3回に分けて練馬区「石神井公園三宝寺池」と荒川区の「太田道灌」の道灌山を歩きました。
判りにくいので練馬区豊島氏の成り立ちを資料から掲載します。
、
平安時代、桓武天皇の孫の高望王が臣籍降下して平姓を賜り関東に土着した。その子平良文の孫の平将常は武蔵権守となって武蔵国秩父郡中村郷に土着して秩父氏を称し
「秩父将常」となった。秩父氏は三浦氏、千葉氏、鎌倉氏、大掾氏などに並ぶ坂東八平氏に数えられる大きな勢力を張った。
秩父氏からは畠山氏、稲毛氏、河越氏、江戸氏などの多くの氏族が武蔵国各地に進出して秩父党と呼ばれる武士団を形成した。
秩父常将の次男秩父武常は、治安3年(1023年)に武蔵介藤原真枝を討った功により、武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜り、この頃に豊島氏または
葛西氏を称したと考えられている。一方で、近年の研究では二代あとの秩父康家が豊島氏の初代ではないかとも考えられている。
現在の東京都北区豊島町が豊島氏発祥の地とされる。北区の平塚神社が豊島舘跡と伝わり、豊島氏初期の事績を綴った「平塚神社縁起絵巻」が残っている。
平忠常の乱以来、清和源氏の一流、源頼信の系統(河内源氏)が関東へ進出して坂東八平氏は源氏の家人となっていた。武常も源頼義・義家に従って前九年の役で
奥州で戦って戦死している。保元の乱での源義朝の配下で武名をあげた武士に「豊島四郎」の名がみえる。
練馬区石神井は、区の南西部郊外住宅地域、「石を祀る石神信仰に由来する、石神井神社」昔は、豊島郡石神井村で昭和7年は、東京市板橋区
昭和22年練馬区となる。
鉄道は、西武池袋線と新宿線、青梅街道と環八通り、所沢道、石神池、三宝池の公園を中心に発展している。
「禅定院」は、約600年前に願行上人が草創したと伝えられ、もと三宝寺末寺。1874年には、当地に区内初の公立小学校として豊島小学校が開校した。
禅定院は、照光山無量寺といい、真言宗智山派(豊島八十八ヶ所霊場第70番札所)のお寺で、本尊は阿弥陀如来。
新編武蔵風土記稿によれば、今から約600年前、願行上人によって開かれたお寺であると伝え、1818-30年の火災で、建物・記録などことごとく焼失、
境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さをうかがうことができる。
門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は石神井村の光明真言講中によって造立されたもの。
本堂前の1673年と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられている。
バス停石神井公園前沿いの禅定寺 正門
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禅定院にある区登録文化財は、橘絞椿几帳柄鏡•石幢六面六地蔵•織部燈など。
キリシタン石塔 鐘楼
「道場寺」は、豊島山といい曹洞宗(禅宗)の寺、北朝応安5年 1372年、当時の「石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)」が、
大覚禅師を招いて建てたもので、輝時は自分の土地を寺に寄付して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられている。
今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には、1477年 太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主「豊島泰経」や一族の墓と伝えられる石塔三基がある。
道場寺には、北条氏康印判状が所蔵され、この古文書は、1562年、小田原の「北条康氏」1515~71年、から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状内容は、
道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、区内では、現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書である。
境内の三重塔(昭和48年(1973)建築)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利は奉安されている。
豊島氏の菩提寺 道場寺 門楼
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区指定文化財ー 北条氏康印判状。
三重塔は、 山門を入って左手に、そびえ、道路からもその姿を見ることが出来る。
1973年に総欅造で建立されたもので、福井県若狭小浜の明通寺三重塔(国宝)をモデルとしているという。
三重塔 鐘楼 本堂
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「三宝寺」は、本尊 不動明王、創建年 応永元年 1394年、正式名は、「亀頂山密乗院三宝寺」と云う。
札所ー武蔵野三十三観音霊場第三番、根本大塔三宝寺は、真言宗智山派の寺院。山号は亀頂山、三宝寺池の由来になっている。
寺院は、1394年 に鎌倉・大徳寺の幸尊法印によって開かれた。
当時石神井城を築き付近を治めていた豊島氏からも帰依を受けていた。豊島氏が滅んだあと、後北条氏や徳川家からも保護を受け、徳川家光の鷹狩の際に
休憩場としても使われ、朱印地十石を与えられている。
無本寺になり格式ある寺院となった。山門は徳川家ゆかりの門ということで、御成門と呼ばれ、現在のは1827年に建てられたものである。
また境内にある長屋門は勝海舟の邸宅にあった門。
三宝寺 鐘楼 本堂
