「薩った峠の戦い」薩った山の戦いは、南北朝時代の1351年、薩った峠にて、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂。
直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、
「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る」
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」
直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏した。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死する。病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。
「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。
武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。
海側の下道と、ここ中道の薩った峠 昔の石塔 合戦案内板
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薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能を
「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像する。
東海道旧道 鰻の寝床の街並みが 中道から下道の水路
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さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。ここでも「親不知、子知らず」の道と呼んでいる。
狭い旧道の中道 興津川・広重はこの辺から
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「御穂神社」は、三保の明神さんと親しまれ、奉納の舞いである「羽衣の舞」は雅楽「東遊び駿河舞」にその原形があると言われ、地元の保存会が伝承している。
三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説で名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道がある。神の道を進むと、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松に着く。
春になると境内は山桜、かすみ桜など22種220本の桜で満開になる。駿河国三宮、創建は不詳、御廬神社とも記され、「日本三代実録」元慶3年に
「駿河国従五位上の御廬神に正五位下、下総国正六位上の子松神に従五位下を授ける」とあり、879年に正五位下の神階を授けられている。
松原神の道の入り口神社 鳥居 境内
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重要文化財・ 太刀、 無銘、鎌倉時代の作。鎬造。糸巻太刀拵が付属する(市指定文化財)。本殿、 江戸中期の建立。入母屋造り。
その他・ 羽衣の裂 羽衣の笛 三保古絵図ねど。
神社前 本殿
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鬱蒼とした境内内 三保の松原神の道松並木
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「神の道」は、御穂神社から羽衣の松までを結ぶ松並木を云う。清水港から駿河湾に突き出した半島が三保。東岸に広がる三保の松原は万葉の昔から知られた景勝地で、
霊峰富士を仰ぎ、松林の緑と打ち寄せる白波、海の青さが織り成す風景は、今も変わらない。
歌碑の立て看板が 並木
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昔から親しまれている三保半島の南側に広がる松の古木の景勝地。総延長7km、5万4千本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。
風雪で曲がりくねった古松が 松並木のトンネルを
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1980年代から三保の松原の砂浜は、波の浸食により消失の危機に見舞われている。
原因は、1960年代に安倍川により流された土砂を大量に採掘したため、土砂の需給バランスが崩れたことと考えられている。
現在、静岡県は海岸から百メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置し、砂を補給するなどの養浜対策を講じている。
また「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する症状も進行している。静岡県などが対策に乗り出しているが、根本的な解決策が見つけ出せずにいるのが現状。
並木を抜け砂浜海岸へ
