獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

友岡雅弥さんの「異者の旗」その1)法華経の行者の系譜

2025-01-12 01:42:19 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」より

いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: WAVE MY FREAK FLAG HIGH

ギターの歴史を変えたジミ・ヘンドリクス作曲の“If 6 was 9”の歌詞の中に出てくる言葉をヒントにしています。
(中略)
この曲は、そういう「違う生き方」を象徴する曲とされています。「異者の旗を振ろう」という意味ですね。
このタイトルのもとで、繁栄のなかの息苦しさを突破する「違う生き方」の可能性、また3.11以降の社会のありようを考える哲学的、宗教的なエセーを綴ろうと思っています。


freak1 - 「顕仏未来記」の「三国四師」について

2018年2月1日投稿
友岡雅弥


「顕仏未来記」には、インドの釈尊、中国の天台、そして日本の伝教、また日蓮大聖人の四人が、『法華経』を弘通した人として挙げられ、「三国四師」と名づけられています。

ここで、当時の時代背景を考えてみましょう。この時代は、念仏宗の隆盛とともに、諸宗の「密教化」も進みます。つまり、特別な呪法や、祈祷を行う流れが仏教に広がっていきます。
本来、釈尊のころは、祈祷や呪法を行わないのが仏教でした。なぜならば、仏教とは、仏=ブッダ=サンスクリットで 「目覚めた人」になる教えだからです。

そのため、超能力や加持祈祷は、仏教徒は用いてはならなかったのです。
しかし、ゴータマ・ブッダが亡くなって、1000年以上経つと、ヒンズー教に影響され、仏教も呪文や祈祷を行うようになります。これが密教です。

密教の考え方では、人間離れした特別な力を持つ存在が崇拝されます。それで、その特別な力が、だれだれからだれだれに秘密に伝えられたと、「血脈」というものが喧伝され、自分はだれだれから第何代目の法主である、などという血脈相承の系譜がもてはやされるわけです。

三国四師をごらんください。時間的に、それぞれ何百年も隔たっています。直接、それぞれは、会ったこともありませんし、当然、秘密の相承など受けたこともありません。

時間の隔たりを越えて、何が相承されるのか、継承されるのか――それは、『法華経』の思想です。『法華経』の思想内容を自分のものとした人の系譜が、三国四師なのです。

ある意味、それは「創造」と言えるかもしれません。
ただし、「創造」には、「恣意性」「独善」という危険がいつもつきまといます。
「自分勝手な解釈」、「自己流の思いつき」「自己中心的な満足」なのかもしれません。

そこで、「恣意性」は、どのようにして避けることが出来るのか?いかにして、「自己中心性」を乗り越えて、謙虚になれるのか?

それは「他者性」に外なりません。他者のための具体的行為、社会で差別されている人たちの側に身を置くこと。

日蓮大聖人が、これら四人をあげているとき、注目すべきは、当時の支配者や、支配的イデオロギーから、攻撃されたということです。
実際の歴史でもゴータマ・ブッダは、チャンダーラと言われる、差別された不可触民が着ていたカサーヤと言われる汚い衣服を身にまといました。
天台・伝教がそうであったかは疑問ですが、日蓮大聖人は、支配者から攻撃されたご自身の立場から逆照射して、その点で、天台・伝教も支配的立場から攻撃された人の系譜に置きます。

支配者から排除されること――これも、もう一つの法華経の行者の系譜の条件なのです。


解説

日蓮大聖人が、これら四人をあげているとき、注目すべきは、当時の支配者や、支配的イデオロギーから、攻撃されたということです。
実際の歴史でもゴータマ・ブッダは、チャンダーラと言われる、差別された不可触民が着ていたカサーヤと言われる汚い衣服を身にまといました。
天台・伝教がそうであったかは疑問ですが、日蓮大聖人は、支配者から攻撃されたご自身の立場から逆照射して、その点で、天台・伝教も支配的立場から攻撃された人の系譜に置きます。

