syuの日記・気まま旅

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東海道13・14番沼津宿・原宿

2015-08-25 | 気まま旅
1560年、今川義元の桶狭間での敗北による今川氏の衰退は、諸国の諸大名による今川領への進入を招いた。
西からは,徳川氏、北からは、武田氏、駿河に攻める。東の「後北条氏」も武田氏に対抗して駿河に進攻。
後北条氏と武田氏は駿河中部から東部にかけて数度の戦いを繰り広げ、武田氏の、駿河における拠点の一つが「三枚橋城」。
三枚橋城は、現在の沼津の駅南部にあり、本丸を二の丸、三の丸、外郭が狩野川に面した東南部を除いて同心円上に囲む構造になっていたと云う。
城の築城時期については、1577年、に武田勝頼が築城したという説と、信玄生存中の1570年、には既に築城されていたという説がある。
現在では後者が有力で、城の城主としては「高坂源五郎」が名高い。

この三枚橋城と川を挟んで対立したのが、後北条氏の「戸倉城」で、三枚橋城による武田氏との間で小競り合いが絶えなかったという。
1580年には、武田と後北条の水軍が重須沖の駿河湾で海戦を行っている。

1577年、武田勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して、沼津城を築城し、「高坂源五郎昌信」に守備させたといわれている。
しかし、「信濃史料」から、築城の時期は天正5年ではなく、元亀元年、
信濃の諸士に城普請を務めさせている記事がみえるため、この時期に創築を求めようとする説が有力と云う。

沼津城の遺構はほとんど残存していないが、昭和48年ビル建築工事で発見された石垣が同城のものであったと推定され、石垣の組み方は戦国末期の実戦的築造であるという。


「千本浜通り」
出雲の神を祀る「日枝神社」が、昔この辺りは、一面都の荘園で,大岡庄と呼ばれていたと云う。
狩野川がうねり,沼地のようなところを干拓し,次第に水稲を作れる荘園に作りあげて行ったのが,この神社創建の平安中期と云う。

日枝神社                拝殿                      千本松原に
    

「長谷寺」は、稲久山と号し、本尊は十一面福聚自在観世音である。
825年、淳和天皇の御代に、弘法大師が勅を奉じて駿・豆地方を巡錫中、鎮護国家の祈願道場として創建したものだという。
昔、大和の長谷寺の末寺で、法相宗から真言宗に変わり、現在は時宗に属している。地元では、「浜の観音さん」と呼ばれ親しまれている。

公園前の長谷寺                                 堂
   

長谷寺は、江戸時代より駿河一国三十一番札所及び横道十三番札所となっている。

                        本堂


東海道随一の景勝地である千本松原を有する沼津を代表する公園には、数々の歌碑・文学碑が。

千本松原(先人たちが一本一本植林)


風致公園で、沼津港の海岸に沿っている。面積 146000㎡と広い。

公園内 
    

「増誉上人の像」と千本松原は、1537年頃、駿河の今川・甲斐の武田と伊豆の後北条との戦いで無惨にも伐きり払われてしまう。
そこへ、一人の旅の僧がやって来ました。「増誉上人長円」です。
潮風の害を受けて困窮していた住民をみた長円は、人々を救うために経文を唱えながら、何年もかかって千本の松苗を植えた。
千本松原はこうしてできたもので、増誉上人長円は千本山乗運寺の開祖です。

増誉上人像は、千本浜公園のシンボルとして親しまれ敬われている。

東方寺前の千本山乗運寺開祖「増誉上人」が千本松苗を植えたと云う
    

角田竹冷句碑がある。
角田竹冷は、安政3年、富士郡加島村(現在の富士市)に生まれ、家が貧しかったので少年時代は魚町の商家の奉公をした。
明治5年、16歳の時に東京へ出て働きながら法律を学び、24歳で、弁護士の免状を取り、35歳で衆議院議員に当選、その後6期17年間にわたって議員として活躍。
俳句には幼少時から生涯を通じて親しみ、俳人としても名を成し、「毎日新聞」「読売新聞」の俳句選者にもなっている。
代議士就任中、新聞紙上に軽妙な時事俳句を発表したことは有名である。大正8年62歳で永眠した。
  句碑  時は弥生  瓢枕に  鼾かな。 亡くなる前日に。