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日本新三景の一つ三保の松原は、天女の羽衣の松が樹齢650年。晴れていれば、老松林越しに見える富士山の姿も絶景。
江戸時代には三保全体が松林に覆われ、清水湊を挟んだ対岸の江尻宿からは、海にぽっかり浮かんだ松林が見れたという。
羽衣伝説の三本松の一本が枯れかけている 自然のバランスが崩れ浸食
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静岡茶摘み、
夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは
茶摘ぢやないか
あかねだすきに菅の笠
日本平へ。
清水駅は、貨物の取り扱い駅であった。2002年まで、JR貨物の駅。車扱貨物のみの取り扱いで、武田薬品工業の化学薬品の取り扱いを、新南陽駅から輸送された原料の(PPG) をタンクローリーに詰め替え輸送していた。
2001年まで、現在も駅北東にある東燃ゼネラル石油清水油槽所の荷役設備へ専用線が続いており、潤滑油発送が行われ、発送先は汐見町駅や安善駅、1980年代までは駅南東にある豊年製油静岡工場(現・J-オイルミルズ静岡事業所)へ続く専用線もあり、接着剤などの発送が行われている、国鉄分割民営化前には、駅舎北に複数の有蓋車用貨物ホームが残っている。
現在は、明るい駅舎と駅前にサッカーの像がある。
近代的駅に生まれ変わり、清水市は、"日本のブラジル"といわれ、清水で、定期的な国際交流試合が数多く行なわれている。
その数は国内で開催される外国との年間60の交流試合の4分の1に当たり、サッカー交流している都市もブラジル、韓国、カナダ、台湾、ウルグアイ、アルゼンチン
とアジア、アメリカ大陸にまたがる。
各種大会の招待チームに至っては、ヨーロッパのチームの参加例も多くまさに全世界的な広がりを見ることができる。
組織化、国際化などの点で清水は日本サッカー界あるいは日本のスポーツのパイオニア的な地位を占め、全国大会での優秀な成績がその有効性を裏付けていという。
JR清水駅前ロータリー サッカー像が
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「清水駅前銀座商店街」は、清水駅前銀座アーケード街で120店舗が並ぶ、「七夕祭り」「鉄火巻日本一に挑戦」などででも知られている。
地元のお客との結びつきを深め賑わいを見せている。店舗は、 食品、衣料など多種にわたり、個性豊かなお店が多い。
商店街通り 店の間に地蔵尊が
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古代の清水は、1万年以上前であったと言われており、縄文前期にはすでにムラが形成されていたことが庵原の大乗寺平遺跡の出土遺物から立証されている。
5世紀ごろには大集落「イホハラの国」が出現し、律令制が確立する前は、廬原国造廬原氏が治める廬原国の国衙が置かれ、県中部地域の中心であった。
日本書紀には、663年の朝鮮「白村江の戦い」に当地から廬原君臣に率いられた万余の健児(兵士)が出港して行ったことが記述されている。
日本武尊の伝説
につながる草薙神社や三保の松原の美穂神社が、平安時代の延喜式に記載され、江戸時代まで戦国時代に駿河の今川氏領国を経て、甲斐国武田氏によって
駿河が領国化されると、武田氏の水軍基地になり、江戸時代には江尻に東海道江尻宿が置かれる一方、清水港は駿府(現在の静岡駅周辺)の外港として機能し、江戸への中継基地として富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送で賑わっていた。
「市指定史跡 清水天王山遺跡」有度山東麓の扇状地に立地。
縄文時代から古墳時代にかけて生活が営まれており、そのなかでも縄文時代後期・晩期を主体とする集落跡。
住居跡やお墓の跡・竪穴式住居・平地式住居が3軒見つかる。
(竪穴式住居:地面を一段掘り下げて炉や柱を設置し、そのまわりに周堤を築き、平地式住居、地面を掘り下げず炉や柱を設置し、そのまわりに周堤が、遺物包含層が何重にも存在し、縄文土器の編年研究上、特に重要な遺跡として知られている。
この地域では数少ない縄文時代後期・晩期の貴重な遺跡。
清水と云えば清水港 港から富士山が美しい、今日は薄曇り
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清水港は、663年「やまとの国の救将 廬原君臣 健児(兵士)万余を率いて、清水湊を出て、海を越えて百済に至らむ・・・。
これが清水港が史書(日本書紀)に出てくる最初である。
いろいろな船の出入りが多い港 清水港
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童謡「赤い靴」の歌詞は、
赤い靴 履いていた 女の子 異人さんに 連れられて 行っちゃた
歌詞の中に出てくる、「いじんさん」というのは幕末から明治にかけてよく使われた言葉で、異人さん、異邦人つまり外国人のことである。“青い目”と歌われている事から、西洋人と見られる
「有度丘陵・日本平」は、丘陵は駿河湾沿いにあり、最高地点は有度山の標高308メートル。
広葉樹林が多く、茶畑やミカン畑も広がる。この丘陵は撓曲によってできたもので、過去10万年間で300mも隆起しており、これは日本でも有数の激しい