支配者から排除されること――これも、もう一つの法華経の行者の系譜の条件なのです。

勉強になります。

与党化した創価学会・公明党は大聖人直結と言えないのでは……


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その7

2025-01-11 01:36:30 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
■第1章 逮捕前夜
 □打診
 □検察の描く「疑惑」の構図
 □「盟友関係」
 □張り込み記者との酒盛り
 □逮捕の日
 ■黒い「朱肉」
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


第1章 逮捕前夜

黒い「朱肉」

しばらくして、外交史料館長が血相を変えて私の側に来て「検事が来る」と耳打ちした。
まずは弁護士への連絡だ。半蔵門法律事務所の大室征男弁護士に電話をかけて「検事がやってきます。 いよいよ逮捕です」と伝えると、 大室氏は「私は特捜もこんな無茶はしないと見ていたんですがね。仕方がないですね。今日はもう接見(面会)に行けませんから、明日の朝いちばんで東京拘置所に行きます。今晩は経歴についての簡単な取り調べがあるだけで、本格的な取り調べは明日以降になります。自分は何もやっていないのに不当逮捕されたから黙秘するというのもひとつの選択ですが、公判の現状では黙秘は不利です。特に特捜事案では黙秘しない方がよいと思います。事実関係をきちんと話し、否認することです」というアドバイスをしてくれた。これは実に的確なものだったと後々分かった。
当初、私は政治事件に関しては取り調べ段階では完全黙秘を通した方がよいと考えていたが、もしそのような選択を行ったならば、検察がどのような恐ろしい「物語」を作り上げていたかを想像すると、今でも背筋が寒くなる。
次に鈴木宗男氏に電話をして「検事がやってきます。しばらくお別れです」と告げると、鈴木氏からは「あんたが捕まるとはなあ。すぐに俺も行くことになるだろうから。とにかく身体に気をつけて。絶対に無理はしないでくれ」と言われた。
私は冗談半分に「プロトコール(外交儀礼)に従い、鈴木大臣より前にお待ちし、鈴木大臣が出られてから私も小菅を後にすることにします」と言って二人で笑った。事実、その通りになり、私は都合2ヵ月半、鈴木氏より長く拘置所暮らしをすることになった。その後、母親、外務省、マスメディア、アカデミズムの友人十数名に「数十分以内に逮捕される。これまでの厚情に感謝する。特捜の対応にもよるが、早ければ23日、遅くとも3ヶ月くらいで出てくるだろう」と連絡した。しかし、この「読み」は大きくはずれ、結局、512日間の独房暮らしとなった。
過去に読んだ本から得た情報で、拘置所ではコーヒーを飲むことができないと思っていたので、給湯室でマグカップにインスタントコーヒーをいれ、それを飲みながら検事様御一行の到来を待った。因みに、これは誤った認識だった。東京拘置所ではインスタントコーヒーを購入することができることを、後で知ることになる。
午後2時過ぎに検察官たちがやってきたが、外交史料館長室に籠もり、館長、副館長と打ち合わせをしている。その間に、もう一杯インスタントコーヒーをいれて飲んだ。
外交史料館長が館長室の扉を開け、「佐藤君、ちょっと来てくれ」と言うので部屋に入ると、5、6名の「お客さん」が待っていた。館長は「こちらにおられるのは東京地方検察庁の検事さんだが、佐藤君に話を聞きたいので検察庁に来て欲しいと言っているんだ」と言う。
私は、「任意ならば行きません」とキッパリとした口調で答えた。
すると、検察事務官が「それは佐藤さん、わがままですよ」と興奮して食ってかかってきた。彼の目は血走っていた。
ソファに座っていた検事がその事務官を制して、「失礼致しました。御挨拶もせずに。西村と申します」と言って名刺を差し出してきた。
名刺には「東京地方検察庁特別捜査部検事・西村尚芳(ひさよし)」と記されていた。
私も名刺を出した。検察事務官にも私は名刺を渡そうとしたが、「あなたは有名だから結構です」と言って名刺を受け取らなかった。そして、ポケットから紙を少しだけ見せ「逮捕状も用意しているんだ」と言い放った。きっと、殺し文句のつもりなのだろう。
検事と事務官は態度を両極端にすることで、役割分担をしているのだろうか。どうも、そうでもなさそうだということが、だんだん分かってきた。
