syuの日記・気まま旅

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頼りの母残念な逝去

2016-09-27 | 思い出



母は、かって貧乏旗本「M家」から平民の父のもとに見合いで嫁いでいる。
父は、日本橋で生まれ、商家の長男、背も高く優しい風貌を持ったどちらかと云えば男前、
175CMの長身、いい男の部類に属すだろう。
商家は、次男が引き継ぎ、本人は、大学を出て出版社へ就職。
母は、160CMのうりざね顔の色の白、典型的日本美人と云えた。
性格も明るく、くよくよすることが嫌いで、意気で気風の良くユーモアのある頼りの家族の中心人だった。
頼りにした父には、これと云って才覚のあるわけでもなく、sから見て、平凡な人で、家のことは、すべて母に頼り切っている。
母は、働き者で、人から聞いた情報を頼りに東武線の越谷方面へ月数回買い出しに、、母の着物を背負い食料と物々交換、
交渉もうまかった。また、子供連れが良かったのか、小学のSが、一番多く連れだされた、。

だんだん交換する物資も底を突き出し思うように交換できなくなっている所に、大家さんから移るように言われ、
やもえず、一軒屋の桜木町は、わずか半年で、中根岸町へ引っ越した。

中根岸の御行の松(現在は姿を消している)


一代目の大松の一部が、(安藤広重)


                   不動尊本殿


ここは、桜木町と違い2階建ての古い暗い家で、
二階は、根岸芸者の置屋として使われていたので、2階の使える部屋は、たった8畳の一部屋。

今までわが家は、それほど貧乏だと思って居なかったが、根岸町の借家に入り子供心にわが家も経済的に
大変なのだと思うようになった。
歌舞伎好きの両親に連れられて銀座に出掛け食事やデパート、芝居を見ると云う戦前の千鳥町が思い出された。
それが終戦と同時に借家から借家の生活であった、ろくに食べる物もなく、毎日毎日ひもじい生活が続いた。
母は、自分は食べたふりをして食べ盛りの我々、子供に,弱音は吐いたことがない強い母、弱虫を嫌った明治生まれの母。
また疎開先まで持って行った僅かな着物などを食料に換え、金目の物はみるみるなくなっていった。
母は、他人には優しかった、家がどんなに困っていようと、他人が困っている様子を見ると黙っていられない性格であった。

父のお客が来れば、できる限り接待をし、同居をしていた従兄弟が友達を大勢連れて来た時などでも、
なけなしの食料をいろいろ工夫し、食べ盛りの彼らにご馳走をしていた。
我々子供には、「これから日本の為に頑張る人たちなんだから我慢しなさい」という母だった。

数年後彼らは中には、東大の教授、船舶の会社社長、医師等に。
母は、中学の兄を東大にと期待していたようだ。
長女の姉にも、厳しく家庭科の宿題は母がやり、その代り英語の単語を覚えるようにと云う教育熱心な母であった。

父は、コンデンサーの電気関係の会社経営していたが、下町にあった工場が台風で大損失を。
倒産寸前で、父は、心も荒れていた。
こんな時代でも酒好きで、家では毎日晩酌を欠かさず、酒の度が過ぎると、
急にちゃぶ台をひっくり返すといった気の小さい短気な所もあり、家じゅう大変な騒ぎになることもあった。

父、子供達は全て母一人の背に掛かっていたのである。
小学二年の冬、雪の降る寒い日、私か高熱を出し学校を3日休んだことがあった、その時母は、一生懸命看病し、
父でも滅多に口にしない鯛の煮つけを特別に食べさせてくれた。
母は、「みんなに内緒よ」と云いながら御粥と一緒に口まで運んでくれた、その時母の子でよかったと嬉し泣きをしたことを覚えている。

小学三年に入り、隣町の上根岸に家を新築し、再び自分たちだけの家が建った。家が持てたのだ、家族全員大喜びした、
母は、父の収入の中やりくりで資金を蓄えていた。
姉、兄の月謝だけでも大変だろうに、父は「収入は増していない中良く蓄えたと感心していた。

母は、洋裁が好きでミシンを良く踏んでいた、われわれの衣服は母の手作りで、子供たちの前では、
愚痴と不満を口にしたことは無い。
子供に対ししつけは厳しく、母に、あざになるほどつねられ、痛かったことを思い出す。
我が家もやっと落ち着き、一家水入らずの平和な日々が続いていたが、
母は家の新築、引っ越し、買いだし、家計のやり繰りなど疲れが一気に出たのか体調を崩してしまった。

母は人前では決して弱音を吐かない勝気な女性であったので、東大に入院した時には重症であった。
即入院と云われた時は我が家の大黒柱であっただけに、家族のショックは大きかった。
医療もこの時代であり、全てが不足して天下の東大といえども、すべての抗生物質(ペニシリン)を手に入れるのは大変であった。
母は、すっかり痩せてしまった。長女の姉は、そんな母を見て我々に「若い時の美しかった昔のようだ」と云った。

叔父の関係で特別に手に入れた薬などで最善の治療をしたが、そのかいもなく半年で他界した。
昭和22年7月19日、私が小学3年生であった。42歳、あまりにも短い命であった。
死を直前にしたとき、姉にお化粧をしてほしいといい、身ずくろいをし、我々を枕元に呼んで「お父さんをお願いね、家族助け合ってね。」と云い少しも乱れを見せず静かに息を引き取った。
旗本の衿持を失わず毅然と生きた。武家の女性の最後の死、明治の強い東京人女性であった。




姉は、高校・兄は、私立中学・Sは、小学校3年生・弟は、幼児。父のコンデンサー工場は、水害で倒産、家には差し押さえの赤紙が。

        上根岸の正岡子規庵



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