「坂本龍馬」土佐藩の風雲児、1835-67 高知城下本丁筋の家に生まれ、北辰一刀流剣術千葉定吉に学ぶ、
土佐勤王党(武市瑞山、結成)に加盟し、脱藩して「勝海舟」入門。神戸海軍操練所で修行、慶応元年「亀山社中」を組織する。
翌年薩長同盟を締結させ、「海援隊長」となり商業を志し倒幕運動、「船中八策」を著して「大政奉還」を成し遂げた。
日本を洗濯すると云い脱藩し、事の大半は自分が動き、残りの詰を他人に譲り、政府の職制案を作り自分の名を名簿から外している。
西郷は龍馬に将来を尋ねると「世界の海援隊でもやりますかな」と答え、西郷が人物の大きさを見たという。
京都の「近江屋」で幕府の見廻り組に襲われ中岡慎太郎と共に命を絶つた。
「中岡慎太郎」1838-67 土佐藩士 薩長同盟に尽力、「土佐陸援隊隊長」。
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宝福寺は、勝海舟が山内容堂と会い、坂本龍馬の脱藩罪の許しを請うた場所。容堂の前で、勝が飲めない酒を飲み干してみせたという。
龍馬がこの地にて脱藩を許されたことから、下田は「坂本龍馬飛翔の地」といわれるようになる。
本堂の横に「唐人お吉記念館」が併設されており、お吉と龍馬に関する様々な史料を見学することができる。入場料は300円。
山内容堂 1827-72 土佐 15代藩主、井伊直弼と将軍継嗣問題で対立し、安政6年で隠居している。
その後、公武合体を理想とし政治活動を続け、大政奉還建白書を出している。明治5年中風を病んで没した。
下田港 勝海舟の咸臨丸
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宝福寺は、勝海舟が山内容堂に坂本龍馬の脱藩の許しをお願いした場所、嵐のために、山内容堂の船と、そして勝海舟と坂本龍馬が乗った船が、
それぞれ偶然、下田に寄ったという歴史的な偶然。
山内容堂が宝福寺にいるとの情報を得た勝海舟が、山内容堂がいる宝福寺を訪れ龍馬の脱藩の許しをお願いし、下戸であった海舟が、
容堂の要望で酒を飲まされた時の杯が展示されている。
その間、龍馬は下田湾に浮かぶ船で一晩明かし、龍馬の脱藩の罪を許したしるしとして扇子に瓢箪の絵を描いて、容堂は海舟に渡している。
この扇子の本物は東京国立博物館にあると云う。
坂本龍馬像
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脱藩し、勝海舟の門下生となり、歴史的な薩長同盟を成功させたのは3年後、龍馬はまだ無名の存在だった。
しかし、晴れて行動の自由を得て、維新回天の大事業に突き進む端緒となったのが下田。
宝福寺に宿をとった容堂公は幕府軍艦の入港を知り、使いを走らせて勝を寺に招いた。勝は配下の脱藩土佐藩士3人を引き連れて宝福寺に乗り込んだ。
京都の情勢など意見交換が一通り終わった後、勝が切り出した。「坂本龍馬ら土佐の脱藩藩士を赦して、私にまかせてほしい」
容堂公はむっときたが、「まぁ、一杯いこうか」、と大きな杯に酒を注いだ。容堂公は「鯨海酔侯」と自ら名乗るだけあって大酒飲み。
勝が下戸であるのを知った上のことだった。勝が一気にその杯を飲み干したのを見て、上機嫌となった容堂公は龍馬らの赦免を約束した。
土佐藩主にとって龍馬ら郷士の処遇など些末なことだったが、勝にとってはかけがえのない門弟であった。
勝は酔った上での話とされないようさらに証拠となるものを求めた。
容堂公は墨と筆を取り寄せ、扇子に「歳酔三百六十回」と書いて、「鯨海酔侯」」と署名した。この経緯は土佐藩の記録にも残っている。
そして正式に脱藩の罪はとかれた。
下田港に浮かぶ観光用黒船汽船
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次回はなまこ壁の町。
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