「錨を上げて」
アメリカ海軍による「錨を上げて」は、「錨を上げてー(英語: “Anchors Aweigh”)」は、
1906年にアメリカ海軍の中尉であったチャールズ・ツィマーマン (Charles A. Zimmerman) によって作曲された軍歌、行進曲。作詞はアルフレッド・ハート・マイルズであった。アメリカ海軍の事実上の公式歌(行進曲)として知られる。
船の出航の際に、それまで降ろしていた錨を船の上にあげる作業が完了したことを指揮官が承認することを意味する言葉と云う。
「錨を上げよ」は英語で weigh anchor・これは錨が海中にあっては重さが測れないので、測るためには必ず錨を甲板上に引き揚げなければならない。「海から錨を上げて重さを測れ」という意味と云う。
同様に Anchors Aweigh は直訳すると「錨の重さ」であるが、「錨が上げ終わったなら、当然重さが測れるだろう。重さは?」という含意から、錨の巻き上げ作業の完了報告に対する指揮官の承認の言葉となったとある。
1906年12月1日にペンシルベニア州フィラデルフィアのフランクリン・フィールドにおいて行われたフットボールのアメリカ士官学校対抗戦(対アメリカ陸軍士官学校)で初めて演奏された。
3万人以上の観衆を前に、海軍が10対0と圧勝し、1900年に始まって以来、初の勝利を、その後に別の学生、ロイヤル・ロヴェル 1926年度生が(昭和1年)、第3節を書き足された。
「同期の桜」 作詞者不明
1)貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょう 国のため
2)貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合うて別れられぬ
3)貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 仰げだ夕焼け南の空に 未だ還らぬ一番機
4)貴様と俺とは同期の桜 同じ航空隊の庭に咲く あれほど誓ったその日も待たず なぜに死んだか散ったのか
5)貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の槓に咲いて会おう
「露営の歌」
1)勝って来るぞと 勇ましく 誓って故郷を 出たからは 手柄たてずに 死なりょうか 進軍ラッパ 聴くたびに 瞼に浮かぶ 旗の波
2)土も草木も 火と燃える 果てなき広野 踏み分けて 進む日の丸鉄兜 馬のたてがみ なでながら 明日の命を 誰が知る
3)弾丸もタンクも 鉄剣の しばし露営の 草枕 夢に出てきた 父上に 死んでかえれと 励まされ さめて睨むは 敵の空
4)思えば今日の 戦闘に 朱にそまって にっこりと 笑って死んだ 戦友が 天皇陛下 万歳と 残した声が 忘らりょか
「杉野芳子」 ドレスマーカー女学院開校
1892-1978 千葉県匝瑳郡南条村字柴崎(現・横芝光町)の地主の家に生まれ、(旧姓は岩澤)千葉高女を卒業後、鉄道省史上初の女性職員となり、その後、小学校の教員を経て、1913年に渡米
留学中の1916年に建築家の杉野繁一(スタンフォード大学出身)と結婚。1920年(大正9年) 帰国。赤坂新町に住む、1926年(大正15年) 杉野芳子ドレスメーカースクールを設立。生徒3人・同年ドレスメーカー女学院と改称・1927年 - 1930年 速成科、研究科、師範科ならびに洋服本科(1年限)を開設。昭和7年、 杉野学園を設立。夫の杉野繁一が理事長・昭和20年、 終戦。校舎は戦災により焼失。昭和25年、杉野学園女子短期大学被服科を開設。
昭和39年、 杉野学園女子大学 家政学部 被服学科を開設。昭和41年、 大学を杉野女子大学に、短期大学を杉野女子大学短期大学部に改称。
1978年の昭和53年、 永眠。
日本放送協会 NHKが設立された。