地殻変動である。丘陵の西から北縁にかけては活断層が走っている。
丘陵は眺望に優れ、1959年には「日本平」として国の名勝に指定された。
1980年の日本観光地百選コンクールでは第1位となった。頂上付近からは富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈も見える。
眼下には清水区の街並みと清水港が広がり、夜景のスポットにもなっている。
赤い靴の歌碑 母子像
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「日本平ロープウェイ」は、名勝「日本平」の山頂と徳川家康ゆかりの史跡「久能山東照宮」を5分間で結んでいる索道である。
ゴンドラから四季折々姿を変える屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中遊覧が楽しめる。
日本平から下界を 放送アンテナ
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「船越堤公園」は、1988年にできた面積94000㎡の大きな公園です。船越堤には様々な植物があり、中でも約千本の桜(ソメイヨシノ・他)が有名。
船越堤の桜はワシントンのポトマックというところから里帰りした桜で、今でもワシントンのポトマック河畔の桜は毎年咲き乱れ、桜祭りが催され日米親善の
シンボルとなっている。
清水とカナダとの交歓留学記念植樹や平成18年に秋篠宮家の長男として誕生した悠仁親王殿下御誕生奉祝植樹などがされている。
散歩コースとして、地元の人々で多くの人に親しまれている。
公園入口
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天文台(41cm反射望遠鏡・田阪鏡、旭精光製赤道儀)は、定期的に星を見る会が催されている。せせらぎの小川では夏が近づくとホタルを見ることができる。
散歩やトレーニングをしている人がたくさんいた。車椅子の方や階段が苦手な方は横にスロープが整備されている。
階段を登った所からの景色は、清水市街を眺めることができ、晴れた日は富士山が見えると云う。
紅葉の里の散歩道がある、この脇には戦時中に使われていた防空壕があった。
散歩の伯父さん元気に「おはようございます」と挨拶が
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奥にはステージがありイベント等も行われ、花見の宴会会場でにぎわいを見せる。8月の清水港花火大会はここから花火を見ることができる。
整備された園内と濃い緑
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「鉄舟寺」は、市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院、山号は補陀落山、本尊は千手観音菩薩。
飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した。その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという。
平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄え、1570年、武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、
宗旨も変わり新義真言宗(真言宗根来派)に属す。
江戸時代には朱印寺領として200石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住になって寺は荒廃してしまった。
旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある「山岡鉄舟」が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。
鉄舟の書跡の遺品も多い。
鉄舟寺入口 楼門
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「国宝・久能寺経 法華経(久能寺経)19巻」 現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託している。
鉄舟寺所蔵品の員数は19巻、そのうち陀羅尼品第二十六と普賢菩薩勧発品第二十八の2巻は補配本と見なされる。 なぜこのように立派な経典が都から遠く離れた地に納められたのか、は不明である。諸説として、京の戦乱を避けるため東国武士によって移された、鳥羽法皇の離宮であった安楽寿院や上皇がしばしば詣でた熊野三山と久能寺との関係性、などが挙げられている。
「重要文化財」 錫杖 康治元(1142年)年銘。
「県指定文化財」 木造千手観音像(観音堂)、 木造蘭陵王仮面 伝赤鶴(シャックル)作。
高塚竹堂銅像など。
仁王像 楼門の中 高台にある鐘楼
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「山岡鉄舟」1836-88 徳川家存続に尽くした剣術家、槍術の山岡家を継ぐ、新政府軍西郷隆盛と会談し徳川家存続を訴えた。
山岡の「鉄砲突き」で恐れられていた。墓は、谷中全生庵にある。
山岡鉄舟像 本堂と境内
