千葉氏略系図ー・・常重・常胤・胤正・成胤・胤綱・時胤・頼胤・胤宗・貞胤・氏胤・満胤・兼胤・胤直・胤将・「実胤・自胤」(武蔵千葉)。
康胤・胤持・輔胤・・・・・。
「本佐倉城」
室町時代後期に「千葉宗家」を倒して家督を奪った馬加氏。
将軍「足利義政」の命により「千葉実胤と自胤」を支援した「東常縁」に討たれ滅亡した。
太田道灌も「実胤・自胤」を支援し江戸城を築城するなどしたが、馬加康胤の子(異説あり)・「千葉輔胤」は、「古河公方・足利成氏」と結んで
下総国を平定したことで宗家の地位を確保し、文明年間に従来の「亥鼻城」よりも内陸の「本佐倉」に城を築いて本拠地を移した。
1479年、太田道灌が千葉輔胤を攻めたときに追い詰められた輔胤の籠城先が臼井城であったことから、この時点ではまだ本佐倉城は完成していなかったと推定されている。
その後、9代にわたって戦国大名千葉氏宗家の本拠地となったが、
天正18年の1590年、千葉氏が小田原征伐後に改易されると、徳川氏に接収されて一旦は破却され、代わりに城下に陣屋が設置された。
1602年、5万石で松平忠輝が封じられるが、ひと月余後の1603年、信濃国川中島に移封された。
1610年、軍事上の必要から同地に封じられた小笠原吉次、土井利勝が再び本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれた。
1615年、藩庁の佐倉城への移転と一国一城制により廃城となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/10/95f46bef4ef825ff509d8a0e1d7a2357.jpg)
千葉氏の分裂・下総千葉氏は「本佐倉城に移城」
千葉氏本家滅亡後、将軍足利義政に仕えていた「美濃東氏、東常縁」は、美濃の兵を連れて下総国・馬加康種を攻めますが、その途中、美濃の国が
美濃守護代によって奪われたため、美濃国に戻っています。その後下総国は、本家を継いだ千葉康胤の子孫が統治しますが戦乱で荒れ果てた千葉城を
やむなく離れ、新たに印旛沼南岸の「本佐倉城」を築き、本拠地を移します。
これは、印旛沼と古河公方とが水路で繋がるからと云います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/0e/7866a2ab583dad12a50c8c5e695095dd.jpg)
次回の千葉城で取り上げます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/d4/e022bf7070000efc7bea02551013ed15.jpg)
「佐倉城」は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていて、戦国時代、本佐倉城主「千葉親胤」が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、
「千葉邦胤」の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。
築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年、徳川家康の命を受けた「土井利勝」によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。
江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。
城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった「堀田正信」(後に改易されている)の弟・「堀田正俊の孫・堀田正亮」が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。
明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。
その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。昭和37年、市史跡指定され、現在跡地は佐倉城址公園)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/22/f45b3fcb18f7983e99d7818c58de8818.jpg)
「本佐倉城築城」
臼井氏は、千葉一族のなかで最も古い一族で平安時代後期に千葉氏から分かれている。
下総権介平常兼の子常康が印旛郡臼井郷の開発のために同地に赴任して、 のちに臼井氏を称したことに始まった。
臼井氏は、千葉氏の有力支族である椎名氏・相馬氏・大須賀氏などよりも古い歴史を有し、白井・匝瑳・海上氏らが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城を拠点として栄えた。
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馬加・千葉 康胤は、室町時代前期の武将。第14代当主・千葉満胤の次男。
「享徳の乱」に乗じて、千葉氏宗家を攻め滅ばして19代当主に。下総千葉郡馬加村(現在の千葉県千葉市花見川区幕張町)に居を構えたことから
馬加と称した。「千学集抜粋」によれば、常陸国の大掾満幹の養子になったというが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/c3/3333273b5d8cf3a4824e967fd2c4fbd5.jpg)
江戸時代・「土井利勝」 1573-1644 古河藩主 大老、家康の御落胤(家康の伯父)土井利昌の養子・実父は家康とも伝わる。
古河16万石の大名、累進し、重責で、二代秀忠信頼された。兄として信頼を寄せたとも云う。三代家光は「利勝に天下を譲る」とも言っている。
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「堀田正睦」 1810-64 1746年、 堀田房俊、11万石藩主・下総国佐倉藩主の子、江戸生まれ、老中に進すみ、老中首座を務める。一橋派につき老中罷免された。「阿部正弘・水戸斉昭がいなくても堀田正睦がいればいい」と堀田の入閣を大衆は喜んだと云う。隠居は八丁堀。