この事務官は経験不足なのか、自己陶酔癖があるのか、仕事に酔って興奮しているだけだ。こういう手合いはたいしたことはない。過去の経験則から、私は利害が激しく対立するときに相手とソフトに話ができる人物は手強いとの印象をもっている。その意味で、この検事の方は相当手強そうだ
私の印象が間違っていなかったことは、その後の取り調べで明らかになる。
しばらくやりとりが続いた後に西村検事は、外交史料館長と私の顔を交互にながめながら、「意思は固そうで、任意同行には応じていただけないようですね。それでは逮捕ということになりますが、どこでしましょうか」と問うてきた。
館長は黙っている。検察事務官たちが敵意をもったまなざしで私をにらんでいた。
私が「通常に業務を遂行しているのに捕まるわけですから、執務室の机で捕まえてもらうのが筋でしょう」と答えると、例の目の血走った事務官が何か言いそうになったので、西村検事がそれを遮って、「それだといろいろな人が見ているので、人権上よくないですね。どこかいい場所はないですかね」と言った。
「いまさら僕の人権には配慮しなくてもよいですよ。検察庁はこれまでリークで十分人権侵害をしてくれましたからね。皆さんの見せ場を作るためにプレスの人たちもたくさん来ているので中庭で逮捕したら絵になるんじゃないですか」と私は提案した。
これに対して西村検事は、「いやいや、できるだけ被疑者の人権に配慮するのがうちの流儀なんで、手錠なんかかけた姿がマスコミに見られないように気を遣うんです。そうだ、手錠はかけないで行きましょう」と言うので、私は「そんなに気を遣わないでいいですよ」と答えた。
それでも「どこか会議室はありませんか。そこまで任意で移動して頂いて、そこで逮 捕するということでよいですか」と提案してきたので、私は「任意」で三階会議室に移動し、そこで逮捕状の執行を受けた。
検察官によって逮捕状が読み上げられた。
逮捕時の様子は「弁解録取書」という書面にまとめられることになっている。そこには、逮捕された直後に被疑者が「その通りです」とか「事実無根です」とか一言述べた内容が記されるのだが、もちろん否認するにしても、どんな風に答えようかと文案を考えていると、西村検事が、「弁録では、「いま検察官が読み上げた容疑については身に覚えがありません」ということでどうですか」と尋ねてきた。
私が「それでいいです」と答えると、今度は目の血走った検察事務官ではなく、温厚な顔つきをした若い検察事務官が書類を作成し、署名、押印を求めてきた。私が鞄から三文判を取り出そうとすると、事務官が「佐藤さん、申し訳ないんですけれど、今の瞬間から逮捕されたことになっているので、印鑑は使えないんです。左手人差し指で指印を押してください」と言って黒色の「朱肉」を目の前に出した。
これがその後512日間に恐らく二千回以上押したであろう指印の初体験であった。
外交史料館を出た検察庁のワゴン車は一旦東京地検特捜部に立ち寄り、西村検事の執務室で冷たいお茶を一杯ごちそうになった後、所持品の押収手続きを取り、ネクタイ、サスペンダーを取り上げられ東京拘置所に向かうことになった。
今度は検察事務官が私に手錠をかけるというので、両手を差し出すと「検察庁の手錠は片手錠ですので利き手を出してください」と言われた。私が右手を出すと検察事務官は、私の右手と自分の左手をつないだ。いよいよ犯罪者らしくなってきた。
東京地検から小菅の東京拘置所までの道中、検察官が御機嫌伺い兼性格調査の目的で私に話しかけてきたのだが、これは、心理的敵対感を除去し、協力者を獲得する際の諜報機関員の手法に似ている。こういうときは、こちらも相手と話をして性格分析をすることが常道だ。
検察官が、「あなたがなかなか来て下さらないので、こちらからお迎えにあがりました」と言うと、私は、「それはお手数をおかけしました。テルアビブ国際学会について真実を知りたいならば、もっと早い段階に呼んでいただければ、喜んで参上申し上げたのですが。ジグソーパズルを周囲から作っていき、最後に真っ黒い穴を残し、『ここに入りなさい』という検察のやり方にはなかなかついていけないもので……」と答えた。
検察官はニコニコ笑いながら、「まあ、そうおっしゃらずに。あまり早くお呼び立てすると、失礼になると思っていただけです。長いお付き合いになるから、お互いによく話をして、折り合いをつけましょう」と言った。
こうして、夕刻、小菅の東京拘置所に着く。このときから、外界とは全く異なる512日間の生活が始まったのである。

