・。

●signifie
2013年8月10日 09:50
木花さん、おはようございます。

>鎌倉時代に念仏が広まり法華経への帰依が希薄になりました。
>そのため日蓮大聖人は諸大善神は法味を得られず天上界へ去ってしまい、悪鬼が盛んに災難を起こしていると示され布教活動をされました。
>日本国の安寧のために折伏されたのです。

こうした断定的ないい方も、ことも普通の人間にしてみれば想像の範疇を超えないと思います。

何度も言いますが、人類の創りだした芸術のほとんどは宗教芸術であって、宗教と切り離して考えることは不可能だと私は言っているのです。宗教芸術はその宗教とともに否定することができないということを繰り返し言っているのですが、どうしてそれを

>それで他宗信仰者の芸術作品は否定しないといけないと頑なに思われているのでは?

というように解釈されるのですか?
たとえば上に示したようにミケランジェロのようなキリスト教の芸術はキリスト教自体と切り離してみることは無意味だと私は思います。
ですからキリスト教芸術を賞賛することはキリスト教も含めて認めるということであり、
創価学会や日蓮正宗の方であってもキリスト教芸術を賞賛するということはキリスト教を認めるということになるので、
他宗を排斥する(念仏を否定するような)日蓮の教義と整合性がとれないのではないでしょうかということを言っています。
「私は他宗信仰者の芸術作品を否定するべきではない」と繰り返しいっているつもりなのですが、
木花さんは、この私の考えをどうして全く逆の意味にとらえられるのでしょうか、そこが理解できません。

私としては創価の考えを批判するとともに、そうとうわかりやすく説明しているつもりなのですが、まったく逆の意味として捉えられてしまうのでどうしようもありません。
どなたか私の意図を木花さんへご説明していただけないでしょうか。

●木花(2013年8月10日 11:05)
ごめんなさい。
そうでした。創価の教えのお話されていたんですよね。
ですので、このコメントの前にした一行コメントは削除して下さい。

それにしても、創価の教えと日蓮正宗の教えが全然違うので、創価の教えのおかしさを法華講は答えようがないです。
「創価学会の方も、日蓮正宗の方も、どうも芸術に関しては軽くとらえているような気がします。」・・・残念なお言葉ではありますが、signifieさんそう感じていることに反対はいたしません。
日蓮大聖人はキリスト教の教えは間違っているとしていますが、キリスト教に限らず他宗の存在自体を否定はしていませんよ。
そこの解釈が違うようですね。

●signifie
2013年8月10日 16:51
(前略)

木花さんへ

>日蓮大聖人はキリスト教の教えは間違っているとしていますが、キリスト教に限らず他宗の存在自体を否定はしていませんよ。

日蓮は他宗の存在自体を否定してはいないとしましょう。つまり
「末法においては本仏であるこの私ただひとりが解釈する法華経以外では、もはや衆生は救われないのだよ。
かといって他宗の存在は否定しないけどね。でも同じ鎌倉時代に出てきた新興組の念仏を唱えると無間地獄に堕ちるし、
禅を修すれば頭割れるけどね。他のお寺にしたって一家離散したりでろくなことないし。
ま、存在自体は否定しないんだけどさ」
って言ってるわけでしょ。これって優劣のことを言ってるのではないでしょうか。
これも創価学会独特のご都合主義ニセ日蓮宗なのでしょうか。
私はまだ創価学会の詐欺にはまって動けないでいるのでしょうか。

>>もし日蓮がバチカンに行ってミケランジェロの作品を見たとしたら、「これはすばらしい作品だ、外道だけど」って言うんでしょうか(笑)。
>これは言い過ぎではないでしょうか。
>signifieさんは日蓮大聖人のことよくわかっていて、このような発言をされたのでしょうか。
>私はいつも学会員に対して思うのですが、どうしてよく知りもしないことをあたかもそれが事実であるように発言されるのか不思議です。
>疑問を持ったならまず調べて、自分の頭で考えるべきで、それをされないのはなぜなのでしょう。

私は創価学会から脱したので、それまで末法のご本仏だ人本尊だと思い込まされていましたので、日蓮のことを大聖人と読んでいましたが、今は数ある宗派の中のひとつの教祖として日蓮と呼んでいます。親鸞や道元や天台を呼び捨てにするのと同じです。それはソクラテスやプラトンやニーチェやハイデガーを呼び捨てにするのと同じことです。木花さんもソクラテスさんとは呼ばないでしょう。それと同じです。べつに馬鹿にしたり非難したりはしていません。ただ芸術に関しては普通に考えても整合性がとれないなあと思っているだけです。それとも日蓮を呼び捨てにして現代語で表現したら罰が当たりますか。これは単に話をよりわかりやすくするためです。日蓮氏というのも変ですよね。それに日蓮大聖人と呼ぶのは学会と正宗だけでしょう。日蓮宗のお坊さんも信者さんも日蓮上人だったと思いますが、ちがったらごめんなさい。前にも何度も言いましたが、私は日蓮正宗に関してさほど興味もないので、というか今となっては他の宗派と同じような位置にあるので、とくだん日蓮を差別する理由もありません。私の中では今のところ鎌倉仏教界のパンンクロッカー道元が一歩リードって感じでしょうか(笑)。日蓮も含めて他の教祖もみんな当時のアウトローだったわけですけどね。

