宮城県塩釜市は、県の中央、仙台市と松島の中間に位置し、仙塩地区の中心の1つ。
神社とマリンゲート塩釜と旧亀井邸と水産市場と塩釜神社別当寺「勝画楼ー藩主のお休み処」燈明台の礎石のみ残る、と仙台ゴルフ場などがある。
松島湾と松島丘陵に囲まれており、平地のほとんどは埋立地で、市街地は、埋立地が6割、丘陵地が4割という。
この狭い可住地に密集して人が住んでいるため、ロードサイド店出店に適した土地がなく、減反政策で土地に余裕があった利府町や多賀城市にロードサイド店が多く進出するようになり、仙塩地区の商業の中心としての地位が奪われ、塩竈市中心部のみならず郊外部の商業も低迷していると云う。
市のアーケード街ではシャッターを閉めて閉鎖した店舗が目立つ(シャッター商店街)。
観光による経済発展の為に設けられた旅客船ターミナル「マリンゲート塩釜」も、テナントが次々と撤退し赤字経営が、原因は、多賀城市や利府町といった周辺地域や郊外に大型ショッピングセンターが次々と誕生した為に集客力が著しく落ちたためとされているが、
平成19年、にはJR本塩釜駅周辺の環境を一斉に整備しており、旧国鉄貨物ヤード跡地に「マックスバリュ」を核としたイオンタウン塩釜ショッピングセンターをオープン。
「塩釜港」-水産業が盛んで、生マグロの水揚げ、蒲鉾など魚肉練り製品の生産は日本一である。1 km²あたりの寿司屋店舗数、人口あたりの寿司屋店舗数も日本一多いと云い、関東・関西からも味を求めて、観光客が増えてきたと云うが。
東日本大震災は、JR石巻線全面開通等で復興が進んでいるようだった。
塩竈神社の表参道にある202段の石段
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「鹽竈神社」-神紋「塩竈桜」・正式名称を「志波彦神社鹽竈神社」神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜が。
武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
820年、「弘仁式・主税式」ではー「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
宇多天皇の御代、仁和4年の888年、に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすとあり、神社へは、1017年、後一条天皇即位の際に遣わされている。
中世、歴代の領主から崇敬され、「前九年の役」および「後三年の役」を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると
陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなり、1186年、「竹城保司」あて所職安堵の下文や1187年、に「和泉三郎忠衝」より奉納された
「鉄燈」は、神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。
奥州藤原氏が1189年、に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた 1193年、文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる。
1190年、伊沢家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。
戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であったと云う。
14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀国府の政治的求心力は低下した。
これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。
それに代わり陸奥国の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、「斯波家兼」が
文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。
奥州管領の吉良貞経が延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神楽勤仕などの立願を行い、さらに竹城保を寄進している。
「諸国一宮神名帳」には、ー陸奥国の一宮ーは「鹽竈大明神」と記されている。
日本三大桜ー山高神代桜・根尾谷湊墨桜・伊佐沢の久保桜ー
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「奥六郡」-律令制下に陸奥国中部・北上川流域(東北地方太平洋側、後の陸中国)に 置かれた
「胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡」の六郡の総称。(現在の 岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に当たる)
「前九年の役」
平安後期、奥六郷地域は、在地豪族「安倍一族」支配下にあった。11世紀勢力拡大(安倍頼時)は南進し「藤原登任」を対立し1051年大敗。
朝廷は、河内源氏・源 頼義を陸奥守に任じ、派遣ー安倍氏大赦を図るー頼義は「奥州鎮守府将軍」も兼ねた。
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しかし、1056年両者の和平は破られ、戦乱が勃発する。
「後三年の役」
陸奥守は、頼義の嫡男「義家」・清原氏は1087年滅亡、終結。しかし、朝廷の許しを得ていないで戦ったと「義家」解任される。
これから日本の歴史大きく影響していく。
仙台藩「林子平」は、長崎で天文や地理を学び、塩釜神社に日時計を奉納。
西洋流を 象徴するかのように、文字盤の目盛りはローマ数字で書かれ、日時計は、神社 の博物館に展示。
銅灯籠 ホンモノは博物館、レプリカが屋外 と聞く(1790年頃)
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「志波彦神社」
神社は冠川(七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社。
中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要な城がおかれた、
宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。
1695年、に書かれた縁起によれば、天智天皇3年の665年、に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。
同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり。
「農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている」
