獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

佐藤優『国家の罠』その3

2025-01-07 01:31:03 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
■第1章 逮捕前夜
 □打診
 ■検察の描く「疑惑」の構図
 □「盟友関係」
 □張り込み記者との酒盛り
 □逮捕の日
 □黒い「朱肉」
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


第1章 逮捕前夜

検察の描く「疑惑」の構図

この電話の後、給湯室でインスタントコーヒーをいれて考えた。
挑発はこれで十分だ。大菅首席からどのような反応があるだろうか。斎木昭隆(さいきあきたか)人事課長から説得があるとすれば、おそらく、外務省と検察庁の間でまだ折衝が行われているのだろう。何の反応もなければ……。そのときは逮捕が既定方針になっていると見た方がよい。
結局、その後、人事課からは何の連絡もなかった。
この時点で私がその後の展開に関して、何か明確な見通しをもっていたわけではない。情報は断片的だったし、何しろ、検察という組織のポリシーやそれに基づく取り調べ、立件などに関してこの時はまだ私自身よく分かってはいなかったのだ。
今振り返ってみると、東京地方検察庁特捜部は、この時点ではすでに国際機関である「支援委員会」絡みの背任容疑で私を逮捕し、そこから鈴木宗男氏につなげる事件を“作る”という絵図を描いていたに違いない。
多くの読者は「支援委員会」などといわれても、ピンと来ないに違いない。この支援委員会という組織について簡単に説明しておくことにする。

1991年12月にソ連は崩壊し、旧ソ連邦構成共和国は全て独立した。これら諸国 にとって社会主義的計画経済から市場経済に向けての構造転換が最重要の課題になった。支援委員会は、バルト三国を除く旧ソ連邦構成共和国(独立国家共同体 [CIS] 加盟諸国)12カ国の改革を支援するために93年1月に作られた国際機関である。そして、同委員会は2003年4月18日に廃止されたのだった。
通常、国際機関は各国から拠出金を募り、国際機関が独自の判断で事業を決定するが、支援委員会に関しては、資金を供与するのは日本政府だけで、しかも日本政府が決定した事業を支援委員会が執行するというきわめて変則的な国際機関だった。モスクワの日本大使と外務省のロシア支援室長が日本政府代表だが、その他諸国政府の代表は空席であるという状態が続いていた。
支援委員会の活動で特筆すべきは、北方領土関連の業務である。北方四島は日本領なので、厳密に言えばロシアに対する支援ではないが、四島住民への人道支援も支援委員会の重要な任務のひとつとなっていた。

それでは、この支援委員会の活動の何を検察は問題視してきたのだろうか。
彼らが目をつけたのは、外務省が改革促進事業の一環として、2000年1月にロシ ア問題の国際的権威であるゴロデツキー・テルアビブ大学教授夫妻を訪日招待したことを端緒とした有識者の国際的な学術交流だった。更に同年4月には、テルアビブ大学主催国際学会「東と西の間のロシア」に日本の学者等7名と外務省職員6名を派遣した。これら二つの事業が支援委員会設置協定に違反し、総計3300万円の損害を支援委員会に与えたので、この事業で主導的役割を果たした私を背任罪として刑事責任を追及するというのが検察の論理だった。

