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平安の古社~上総一ノ宮城跡

2019-01-07 | 気まま旅
千葉県JR外房線の続きです。


「上総一ノ宮」下車
上総国は、県中央部・総州、南総とも云い、北は下総国・南は安房国と接する。
「古語拾遺」-麻の生える総の国を上と下に二分し「京」に近い地方を上総国とした。
「続日本紀」-718年南の4郡 平群・安房・朝夷・長狭「安房国として独立」・市原・海上・埴生・・・・11郡を「上総国」としている。
国府を市原に置き、8世紀には蝦夷遠征軍の兵站地となっている。
室町ー高・佐々木・千葉・上杉・新田の5氏が交替ー戦国ー里見・小田原北条となった。
家康ー大多喜の本多氏など1万石以上5氏が置かれている。江戸後期にはー関西漁民の進出で、海苔養殖が盛んになった。





「一宮城址」
遺構は、観明寺境内を囲む土塁のみ。寺の南側に城の内と称する中心部が、馬蹄形の丘陵を外壁とした郭で内部は公共施設が建ち、見るべきもの無し。
構えられた丘は砂丘、、城の内も観明寺の郭も丘陵斜面を切り崩し土塁が。土塁を構えるのに土を積み上げるより地面を掘り下げるというもの。
城は、いつ頃構えられたのか不明で、戦国期、里見氏と同氏に反旗を翻した正木の争いの中で幾度か戦場となり落城したと伝わる。
玉前神社との関連から古くから在地領主の館が構えられていたと云う。
「戦国末期、里見氏の家臣とされる鶴見氏が城主であったと云う」

                          一宮城跡


                            城跡


                            城跡


「式内名神大 玉前神社 上総国一宮」
縄文弥生の頃から人々の営みがあったことが遺跡や貝塚などによって明らかに、歴史の古いこの一宮町の名称の由来となった。
神社は、上総国にまつられる古社で、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」では名神大社としてその名を列せられ、
全国でも重きをおくべき神社として古くから朝廷・豪族・幕府の信仰を集め、上総国一之宮の格式を保っている。
永禄年間の大きな戦火にかかり、社殿・宝物・文書の多くを焼失しており、創建の由来や年数また名称についてなど明らかにされていない。
毎年ー九月十日から十三日に行われるご例祭には少なくとも「千二百年の歴史」があり、移りゆく時代に少しずつその形を変えながらも、古代からの深い意義を連綿と守り伝えてきたと地元民は。

「上総の裸まつり」「十二社まつり」と称されるこのお祭りは房総半島に多く見られる浜降り神事の代表として広く知られている。

                      日蓮宗 実本寺 寺の裏山が城跡 




               神社鳥居の前に民家風喫茶店が、焼き芋もある


                      上総一の宮 玉前神社













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