●木花
2013年8月10日 18:12
sinifieさんへ
日蓮と呼んだことに対して言ったのではなく、「これはすばらしい作品だ、外道だけど」って言うんでしょうか(笑)。がちゃかしたように聞こえたことを言ったのです。
四箇格言を明確に解釈していないので上手く答えられないのですが、日蓮正宗で教えられている四箇格言と創価学会の四箇格言は違うようですね。
「末法においては本仏であるこの私ただひとりが解釈する法華経以外では、もはや衆生は救われないのだよ。
かといって他宗の存在は否定しないけどね。でも同じ鎌倉時代に出てきた新興組の念仏を唱えると無間地獄に堕ちるし、
禅を修すれば頭割れるけどね。他のお寺にしたって一家離散したりでろくなことないし。
ま、存在自体は否定しないんだけどさ」
こんな上から目線の言い方は日蓮正宗はしません。
創価学会独特のご都合主義ニセ日蓮宗だと思いますよ。
学会員は僧侶から御書や教義を学んでいませんよね。すべて学会員か池田さんに指導受けている。
それが正しくなかったということです。
私はsinifieさんの先入観を変えることはできません。
元学会員・学会員のみなさんは「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」と思っている。
それをとやかく言うつもりはありません。
日蓮正宗とは違いますね。それだけのことです。

●signifie
2013年8月10日 23:44
>元学会員・学会員のみなさんは「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」と思っている。

木花さん、それはちがう(^^)。
【私も含めて元学会員は「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」】と思っていても、
【学会員は「大聖人の教えと芸術の整合性は到底無い」とは絶対に思えない】のではないでしょうか。もしくは
【学会員は大聖人の教えに反する芸術は芸術として認められない】と思っているのではないでしょうか。
私も学会を信じていた頃は、その矛盾に苦しんでいたわけです。
あなたも元学会員なのに、元学会員と学会員の考え方の違いをなぜ理解されないのですか?

学会員は自分たちの考えが世界で一番正しいと思っているので、何が何でも大聖人の教えと芸術性は整合性がなければ困るわけです。芸術に限らず、すべてのことについて自分たちの信仰が完全無欠の法理だと信じていますから、理論的に来られると話をはぐらかしたり、遠い目になって聞こえないフリをします(笑)。
ですから私はあえて誰でもわかりやすいような【創価学会の考え方の矛盾点】を明らかにするためのとっかかりとして、芸術の話をしました。なにも日蓮正宗の矛盾点を言及したいわけではありません。日蓮正宗の方が芸術をどのように見ようとも、ここではさほど問題にしていません。ついでの話で「この点は日蓮正宗ではどうなんでしょうね」といった程度にとどめています。それは江戸時代や明治期はどうなのか知りませんが、ともかく日蓮正宗が700年続いているれっきとした宗教であり、学会のような宗教を隠れ蓑にした社会悪ではないからです。
ここで芸術と宗教をテーマにしているのは、創価学会のあきらかな反社会的な考え方を明確にするための題材のひとつに過ぎません。あくまで創価学会の矛盾をはっきりさせるためのとっかかりです。このテーマが出たはじめのところを見てもらえばわかると思いますが、仮に創価学会がその目的である広宣流布を達成した時に、世界の宗教を基盤とした膨大な芸術作品はどのような扱いをうけるのでしょうか?という問いかけでした。日蓮正宗のことはよくわかりませんが、【創価学会での五重相対や四箇格言】に照らせば、それらミケランジェロから日本の仏像にいたるまでの多くの芸術作品は謗法であることになってしまうのではないかということを書きました。あくまで【創価学会の五重相対や四箇格言を正しいとするならばという仮定】の上での話です。それを木花さんは私の考えであるかのように思い込まれているのではないでしょうか。ですからさきの日蓮の現代語表現は創価学会が考える日蓮の言葉として表現したので【上から目線】であり【ちゃかした表現】なのです。
木花さん、毎回書きますが私は日蓮正宗をなんとも思っていません。ここで問題にしているのは最初から創価学会の社会悪についてです。木花さんも「ちょっと気が抜けちゃいました」って言ってたではないですか。木花さんを批判する気はさらさらありませんので誤解なさらないでください。先日ここにコピペをくりかえしていた今も活動家。さんを出入り禁止にしたのは、このままでは日蓮正宗の印象が悪くなるばかりで、本題から話がそれて混乱すると判断したからです。私はむしろ宗教としての日蓮正宗を擁護しているつもりですけど(^^)

