現在、約250軒あろう中華街を出ると山下公園と氷川丸、横浜開港資料館、山下埠頭と大桟橋ふ頭、人形の家、マリンタワー、丘の上は、
港の見える丘公園、外人墓地、資料館と続き、反対側は、新港の赤レンガ倉庫、日本丸メモリアパークである。
中華街昼食し港へ 氷川丸
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「氷川丸」
公園に係留する我が国豪華客船、日本郵船の北米航路定期船として1930年から30年航海した。1万1625tで長さ163.3m、巾20.1m。
船内は、船首楼・世界一周室・海底深険館・結婚式場まであり、夏はデッキでビアガーデンとなる。
東側の、「人形家」は、約120ヵ国、7000余りの人形が展示され、「青い目の人形」日米親善交流の人形もある。
港の見える丘公園
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我が国代表する貿易港は、1923年の関東大震災で大被害を受け、港湾機能は停滞し、外国商社は、根拠地を東京に移している。その次に
第二次世界大戦末期横浜大空襲で市街地42%が焼失し、戦後は、港湾施設90%が米軍に接収された。
横浜市の財政は悪化したが、1952年 昭和27年から接収解除されていく。
1989年の横浜ベイブリッジが完成して名所に、横浜21席プランで大きく変貌を遂げている町である。
公園中央の噴水
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横浜市には、県庁・波止場・大桟橋・公園の周りには、幕末の開国・開港の史跡や記念館などが残っている。馬車道など街並みも当時の街並みで、「港横浜」の面影、エキゾチック郷愁を誘っている。
赤レンガ倉庫のある桜木町方向
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横浜は、文学の街でもある。大仏次郎記念館・県近代文学館など。
原稿・遺品、記念品・蔵書など多数。
ゆかりの作家として、大仏次郎・川端康成・谷崎潤一郎・夏目漱石・島崎藤村など上げられる。
「大仏次郎」 1897-1973 大衆文壇の重鎮、横浜生まれ、天文研究家野尻氏の長男、東京帝国大卒、1923年の関東大震災を契機に外務省
退職し作家活動に入る。「鞍馬天狗」を連載、新聞小説「照る日曇る日・赤穂浪士」「パリ燃ゆ、、、」文化勲章受章。
月一、海を見に出かけている。
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「旧居留地90番地の大砲(開港広場)」所在地〕 中区日本大通
明治期に製造された鋳鉄製の11ポンドカノン砲。口径11.5cm、全長252.5cm、重量1480kg。オランダ東インド会社の船の備砲。
90番地にはスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会があり、大砲を錨に造り替えるために置いておいた時、関東大震災で埋没したと推定。
1959年、建物跡地工事中に発見された3門の大砲のうちの1つで、屋外展示されていたが、平成15年に横浜市に寄贈され現在地に移された。
ほか1つは歴史資料館に、1つは山下町90番地(屋外)に保存展示されていると云う。
3門残っているその一つ、ボンドカノン砲。
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「日本大通り」は、ブラントン氏の設計により明治3年に完成、同8年に命名された 日本で初めての西洋式街路。
日本大通りは、神奈川県庁や横浜開港資料館、 横浜郵便局、旧商工奨励館、旧市外電話局、横浜地方・簡易裁判所、三井物産横浜 ...。
「みなと大通り」は、横浜市役所、通りの向こうには、「横浜スタジアム」が見えている。
みなと大通りを海岸に向かって歩いて行くと、本町通りとの交差点から海岸通りとの 交差点にかけて横浜市開港記念会館、神奈川県庁本庁舎、横浜税関といった歴史的 建築物が。
「海河道」は、横浜中華街外、 海河は中国を流れる大河川のひとつ 。
華北でも最大級の川で、 時の皇帝、愛新覚羅溥儀は内戦を逃れ白河 をのぼって満州に向かったと歴史は記している。
白河は中国の歴史でとても重要な地域。
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この場所には、港崎遊郭があったところ。
1866年の大火「豚屋火事」によって焼失、明治維新の最中であったことから復興が遅れ、明治政府が樹立した後の1875年 明治8年、
在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、土木技師リチャード・ブラントン設計のもと遊郭跡地に公園、
公園から港に向かって新道路が建設され、それぞれが現在の横浜公園と日本大通りとなった。
馬車道や海岸通りも整備され、「横浜公園」は外国人と日本人が共同で使用する公園であったことから、「彼我公園」と呼ばれ園内には
外人居留地運動場(野球場を兼ねたクリケット場など)も建設された。
この運動場では1896年には日本で最初の野球の国際試合が旧制一高ベースボール部と外人クラブの間で行われた。
1929年(昭和4年)には野球場が造られ、1936年には公園内の横浜市から無償貸与された敷地に神奈川県立武道館が開館している。
横浜公園と横浜野球場
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JR関内駅前、「横浜球場」は、1929年 横浜公園平和野球場落成、 1977年 横浜スタジアム設立、 1978年 横浜スタジアム竣工 施設を横浜市へ寄贈すると同時に興行使用権を取得し、 1978年 大洋球団(現:横浜DeNAベイスターズ)の専用球場となる。
JR関内駅に出る。