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「梅蔭禅寺」は、臨済寺妙心寺派、開山は足利時代と言われる古寺。境内には、清水次郎長と、側近の大政・小政・増川仙右エ門・お蝶夫人の墓がある。
入館料¥300円、
「侠客次郎長の墓」は幕臣から明治政府の郵政大臣を勤めた榎本武揚の書によるもの、侠客としては、全国唯一その半生の功労が認められ銅像が設置されて、
初代の銅像は太平洋戦争で供に出され、現在のものは昭和27年に堤達男氏により製作された。
背後の石垣は、駿府城を、前の池は駿河湾を表し郷里清水に根をおろした次郎長の心意気が感じられる。
次郎長博物館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉・お守りの毘沙門天道中差・時計・望遠鏡・火縄銃等の遺品が展示されている。
本殿 次郎長の墓(有料)
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「清水次郎長」1820-93 博徒、甲州の黒駒勝蔵らと抗争、旧幕府艦隊の死体を収容し埋葬した。
「浪曲虎造さんの、森の石松」
旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名題なるかな東海道、 名所古蹟の多いとこ。なかに知られる羽衣の松とならんでその名を残す、
街道一の 親分は、清水港の次郎長の数多身内のある中で、四天王の一人で乱暴者といわれたる・・・・・・・。
境内 清水次郎長像
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「清水次郎長生家」は、新清水駅から歩いて20分位、次郎長生家の前は商店街になって、名前は、「次郎長通り」。
次郎長通りを歩いて行くと、次郎長生家は商店街の中に有る。商店街の一部に同化している。復元された建物ではなく、当時の生家そのままという。
生家内には、次郎長に関する展示物と、奥のほうにはお土産なども売っている。次郎長生家の裏手には巴川が流れていて、海に近い。
次郎長通り商店街 朝の街
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次回は、東海道「由井宿」方面へ。
「観応の擾乱」により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂。
直義派による高師直・高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年、直義は、
「桃井直常・斯波高経・山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸・信濃を経て鎌倉へ至る」
尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、「仁木頼章・仁木義長・畠山国清らを伴って東海道を東進した」
直義は、上杉憲顕・石塔義房・石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩った峠で合戦となった。
この合戦に勝利した尊氏勢は、その後、相模国早川尻(小田原市)などの戦いでも直義勢を破り1352年、直義は尊氏に降伏した。
浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、2月に急死する。病死とされているが、「太平記」は、尊氏による毒殺であると記している。
「甲相駿三国同盟」は、1554年に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつ。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもので、締結時に3者が会合した
という伝説から「善徳寺の会盟」とも呼ばれている。
武田氏の信濃侵攻は、5回の川中島の戦いを契機に収束し、武田氏は方針を転換し1568年には同盟を破棄し、駿河今川領国へと侵攻を行う(駿河侵攻)。
武田氏の駿河侵攻は甲相同盟の破綻をも招き、北条氏は上杉氏と越相同盟を締結し、武田氏に対抗した。武田軍は京都を目指した。
海側の下道と、ここ中道の薩った峠 昔の石塔 合戦案内板
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薩った峠は、真の宿本陣、西沢一里塚跡、~興津川一里塚跡の国道一号線バイバスを「下道」といい、東海道本線の山よりを「中道」その上の山道一部通行不能を
「上道」で、旧東海道は、「中道」をさすようだ。「薩った峠の合戦」は、狭い道でどのようにして戦ったのか想像する。
東海道旧道 鰻の寝床の街並みが 中道から下道の水路
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さった峠の名は、海から引き上げられた「地蔵菩薩・薩った」を祀ったことからという。広重が描いた富士の絵は、中道からと思える。
東海道五十三次でもここだけが、今でも感じ取れるという。この道以外は、波打ち際の危険な「下道」を抜けたという。ここでも「親不知、子知らず」の道と呼んでいる。
狭い旧道の中道 興津川・広重はこの辺から
