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志村 古墳の町

2011-09-01 | syu散歩
「志村」この村の旧称「篠村」は、篠が生い茂っていた土地に開村したことによるといわれ、鎌倉時代の歴史記録『吾妻鏡』にも登場する古い地名である。
「志村城」築城年代は不明だが、豊島氏一族の志村氏により築かれたとされる。
1455年、享徳の乱に乗じて挙兵した馬加氏に追われた千葉宗家が赤塚城に拠ることとなったが、この際、志村城には一族の千葉信胤が入ったと云われる。
1524年、北条氏綱に攻められ落城、北条氏の支配するところとなるが、その後の志村城については詳らかではない、
小田原の役後廃城となったものと考えられている。

前野町熊野北遺跡は、周囲約50~100メートルの広がりをもつ遺跡で、「熊野」の北域に位置しているところから名づけられ、平成10年、
前野町熊野北遺跡範囲内の前野町3丁目44番における建設計画に伴い区教育委員会が試掘調査を行なったところ、
遺跡が残っていることが確認されたので平成10年から本調査を実施。ここは昭和13年、遺跡の存在が確認されていた、

弥生時代後期の集落遺跡前野町遺跡第1地点と呼ばれた場所でもある。
調査の結果、弥生時代後期の集落と、今まで確認されていなかったそれより古い縄文時代後期(今から約3800年前)の住居跡3軒と、
煮炊きなどに使用した土器の破片などが数多く発見された、

  


志村熊野神社は、かつてこの地にあった志村城の二の丸跡に建立されている。 後の1455年に千葉自胤が志村城に入ると志村城の守護神と定められた。
志村城は1524年に北条氏綱に攻められ落城し、その後廃城になった。その後大正13年(1924年)には郷社になり、近隣町村の鎮守として祀られている。
社殿は昭和32年(1957年)改築されている。

    


「延命寺」志村延命寺の寺伝によると、1524年、志村城が小田原の北条氏綱に攻められて落城した折、城主篠田五郎の家臣身次権兵衛は
わが子が討死するのをみて、世の無常を感じ、屋敷があったこの地に寺を建立し、山号に己の姓をもってしたと伝わる。
また、享保の頃には、徳川八代将軍吉宗がこの地で鷹狩りをした際、休息を取るところに指定されていたとの記録がある。

    

「志村第3公園」 延命寺の隣にある、ここが板橋ということを忘れてしまうような静けさで非常に森林浴に適した癒しのスペース。一休み。

    

志村の主な遺跡
前野町三・四丁目 志村一丁目 志村一丁目・          
志村城山 志村二丁目・   現在は、ほとんどマンション、住宅で確認はできない。



源頼義 988-1075 相模、常陸の国守、東国武士を門客に、前九年の役勝者で鎌倉八幡宮を建てた。

次回は赤塚方面へ。







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