私鉄京王線の、京王という名称の由来は、東京と八王子を結ぶ鉄道。1998年まで、旧京王電気軌道と旧帝都電鉄の路線。
現有路線は、新宿駅 - 京王八王子駅 (37.9km)・ 京王新線は、笹塚駅から新線新宿駅を経て都営新宿線へ直通運転する京王線の別線(複々線)と相模原線の調布駅 - 橋本駅 (22.6km)・競馬場線の東府中駅 - 府中競馬正門前駅 (0.9km)・動物園線の高幡不動駅 - 多摩動物公園駅 (2.0km)
それに、北野駅 - 高尾山口駅 (8.6km)有る。
「京王線新宿駅」の一日乗降人員は約71万人で、これはJRをのぞくと日本の私鉄の中で一番多く、駅係員・乗務員等に対する「サービス介助士」取得を推進していると云う。
また、京王線内の駅自動放送の女性アナウンスは声優の「大原さやかさん」が担当し、駅の案内表示に関しては最近改良工事を行った駅を中心にユニバーサルデザインのピクトグラムを導入して、英語の表記に関しては独特のフォントを使っている。
駅のトイレに関してはユニバーサルデザイン対応多機能トイレ「だれでもトイレ」の設置を促進中と云う、どこのトイレも気持ちいい。
2013年のダイヤ改定と同時に、早くから全駅に順次駅ナンバリングを導入。無駄の少ない私鉄京王線と言える。
今日は、「世田谷千歳烏山駅」からスタートする。
京王線車内の路線図
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調布市、都の中央部、古代朝廷に納めた調(税)として「カラムシ」の原料にした布を生産しと事に由来すると云う。布田・染地の地名が残っておる。
神代町は、昭和30年合併している。武蔵野台地の南部に位置する。この辺りは、段丘下に湧水多く、「深大寺湧水」が知られている。
川は、「野川・東部に仙川」、入間川の水源。稲田堤の桜は名所に。
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「神代植物公園」
は、「深大寺」に隣接、都立植物園である。昭和36年武蔵野自然林を切り開いて開園した。
面積は、約40万m2ある。入園料65歳以上¥250
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園内には約4500種類・10万株の草木と植物会館もあり、国の研究機関にもなっている。
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四季折々の花が楽しめる、近いので毎月一回入園して、「深大寺そば」を。
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温室では、洋ラン類ー1月~5月半ば・ベゴニアーは一年中・熱帯スイレン3月末~9月。(花期は多少ずれる)
ロウバイ・クリスマスローズ・梅・フクジュソウ・椿などは、1月~3月頃
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5月頃花を咲かすバラ類の手入れがされていた。
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「人間の植物の利用は、多様」
栄養源としての利用、 葉・茎・根・果実を穀物・野菜・果物として、そのままあるいは調理、加工して摂取、健康のために薬用植物として摂取、
漢方薬など、人間生活のための利用している。
原料や材料として利用。 材木として。(木造の家屋の柱、壁、天井、床。家具などに。あるいは木工材料全般、彫刻の材木として)、竹細工、籐家具 等々繊維質を利用して(紙の原料のパルプ、和紙、麻紐、麻布、畳、縄、わらじ 等々)
生きたまま防風林として、生きたまま生垣として。エネルギーの生産のため。(木炭や竹炭など)
鑑賞用 観葉植物ーガーデニング、園芸、いけばなで、押し花、絵画や彫刻の対象として(アールヌーボーでは植物は主要なモチーフ)
酸素のつくり手として。良好な環境をつくり出してくれる存在でもある。良質な微量物質に触れたり、ストレス解消に活用するために森林浴
(存在を特に望んでいない場合は人は植物を勝手に)雑草や雑木などと呼ぶこともある。
自由広場通りにはさくら並木が。バラ畑などの植林で一面広がっていた。公園中央の築山には、山野草。
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植物は、その場の環境に合わせ生き、学ぶところ多い。
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「日本で見られる針葉樹林」は、大部分が人工林。
暖帯から温帯ではスギやヒノキ、より寒い地域ではカラマツの植林が多い。
特にひと頃の拡大造林の方針のため、自然林より大きな面積を占める。現在は材木としての収益が商売にならないほど下がり、手入れを放棄された人工林があちこちに見られ、問題に。