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「御穂神社」は、三保の明神さんと親しまれ、奉納の舞いである「羽衣の舞」は雅楽「東遊び駿河舞」にその原形があると言われ、地元の保存会が伝承している。
三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説で名高い。境内には羽衣の切れ端、白馬の像が安置されている。
樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道がある。神の道を進むと、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松に着く。
春になると境内は山桜、かすみ桜など22種220本の桜で満開になる。駿河国三宮、創建は不詳、御廬神社とも記され、「日本三代実録」元慶3年に
「駿河国従五位上の御廬神に正五位下、下総国正六位上の子松神に従五位下を授ける」とあり、879年に正五位下の神階を授けられている。
松原神の道の入り口神社 鳥居 境内
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重要文化財・ 太刀、 無銘、鎌倉時代の作。鎬造。糸巻太刀拵が付属する(市指定文化財)。本殿、 江戸中期の建立。入母屋造り。
その他・ 羽衣の裂 羽衣の笛 三保古絵図ねど。
神社前 本殿
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鬱蒼とした境内内 三保の松原神の道松並木
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「神の道」は、御穂神社から羽衣の松までを結ぶ松並木を云う。清水港から駿河湾に突き出した半島が三保。東岸に広がる三保の松原は万葉の昔から知られた景勝地で、
霊峰富士を仰ぎ、松林の緑と打ち寄せる白波、海の青さが織り成す風景は、今も変わらない。
歌碑の立て看板が 並木
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昔から親しまれている三保半島の南側に広がる松の古木の景勝地。総延長7km、5万4千本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。
風雪で曲がりくねった古松が 松並木のトンネルを
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1980年代から三保の松原の砂浜は、波の浸食により消失の危機に見舞われている。
原因は、1960年代に安倍川により流された土砂を大量に採掘したため、土砂の需給バランスが崩れたことと考えられている。
現在、静岡県は海岸から百メートル程の地点に消波ブロックを点在して設置し、砂を補給するなどの養浜対策を講じている。
また「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する症状も進行している。静岡県などが対策に乗り出しているが、根本的な解決策が見つけ出せずにいるのが現状。
並木を抜け砂浜海岸へ
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日本新三景の一つ三保の松原は、天女の羽衣の松が樹齢650年。晴れていれば、老松林越しに見える富士山の姿も絶景。
江戸時代には三保全体が松林に覆われ、清水湊を挟んだ対岸の江尻宿からは、海にぽっかり浮かんだ松林が見れたという。
羽衣伝説の三本松の一本が枯れかけている 自然のバランスが崩れ浸食
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静岡茶摘み、
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野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは
茶摘ぢやないか
あかねだすきに菅の笠
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日本平へ。
清水駅は、貨物の取り扱い駅であった。2002年まで、JR貨物の駅。車扱貨物のみの取り扱いで、武田薬品工業の化学薬品の取り扱いを、新南陽駅から輸送された原料の(PPG) をタンクローリーに詰め替え輸送していた。
2001年まで、現在も駅北東にある東燃ゼネラル石油清水油槽所の荷役設備へ専用線が続いており、潤滑油発送が行われ、発送先は汐見町駅や安善駅、1980年代までは駅南東にある豊年製油静岡工場(現・J-オイルミルズ静岡事業所)へ続く専用線もあり、接着剤などの発送が行われている、国鉄分割民営化前には、駅舎北に複数の有蓋車用貨物ホームが残っている。
現在は、明るい駅舎と駅前にサッカーの像がある。
近代的駅に生まれ変わり、清水市は、"日本のブラジル"といわれ、清水で、定期的な国際交流試合が数多く行なわれている。
その数は国内で開催される外国との年間60の交流試合の4分の1に当たり、サッカー交流している都市もブラジル、韓国、カナダ、台湾、ウルグアイ、アルゼンチン
とアジア、アメリカ大陸にまたがる。
各種大会の招待チームに至っては、ヨーロッパのチームの参加例も多くまさに全世界的な広がりを見ることができる。
組織化、国際化などの点で清水は日本サッカー界あるいは日本のスポーツのパイオニア的な地位を占め、全国大会での優秀な成績がその有効性を裏付けていという。
