多摩川沖積低地と日野台地、奈良時代烽火台のあった飛日野・武蔵七党の日秦氏が祀った「日野宮権現」がある。
江戸時代は、甲州街道「日野宿」と多摩川渡船場「日野の渡し・日野橋」があった。

「土方歳三」 1835-69 新選組副長 武蔵国多摩郡石田村の農家。
天然理心流剣術を学ぶ・道場主「近藤勇」と新選組結成副長に 鳥羽・伏見の戦いに敗れ東帰後、宇都宮、会津を転戦し北海道箱館へ。
兵士で退却者は、切り捨てたと云う。後霊を弔っている。新政府軍の銃弾を受け戦死した。
高幡不動 土方像







「程久保小僧」 藤五郎生まれ変わり物語り
文政5年11月、中野村に住む8歳の勝五郎(小谷田姓)が、兄と姉に、自分の前世は、程久保村の藤蔵(須崎姓)で、6歳の時に疱瘡(ほうそう---天然痘)で亡くなったと語りました。
勝五郎の話は、やがて父や母の知るところとなり、12月、勝五郎は生まれ変わりの顛末を以下のように、父母に詳しく語ったのです。 藤蔵が死んだとき、魂が身体から抜けだして家に帰ったが、誰も気づかなかった。→白い髭に黒い着物を着たおじいさんに導かれ、あの世に行った。→三年たったから生まれ変わるのだと言われて中野村の柿の木のある家に連れて行かれた→竈の陰に隠れていると、父母が相談をしていた。それは、家計を助けるために母が江戸へ奉公に行くというものだった。→藤蔵の魂は母の胎内に入り、文化12年10月10日に勝五郎として生まれた。(柿の木は、あの世とこの世の境にある木だといわれている)
勝五郎の生まれ変わりの話は、両親にとっては信じがたいものでしたが、母が江戸に奉公に行く相談をしていたという話は、両親以外の人は知らないことだったので、両親は勝五郎の語ることは本当かもしれないと思うようになりました。 程久保村のことを知っている人に聞いて見ると、藤蔵の家は実在し、疱瘡で亡くなった子どもがいることもわかりました。勝五郎の生まれ変わりのうわさが広まり、「ほどくぼ小僧」というあだ名がついて見物に来る人もいたので、勝五郎はとても嫌がりました。 文政6年1月20日、勝五郎とおばあさんは程久保村の藤蔵の家を訪ねることにしました。勝五郎は行ったことがないはずの程久保村の事をよく知っていて、祖母を藤蔵の家に案内しました。
藤蔵の家では、母しづと義父の半四郎がいて、勝五郎が藤蔵によく似ているといって喜びました。勝五郎は、初めてきたはずの家の中の事もよく知っていて、向かいの「たばこや」(屋号)の木は以前はなかったなどといって、みんなを驚かせました。(藤蔵の屋敷は、今も同じ場所にあります) 藤蔵と勝五郎の家は、その後親類のように行き来するようになり、勝五郎は実父久兵衛の墓参りもしました。
2月のある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)という大名(鳥取藩の支藩の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました。3月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつらせいざん)や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には、文政5年11月、藤蔵と同じ6歳で疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました。
4月、中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は、4月19日に源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました。
多門傳八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして、4月22日に、源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎(いぶきのや)へ来た勝五郎から直接話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは、4月22・23・25日の3日間でした。
6月、篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて『勝五郎再生記聞(かつごろうさいせいきぶん)』をまとめ、7月22日からの上洛に持参、光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです。
文政8年8月26日、勝五郎は気吹舎の門人になり、およそ1年ほど気吹舎にいたといわれていますが、その後の消息ははっきりしません。
勝五郎は、中野村に帰ってきてからは、普通の人と変わらない生活をし、農業の傍ら家業である目籠の仲買を行ない、裕福な生活をしていたと伝えられています。明治2年(1869)12月4日、55歳で亡くなりました。
明治30年に、小泉八雲が、随想集『仏の畠の落穂』のなかに、「勝五郎の転生」を書いたので、勝五郎の生まれ変わりは、海外の人にも認知される事例となりました。