 


解説

事務官が「佐藤さん、申し訳ないんですけれど、今の瞬間から逮捕されたことになっているので、印鑑は使えないんです。左手人差し指で指印を押してください」と言って黒色の「朱肉」を目の前に出した。
これがその後512日間に恐らく二千回以上押したであろう指印の初体験であった。

こうして、佐藤氏の512日間におよぶ拘留生活がはじまりました。

 

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その6

2025-01-10 01:55:15 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
■第1章 逮捕前夜
 □打診
 □検察の描く「疑惑」の構図
 □「盟友関係」
 □張り込み記者との酒盛り
 ■逮捕の日
 □黒い「朱肉」
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


第1章 逮捕前夜

逮捕の日

翌5月14日朝7時過ぎ、鈴木宗男衆議院議員から電話がかかってきた。過去数年、私は一日一回は鈴木氏と何らかの形で連絡をとることが習慣となっていたが、鈴木バッシングの高まりとともに外務省関係者が鈴木氏から離れていくのを横目で見ながら、逆に私は鈴木氏に毎日二回、電話をすることにした。
この年の2月から私は鈴木氏に会っていなかった。鈴木氏はいつも忙しくしているの で、過去2、3年、よもやま話をする余裕はなかった。しかし、この時期にはじめて電話を通じてお互いにいろいろな昔話や個人的な話をした。
人間には学校の成績とは別に、本質的な頭の良さ、私の造語では「地アタマ」があるということを私はソ連崩壊前後のモスクワで体験を通じ確信するようになった。鈴木氏は類い希な「地アタマ」をもった政治家だった。
ロシア、イスラエル、日本で、私はいろいろな政治家や高級官僚と付き合ってきた。その中で鈴木宗男氏にはひとつの特徴があった。恐らく政治家としては欠陥なのだと思う。しかし、その欠陥が私には魅力だった。
それは、鈴木氏が他人に対する恨みつらみの話をほとんどしないことだ。はじめは私の前でそのような感情を隠しているのだと考えていた。しかし、二人の付き合いがいくら深くなってもその類の話がない。また、政界が「男のやきもち」の世界であることを私はロシアでも日本でも嫌というほど見てきたが、鈴木氏には嫉妬心が希薄だ。他の政治家の成功を目の当たりにすると鈴木氏はやきもちをやくのではなく、「俺の力がまだ足りないんだ。もっと努力しないと」と本気で考える。
裏返して言えば、このことは他人がもつ嫉妬心に鈴木氏が鈍感であるということだ。この性格が他の政治家や官僚がもつ嫉妬心や恨みつらみの累積を鈴木氏が感知できなかった最大の理由だと私は考えている。そんなことを鈴木氏に率直に話したのもこの時期だった。
それにしてもこんなに朝早く鈴木氏から電話があるのは珍しい。
「佐藤さん、今朝の毎日新聞を見たかい。一面トップでテルアビブ国際学会の話が出ている。決裁書まで写真に出ている。検察も本気だ」と鈴木氏は切り出した。
毎日新聞を買いに行きたいのだが、玄関の覗き口から外を見ると50人を超える人々が待機している。取材攻勢でもみくちゃにされるので外に出ることは諦めた。
とにかくこの取材攻勢は常軌を逸している。風呂に入るとどうも外に人の気配がする。窓を開けると風呂の外壁の下側に座り込んでいる記者がいたのだ。風呂場の窓には鉄柵がついているのだが、それを壊して私が外に逃げるとでも思っているのだろうか。
鈴木氏と電話で話をしながら、検察は私が玄関を出たところで任意同行を求め、それを拒否したら逮捕し、家宅捜索を行うシナリオなのかとふと思う。
「何があっても取り乱してはならない」と自分に言い聞かせた。