クロマツ、アカマツは、広葉樹の高木の生育が困難な厳しい環境条件下で局所的に安定した群落を維持することを除くと、遷移により次第に広葉樹林になってゆく先駆者樹木であるが、かつては、民家の燃料としてマツの落葉落枝がよく使用され、それによってマツ林が長期にわたって維持されるが、
その後の生活の変化によってマツ林に人手が入らなくなり、そこへ「マツクイムシ」による被害(マツ枯れ)が重なり、現在では大きく減少している。
深大寺を挟み「水生植物園とそば畑・深大寺城址(国史跡)」
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天平5年の1537年、「扇谷上杉朝定」が、対向北条氏網に江戸城奪われ、奮回・退勢挽回を目指して古城を再築したのが「深大寺城」。
だが、本拠地「川越城」は攻め抜かれ敗戦、その役割を果たすことなく、同年に廃城している。
標高50m位の崖緑地で中世の蓮郭式城郭で、崖下は野川北岸の立川面が広がっている
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空堀跡・土塁一部見る事が出来た。第3郭部分まで発掘され全体像が判明している。
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「扇谷・上杉 朝定」は、武蔵国の戦国大名。扇谷上杉家の最後の当主。
1525年、上杉朝興の子として生まれ、1537年に父が死去したため、家督を継いだ。後北条氏に対抗するため、武蔵国府中・深大寺に城「深大寺城」
を築いている。
ところが若年の朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱に、河越城を攻め、朝定は敗走し、松山城を居城とした。
1541年、長年抗争していた宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、北条氏康に対抗。
1545年には駿河の今川義元と連携して対北条大包囲網を作る。義元が挙兵して氏康が駿河へ出陣した隙に、憲政や古河公方足利晴氏らと連合した8万の大軍で河越城を攻める。河越城主「北条綱成」の善戦に遭うものの、落城寸前にまで追い込んだ。しかし翌、1546年4月、今川との戦いを収めて河越城の後詰にかけつけた北条氏康の奇襲に遭い、河越の戦い(河越夜戦)で扇谷上杉軍は大敗、当主朝定は討死、他の連合軍は四散し、河越城奪還の夢は砕かれた。享年22。
ただし、朝定を誰が討ち取ったかなど、死亡状況を伝える記録が全く存在しないことから、朝定の実際の死因は病死の可能性も排除できず不明であり、連合軍の崩壊の原因を北条軍の奇襲ではなく、朝定の突然の死に求める説もあると云う。
朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興を図ったが、まもなく後北条氏に屈服している。
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「太田道灌」1432-86 主君上杉定正によって殺された道灌の死を目前に「当方滅亡」と叫んだと伝わるが、その通りとなる。
扇谷上杉家は断絶する。
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国指定史跡「深大寺城跡」
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そばの歴史は、古く、奈良時代から食べられていると云う。
粒のまま粥にし、あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)や、蕎麦焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などとして食したようである。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。
蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。
同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明している。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
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「深大寺そば」も、地域の農家が「そば切り」として深大寺に奉納していたと云う。
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次回は、隣接している古刹「深大寺」へ。