大菅首席の言動から判断すると私の持ち時間は少ない。
東郷和彦元大使にも危険が迫っている。奥さんに連絡しておかなければならないと考えた。私は、携帯電話で東郷夫人に連絡をとった。
私は東郷夫人に大菅首席との電話のやりとりを説明し、東郷氏にも危険が迫っているとの見立てを話した。電話の向こうの東郷夫人はかなり動揺しているようだった。私が「東郷大使とは連絡をとられましたか」と尋ねると、夫人は「さっきも電話で話をしたわ。主人はちょっと神経がまいっちゃっているの。私を怒鳴りつけたりするの」と哀しそうに言って、こう続けた。
「主人がきのう(02年5月12日)、電話で竹内(行夫)事務次官と話をしたの。主人が『テルアビブ国際学会への学者派遣について支援委員会設置協定解釈上何の問題もないから、そこははっきりさせてくれ』と言ったら、竹内さんも『外務省もテルアビブ国際学会の件は何の問題もないという立場だ』と断言したのよ。それで、主人が『それを次官の記者会見ではっきり言ってくれ』と言ったら、竹内さんは『そうする』と約束したのよ。だから、佐藤さんも心配しなくていいと思うわ」
この見通しは「甘い」と私は感じた。事態はもっとずっと深刻だった。
「奥様、しかし、これまでに竹内さんはそのような記者会見をしていませんよ。今日発売の『週刊現代』に私が逮捕されるとの前触れ記事も出ています。ラスプーチンつまり私と前島君(前島陽元ロシア支援室総務班長・課長補佐)がテルアビブ国際学会への資金不正支出を巡って背任容疑で逮捕されるとの記事で、検察の目的はこれを東郷さん、鈴木さんにつなげていくというストーリーですが、この記事は検察の思惑を正確に反映していると思います。
僕は入口で、敵のターゲットは東郷さんと鈴木さんなので、とにかく用心することです。東郷さんにこの事件のケリがつかないうちは日本に帰ってきてはならないという私の見立てを伝えてください」
夫人の声が震えてくる。
「逮捕だなんて。そんなおかしな話、ないじゃありませんか。私は東郷が日本に戻ってほんとうのことを話せば検察の人たちもわかってくれると思うのだけど、佐藤さんの言うとおりかもしれない。主人にはきちんと伝えます」
「これは政治事件なので、検察はどんな無理でもします。メディアがこのような状況では、東郷さんがいくらほんとうのことを言っても誰も受け入れないでしょう。国際捜査に踏み切るハラはないでしょうから、海外にいれば安全です。当分の間、日本に戻ってはなりません」と私は強調して電話を切った。

 


解説

東郷和彦元大使にも危険が迫っている。奥さんに連絡しておかなければならないと考えた。私は、携帯電話で東郷夫人に連絡をとった。
私は東郷夫人に大菅首席との電話のやりとりを説明し、東郷氏にも危険が迫っているとの見立てを話した。電話の向こうの東郷夫人はかなり動揺しているようだった。(中略)「……僕は入口で、敵のターゲットは東郷さんと鈴木さんなので、とにかく用心することです。東郷さんにこの事件のケリがつかないうちは日本に帰ってきてはならないという私の見立てを伝えてください」

ここは重要な箇所です。東郷和彦元大使にも逮捕の危険が迫っていると案じて、佐藤氏はこの上司の奥さんに電話をしたのです。東郷さんは、佐藤氏の進言を容れて、帰国しなかったという見方ができます。

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その2

2025-01-06 01:21:53 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
■第1章 逮捕前夜
 ■打診
 □検察の描く「疑惑」の構図
 □「盟友関係」
 □張り込み記者との酒盛り
 □逮捕の日
 □黒い「朱肉」
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