木花さん、どうでしょう?ここまで説明しても私が創価学会の教義を信じて日蓮正宗を攻撃しているように思われますか?私が創価学会の教義に縛られて苦しんでいると思われますか?木花さんが最初にここにコメントしてくださったときに、すぐに木花さんのブログを読ませていただきました。
http://ameblo.jp/yo-akemae24/
ここで話されているキャラとはずいぶんとちがって、かなり過激に創価学会を批判されていますよね。ほんとに同一人物なのかなと疑うくらいでした。そして日蓮正宗についてはほとんど出てこない。私はすこし「あれ?」と思っていました。日蓮正宗は学会と闘ったりしませんといったことを最初に言われていたわりにはかなりの学会バッシングを展開されているので、ちょっとびっくりでした。いいですけどね(^^)

それから宗教の優劣についてですが、木花さんはこのように仰っていました。

>日蓮大聖人は他宗では救われないと仰ってはいますが、劣っていると教えてはいないです。
>大聖人は衆生の救済のために立宗されたのですから、劣っているという解釈は間違っているかと・・・。

木花さんに日蓮正宗について語るのは、それこそ釈迦に説法なので恐縮ですが(笑)、日蓮正宗はたしか大正元年に改名して「日蓮正宗」になったと思います。それまでは日蓮宗富士派として、いわゆる【勝劣五派】のひとつだったと思います。その【勝劣五派】という名称の由来は「(法華経)本門が迹門に優れるという勝劣をたてる諸派の総称」から来ていて、つまり日蓮正宗は宗教に優劣を断ずる五重相対に照らして法華経本門を本流としたわけですよね。【勝劣五派】という文字通り日蓮正宗の成り立ちが法華経に至るまでの宗教の優劣を断じた結果だったのではないでしょうか。
さらに木花さんはこうも仰っています。

>法華経以外は劣っていると教えているのは創価学会・池田さんの指導ですよね。

これでは日蓮正宗の教義と創価学会・池田さんの指導は同じということになりはしませんか?木花さん、本気でそう思っていらっしゃるのであれば、もう一度正宗の僧侶の方に五重相対と四箇格言の解釈について確かめられたらいががですか。世界中に仏教の宗派は数えきれないほどありますが、日蓮を本仏とする宗派は日蓮正宗と創価学会のみで、したがって日蓮を本仏とする広宣流布を謳っているのも日蓮正宗と創価学会だけです。でも私は創価学会と日蓮正宗はまったく違うと思っています。それは何度も言っているように、途中でなんだかんだと分裂統合はありはしたものの、それでも大石寺700年の歴史をもつ宗教であり、一方は戦後のどさくさと高度経済成長時に都会に放り出され精神的に阻害された人々の心をあやつり縛り上げ暴利をむさぼるだけの社会悪ということがわかったからです。
日蓮正宗は堂々と本門の本流を勝劣で主張しています。私はそれはそれで立派だと思いますよ。他の日蓮宗派が戦時中の大政翼賛会に無理矢理合同させられたときでも、日蓮本仏論を主張する正宗だけは断固独立を貫いたんですから。でもそのこともあえて書きませんでした。それは私にとって日蓮正宗がどのような教義であってもさほど関心がないからです。日蓮本仏論を唱える宗派としては他にない超マイノリティ宗教ですが、日蓮が末法のご本仏であっても、あるいは正宗以外のすべての日蓮宗のように釈迦を本仏としたとしても、私にとってはたいしたことではないからです。ただ木花さんがことごとく私の言ってることと真逆の捉え方をされるので、ここはひとつぐらい話の矛盾を説明しとかないとなと思った次第です(^▽^)
私は日蓮正宗を批判するどころか、かなり持ち上げていると思います。それをどうして日蓮正宗の信者さんである木花さんからことごとく誤解されて「創価の教義に縛られて苦しんでいるようで気の毒だ」と言われるのかわかりません。私が苦しんでいるのは創価から抜け出て初めてこれまでの自分の間違いに気づいたからです。私ははっきりと創価学会の呪縛から覚醒しています。そして私の人生経験上、芸術はいかなる場合でも宗教によって左右されてはならないと思っています。逆に言えば芸術をどんなかたちであれ抑制するような教義の宗教であるならば、それは低俗な宗教であると思います。しかし創価学会はそんな宗教云々の次元ではない。もともと非常に悪質なネットワークビジネスであり精神のねずみ講だと位置づけていますから、教義がどうのこうのと議論する意味さえないと思います。創価学会員さんにはそのことに一人でも多く、一刻もはやく気づいてほしいと思っています。

 


解説
私は、木花さんの言われているように「日蓮正宗はあらゆる芸術を敵視していない」と信じたいです。
しかし、日蓮正宗の教義を原理的にとらえると、キリスト教の宗教性をもった芸術に理解のない面もあると思うのです。
そのいい例が、ベートーヴェンの第9の合唱を批判したことですね。
木花さんは、正宗の立場を批判できないから、シニフィエさんの正論に正面から反論できないような気がしました。
他宗との融和という点では日蓮正宗よりも創価学会の方が、一歩先んじているのが現状だと思います。
正宗内でも、他宗との融和や宗教性を持った芸術を認めることなどについて、風通しのよい議論が交わされてもいい時期なのではないか、と個人的には思います。
でも、宗門批判など許されない立場の木花さんとしては、ここでの対話は、きついですよね。
心中、お察しします。

獅子風蓮