清和天皇の859年、に正五位下勳四等から従四位下に神階を進め 927年、には「延喜式神名帳」へ名神大として記載されている。
朝廷からも崇敬されていたが、中世以降は衰微して行く。
1675年、の再建時には6尺四方の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀されたと云う。
明治時代、国幣中社に列せられたことを機に大きな社殿を造営する機運が生じたが、現・八坂神社境内では社地が狭かったため鹽竈神社境内に遷宮した。
八坂神社境内の旧社殿はそのまま残し、1877年の明治10年、分霊して「冠川神社」として摂社となった。
松尾芭蕉も「奥の細道」に綴るー文治燈籠
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「吹くかぜを 勿来(なこそ)のせきと おもへども みちもせにちる 山桜かな」-源 義家ー
常陸国・陸奥国(現在のいわき)に置かれた「な来そ・関」ー「来てはいけない」の意味。義家が「後三年の役」の帰路詠んでいる。
「鋳銭釜」- 仙台藩の鋳銭事業は、幕府の許可を得て、1637年、(栗原郡三迫で始まり、詳細は不明ー幕府はまもなくこれを禁じた。
その後も藩は再三に渉り幕府に鋳造願いを出し、1726年、領内産 、銅のみで鋳造することを条件に許可された。
この時、北上川河口の水上交通の至便な石巻に鋳銭場を設置し、1727年、より鋳造を開始し、1764~1772年以降は、鉄銭も作るようになり、
明治維新まで続く。
「甑炉型・鋳銭釜」は、この石巻鋳銭場で使用されたもの。
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「塩竈みなと祭」、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて
松島湾を巡幸する。東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られる。
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重用文化財ー各別・本殿、幣殿、随身門・鳥居・棟札・太刀等。
比較的装飾を抑えた「鹽竈神社」とは趣を異にする。
朱黒の極彩色漆塗りで、拝殿は桁行5間、梁間3間。内部は石敷きで、左右と背面には高欄付きの廻縁をもつ。
屋根は入母屋造り、銅板葺き。秋には拝殿前の金木犀の花が香り、白萩が咲き乱れます。
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志波彦神社が鹽竈神社境内に遷された理由。
鹿島・香取両神宮の御祭神(鹽竈神社左右宮御祭神)の東北地方平定に協力された神と言われる。
境内から見た塩竈港
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国の天然記念物に指定されているヤエザクラの一種の鹽竈(シオガマ)ザクラ27本をはじめ、
ソメイヨシノや八重咲きのシダレザクラなど200本あまりが春を彩る。
鹽竈ザクラの特徴は、めしべが変化して2枚か3枚の青い葉となり、花軸が短く、花弁は35~50枚ほどで縦じわがあり、先端が2~5のノコギリ状になっている。境内の桜の中では花期が5月。
案内板から
JR東塩釜駅
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次回は、松島海岸へ。
神社とマリンゲート塩釜と旧亀井邸と水産市場と塩釜神社別当寺「勝画楼ー藩主のお休み処」燈明台の礎石のみ残る、と仙台ゴルフ場などがある。
松島湾と松島丘陵に囲まれており、平地のほとんどは埋立地で、市街地は、埋立地が6割、丘陵地が4割という。
この狭い可住地に密集して人が住んでいるため、ロードサイド店出店に適した土地がなく、減反政策で土地に余裕があった利府町や多賀城市にロードサイド店が多く進出するようになり、仙塩地区の商業の中心としての地位が奪われ、塩竈市中心部のみならず郊外部の商業も低迷していると云う。
市のアーケード街ではシャッターを閉めて閉鎖した店舗が目立つ(シャッター商店街)。
観光による経済発展の為に設けられた旅客船ターミナル「マリンゲート塩釜」も、テナントが次々と撤退し赤字経営が、原因は、多賀城市や利府町といった周辺地域や郊外に大型ショッピングセンターが次々と誕生した為に集客力が著しく落ちたためとされているが、
平成19年、にはJR本塩釜駅周辺の環境を一斉に整備しており、旧国鉄貨物ヤード跡地に「マックスバリュ」を核としたイオンタウン塩釜ショッピングセンターをオープン。
「塩釜港」-水産業が盛んで、生マグロの水揚げ、蒲鉾など魚肉練り製品の生産は日本一である。1 km²あたりの寿司屋店舗数、人口あたりの寿司屋店舗数も日本一多いと云い、関東・関西からも味を求めて、観光客が増えてきたと云うが。
東日本大震災は、JR石巻線全面開通等で復興が進んでいるようだった。
塩竈神社の表参道にある202段の石段
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「鹽竈神社」-神紋「塩竈桜」・正式名称を「志波彦神社鹽竈神社」神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜が。
武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。
820年、「弘仁式・主税式」ではー「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。
宇多天皇の御代、仁和4年の888年、に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすとあり、神社へは、1017年、後一条天皇即位の際に遣わされている。
中世、歴代の領主から崇敬され、「前九年の役」および「後三年の役」を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると
陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなり、1186年、「竹城保司」あて所職安堵の下文や1187年、に「和泉三郎忠衝」より奉納された
「鉄燈」は、神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。
奥州藤原氏が1189年、に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた 1193年、文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる。
1190年、伊沢家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。
戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であったと云う。