1610年徳川家康の命により「土井利勝」が築城した佐倉城。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/02/a1256a0c59a3511fbe6ad5afef6868c9.jpg)
1746年から11万石の房総最大の城下町として栄えた。
堀田氏は、藩校「成徳書院」を開き、蘭学を奨励した。藩校は現在の建立佐倉高校の前進。蘭医学の発展から「順天堂」が開かれている。
築城まで、17年の歳月が
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/ef/1fa537abafc2ce53c639e4230fa4cd1e.jpg)
印旛沼の鹿島流域での稲作・野菜生産が盛んで、「佐倉味噌」が知られている。
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258年間、佐倉城・その6割141年間「堀田氏」が治めている。
特に堀田正睦老中としてアメリカハリスとの条約交渉に全力を尽くし、日本開国へと導いた。特に洋学を積極的にとりいれている。
蘭学者 佐藤泰然を佐倉へ招いて、「佐倉順天堂」を開いている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/46/25f97bcaa0fc5a0db768a1992859b475.jpg)
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天守は三階建て
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礎石
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空堀
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城南北堤と坂の町。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/3a/8f34768852e7683735b42b2b33f803bc.jpg)
曲輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/9d/c9ebfab7b9a1782ed85ea20a165c262d.jpg)
椎木門跡
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正岡子規は「常盤木や 冬されまさる 城の跡」と呼んだ 句碑がある。
出丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/23/b54ab54ab8dd4ba051d01c43af1b9947.jpg)
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七曲りの坂が。
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日本100名城の一つ「佐倉城址」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/82/c4805573b85178ac028b40b16c3576f4.jpg)
次回は、千葉城址へ。
康胤・胤持・輔胤・・・・・。
「本佐倉城」
室町時代後期に「千葉宗家」を倒して家督を奪った馬加氏。
将軍「足利義政」の命により「千葉実胤と自胤」を支援した「東常縁」に討たれ滅亡した。
太田道灌も「実胤・自胤」を支援し江戸城を築城するなどしたが、馬加康胤の子(異説あり)・「千葉輔胤」は、「古河公方・足利成氏」と結んで
下総国を平定したことで宗家の地位を確保し、文明年間に従来の「亥鼻城」よりも内陸の「本佐倉」に城を築いて本拠地を移した。
1479年、太田道灌が千葉輔胤を攻めたときに追い詰められた輔胤の籠城先が臼井城であったことから、この時点ではまだ本佐倉城は完成していなかったと推定されている。
その後、9代にわたって戦国大名千葉氏宗家の本拠地となったが、
天正18年の1590年、千葉氏が小田原征伐後に改易されると、徳川氏に接収されて一旦は破却され、代わりに城下に陣屋が設置された。
1602年、5万石で松平忠輝が封じられるが、ひと月余後の1603年、信濃国川中島に移封された。
1610年、軍事上の必要から同地に封じられた小笠原吉次、土井利勝が再び本佐倉城に入って佐倉藩の藩庁が置かれた。
1615年、藩庁の佐倉城への移転と一国一城制により廃城となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/10/95f46bef4ef825ff509d8a0e1d7a2357.jpg)
千葉氏の分裂・下総千葉氏は「本佐倉城に移城」
千葉氏本家滅亡後、将軍足利義政に仕えていた「美濃東氏、東常縁」は、美濃の兵を連れて下総国・馬加康種を攻めますが、その途中、美濃の国が
美濃守護代によって奪われたため、美濃国に戻っています。その後下総国は、本家を継いだ千葉康胤の子孫が統治しますが戦乱で荒れ果てた千葉城を
やむなく離れ、新たに印旛沼南岸の「本佐倉城」を築き、本拠地を移します。
これは、印旛沼と古河公方とが水路で繋がるからと云います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/0e/7866a2ab583dad12a50c8c5e695095dd.jpg)
次回の千葉城で取り上げます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/d4/e022bf7070000efc7bea02551013ed15.jpg)
「佐倉城」は、鹿島山の西端部に築かれ、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ北側には印旛沼に至る低湿地が広がっていて、戦国時代、本佐倉城主「千葉親胤」が大叔父にあたる鹿島幹胤に命じて築城を開始したが、親胤が暗殺されたために工事は中止され、
「千葉邦胤」の代にも工事が試みられたものの今度も邦胤の暗殺によって完成することはなかった。