現有路線は、新宿駅 - 京王八王子駅 (37.9km)・ 京王新線は、笹塚駅から新線新宿駅を経て都営新宿線へ直通運転する京王線の別線(複々線)と相模原線の調布駅 - 橋本駅 (22.6km)・競馬場線の東府中駅 - 府中競馬正門前駅 (0.9km)・動物園線の高幡不動駅 - 多摩動物公園駅 (2.0km)
それに、北野駅 - 高尾山口駅 (8.6km)有る。
「京王線新宿駅」の一日乗降人員は約71万人で、これはJRをのぞくと日本の私鉄の中で一番多く、駅係員・乗務員等に対する「サービス介助士」取得を推進していると云う。
また、京王線内の駅自動放送の女性アナウンスは声優の「大原さやかさん」が担当し、駅の案内表示に関しては最近改良工事を行った駅を中心にユニバーサルデザインのピクトグラムを導入して、英語の表記に関しては独特のフォントを使っている。
駅のトイレに関してはユニバーサルデザイン対応多機能トイレ「だれでもトイレ」の設置を促進中と云う、どこのトイレも気持ちいい。
2013年のダイヤ改定と同時に、早くから全駅に順次駅ナンバリングを導入。無駄の少ない私鉄京王線と言える。
今日は、「世田谷千歳烏山駅」からスタートする。
京王線車内の路線図
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調布市、都の中央部、古代朝廷に納めた調(税)として「カラムシ」の原料にした布を生産しと事に由来すると云う。布田・染地の地名が残っておる。
神代町は、昭和30年合併している。武蔵野台地の南部に位置する。この辺りは、段丘下に湧水多く、「深大寺湧水」が知られている。
川は、「野川・東部に仙川」、入間川の水源。稲田堤の桜は名所に。
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「神代植物公園」
は、「深大寺」に隣接、都立植物園である。昭和36年武蔵野自然林を切り開いて開園した。
面積は、約40万m2ある。入園料65歳以上¥250
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園内には約4500種類・10万株の草木と植物会館もあり、国の研究機関にもなっている。
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四季折々の花が楽しめる、近いので毎月一回入園して、「深大寺そば」を。
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温室では、洋ラン類ー1月~5月半ば・ベゴニアーは一年中・熱帯スイレン3月末~9月。(花期は多少ずれる)
ロウバイ・クリスマスローズ・梅・フクジュソウ・椿などは、1月~3月頃
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5月頃花を咲かすバラ類の手入れがされていた。
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「人間の植物の利用は、多様」
栄養源としての利用、 葉・茎・根・果実を穀物・野菜・果物として、そのままあるいは調理、加工して摂取、健康のために薬用植物として摂取、
漢方薬など、人間生活のための利用している。
原料や材料として利用。 材木として。(木造の家屋の柱、壁、天井、床。家具などに。あるいは木工材料全般、彫刻の材木として)、竹細工、籐家具 等々繊維質を利用して(紙の原料のパルプ、和紙、麻紐、麻布、畳、縄、わらじ 等々)
生きたまま防風林として、生きたまま生垣として。エネルギーの生産のため。(木炭や竹炭など)
鑑賞用 観葉植物ーガーデニング、園芸、いけばなで、押し花、絵画や彫刻の対象として(アールヌーボーでは植物は主要なモチーフ)
酸素のつくり手として。良好な環境をつくり出してくれる存在でもある。良質な微量物質に触れたり、ストレス解消に活用するために森林浴
(存在を特に望んでいない場合は人は植物を勝手に)雑草や雑木などと呼ぶこともある。
自由広場通りにはさくら並木が。バラ畑などの植林で一面広がっていた。公園中央の築山には、山野草。
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植物は、その場の環境に合わせ生き、学ぶところ多い。
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「日本で見られる針葉樹林」は、大部分が人工林。
暖帯から温帯ではスギやヒノキ、より寒い地域ではカラマツの植林が多い。
特にひと頃の拡大造林の方針のため、自然林より大きな面積を占める。現在は材木としての収益が商売にならないほど下がり、手入れを放棄された人工林があちこちに見られ、問題に。
クロマツ、アカマツは、広葉樹の高木の生育が困難な厳しい環境条件下で局所的に安定した群落を維持することを除くと、遷移により次第に広葉樹林になってゆく先駆者樹木であるが、かつては、民家の燃料としてマツの落葉落枝がよく使用され、それによってマツ林が長期にわたって維持されるが、