JR清水駅前ロータリー サッカー像が
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「清水駅前銀座商店街」は、清水駅前銀座アーケード街で120店舗が並ぶ、「七夕祭り」「鉄火巻日本一に挑戦」などででも知られている。
地元のお客との結びつきを深め賑わいを見せている。店舗は、 食品、衣料など多種にわたり、個性豊かなお店が多い。
商店街通り 店の間に地蔵尊が
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古代の清水は、1万年以上前であったと言われており、縄文前期にはすでにムラが形成されていたことが庵原の大乗寺平遺跡の出土遺物から立証されている。
5世紀ごろには大集落「イホハラの国」が出現し、律令制が確立する前は、廬原国造廬原氏が治める廬原国の国衙が置かれ、県中部地域の中心であった。
日本書紀には、663年の朝鮮「白村江の戦い」に当地から廬原君臣に率いられた万余の健児(兵士)が出港して行ったことが記述されている。
日本武尊の伝説
につながる草薙神社や三保の松原の美穂神社が、平安時代の延喜式に記載され、江戸時代まで戦国時代に駿河の今川氏領国を経て、甲斐国武田氏によって
駿河が領国化されると、武田氏の水軍基地になり、江戸時代には江尻に東海道江尻宿が置かれる一方、清水港は駿府(現在の静岡駅周辺)の外港として機能し、江戸への中継基地として富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送で賑わっていた。
「市指定史跡 清水天王山遺跡」有度山東麓の扇状地に立地。
縄文時代から古墳時代にかけて生活が営まれており、そのなかでも縄文時代後期・晩期を主体とする集落跡。
住居跡やお墓の跡・竪穴式住居・平地式住居が3軒見つかる。
(竪穴式住居:地面を一段掘り下げて炉や柱を設置し、そのまわりに周堤を築き、平地式住居、地面を掘り下げず炉や柱を設置し、そのまわりに周堤が、遺物包含層が何重にも存在し、縄文土器の編年研究上、特に重要な遺跡として知られている。
この地域では数少ない縄文時代後期・晩期の貴重な遺跡。
清水と云えば清水港 港から富士山が美しい、今日は薄曇り
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清水港は、663年「やまとの国の救将 廬原君臣 健児(兵士)万余を率いて、清水湊を出て、海を越えて百済に至らむ・・・。
これが清水港が史書(日本書紀)に出てくる最初である。
いろいろな船の出入りが多い港 清水港
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童謡「赤い靴」の歌詞は、
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歌詞の中に出てくる、「いじんさん」というのは幕末から明治にかけてよく使われた言葉で、異人さん、異邦人つまり外国人のことである。“青い目”と歌われている事から、西洋人と見られる
「有度丘陵・日本平」は、丘陵は駿河湾沿いにあり、最高地点は有度山の標高308メートル。
広葉樹林が多く、茶畑やミカン畑も広がる。この丘陵は撓曲によってできたもので、過去10万年間で300mも隆起しており、これは日本でも有数の激しい
地殻変動である。丘陵の西から北縁にかけては活断層が走っている。
丘陵は眺望に優れ、1959年には「日本平」として国の名勝に指定された。
1980年の日本観光地百選コンクールでは第1位となった。頂上付近からは富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、北には赤石山脈も見える。
眼下には清水区の街並みと清水港が広がり、夜景のスポットにもなっている。
赤い靴の歌碑 母子像
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「日本平ロープウェイ」は、名勝「日本平」の山頂と徳川家康ゆかりの史跡「久能山東照宮」を5分間で結んでいる索道である。
ゴンドラから四季折々姿を変える屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中遊覧が楽しめる。
日本平から下界を 放送アンテナ
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「船越堤公園」は、1988年にできた面積94000㎡の大きな公園です。船越堤には様々な植物があり、中でも約千本の桜(ソメイヨシノ・他)が有名。
船越堤の桜はワシントンのポトマックというところから里帰りした桜で、今でもワシントンのポトマック河畔の桜は毎年咲き乱れ、桜祭りが催され日米親善の
シンボルとなっている。
清水とカナダとの交歓留学記念植樹や平成18年に秋篠宮家の長男として誕生した悠仁親王殿下御誕生奉祝植樹などがされている。
散歩コースとして、地元の人々で多くの人に親しまれている。
公園入口
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天文台(41cm反射望遠鏡・田阪鏡、旭精光製赤道儀)は、定期的に星を見る会が催されている。せせらぎの小川では夏が近づくとホタルを見ることができる。