午前8時半に自宅を出る。約50人がワッと押し寄せてきて、文字通りおしくらまんじゅう状態で身動きがとれない。テレビカメラが頭や腕に当たり、とても痛いのだが無言を通す。
親しい記者から、「絶対に無言を通すこと。顔を隠したり、笑ったりしない。無表情を通す。特にどんなことがあっても腕を振り上げてはならない。腕を高い位置に上げただけで、暴力的行為にでたとの編集がなされる」とのアドバイスを受けたので、それを守る。
過去数日、2、3回、食事をして、親しくなった記者たちが、「これじゃ佐藤さんが通れないじゃないか」と大きな声を出し、交通整理をしてくれる。この記者たちは同業記者と揉み合いながら、私がけがをしないように守ってくれた。厚情に胸が熱くなるが、顔には出せない。
勤務先の外交史料館に着くと、柵添いには櫓(やぐら)が立ち、テレビ中継車が何台も止まり、百人を遥かに超える記者が集まっていた。それに野次馬が加わり、縁日のような雰囲気だ。
それに引き替え、外交史料館の中は異様に静かである。午前中は外務省からも検察庁からも何の連絡もない。
昼前に知り合いの記者が電話で「時事通信が佐藤優元主任分析官逮捕へというフラッシュを流している」と連絡してきた。正午のNHKニュースでは、昨晩の帰宅途上の姿が映され、「東京地方検察庁特捜部が本格捜査へ」と報じている。さて、そろそろお迎えが来るなと思っていると、鈴木宗男氏から再び電話が入った。
鈴木氏は、「今、野中先生(野中広務元自民党幹事長)と電話で話したんだが、今日の午後がヤマとのことだ。どんなことがあっても早まったまねをしたらだめだぞ。俺や周囲のことはどうでもいいから、自分のことだけを考えてくれよ。俺のためにあんたがこうなってしまい本当に申し訳なく思っている」と言う。
どうやら私が思い詰めて自殺することを心配しているらしい。
私は、「先生、私はこれでもクリスチャンですから自殺はしませんよ。それよりも以前に鈴木大臣が『俺は騙すより騙される方がいいと考えているんだ』と言ったのに対し、私は『いいや、騙されてはなりません。他人を騙してでも生き残るのが政治家でしょう』と反論しましたが、今、このギリギリの状況で、私は先生の言うことが正しかったと思っています。私は、『政治家は本気では一人しかつき合えない。テーブルは一本脚でもその脚がしっかりしていればいちばん強いんだ』という話をしましたが、これは今でも正しいと思っています。ただ、鈴木大臣を外務省が日露平和条約交渉に巻き込まなければこんなことにならなかったのに。申し訳なく思っています」と答えた。

 


解説

ロシア、イスラエル、日本で、私はいろいろな政治家や高級官僚と付き合ってきた。その中で鈴木宗男氏にはひとつの特徴があった。恐らく政治家としては欠陥なのだと思う。しかし、その欠陥が私には魅力だった。
それは、鈴木氏が他人に対する恨みつらみの話をほとんどしないことだ。はじめは私の前でそのような感情を隠しているのだと考えていた。しかし、二人の付き合いがいくら深くなってもその類の話がない。また、政界が「男のやきもち」の世界であることを私はロシアでも日本でも嫌というほど見てきたが、鈴木氏には嫉妬心が希薄だ。他の政治家の成功を目の当たりにすると鈴木氏はやきもちをやくのではなく、「俺の力がまだ足りないんだ。もっと努力しないと」と本気で考える。