その後の生活の変化によってマツ林に人手が入らなくなり、そこへ「マツクイムシ」による被害(マツ枯れ)が重なり、現在では大きく減少している。
深大寺を挟み「水生植物園とそば畑・深大寺城址(国史跡)」
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天平5年の1537年、「扇谷上杉朝定」が、対向北条氏網に江戸城奪われ、奮回・退勢挽回を目指して古城を再築したのが「深大寺城」。
だが、本拠地「川越城」は攻め抜かれ敗戦、その役割を果たすことなく、同年に廃城している。
標高50m位の崖緑地で中世の蓮郭式城郭で、崖下は野川北岸の立川面が広がっている
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空堀跡・土塁一部見る事が出来た。第3郭部分まで発掘され全体像が判明している。
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「扇谷・上杉 朝定」は、武蔵国の戦国大名。扇谷上杉家の最後の当主。
1525年、上杉朝興の子として生まれ、1537年に父が死去したため、家督を継いだ。後北条氏に対抗するため、武蔵国府中・深大寺に城「深大寺城」
を築いている。
ところが若年の朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱に、河越城を攻め、朝定は敗走し、松山城を居城とした。
1541年、長年抗争していた宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、北条氏康に対抗。
1545年には駿河の今川義元と連携して対北条大包囲網を作る。義元が挙兵して氏康が駿河へ出陣した隙に、憲政や古河公方足利晴氏らと連合した8万の大軍で河越城を攻める。河越城主「北条綱成」の善戦に遭うものの、落城寸前にまで追い込んだ。しかし翌、1546年4月、今川との戦いを収めて河越城の後詰にかけつけた北条氏康の奇襲に遭い、河越の戦い(河越夜戦)で扇谷上杉軍は大敗、当主朝定は討死、他の連合軍は四散し、河越城奪還の夢は砕かれた。享年22。
ただし、朝定を誰が討ち取ったかなど、死亡状況を伝える記録が全く存在しないことから、朝定の実際の死因は病死の可能性も排除できず不明であり、連合軍の崩壊の原因を北条軍の奇襲ではなく、朝定の突然の死に求める説もあると云う。
朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興を図ったが、まもなく後北条氏に屈服している。
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「太田道灌」1432-86 主君上杉定正によって殺された道灌の死を目前に「当方滅亡」と叫んだと伝わるが、その通りとなる。
扇谷上杉家は断絶する。
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国指定史跡「深大寺城跡」
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そばの歴史は、古く、奈良時代から食べられていると云う。
粒のまま粥にし、あるいは蕎麦粉を蕎麦掻き(そばがき、蕎麦練り とも言う)や、蕎麦焼き(蕎麦粉を水で溶いて焼いたもの。麩の焼きの小麦粉を蕎麦に置き換えたもの)などとして食したようである。
蕎麦粉を麺の形態に加工する調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭に生まれたといわれる。
蕎麦掻きと区別するため蕎麦切り(そばきり)と呼ばれた。現在は、省略して単に蕎麦と呼ぶことが多いが、「蕎麦切り」の呼称が残る地域も存在する。
この蕎麦切りの存在が確認できる最も古い文献は、長野県木曽郡大桑村須原にある定勝寺の寄進記録である。
同寺での1574年(天正2年)初めの建物修復工事完成に際しての寄進物一覧の中に「振舞ソハキリ 金永」というくだりが確認でき、少なくともこの時点で蕎麦切りが存在していたことが判明している。
他に蕎麦切り発祥地として中山道本山宿(現在の長野県塩尻市宗賀本山地区)という説、甲斐国の天目山栖雲寺(現在の山梨県甲州市大和町)説(天野信景著『塩尻』)もあるが、定勝寺文書の傍証に鑑みるに、確実な発祥地とは言い難い。
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「深大寺そば」も、地域の農家が「そば切り」として深大寺に奉納していたと云う。
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次回は、隣接している古刹「深大寺」へ。
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