築城予定地には鹿島親幹にちなんで「鹿島台」と呼ばれるようになったという。
1610年、徳川家康の命を受けた「土井利勝」によって築城が再開され、ついに佐倉城が完成した。
江戸時代は佐倉藩の藩庁が置かれた。
城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、なおかつ初期は城主の入れ替わりが多く、江戸初期に城主であった「堀田正信」(後に改易されている)の弟・「堀田正俊の孫・堀田正亮」が11万石で再入封(後期堀田氏ともいう)してからは、安定した藩の経営を行っている。
城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としている。
明治維新後に廃城令により建物のほとんどが撤去された。
その後帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。昭和37年、市史跡指定され、現在跡地は佐倉城址公園)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/22/f45b3fcb18f7983e99d7818c58de8818.jpg)
「本佐倉城築城」
臼井氏は、千葉一族のなかで最も古い一族で平安時代後期に千葉氏から分かれている。
下総権介平常兼の子常康が印旛郡臼井郷の開発のために同地に赴任して、 のちに臼井氏を称したことに始まった。
臼井氏は、千葉氏の有力支族である椎名氏・相馬氏・大須賀氏などよりも古い歴史を有し、白井・匝瑳・海上氏らが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城を拠点として栄えた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/0d/de79a6835ca7c4d625bc2213bdd7693d.jpg)
馬加・千葉 康胤は、室町時代前期の武将。第14代当主・千葉満胤の次男。
「享徳の乱」に乗じて、千葉氏宗家を攻め滅ばして19代当主に。下総千葉郡馬加村(現在の千葉県千葉市花見川区幕張町)に居を構えたことから
馬加と称した。「千学集抜粋」によれば、常陸国の大掾満幹の養子になったというが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/c3/3333273b5d8cf3a4824e967fd2c4fbd5.jpg)
江戸時代・「土井利勝」 1573-1644 古河藩主 大老、家康の御落胤(家康の伯父)土井利昌の養子・実父は家康とも伝わる。
古河16万石の大名、累進し、重責で、二代秀忠信頼された。兄として信頼を寄せたとも云う。三代家光は「利勝に天下を譲る」とも言っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/32/462d198165ad11394ac856a34c5e894d.jpg)
「堀田正睦」 1810-64 1746年、 堀田房俊、11万石藩主・下総国佐倉藩主の子、江戸生まれ、老中に進すみ、老中首座を務める。一橋派につき老中罷免された。「阿部正弘・水戸斉昭がいなくても堀田正睦がいればいい」と堀田の入閣を大衆は喜んだと云う。隠居は八丁堀。
1610年徳川家康の命により「土井利勝」が築城した佐倉城。
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1746年から11万石の房総最大の城下町として栄えた。
堀田氏は、藩校「成徳書院」を開き、蘭学を奨励した。藩校は現在の建立佐倉高校の前進。蘭医学の発展から「順天堂」が開かれている。
築城まで、17年の歳月が
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印旛沼の鹿島流域での稲作・野菜生産が盛んで、「佐倉味噌」が知られている。
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258年間、佐倉城・その6割141年間「堀田氏」が治めている。
特に堀田正睦老中としてアメリカハリスとの条約交渉に全力を尽くし、日本開国へと導いた。特に洋学を積極的にとりいれている。
蘭学者 佐藤泰然を佐倉へ招いて、「佐倉順天堂」を開いている。
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天守は三階建て
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礎石
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空堀
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城南北堤と坂の町。
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曲輪
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椎木門跡
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ce/9e7c412a76cdb71a44c0bdb124991d21.jpg)
正岡子規は「常盤木や 冬されまさる 城の跡」と呼んだ 句碑がある。
出丸
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/23/b54ab54ab8dd4ba051d01c43af1b9947.jpg)
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七曲りの坂が。
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日本100名城の一つ「佐倉城址」。
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次回は、千葉城址へ。
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