「唐人お吉」アメリカ総領事ハリスの看護師。1841-91 芸者、伊豆下田の舟大工の娘、7歳で琴三味線を習い14歳で芸者となる。
ハリスの看護師となるがすぐ暇を出されるが、外国人の事実上の妾で不遇な後半生を送った。
給金は、一カ月十両、支度金二十五両が幕府から下されていたが、実際はお吉がハリスの元に通ったのは、わずか三夜に過ぎなかったという。
だが地元では、異人との交わった女と云う事でお吉を「唐人お吉」と呼んでさげすんだ。
後年お吉はアルコール中毒を病み、下田川に身を投げて51才の生涯を閉じた。
中世の船
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「ハリス」条約を締結した初代アメリカ行使。1804-78.外交官タウンゼント・ハリス、ニューヨーク州生まれ、商人から外交官に、
安政3年駐日領事として来日、下田玉泉寺に入る、翌年江戸に上り日米修好通商条約を調印に成功している。
ハリスは、日本人の混浴風景を見て「一つの風呂に男女老若とも同じ風呂に入り全裸になって体を洗うのに理解できず、判断に苦しむ」と語っている。
お吉実像 -お吉19歳 安政6年撮影-
撮影者:水野半兵衛氏
ぺりー艦隊上陸の碑 出品者:水野重四郎氏
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米国初代総領事ハリスが下田に来航し、玉泉寺を領事館としたのは1856年のことである。
もともと病弱だったハリスは、条約締結への心労もあってか、年の暮れから健康を害し、年が明けると吐血、下田奉行に身の回りの世話をする
女性の派遣を要請した。
当時、日本人は外国人を夷人(毛唐)呼ばわりし、看護のためとはいえ、夷人のもとへ赴く女など居なかった。
困り果てた奉行が目をつけたのは、港に出入りする船員たちの衣類の洗濯で生計を立てる母親を助けて、自らは芸者として働いていた当時16歳、
評判の美人斎藤きち(お吉)であった。
お吉には鶴松という四歳年上の大工の恋人がいた。奉行からの再三の要請を拒みつづけるお吉に、奉行は「お国のためだ。
身を投げうってくれ」と、対価を条件にとした。
下男の給料が一ヶ月一両二分だったころのこと、それは途方もない大金だった。一方、奉行は鶴松に対してはいずれ武士に取り立てるからといって
お吉と別れるように迫った。あこがれの武士と聞いて鶴松の心は動いた。鶴松の心変わりを知り、それを詰ったお吉だったが、そのうちに諦めて
奉行の要請を受入れ、幕府が用意した引戸駕篭に乗せられて玉泉寺の門をくぐった。安政四年のことである。
幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めるが、ほどなく離別。
さらに小料理屋「安直楼」を開業したが、2年後に廃業しています。
「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、明治24年の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、
自らの命を絶ってしまう。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕。
お吉は身よりもなく、宝福寺の第15代竹岡大乗住職が、慈愛の心で法名「釈貞観尼」を贈り、当時境内に厚く葬り、その後芸能人により新しく
墓石も寄進され現在に至っている。
お吉の悲劇的生涯は、人間の偏見と権力、その底にひそむ罪の可能性と愚かさを身をもって私達に教えているよう。
お吉の安直楼
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「玉泉寺」は、ハリスが初の領事館を開いたお寺。ハリスとお吉の「黒船哀話」もここで生まれる。境内には、初代総領事館タウンゼント・ハリスの
記念館があり、彼の遺品や当時の記録が陳列されている。境内の墓地には、5人のアメリカと3人のロシア水兵の墓がある。
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「ハリスの小径」は、玉泉寺から約400m離れた海岸あたりで散策にふけった小径が、今では”ハリスの小径”として整備され、この小径は、
県道とは離れている海岸道で静か、下田港の豪華なヨット群を見渡す景色が続く。また、途中山側には、洞窟もあり楽しい。
ハリスの小径
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「お吉ヶ渕」の このお吉地蔵は、故新渡戸稲造博士(1862─1933)の篤志によって昭和8年8月に建立されたもの。
博士は幕末開港の陰に一輪の花と咲いた薄命の佳人、唐人お吉の大の同情者の一人で、昭和8年7月16日に、このお吉ヶ淵に詣でお吉の霊を
懇ろに慰めるとともに 「お吉地蔵」 の建立を思いたったという。
地蔵尊の背面には、博士の母堂の命日にあたる昭和8年7月17日とだけ刻まれてあり、今では摩滅して定かではない。
博士はこの地蔵尊の姿を見ないまま、第五回太平洋問題会議に日本側の理事長として出席中、昭和8年10月カナダで病に倒れ、71歳の生涯を閉じた。
「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし 君が心は大和撫子」この歌は、博士の奥ゆかしい心情が偲ばれる。
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「新渡戸稲造」国際連盟事務局次長、教育者、農業者、思想家。盛岡生まれ、日本を世界に広め、「武士道」を英文で紹介
東京女子大学初代学長。
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唐人お吉記念館「宝福寺」八幡山。 まことの愛をうばわれ、唐人とののしられ、いばらの道を歩んだ、お吉の一生、
お吉供養祭・ 毎年3月27日、お吉が淵にて開催している。入館料 300円
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「新田御陣屋敷跡」幕府直轄地の伊豆下田は、三島代官所(後に韮山代官所)の支配下であった。1691年、三島代官陣屋が開設され、手代2人が詰めて、
地方事務を扱った後、陣屋詰の韮山代官手代は常勤となり、代々片岡氏が世襲した。この片岡氏の陣屋を新田御陣屋と呼び、地方事務所の始めとなった。
メインストリートのマイマイ通りに出て南へ向かうと、道の反対側に下田御陣屋跡碑と並んで春水の松がある。
ここは明治29年に医業を営む傍ら、小説「唐人お吉」書きお吉を世に紹介した村松春水の屋敷跡で、この松はそのときの庭木である。
マイマイとは、カタツムリからきた名で、ペリー来航でこのマイマイが日本に上陸したと考えられている。道の向かいに、豆州41番の霊跡の海善寺がある。
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次回は須崎漁港へ。
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