藤蔵の墓




次回」は、「高幡不動」から多摩動物園へ。
江戸時代は、甲州街道「日野宿」と多摩川渡船場「日野の渡し・日野橋」があった。

「土方歳三」 1835-69 新選組副長 武蔵国多摩郡石田村の農家。
天然理心流剣術を学ぶ・道場主「近藤勇」と新選組結成副長に 鳥羽・伏見の戦いに敗れ東帰後、宇都宮、会津を転戦し北海道箱館へ。
兵士で退却者は、切り捨てたと云う。後霊を弔っている。新政府軍の銃弾を受け戦死した。
高幡不動 土方像







「程久保小僧」 藤五郎生まれ変わり物語り
文政5年11月、中野村に住む8歳の勝五郎(小谷田姓)が、兄と姉に、自分の前世は、程久保村の藤蔵(須崎姓)で、6歳の時に疱瘡(ほうそう---天然痘)で亡くなったと語りました。
勝五郎の話は、やがて父や母の知るところとなり、12月、勝五郎は生まれ変わりの顛末を以下のように、父母に詳しく語ったのです。 藤蔵が死んだとき、魂が身体から抜けだして家に帰ったが、誰も気づかなかった。→白い髭に黒い着物を着たおじいさんに導かれ、あの世に行った。→三年たったから生まれ変わるのだと言われて中野村の柿の木のある家に連れて行かれた→竈の陰に隠れていると、父母が相談をしていた。それは、家計を助けるために母が江戸へ奉公に行くというものだった。→藤蔵の魂は母の胎内に入り、文化12年10月10日に勝五郎として生まれた。(柿の木は、あの世とこの世の境にある木だといわれている)
勝五郎の生まれ変わりの話は、両親にとっては信じがたいものでしたが、母が江戸に奉公に行く相談をしていたという話は、両親以外の人は知らないことだったので、両親は勝五郎の語ることは本当かもしれないと思うようになりました。 程久保村のことを知っている人に聞いて見ると、藤蔵の家は実在し、疱瘡で亡くなった子どもがいることもわかりました。勝五郎の生まれ変わりのうわさが広まり、「ほどくぼ小僧」というあだ名がついて見物に来る人もいたので、勝五郎はとても嫌がりました。 文政6年1月20日、勝五郎とおばあさんは程久保村の藤蔵の家を訪ねることにしました。勝五郎は行ったことがないはずの程久保村の事をよく知っていて、祖母を藤蔵の家に案内しました。
藤蔵の家では、母しづと義父の半四郎がいて、勝五郎が藤蔵によく似ているといって喜びました。勝五郎は、初めてきたはずの家の中の事もよく知っていて、向かいの「たばこや」(屋号)の木は以前はなかったなどといって、みんなを驚かせました。(藤蔵の屋敷は、今も同じ場所にあります) 藤蔵と勝五郎の家は、その後親類のように行き来するようになり、勝五郎は実父久兵衛の墓参りもしました。
2月のある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)という大名(鳥取藩の支藩の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました。3月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつらせいざん)や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には、文政5年11月、藤蔵と同じ6歳で疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました。
4月、中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は、4月19日に源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました。
多門傳八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして、4月22日に、源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎(いぶきのや)へ来た勝五郎から直接話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは、4月22・23・25日の3日間でした。
6月、篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて『勝五郎再生記聞(かつごろうさいせいきぶん)』をまとめ、7月22日からの上洛に持参、光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです。
文政8年8月26日、勝五郎は気吹舎の門人になり、およそ1年ほど気吹舎にいたといわれていますが、その後の消息ははっきりしません。
勝五郎は、中野村に帰ってきてからは、普通の人と変わらない生活をし、農業の傍ら家業である目籠の仲買を行ない、裕福な生活をしていたと伝えられています。明治2年(1869)12月4日、55歳で亡くなりました。
明治30年に、小泉八雲が、随想集『仏の畠の落穂』のなかに、「勝五郎の転生」を書いたので、勝五郎の生まれ変わりは、海外の人にも認知される事例となりました。

藤蔵の墓




次回」は、「高幡不動」から多摩動物園へ。