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次回は、川崎大師へ。
港の見える丘公園、外人墓地、資料館と続き、反対側は、新港の赤レンガ倉庫、日本丸メモリアパークである。
中華街昼食し港へ 氷川丸
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「氷川丸」
公園に係留する我が国豪華客船、日本郵船の北米航路定期船として1930年から30年航海した。1万1625tで長さ163.3m、巾20.1m。
船内は、船首楼・世界一周室・海底深険館・結婚式場まであり、夏はデッキでビアガーデンとなる。
東側の、「人形家」は、約120ヵ国、7000余りの人形が展示され、「青い目の人形」日米親善交流の人形もある。
港の見える丘公園
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我が国代表する貿易港は、1923年の関東大震災で大被害を受け、港湾機能は停滞し、外国商社は、根拠地を東京に移している。その次に
第二次世界大戦末期横浜大空襲で市街地42%が焼失し、戦後は、港湾施設90%が米軍に接収された。
横浜市の財政は悪化したが、1952年 昭和27年から接収解除されていく。
1989年の横浜ベイブリッジが完成して名所に、横浜21席プランで大きく変貌を遂げている町である。
公園中央の噴水
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横浜市には、県庁・波止場・大桟橋・公園の周りには、幕末の開国・開港の史跡や記念館などが残っている。馬車道など街並みも当時の街並みで、「港横浜」の面影、エキゾチック郷愁を誘っている。
赤レンガ倉庫のある桜木町方向
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横浜は、文学の街でもある。大仏次郎記念館・県近代文学館など。
原稿・遺品、記念品・蔵書など多数。
ゆかりの作家として、大仏次郎・川端康成・谷崎潤一郎・夏目漱石・島崎藤村など上げられる。
「大仏次郎」 1897-1973 大衆文壇の重鎮、横浜生まれ、天文研究家野尻氏の長男、東京帝国大卒、1923年の関東大震災を契機に外務省
退職し作家活動に入る。「鞍馬天狗」を連載、新聞小説「照る日曇る日・赤穂浪士」「パリ燃ゆ、、、」文化勲章受章。
月一、海を見に出かけている。
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「旧居留地90番地の大砲(開港広場)」所在地〕 中区日本大通
明治期に製造された鋳鉄製の11ポンドカノン砲。口径11.5cm、全長252.5cm、重量1480kg。オランダ東インド会社の船の備砲。
90番地にはスイスの商社、シーベル・ブレンワルト商会があり、大砲を錨に造り替えるために置いておいた時、関東大震災で埋没したと推定。
1959年、建物跡地工事中に発見された3門の大砲のうちの1つで、屋外展示されていたが、平成15年に横浜市に寄贈され現在地に移された。
ほか1つは歴史資料館に、1つは山下町90番地(屋外)に保存展示されていると云う。
3門残っているその一つ、ボンドカノン砲。
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「日本大通り」は、ブラントン氏の設計により明治3年に完成、同8年に命名された 日本で初めての西洋式街路。
日本大通りは、神奈川県庁や横浜開港資料館、 横浜郵便局、旧商工奨励館、旧市外電話局、横浜地方・簡易裁判所、三井物産横浜 ...。
「みなと大通り」は、横浜市役所、通りの向こうには、「横浜スタジアム」が見えている。
みなと大通りを海岸に向かって歩いて行くと、本町通りとの交差点から海岸通りとの 交差点にかけて横浜市開港記念会館、神奈川県庁本庁舎、横浜税関といった歴史的 建築物が。
「海河道」は、横浜中華街外、 海河は中国を流れる大河川のひとつ 。
華北でも最大級の川で、 時の皇帝、愛新覚羅溥儀は内戦を逃れ白河 をのぼって満州に向かったと歴史は記している。
白河は中国の歴史でとても重要な地域。
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この場所には、港崎遊郭があったところ。
1866年の大火「豚屋火事」によって焼失、明治維新の最中であったことから復興が遅れ、明治政府が樹立した後の1875年 明治8年、
在留外国人の生活環境改善を求めた条約に基づき、土木技師リチャード・ブラントン設計のもと遊郭跡地に公園、
公園から港に向かって新道路が建設され、それぞれが現在の横浜公園と日本大通りとなった。
馬車道や海岸通りも整備され、「横浜公園」は外国人と日本人が共同で使用する公園であったことから、「彼我公園」と呼ばれ園内には
外人居留地運動場(野球場を兼ねたクリケット場など)も建設された。
この運動場では1896年には日本で最初の野球の国際試合が旧制一高ベースボール部と外人クラブの間で行われた。
1929年(昭和4年)には野球場が造られ、1936年には公園内の横浜市から無償貸与された敷地に神奈川県立武道館が開館している。
横浜公園と横浜野球場
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JR関内駅前、「横浜球場」は、1929年 横浜公園平和野球場落成、 1977年 横浜スタジアム設立、 1978年 横浜スタジアム竣工 施設を横浜市へ寄贈すると同時に興行使用権を取得し、 1978年 大洋球団(現:横浜DeNAベイスターズ)の専用球場となる。
JR関内駅に出る。
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次回は、川崎大師へ。
間違え失礼しました。