「カイコを育てて繭をとることを養蚕と云う」
養蚕は、中国の黄河や揚子江流域で野生のクワコを家畜化したのがはじまりといわれ、今から5,000~6,000年も前、絹の魅力は、中近東へ、そして、ローマまで広まっていき、やがて、この交易ルートが「シルクロード」(絹の道)といわれ、東西文化の交流に多くの役割をはたします。
日本は、卑弥呼の時代、中国に絹織物を贈っている。 日本への養蚕技術が伝わったのは紀元前200年くらい、
稲作といっしょに中国からの移住者等が、伝えたといわれ、さらに195年には百済から蚕種が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝え、奈良時代には、東北・北海道を除き全国的に養蚕が行われ、産地ごとに等級が決められていて、税として朝廷に集められている。
平安時代になると服装も日本風に変わり、日本独自の紋様の絹織物が作られ、鎌倉時代になると質素を好む武士が中心となり、京都の織物は衰退しましたが、地方の産業振興が行われ、絹織物の技術が地方にも広がっていきます。
室町・桃山時代になると、中国から糸に撚りをかける撚糸の技術が伝わり、西陣織が生まれ、京ちりめん、丹後ちりめんなどがこの頃。
能装束や小袖飾りなど実用性を離れ権力を誇示するためのものが多くなる。
絹の道
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江戸時代幕府は、中国からの生糸の輸入を減らすため養蚕を奨励し、各藩でも財政の建て直しや下級武士の救済のために、西陣から技術を学び、金沢の友禅染め、山形の米沢織、茨城の結城紬、仙台の仙台平など独自の織物を生み出している。
江戸時代末から勧められた製糸の機械化は、明治時代になるとさらに進み、殖産興業方針により、
1872年には群馬県の富岡に官営富岡製糸場がフランス人の設計で建設され、フランス式の最新機械が導入、フランス人指導者のもとで多くの技術者
達が育ち、各地の製糸技術の向上に貢献し、関東・中部地方を中心に近代的な製糸工場が建設。
同時に繭を作る養蚕農家も全国に広がり、養蚕業の最盛期1930年代には、農家の40%で養蚕が行われていく。
江戸時代前半に絹織物、中国から輸入
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日本の近代化を支えた生糸産業ー 明治から昭和初期にかけて生糸は日本からの輸出70%~40%を占め、1900年頃からは中国を抜いて
世界一の生糸輸出国に、最大の輸出先はアメリカ、生糸が稼いだお金で近代化のための機械などを買っている。
時代は、化学繊維登場により生糸生産量は減少、 成長を続けた養蚕業にも転機が。
1929年アメリカから広がった世界恐慌により生糸が売れなくなりました。
1940年には生糸の最大の輸出先のアメリカで、生糸に代わってナイロンが使われるようになり、その後、低価格で大量生産ができる
さまざまな化学繊維が開発。
僅かに残る「絹の道」
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大塚山公園・鑓水峠
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「道了堂」
鑓水商人の「大塚吾郎吉」が中心となって峠を通る旅人や村内の安全のために、村でも見晴らしの良い峠の上に、浅草花川戸から道了尊を勧請して
明治7年、に創建したもの。
一時は、繁栄したのだが、しだいに荒廃し、昭和58年に倒壊しかけた堂が撤去され、今は礎石の跡と石の灯篭などがわずかに、
道了堂における幽霊出没の噂としては、老婆のすすり泣く声が聞こえる、女子大生の霊の出没などが話題に。
実際に道了堂で起こった殺人事件に起因していると云う。
すすり泣く老婆の霊は、昭和38年、強盗目的の犯人によって殺害された道了堂を管理していた82歳の老婆だと思われ、また、女子大生の霊は、
昭和48に不倫関係のもつれから大学助教授に殺害され道了堂跡付近に埋められた女子大生だと噂になる。
また、地蔵を破壊した連中が乗っていた車が白かったことから、白い車に乗って道了堂跡に訪れると呪われるといった噂・地蔵を触ると呪われるといった噂もある。
道了堂跡 大塚山からの眺望 お地蔵さん
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絹の道・別名浜街道。
江戸時代末期に横浜港が開港し、鉄道が発達する明治の中ごろまで輸出用の生糸が運ばれたルート。
明治22年に甲武鉄道(現JR中央本線)が開通し八王子から鉄道を介した横浜港へ続く“絹の道”が作られたことで次第にその意義を失い始め、
明治41年に街道と並行して横浜鉄道(現JR横浜線)が開通するとこのルートは本格的に衰退した。
昭和60年に市は市指定史跡「絹の道」の保全と環境整備を目的とする基本構想を策定し、この基本構想により、鑓水の生糸商で“石垣大尽”と呼ばれた八木下要右衛門家屋敷跡に、絹の道の中心施設となる休憩所つきの資料館が整備。
昭和62年に、発掘調査による遺構の確認や石垣の修復が行われた後、
平成2年に、木造の門や入母屋屋根を持つ絹の道資料館が完成、開館。
道了堂 白山神社長い階段 絹の道
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「絹の道資料館」
展示室には絹の道、生糸や養蚕の生産技術、そして絹の道、パネルや資料などが展示。
開館に際して発掘した八木下要右衛門家屋敷跡から出土した遺物と同時代の資料や、八木下要右衛門と同時代に活躍した鑓水商人である大塚徳左衛門や大塚忢郎吉といった人々に関する展示もなされている。
絹の道など付近を散策する市民のために広い休憩所・屋外には発掘調査をした八木下要右衛門家屋敷跡の遺構が石垣とともに部分的に残され、
西洋館跡地には東屋が。
開館時間:9時-17時(3月-10月)、9時-16時30分(11月-2月)・休館日:毎週月曜日・入館料:無料。
絹の道資料館 館内
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館内 小泉家の屋敷模型
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異人館跡 下水道跡 屋敷土台跡
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館内 絹の輸出で賑わった横浜港
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道了堂 鑓水村の文献などが 大塚山から
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「八王子市打越町」
大正14年 - 北野駅が玉南電気鉄道の駅として開業。昭和30年 - 由井村が八王子市に合併され、八王子市大字打越となる。
昭和31年 -由井第一小学校から再発掘され、縄文時代中後期の住居跡(石畳)(北野石器時代住居跡)、昭和42年 - 高尾線北野駅 - 高尾山口駅間開通、
昭和47年 - 八王子バイパスが。
打越弁財天
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次回は、千葉県外房へ。
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