この文章で、鈴木宗男氏に対する誤解の多くが解けていきました。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その5

2025-01-09 01:48:55 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
■第1章 逮捕前夜
 □打診
 □検察の描く「疑惑」の構図
 □「盟友関係」
 ■張り込み記者との酒盛り
 □逮捕の日
 □黒い「朱肉」
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


第1章 逮捕前夜

張り込み記者との酒盛り

午後5時45分、勤務時間が終了し、外に出ると30人以上の記者が待ちかまえていた。マイク、テレビカメラに囲まれ、帰宅する。記者たちも仕事で来ているのだから 仕方がない。日没までに逮捕・家宅捜索の可能性があると思ったが、杞憂に終わった。あたりが暗くなっても、4、5人の記者が玄関前で張り番をしている。上司に言われているのだろうが、若い人たちはたいへんだ。記者の仕事は、私がやっていた情報屋の仕事もそうであるが、取材対象から話を聞けてナンボのものだ。少し点を稼がせてあげたいと思った。
それで、その前の週末から熱心に張り番をしている記者二人に声をかけてアパートから徒歩2分の赤坂一ツ木通りのスターバックスに行った。知らないうちに声をかけなかった記者も何人かついてきていた。
記者たちに向かって私は「取材には一切応じないけど、プライベートにコーヒーを飲むんだったらいいよ」と言った。記者たちがレコーダーで録音し、何人かは小型ビデオカメラで隠し撮りをしているのは織り込み済みだ。現場の記者たちは上司に目に見える成果を報告しなくてはならない事情もあるのだろう。
もっとも、私には私なりの計算があった。この種の事件報道は、検察情報を中心に組み立てられる。この基本構造は、捜査の対象となった人物がいくら説明しても、あがいても変わらない。仮に現場の記者とよい関係を作ったとしても、私にとって都合のよい報道がなされる可能性などほとんどない。しかし、記者たちと険悪な関係になれば、報道が極端に感情的になり、私にとってますます不愉快な事態が生じる。そこで私はいちばんしつこく追いかけてくる記者を大切にすることにした。
不思議なことだが、この記者たちとは親しくなった。私が東京拘置所独房に512日間勾留されている間にもしばしば差入れをしてくれ、また、公判でも傍聴席でよく顔を見かけた。今でも親しく付き合い、当時の思い出話をしたり、なぜ、あのような「国策捜査」が行われたのかについて、話し合うこともある。「国策捜査」については、後の章でたっぷりと論じるので、ここでは細かい説明は省かせてもらう。
話を逮捕の前日に戻すと、コーヒーだけでは物足りないので、記者たちと一緒におでん屋に行って酒盛りをした。しかし、家に帰ってから、さすがにその日は、なかなか寝付けなかったのを覚えている。

 


解説

そこで私はいちばんしつこく追いかけてくる記者を大切にすることにした。
不思議なことだが、この記者たちとは親しくなった。

さすが外交官ですね。人心掌握術に長けていらっしゃる。

 

獅子風蓮


佐藤優『国家の罠』その4

2025-01-08 01:40:42 | 佐藤優

佐藤優氏を知るために、初期の著作を読んでみました。

まずは、この本です。

佐藤優『国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて』

ロシア外交、北方領土をめぐるスキャンダルとして政官界を震撼させた「鈴木宗男事件」。その“断罪”の背後では、国家の大規模な路線転換が絶対矛盾を抱えながら進んでいた―。外務省きっての情報のプロとして対ロ交渉の最前線を支えていた著者が、逮捕後の検察との息詰まる応酬を再現して「国策捜査」の真相を明かす。執筆活動を続けることの新たな決意を記す文庫版あとがきを加え刊行。