1856年富士市苗村出身の 角田氏句碑




「東海道五十三次・原宿」


東海道11番「箱根」・12番「三島」・13番「沼津」

「14番「原」」

沼津市、駿河湾がら堤防に立つと西方、工場の煙突から煙を出した工場、製紙工場が点在、沼津から原まで、6kmの海岸線は、
黒松の松原「千本松原」の名で。

東海に進出を目論んだ「武田軍団」は、三枚城を取り囲み、千本松原を切り払ったが陽動動作戦には乗ぜられず、根負けした
武田勝頼軍は、引き上げたという。
勝頼の切り払った松林を、増誉上人は、自ら修植し、再び元の姿に戻した。




隣吉原宿まで11km、2里強、東海道で一番小さい宿場と云う。


「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とうたわれた白隠禅師。
1716年父の病で松陰寺に戻り、1717年 松蔭寺の住職となり、34歳の時京都妙心寺の第一座となった。
その後、禅の大衆化を図り、ついに50 0年に1人と言われるほどの高僧となり、臨済宗中興の祖と仰がれ、白隠は、禅画を確立した事でも有名。
好んで釈迦,観音,達磨等を描きその名も高い。白隠の郷里。

小田原の北条早雲は、旗揚げを、「興国寺城」であった。城は、浮島ヶ原湿地帯の難攻不落の城と云われ、北西に富士山で湧水が溜まって湿原。

天保14年頃の原宿、人口1939人、家数398軒、本陣1軒、旅籠25軒
 

500年前、江戸中期の禅僧「白隠慧鶴」、民衆教化に捧げ、現代の臨済宗中興の高僧。
天皇より「神機独妙禅師」の号を賜った、白隠(はくいん)1685-1768 駿河国(沼津)で生まれるいる。

15歳で臨済宗、松蔭寺に出家し全国行脚、33歳で松蔭寺に戻り住職に、臨済宗を説く、僧には珍しく豪勇で、狼が昼夜出没し村人に害を
与えているにもかまわず、白隠は、独り座禅を組んだ、狼は、白隠の顔を舌で舐められ、頭上を飛び回っても動じずに座禅を続けていたという。

「臨済宗」とは、お釈迦様が深い瞑想のもとに悟った「無我の境地」を、坐禅や日常生活を通して体験し、自覚すること、
「こだわらず」「とらわれず」、迷いも欲望も苦悩もない、自然と同化した絶対的境地、それが本来、人間がもつ清浄な仏心そのものと云う。

日本の禅宗には、三つの宗旨「臨済宗・曹洞宗・黄檗宗」があり、臨済宗はその中のひとつ。
臨済宗の教えを「臨済禅」
坐禅を宗旨の中心として、師匠から与えられた問題「公案」について工夫し、坐禅により身体で会得した見解を提示し、点検してもらいます。これをいわゆる禅問答「入室参禅」といい、このような坐禅修行を中心とする教えが臨済宗である。

蓮池観音は、珍しく鮮やかな多色づかい。


西念寺(天神さん)は、時宗。山門・観音堂等があり、望海景勝の寺であったという。浮島原に常休庵・休心坊などの末寺もあったが、延宝年中火災により堂字等を消失し、明治26年鉄道火災によって、本堂等類焼。
境内に入って左手に菅原道眞公 をお祀りする天満宮(昭和58年再建)が、西念寺門前で生まれた「白隠禅師」。   