第1章 逮捕前夜

打診

2002年5月13日、月曜日、午前10時過ぎ。東京・港区麻布台にある外交史料館で机に向かって、いつものように書類に目を通していると、電話が鳴った。
受話器を取ると交換手から少しかん高い声で「本省人事課からです」と告げられた。
私は事務的に「つないでください」と応える。
電話の相手は大菅岳史(おおすがたけし)首席事務官だった。外務省では、課長の次のポストを首席事務官という。
「大菅だけど、実は、検察庁が君から話を聞きたいと言っているんだけれど行ってもらえな~い」
えらく話し方がなれなれしい。私は専門職(ノンキャリア)、大菅首席は上級職(キ ャリア)で職種は異なるが同期入省なので面識はある。だが、私はロシア語、大菅首席はフランス語専攻で、これまで親しく話したことはほとんどない。
後で詳しく述べるが、外務省では、語学別に「スクール」というグループがあり、「スクール」を異にすると親しくなる機会はなかなかない。親しくもない人間がなれなれしく話しかけてくるときには何か意図がある。私はできるだけ素っ気なく対応することにした。
「いったい何の件でしょうか」と私が冷ややかに応えると、大菅首席はこう言った。
「実は、君以外にも何人もの人が行っているんで、協力して欲しいんだけれど、検察庁が支援委員会関係のことで何か聞きたいことがあるんだってさ。東郷さん(東郷和彦元オランダ大使)も検察庁に行っているんだ」
この話はおかしい。東郷元大使が現在日本にいないことを私は知っている。大菅首席 はなぜ嘘までついて、私を検察庁に行かせようとしているのだろうか。
私は、「それは任意の話なの、それとも強制なの」と少し挑発的に尋ねた。
「任意だよ」
「任意ならば断る。『検察庁が何か聞きたいことがある』だと。とぼけるのもいいかげんにしろ。こっちは連日新聞記者に囲まれて集団登校状態になっているんだ。テルアビブ国際学会の話だろう。話を作り上げて最後に形だけ聞いて捕まえるという絵は見えている」
大菅首席は弱々しい声で懇願してきた。
「そんなことないよ。この件はまだ煮詰まっていないと思うよ。松尾さん(松尾克俊外務省元要人外国訪問支援室長、内閣官房報償費 [機密費] 詐欺事件で服役中)のときだって、何週間も事情聴取をしてから事件化した。あのときと較べてもこの話はまだ端緒段階だと思うよ。だから協力してやってくれないか。協力してくれないならば職務命令を出すことを考えなくてはならなくなるんで、そうなると貴兄のためにならないよ」
「じゃあ聞くけど、任意の話をどうして命令で強制できるんだい」
大菅首席は暫く沈黙し、私の質問には答えず、「それじゃ、検察の連絡先の電話番号を言うからそこに電話して」と言った。
「電話するつもりはない」
私がそうはっきり答えると、大菅首席の声色が恫喝調に変わった。
「検察庁に行った方が貴兄のためだぞ」
「僕のことを心配してくれてありがとう。自分の身の安全は自分で考える。君は君で職務命令を出したらいいじゃないか。拒否してやるから。僕に懲戒免職をかける腹があるかな、君には?」
今度は大菅首席の声は懇願調に変わる。
「そんなこと言わないでよぉ。お願いだから、あなたの携帯電話の番号を教えてよ。いつでも連絡がとれるように」
「僕の携帯電話は役所から支給されたモノじゃないからな。悪いけど教えられない。公私の区別を厳しくしろとの人事課からのお達しもあるからね」
「どうしたら連絡がつくかい」
「勤務時間中は外交史料館にいるぜ。夜は家にいるさ。ただし、最近は脅迫電話が多いので知らない人からの電話には出ないことも多いけどね。話はそれだけかい。こっちも仕事があるから電話を切らせてもらうぜ」

 


解説

私は別のところ(獅子風蓮の夏空ブログ)で、マンガ「憂国のラスプーチン」の記事を連載しています。

マンガなので、イメージをつかみやすいという利点はありますが、登場人物は仮名で、何かを検証するときの資料としては弱いところがあります。

その意味で、佐藤氏を知るための基礎資料として、マンガの原作である本書を読むことは意味があることだと考えます。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その1

2025-01-05 01:02:26 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
■序 章 「わが家」にて
□第1章 逮捕前夜
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。


序章「わが家」にて

拘置所グルメ案内

「日朝首脳会談」の報

役に立った「宗教」と「神学」

「ゴルバチョフ生存情報」

イリイン氏の寂しい死

(以上、省略)

法廷という「劇場」

独房のラジオからは日朝首脳会談に関するニュースが引き続き流れている。これから数日間はこのニュースでもちきりだろう。北朝鮮の牢獄に捕らえられている政治犯はどのような生活をこの瞬間に送っているのだろうかとふと考える。
それから、イリイン氏を偲びながら、私は自分自身に「人間はまず内側から崩れる。決して自暴自棄になってはいけない。常に冷静さを失わないことだ。この独房が人生の終着駅ではない。最も重要なのは自分との闘いだ」と言い聞かせた。