国家の罠 ―外務省のラスプーチンと呼ばれて
□序 章 「わが家」にて
■第1章 逮捕前夜
 □打診
 □検察の描く「疑惑」の構図
 ■「盟友関係」
 □張り込み記者との酒盛り
 □逮捕の日
 □黒い「朱肉」
□第2章 田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
□第3章 作られた疑惑
□第4章 「国策捜査」開始
□第5章 「時代のけじめ」としての「国策捜査」
□第6章 獄中から保釈、そして裁判闘争へ
□あとがき
□文庫版あとがき――国内亡命者として
※文中に登場する人物の肩書きは、特に説明のないかぎり当時のものです。

 


第1章 逮捕前夜

「盟友関係」

ここで読者の理解のために東郷大使、前島補佐、私のプロフィールと相互関係について簡単に説明しておきたい。

東郷和彦氏は1945年生まれ、祖父は東郷茂徳(しげのり)元外相、父は外務事務次官、駐米大使を歴任した東郷文彦氏である。外務省サラブレッドの家系に生まれた外交官だ。東京大学教養学部を卒業し、外交官(キャリア)試験に合格し、1968年に外務省に入省した。
前島陽氏は65年生まれ、東京大学法学部を卒業し、同じくキャリア試験に合格し、88年に外務省に入省した。
私は60年生まれ、同志社大学大学院神学研究科を修了し、外務省専門職員(ノンキャリア)試験に合格し、85年に外務省に入省した。
私たち三人は、94年から95年にモスクワの日本大使館に勤務するという共通の経験をもっていた。東郷氏は特命全権公使、私と前島氏は政務担当の二等書記官だった。
モスクワ時代、私と東郷氏は親しい関係にあったが、前島氏とはそれほど親しくなかった。私と東郷氏が酒を酌み交わして話をすることが好きなのに対して、前島氏は体質的に酒を受け付けず、社交活動を好まない「ちょっと気むずかしい青年」という印象を私も東郷氏ももっていた。
95年4月、7年8ヶ月のモスクワ勤務を終え東京に戻った私は、外務省国際情報局分析第一課に配置された。それから2ヶ月ほどして、前島氏が分析第一課の総務班長に就任した。
モスクワ時代から前島氏はロシア語能力が高く、また事務処理も速く、「要領がいい」という印象を私はもっていた。同時に前島氏の、自分の意見を臆せずに言うスタイルを煙たく思う上司がいたことも事実である。私は情報収集・分析業務をするなかで、前島班長にはたいへんな勉強家で、学識に裏付けられた優れた洞察力があることに気付いた。
キャリア職員であるが出世にばかり目を向けるのではなく、日本の国益が何であるかを洞察し、具体的目標を設定し、機転と根気をもって目標実現を達成する資質を前島氏に認めた。
96年秋、東郷氏が欧亜局審議官(局長に次ぐポスト)に就き、対露外交の司令塔としての機能を果たすようになった。97年7月、経済同友会における演説で橋本龍太郎総理が日露関係を「信頼」、「相互利益」、「長期的な視点」の三原則によって飛躍的に改善すべきであるという「東からのユーラシア外交ドクトリン」を提示するが、この三原則は東郷審議官が起案したものだ。
この演説を契機に日露関係は、北方領土交渉を含めて大きく動き出す。この頃、前島氏はロシア支援室総務班長(課長補佐)に異動していたが、北方領土問題を解決し、日露関係を戦略的に転換することが日本の国益に貢献すると確信し、いろいろなアイディアを私と率直に話し合うようになっていた。そして、東郷審議官も前島補佐の能力に着目し、目をかけるようになった。
一言でいうと、97年以降、東郷審議官、前島補佐、私は同じ対露外交戦略で結びついた盟友関係にあったのである。

 


解説
97年以降、東郷審議官、前島補佐、私は同じ対露外交戦略で結びついた盟友関係にあったのである。

ここは押さえておくべきポイントですね。

 

獅子風蓮