散歩やトレーニングをしている人がたくさんいた。車椅子の方や階段が苦手な方は横にスロープが整備されている。
階段を登った所からの景色は、清水市街を眺めることができ、晴れた日は富士山が見えると云う。
紅葉の里の散歩道がある、この脇には戦時中に使われていた防空壕があった。
散歩の伯父さん元気に「おはようございます」と挨拶が
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奥にはステージがありイベント等も行われ、花見の宴会会場でにぎわいを見せる。8月の清水港花火大会はここから花火を見ることができる。
整備された園内と濃い緑
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「鉄舟寺」は、市清水区にある臨済宗妙心寺派の寺院、山号は補陀落山、本尊は千手観音菩薩。
飛鳥時代藤原氏の出身である久能忠仁が久能山東照宮付近に建立した。その後奈良時代の僧行基が来山して久能寺と号したという。
平安時代に入って天台宗に改められ、建穂寺と駿河を二分する勢いで栄え、1570年、武田信玄が久能山に城を作る(久能城)ため現在地に移され、
宗旨も変わり新義真言宗(真言宗根来派)に属す。
江戸時代には朱印寺領として200石余りを与えられ、多くの支坊を有したが、江戸時代後期あたりから衰退し、明治に入ると無住になって寺は荒廃してしまった。
旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も務めたこともある「山岡鉄舟」が、臨済寺から今川貞山を招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改められた。
鉄舟の書跡の遺品も多い。
鉄舟寺入口 楼門
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「国宝・久能寺経 法華経(久能寺経)19巻」 現存最古の一品経(法華経二十八品を一巻毎に書写したもの)。現在は東京国立博物館に寄託している。
鉄舟寺所蔵品の員数は19巻、そのうち陀羅尼品第二十六と普賢菩薩勧発品第二十八の2巻は補配本と見なされる。 なぜこのように立派な経典が都から遠く離れた地に納められたのか、は不明である。諸説として、京の戦乱を避けるため東国武士によって移された、鳥羽法皇の離宮であった安楽寿院や上皇がしばしば詣でた熊野三山と久能寺との関係性、などが挙げられている。
「重要文化財」 錫杖 康治元(1142年)年銘。
「県指定文化財」 木造千手観音像(観音堂)、 木造蘭陵王仮面 伝赤鶴(シャックル)作。
高塚竹堂銅像など。
仁王像 楼門の中 高台にある鐘楼
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「山岡鉄舟」1836-88 徳川家存続に尽くした剣術家、槍術の山岡家を継ぐ、新政府軍西郷隆盛と会談し徳川家存続を訴えた。
山岡の「鉄砲突き」で恐れられていた。墓は、谷中全生庵にある。
山岡鉄舟像 本堂と境内
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「梅蔭禅寺」は、臨済寺妙心寺派、開山は足利時代と言われる古寺。境内には、清水次郎長と、側近の大政・小政・増川仙右エ門・お蝶夫人の墓がある。
入館料¥300円、
「侠客次郎長の墓」は幕臣から明治政府の郵政大臣を勤めた榎本武揚の書によるもの、侠客としては、全国唯一その半生の功労が認められ銅像が設置されて、
初代の銅像は太平洋戦争で供に出され、現在のものは昭和27年に堤達男氏により製作された。
背後の石垣は、駿府城を、前の池は駿河湾を表し郷里清水に根をおろした次郎長の心意気が感じられる。
次郎長博物館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉・お守りの毘沙門天道中差・時計・望遠鏡・火縄銃等の遺品が展示されている。
本殿 次郎長の墓(有料)
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「清水次郎長」1820-93 博徒、甲州の黒駒勝蔵らと抗争、旧幕府艦隊の死体を収容し埋葬した。
「浪曲虎造さんの、森の石松」
旅ゆけば、駿河の国に茶の香り、名題なるかな東海道、 名所古蹟の多いとこ。なかに知られる羽衣の松とならんでその名を残す、
街道一の 親分は、清水港の次郎長の数多身内のある中で、四天王の一人で乱暴者といわれたる・・・・・・・。
境内 清水次郎長像
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「清水次郎長生家」は、新清水駅から歩いて20分位、次郎長生家の前は商店街になって、名前は、「次郎長通り」。
次郎長通りを歩いて行くと、次郎長生家は商店街の中に有る。商店街の一部に同化している。復元された建物ではなく、当時の生家そのままという。
生家内には、次郎長に関する展示物と、奥のほうにはお土産なども売っている。次郎長生家の裏手には巴川が流れていて、海に近い。
次郎長通り商店街 朝の街
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次回は、東海道「由井宿」方面へ。
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