今日、法廷で、久しぶりに前島陽(まえじまあきら)外務省元ロシア支援室総務班長、飯野政秀(いいのまさひで)三井物産第四部長の顔を見た。三井物産の島嵜雄介(しまざきゆうすけ)氏の名前と顔が今回はじめて一致した。前島氏、飯野氏はスーツにネクタイを着用していたが、勾留中の島嵜氏はセーターにサンダル、そして手錠に捕縄姿だった。
私も手錠に捕縄だが、それに加え、囚人服にそっくりの作業服を着ていた。裁判所、検察に対する「あんたたちは私を刑務所に追い込み、こういう姿にしたいんだろう」という無言のアピールである。私の「囚人服」姿のパステル画が新聞やテレビで報じられたので、それを見たロシア人やイスラエル人たちから「佐藤さんは未決囚なのに強制労働をさせられているのかと思った」との感想が後から伝わってきた。アピール効果は十分あった。
前島、飯野、島嵜の三氏はいずれもひどくやつれていた。特に前島氏は首筋に吹き出物がたくさん出ており、痛々しかった。検察官がわれわれの犯罪を弾劾する冒頭陳述書を読み上げる。検察のあまりできのよくないストーリーを三人ともときおり目をつぶったり、下をうつむいたりして神妙に聞いている。ただひとり私だけが元気で、裁判官や検察官の様子を観察したり、傍聴席に誰が来ているかと確認している。
いまここで突然私が立ち上がり、「茶番だ!」と大きな声で叫んだら、どうなるだろうか。きっと退廷させられるだろう。
極東軍事裁判において、脳梅毒で免訴になった大川周明被告は、初公判にパジャマに下駄履きで出廷し、起訴状朗読中に鼻水をたらしながら合掌し、東条英機元首相の禿頭を平手で叩き、ウエッブ裁判長が休廷を宣告すると「一場のコメディーだ。みんな引き上げろ」と叫んだという。私も隣の拘置所職員の帽子をとりあげ、奇声を発してみようか。こんなことを考えていると思わず笑いが込み上げてきた。ここは「劇場」以外の何物でもない――。

午後9時になり消灯のチャイムが鳴る。就寝の音楽がかかると囚人は大急ぎで小机を部屋の隅に移動し、布団を敷く。寝床に入ってから私は「なぜ私は逮捕され、ここに閉じこめられ、手錠・捕縄姿で裁判所に引き立てられるようなことになってしまったのか」と自問する。今晩もなかなか寝付けそうにない。


解説
いまここで突然私が立ち上がり、「茶番だ!」と大きな声で叫んだら、どうなるだろうか。きっと退廷させられるだろう。
極東軍事裁判において、脳梅毒で免訴になった大川周明被告は、初公判にパジャマに下駄履きで出廷し、起訴状朗読中に鼻水をたらしながら合掌し、東条英機元首相の禿頭を平手で叩き、ウエッブ裁判長が休廷を宣告すると「一場のコメディーだ。みんな引き上げろ」と叫んだという。私も隣の拘置所職員の帽子をとりあげ、奇声を発してみようか。こんなことを考えていると思わず笑いが込み上げてきた。ここは「劇場」以外の何物でもない――。

このように、佐藤氏は極東軍事裁判における大川周明の言動に自分の姿を重ね合わせ、共感しています。
このような体験から、佐藤氏は保釈後大川周明のことを調べ、『日米開戦の真実』を書きました。

獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その43)白幡ミヨシさんの語る「遠野の民話」

2025-01-04 01:49:56 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt69 - 偶然ってあるんですよ。 遠野での物語り

2019年5月20日 投稿
友岡雅弥

学部生のとき、大学院に進んで、哲学科行くか、民俗学の民話研究行くか、最後まで悩んでいました。昔話ならこの人という、稲田浩二、小澤俊夫両氏による『日本昔話通観』を全巻持ってました。

一冊、500ページ前後で、各都道府県一冊づつの、壮観な「通観」でしたね。経済的には、痛感でしたが。


昔話というとステークホルダーは、研究者、そして、話を採集する、採話者、そして何せ大事なのが、「語り部」「むかすかたり」です。もちろん、聴き手も。


採話者としては、稲田浩二、小澤俊夫、それに、松谷みよ子、瀬川拓男、関敬吾などが有名です。たいてい、これらの人たちは研究者でもあります。


柳田国男の「遠野物語」を強く記憶されているかたもいるかと思います。でも、あの話を採話したのは、柳田国男ではありません。遠野在住の昔話研究者・佐々木喜善さんです。


これらの採話者に並んで、大友儀助さんという、山形の採話者も、僕は大好きでした。


この大友儀助さんは、山形の新庄で、多くの素晴らしい「むかすかたり」を発見します。

そして、名著『新庄のむかしばなし』を発表します。「西部警察」でも、名バイプレーヤだった庄司永健さんが、故郷の酒田・新庄弁で、この本のなかのいくつかの昔話を語ったのが、かつてNHK-FMの「朗読の時間」で、10回にわたって放送されていました。