14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀国府の政治的求心力は低下した。
これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。
それに代わり陸奥国の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、「斯波家兼」が
文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。
奥州管領の吉良貞経が延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神楽勤仕などの立願を行い、さらに竹城保を寄進している。
「諸国一宮神名帳」には、ー陸奥国の一宮ーは「鹽竈大明神」と記されている。
日本三大桜ー山高神代桜・根尾谷湊墨桜・伊佐沢の久保桜ー
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「奥六郡」-律令制下に陸奥国中部・北上川流域(東北地方太平洋側、後の陸中国)に 置かれた
「胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡」の六郡の総称。(現在の 岩手県奥州市から盛岡市にかけての地域に当たる)
「前九年の役」
平安後期、奥六郷地域は、在地豪族「安倍一族」支配下にあった。11世紀勢力拡大(安倍頼時)は南進し「藤原登任」を対立し1051年大敗。
朝廷は、河内源氏・源 頼義を陸奥守に任じ、派遣ー安倍氏大赦を図るー頼義は「奥州鎮守府将軍」も兼ねた。
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しかし、1056年両者の和平は破られ、戦乱が勃発する。
「後三年の役」
陸奥守は、頼義の嫡男「義家」・清原氏は1087年滅亡、終結。しかし、朝廷の許しを得ていないで戦ったと「義家」解任される。
これから日本の歴史大きく影響していく。
仙台藩「林子平」は、長崎で天文や地理を学び、塩釜神社に日時計を奉納。
西洋流を 象徴するかのように、文字盤の目盛りはローマ数字で書かれ、日時計は、神社 の博物館に展示。
銅灯籠 ホンモノは博物館、レプリカが屋外 と聞く(1790年頃)
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「志波彦神社」
神社は冠川(七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社。
中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要な城がおかれた、
宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。
1695年、に書かれた縁起によれば、天智天皇3年の665年、に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。
同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり。
「農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている」
清和天皇の859年、に正五位下勳四等から従四位下に神階を進め 927年、には「延喜式神名帳」へ名神大として記載されている。
朝廷からも崇敬されていたが、中世以降は衰微して行く。
1675年、の再建時には6尺四方の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀されたと云う。
明治時代、国幣中社に列せられたことを機に大きな社殿を造営する機運が生じたが、現・八坂神社境内では社地が狭かったため鹽竈神社境内に遷宮した。
八坂神社境内の旧社殿はそのまま残し、1877年の明治10年、分霊して「冠川神社」として摂社となった。
松尾芭蕉も「奥の細道」に綴るー文治燈籠
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「吹くかぜを 勿来(なこそ)のせきと おもへども みちもせにちる 山桜かな」-源 義家ー
常陸国・陸奥国(現在のいわき)に置かれた「な来そ・関」ー「来てはいけない」の意味。義家が「後三年の役」の帰路詠んでいる。
「鋳銭釜」- 仙台藩の鋳銭事業は、幕府の許可を得て、1637年、(栗原郡三迫で始まり、詳細は不明ー幕府はまもなくこれを禁じた。
その後も藩は再三に渉り幕府に鋳造願いを出し、1726年、領内産 、銅のみで鋳造することを条件に許可された。
この時、北上川河口の水上交通の至便な石巻に鋳銭場を設置し、1727年、より鋳造を開始し、1764~1772年以降は、鉄銭も作るようになり、
明治維新まで続く。
「甑炉型・鋳銭釜」は、この石巻鋳銭場で使用されたもの。
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「塩竈みなと祭」、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて
松島湾を巡幸する。東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られる。
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重用文化財ー各別・本殿、幣殿、随身門・鳥居・棟札・太刀等。
比較的装飾を抑えた「鹽竈神社」とは趣を異にする。
朱黒の極彩色漆塗りで、拝殿は桁行5間、梁間3間。内部は石敷きで、左右と背面には高欄付きの廻縁をもつ。
屋根は入母屋造り、銅板葺き。秋には拝殿前の金木犀の花が香り、白萩が咲き乱れます。
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志波彦神社が鹽竈神社境内に遷された理由。
鹿島・香取両神宮の御祭神(鹽竈神社左右宮御祭神)の東北地方平定に協力された神と言われる。
境内から見た塩竈港
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国の天然記念物に指定されているヤエザクラの一種の鹽竈(シオガマ)ザクラ27本をはじめ、
ソメイヨシノや八重咲きのシダレザクラなど200本あまりが春を彩る。
鹽竈ザクラの特徴は、めしべが変化して2枚か3枚の青い葉となり、花軸が短く、花弁は35~50枚ほどで縦じわがあり、先端が2~5のノコギリ状になっている。境内の桜の中では花期が5月。
案内板から
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JR東塩釜駅
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次回は、松島海岸へ。
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