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三宝寺の梵鐘は、銅製で総高164.4cm、口径85.8cm、縁厚29cm。
銘文によれば作者は江戸時代に多くの鐘を造った鋳物師いもじとして知られた椎名伊予守いよのかみ藤原吉寛で、1675年に制作、鐘楼に掛けられた。
山門は四脚門で、屋根は書物を開いて「へ」の字なりにしたような切妻造りで、銅板ぶき、天井は、木を組んで格子形に仕上げた「格天井」となっている。
将軍家光が鷹狩りでお成りになったと伝わっており、「御成門」とも呼ばれている。現在の門は、1827年の建築で、1953年に修復したもの。
全体的に重厚な門で、ゾウやバクなどの彫刻と細部絵様ようは江戸時代後期の特徴を示している。
三宝寺 境内 釈迦堂
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石段を上がると、広い敷地に雄大きな「宝篋印塔」が、この塔、天明元年1781年造立とある。
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「郷村鎮座、氷川神社」創建は、室町時代の応永年間 1394年-1428年に石神井城城主「豊島泰経」が、武蔵一宮である大宮氷川神社から御分霊を奉祭したのが始まり。
石神井城跡の氷川神社参道 本殿
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富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置、「大宮の氷川神社・中川の中氷川神社、三室の氷川女体神社」が
浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。
さいたま市の「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来。祭神、3柱。 須佐之男命、 奇稲田姫命、 大己貴命。
境内 石塔
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参考に
現豊島園にあった「練馬城」は1331年-1333年頃に成立したと推定、豊島氏の一族が領した。城の起源は豊島氏の支族が練馬の地に居館を営んだものであるといわれている。
豊島氏は、1476年、に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内・扇谷両上杉氏と戦った。
この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である「石神井城」とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たした。
江古田・沼袋原の戦いで、両上杉方の「太田道灌」は、「豊島泰経」と戦って勝利し、豊島一族が立てこもった「石神井城」を落城させた。
練馬城については記録がないが、このとき太田道灌の攻撃によって陥落したと考えられている。城跡の中心部は、豊島園の敷地になり、遺構はほとんど残っていない。
次回は、石神井城跡へ。
判りにくいので練馬区豊島氏の成り立ちを資料から掲載します。
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平安時代、桓武天皇の孫の高望王が臣籍降下して平姓を賜り関東に土着した。その子平良文の孫の平将常は武蔵権守となって武蔵国秩父郡中村郷に土着して秩父氏を称し
「秩父将常」となった。秩父氏は三浦氏、千葉氏、鎌倉氏、大掾氏などに並ぶ坂東八平氏に数えられる大きな勢力を張った。
秩父氏からは畠山氏、稲毛氏、河越氏、江戸氏などの多くの氏族が武蔵国各地に進出して秩父党と呼ばれる武士団を形成した。
秩父常将の次男秩父武常は、治安3年(1023年)に武蔵介藤原真枝を討った功により、武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜り、この頃に豊島氏または
葛西氏を称したと考えられている。一方で、近年の研究では二代あとの秩父康家が豊島氏の初代ではないかとも考えられている。
現在の東京都北区豊島町が豊島氏発祥の地とされる。北区の平塚神社が豊島舘跡と伝わり、豊島氏初期の事績を綴った「平塚神社縁起絵巻」が残っている。
平忠常の乱以来、清和源氏の一流、源頼信の系統(河内源氏)が関東へ進出して坂東八平氏は源氏の家人となっていた。武常も源頼義・義家に従って前九年の役で
奥州で戦って戦死している。保元の乱での源義朝の配下で武名をあげた武士に「豊島四郎」の名がみえる。
練馬区石神井は、区の南西部郊外住宅地域、「石を祀る石神信仰に由来する、石神井神社」昔は、豊島郡石神井村で昭和7年は、東京市板橋区
昭和22年練馬区となる。
鉄道は、西武池袋線と新宿線、青梅街道と環八通り、所沢道、石神池、三宝池の公園を中心に発展している。
「禅定院」は、約600年前に願行上人が草創したと伝えられ、もと三宝寺末寺。1874年には、当地に区内初の公立小学校として豊島小学校が開校した。
禅定院は、照光山無量寺といい、真言宗智山派(豊島八十八ヶ所霊場第70番札所)のお寺で、本尊は阿弥陀如来。
新編武蔵風土記稿によれば、今から約600年前、願行上人によって開かれたお寺であると伝え、1818-30年の火災で、建物・記録などことごとく焼失、
境内にある応安、至徳(南北朝時代)年号の板碑によっても創建の古さをうかがうことができる。
門前の堂宇に安置された六地蔵や鐘楼前の大宝篋印塔は石神井村の光明真言講中によって造立されたもの。
本堂前の1673年と刻まれた織部灯籠(区登録文化財)はその像容から別名キリシタン灯籠といわれ、区内でも珍しい石造物の一つに数えられている。
バス停石神井公園前沿いの禅定寺 正門