このなかに、「工面師徳兵衛」という昔話があったのですが、これが上方落語の「算段の平兵衛」とよく似ているんですよ。

「工面」は、工夫してなんとかするという意味ですね。「算段」も同じ。ストーリーもよく似ている。

酒田と大坂は、米を運ぶ廻船で結ばれていましたから、どちらかから、どちらかへ、 伝わったんでしょうね。


桂米朝師に、資料とともに、庄司永健さんの語る「算段の平兵衛」の音源データをお渡ししたこともありました。


大友儀助さんの事跡を見たいと思って、新庄を訪れたこともあります。


さてさて、東日本大震災の時、遠野を一つの拠点としていました。

それは、遠野が、気仙沼・陸前高田・山田町・釜石・大槌などに、だいたい等距離だからです。

釜石線とか、釜石線&三陸鉄道とか、また国際NGOの車に同乗させていただいたり。

実際、いろんな支援団体が、拠点を遠野に置いていて、そことの連携も、遠野ならばしやすいのです。


「遠野」ですよ。佐々木喜善さんの生家もあります。

実際は、佐々木喜善さんではあるものの、やはり柳田国男の「遠野物語」の影響は大きく、遠野は「民話の町」として、民話にちなんだ場所や、語り部さんが語る民話が聴ける場所もあるんです。あちこちにね。


そのころ、僕が、是非、一度でも会いたいと思ってた民話の語り手さんは、白幡ミヨシさん。

遠野の人でした。

それで、夕方に、ある国際NGOの事務所に行く予定だったある日(2013年秋です)に、遠野の一番有名な民話の語り場所にお邪魔したの です。


まあ、白幡ミヨシさんは、正直亡くなってると思ってたんですよ。

1910年(明治43年)の生まれですから。生きていらっしゃったら百歳を越えてますよね。


それで、まあ、誰だろうと思って、古民家の囲炉裏端で、語り手の登場を待っていたのですよ。


するとすると、

出てこられたのが、白幡ミヨシさんの娘さんの菊池タマ(玉)さんでした!!!!!!


偶然の奇跡。

なんと、ミヨシさんは、また生きていらっしゃって、まだ、お元気で民話は語れるんだけど、足が不自由だから、長いことすわれね、でも、喜んではー、デー・サービスを行っでる、との話でした。


こんなことあるんだと驚きました。


それで、あまりにも、僕がうれしい顔しているので、タマさんは、いつもは、二つの民話の語りのところが、サービスで、たくさん語ってくれました。

「願い続けると叶う」みたいな、浅薄な自己啓発セミナーっぽい話ではなく、偶然の奇跡があるから、人生やめらんね(山形弁で)。

 

 


解説
僕が、是非、一度でも会いたいと思ってた民話の語り手さんは、白幡ミヨシさん。
遠野の人でした。

白幡ミヨシさんの語る「遠野の民話」。
私も聞いてみたいです。

  *    *

ちなみに、Salt70~81 は欠です。
何が書いてあったのでしょう。
気になります。

Salt82~89 は友岡さんの講演の録音です。
すでに、この連載で取り上げています。

Salt82 -【友岡講演2 1/8】 袈裟   ~

Salt89 -【友岡講演2 8/8】 自分で自分の道を切り拓く人に

私的には、Salt89 -【友岡講演2 8/8】の中に出てくるおばあちゃんと友岡さんのお母さんが素敵でした。

自分で自分の道を切り拓いていく人のことを仏というんです。
神様じゃない。

という言葉が印象的です。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その42)友岡さんの遺言

2025-01-03 01:07:30 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。

 


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。


Salt66 - 延々と続く 「日常」

2019年4月29日 投稿
友岡雅弥

震災直後は、その被害の大きさからぼう然として、何もできない。また、大事な人が行方不明、また亡くしてしまった。その「放心」と「悲哀」のショックの期間が続きます。もちろん、大事な人を亡くしてしまった悲哀は、ある意味、一生消えるものではないでしょう。


しかし、しばらくすると、レヴェッカ・ソルニット(3時間ほど、話をしたことがあります)の言う「災害ユートピア」の時間が来ることも、頻繁です。(何度も言いますが、大事な人を亡くしてしまったら、話が 異なります)


水もなにもない、電気もガスもない、ガレキばかりの町。

しかし、ガレキが片づけられ、電気が来る。

避難所の体制が出来てくる。とりあえず、食べ物と水は毎日ある。もちろん冷たかったり、メニューがいつも同じだったりはします。


やがて、仮設住宅が出来てくる。そこへの入居が始まる。

もちろん、日本の仮設住宅は、全プレ協と自治体の提供する工事現場用のプレハブがほとんどです。福島のいわきの、エコ・ヴィレッジさんたちがやってる木造の屋根付きの仮設住宅や、世界的建築家の坂茂さんの、鉄道コンテナを利用した女川の三階建て仮設のような、安価でなおかつ居住性が高いものは、まだまだ広がっていません。