白隠誕生地の石碑  西念寺先駿河銀行前(道路南側)に石碑がある。 




「14番・原宿」ー13・沼津宿ー14・原宿ー15・吉原宿ー16・蒲原宿ー17・由比宿ー江尻・掛川・見附ー東海道五十三次 

富士山の浮世絵に出てくるのは、もっと近いこの地形にある。
江戸から32里で幕府領(天領)伊豆韮山代官(江川太郎左衛門)の管轄であった。   

石碑の奥には白隠の産湯井。


長興寺 臨済宗妙心寺派 約640年前、室町時代、鎌倉・建長寺の開山、「大覚禅師」のお弟子の「友獄和尚」が行脚中に原の浜辺にさしかかり、海の響きに感応道交して身心脱落。
歓喜雀躍して、念持仏の虚空蔵菩薩を奉安し一堂宇を建立した。
その場所が砂州の上にあり、満潮の時にはあたかも海の上にあるかのように見えたので、山号を海上山とたという。
江戸時代なかば、白隠禅師の道友であった、大義和尚(当山準開山)によって清見寺末となり、妙心寺派となる。
海と御縁の深い寺で、海の神様、金毘羅山大権現 を鎮守神としておまつりしている。
昔、駿河湾ではマグロやカツオなどの漁が盛んでした。お祭りには大漁や海上安全を祈願する漁師が、地元のみならず西浦方面からも舟でお参りし、にぎわったと伝えられてる。
近年、金毘羅堂も再建され、毎年5月の最終日曜日に開催される例大祭には、赤ちゃんのすこやかな成長を祈願する恒例の「奉納泣きずもう」が 行われます。江戸時代、お隣の松蔭寺には、日本臨済禅中興の祖として仰がれる白隠禅師の指導を求め、全国から修行僧が参集。
その数、数百であったと記録されています。その折り、当山も宿坊として使用されました。修行者が松蔭寺へと参禅にかよった道が今も残っており「白隠道」と称されている。
 
清見寺末、長興寺(白隠禅師の道友、大義和尚開山)
    

京都の「妙心寺」原の「松陰寺」は、全国大名、参勤交代時、あらそって面会を求めたと云う。

    

松陰寺・(白隠さん)は、白隠禅師(1685~1768)ゆかりの寺。
臨済宗の古寺で、歴史は約700年あり、名僧白隠が住職になる。現在は臨済宗白隠派大本山。

「擂り鉢の松」特に親交の深かった備前岡山池田氏は白隠の求めに応じて備前焼の大擂り鉢を贈りました。白隠はある日、庭の松が台風で裂けたため、雨よけにと擂り鉢をその裂け目にかぶせました。松はこの擂り鉢をのせたまま育ち、今も「擂り鉢の松」として親しまれています。原宿の旧本陣(渡辺本陣)の門と松が、松蔭寺内に移築されています。山門手前に「白隠の里案内図」が設置(2008年3月)されました

松陰寺(世界に知られている白隠禅師ゆかりの寺) 
    

境内に、                                  堂 
  

藤棚                     本堂
    

昌原寺は、浅間神社向かい。
日蓮宗、大仙院日耀の開山。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)である。
1615年 春、東海道原宿の渡辺本陣にお万の方が宿泊されたとき、南無妙法蓮華経のお題目が、聞こえ、ただちに本陣渡辺八郎左衛門ともない庵に入り、読経を聴聞されたのち、庵主、地主庄司七左衛門を呼び、こ の地に一山を構えるように要請した。
お万の方は、法華経の信者として朝暮に日蓮大聖人の御真影を敬拝していた。
この御真影は、日蓮聖人の自点眼尊影として、昌原寺落成のとき駿府城を通じて当山に寄進され寺宝となっている。
徳川幕府より境内地5反30畝、大門40歩のほか、御真影供養料田地1反5畝を賜った。
元和8年に念願が成就し、寺院を、建立している。

昌原寺                                            本堂 
    

浅間神社は、祭神木花咲耶姫命(富士山のこと),愛鷹大神(愛鷹山のこと),
浮島ヶ原を最も早く開墾したのは遠州の浪人だった鈴木助兵衛であるという、父が安部郡上土を開拓した後二代目助兵衛が浮島ヶ原へ来てこの地を拓き助兵衛新田と称した。
原「浅間神社」は、1609年武田家臣の植松平次右衛門季重が創建と云う。
興国寺城は伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の旗揚げの城として名高 い、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城で、後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城。
城の南部には、原宿のある東海道に通じていて交通の便はよいが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だった。
太古から原宿の北西には富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、これが地元民の生活に支障をきたしていたようである。
墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったという。

浅間神社             狛犬                   拝殿
    



次回、吉原宿へ。