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禅定院にある区登録文化財は、橘絞椿几帳柄鏡•石幢六面六地蔵•織部燈など。
キリシタン石塔 鐘楼
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「道場寺」は、豊島山といい曹洞宗(禅宗)の寺、北朝応安5年 1372年、当時の「石神井城主豊島景村の養子輝時(北条高時の孫)」が、
大覚禅師を招いて建てたもので、輝時は自分の土地を寺に寄付して、豊島氏代々の菩提寺としたと伝えられている。
今でも豊島氏の菩提が弔われ、境内には、1477年 太田道灌に滅ぼされた豊島氏最後の城主「豊島泰経」や一族の墓と伝えられる石塔三基がある。
道場寺には、北条氏康印判状が所蔵され、この古文書は、1562年、小田原の「北条康氏」1515~71年、から禅居庵にあてて発給した虎の朱印状内容は、
道場寺分の段銭、懸銭などの税金を免除するもので、区内では、現在のところ練馬区に関係する唯一の後北条氏の文書である。
境内の三重塔(昭和48年(1973)建築)内には、人間国宝であった香取正彦作の金銅薬師如来像が置かれ、その台座にはスリランカより拝受の仏舎利は奉安されている。
豊島氏の菩提寺 道場寺 門楼
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区指定文化財ー 北条氏康印判状。
三重塔は、 山門を入って左手に、そびえ、道路からもその姿を見ることが出来る。
1973年に総欅造で建立されたもので、福井県若狭小浜の明通寺三重塔(国宝)をモデルとしているという。
三重塔 鐘楼 本堂
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「三宝寺」は、本尊 不動明王、創建年 応永元年 1394年、正式名は、「亀頂山密乗院三宝寺」と云う。
札所ー武蔵野三十三観音霊場第三番、根本大塔三宝寺は、真言宗智山派の寺院。山号は亀頂山、三宝寺池の由来になっている。
寺院は、1394年 に鎌倉・大徳寺の幸尊法印によって開かれた。
当時石神井城を築き付近を治めていた豊島氏からも帰依を受けていた。豊島氏が滅んだあと、後北条氏や徳川家からも保護を受け、徳川家光の鷹狩の際に
休憩場としても使われ、朱印地十石を与えられている。
無本寺になり格式ある寺院となった。山門は徳川家ゆかりの門ということで、御成門と呼ばれ、現在のは1827年に建てられたものである。
また境内にある長屋門は勝海舟の邸宅にあった門。
三宝寺 鐘楼 本堂
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三宝寺の梵鐘は、銅製で総高164.4cm、口径85.8cm、縁厚29cm。
銘文によれば作者は江戸時代に多くの鐘を造った鋳物師いもじとして知られた椎名伊予守いよのかみ藤原吉寛で、1675年に制作、鐘楼に掛けられた。
山門は四脚門で、屋根は書物を開いて「へ」の字なりにしたような切妻造りで、銅板ぶき、天井は、木を組んで格子形に仕上げた「格天井」となっている。
将軍家光が鷹狩りでお成りになったと伝わっており、「御成門」とも呼ばれている。現在の門は、1827年の建築で、1953年に修復したもの。
全体的に重厚な門で、ゾウやバクなどの彫刻と細部絵様ようは江戸時代後期の特徴を示している。
三宝寺 境内 釈迦堂
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石段を上がると、広い敷地に雄大きな「宝篋印塔」が、この塔、天明元年1781年造立とある。
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「郷村鎮座、氷川神社」創建は、室町時代の応永年間 1394年-1428年に石神井城城主「豊島泰経」が、武蔵一宮である大宮氷川神社から御分霊を奉祭したのが始まり。
石神井城跡の氷川神社参道 本殿
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富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置、「大宮の氷川神社・中川の中氷川神社、三室の氷川女体神社」が
浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。
さいたま市の「大宮」の地名は、当社を「大いなる宮居」と称えたことに由来。祭神、3柱。 須佐之男命、 奇稲田姫命、 大己貴命。
境内 石塔
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参考に
現豊島園にあった「練馬城」は1331年-1333年頃に成立したと推定、豊島氏の一族が領した。城の起源は豊島氏の支族が練馬の地に居館を営んだものであるといわれている。
豊島氏は、1476年、に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内・扇谷両上杉氏と戦った。
この乱において、両上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である「石神井城」とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たした。
江古田・沼袋原の戦いで、両上杉方の「太田道灌」は、「豊島泰経」と戦って勝利し、豊島一族が立てこもった「石神井城」を落城させた。
練馬城については記録がないが、このとき太田道灌の攻撃によって陥落したと考えられている。城跡の中心部は、豊島園の敷地になり、遺構はほとんど残っていない。
次回は、石神井城跡へ。
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