だから、とても狭かったり、となりの物音が聞こえたり、日本全国同じ仕様なので、寒冷地では結露を生じたりして、暮らしにくいことこの上ない。

でも、まあ、避難所よりは、少しはましです。

そして、仮設の生活が数年続き、団地式の復興住宅が出来てくる。


さあ、「復興完成」!とはなりません。

なぜならば、ここから、「家賃」を払わねばなりません。

被災地に、もともと建っていた家は、だいたいがとても大きい。そして、たいてい自分の家だった。それが、「津波浸水地域」となり、そこには、家を建てられない。

だから、別のところに、新しい土地を買って建てるか、一軒家を捨てて、団地式の復興住宅に住むか。


さあ、これからが問題です。

私の手元には、高齢者や障がい者の生活支援を長年やって来られたCLC(全国コミュニティ・ライフサポートセンター [http://www.clc-
japan.com](http://www.clc-japan.xn--com-n73bzb2tkc))さんの仙台の事務所に行ったとき、「今後の参考に」といただいた、段ボールいっぱいの資料があります。


もちろん、震災だけではないのですが、震災に関しては、避難所のフェーズ、仮設住宅のフェーズ、復興住宅のフェーズなど、各フェーズごとに、詳細な資料を、CLCさんはつくっていらっしゃいます。

それだけ、各フェーズで違うのです。支援すべきこと、支援において、気をつけねばならないことがね。


たくさんあるのですが、一点だけ、今回あげます。

それは、避難所ぐらいのフェーズまでは、毎日、具体的に変化があるんです。

ガレキが、とりあえず道の部分だけ、啓開されたとか、初めておにぎりを食べたとか、水道が通ったとか、トイレが出来るようになったとか。

具体的変化が見える分だけ、復旧の実感がある。

でも、ある程度、復旧してくると、具体的変化がなかなか見えない。

逆に、ああ、あの一階が津波にやられた建物が、取り壊されたとかいう、以前のものがなくなっていく、という形がもっぱらになるのです。


変化のない日常、そこに「以前あったものがなくなっている」という空虚感。特に、親しい人を亡くしたり、家をなくしたり。喪失感と直面せざるをえないのです。


最近、ふと気づいたことがあります。

去年の夏に、意識不明の重体となり、4週間の入院生活を送って退院してきたのですが、それから家に戻って、まあ言えば、24時間自分の時間が、目の前にポンと置かれる。

自分で何かを計画しないかぎり、同じような毎日が過ぎていくだけ。

しかも、気力も体力も、リカバーのための、プログラムを自分で立てて、それをこつこつやっていかねば、どんどん失っていく。


延々と続く日常と喪失感との「対面」。

比較にはならないけれど、自分がまあ、当事者の気持ちの万分の一でも感じることができたんだなぁ、こんな気持ちでみなさん、いらっしゃったのか、と気づいたわけです。

 

この経験は、ありがたかったです。

 


解説
最近気が付いたのですが、友岡さんが死亡したのは2019年4月2日ですから、ここ数回の投稿は生前に友岡さんが書き溜めていたものということになるのでしょうか。
そう思うと、これらの記事は、友岡さんの遺言ともいうべきものかもしれません。


去年の夏に、意識不明の重体となり、4週間の入院生活を送って退院してきたのですが、それから家に戻って、まあ言えば、24時間自分の時間が、目の前にポンと置かれる。
自分で何かを計画しないかぎり、同じような毎日が過ぎていくだけ。
しかも、気力も体力も、リカバーのための、プログラムを自分で立てて、それをこつこつやっていかねば、どんどん失っていく。

これはおそらく創価学会執行部から受けた査問が精神的トラウマとなって起きた病態と思われます。


延々と続く日常と喪失感との「対面」。
比較にはならないけれど、自分がまあ、当事者の気持ちの万分の一でも感じることができたんだなぁ、こんな気持ちでみなさん、いらっしゃったのか、と気づいたわけです。
この経験は、ありがたかったです。

この言葉には涙が出ます。
それとともに査問をした創価学会執行部の責任を問いたい気持ちがぬぐえません。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