JR桜井線で、天理・三輪駅へ、
「桜井線(万葉まほろば線)」は、全線が奈良県内、奈良駅で関西本線(大和路線)、終点の高田駅で和歌山線に接続している。
開業時は、大阪市・京都市などから橿原市・桜井市・天理市方面へ向かう重要な交通機関として位置づけられていたが、
近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道および奈良電気鉄道によって現在の近鉄大阪線・京都線・橿原線・天理線などが建設された
利用者が少なく、朝のラッシュ時であったが学生が多かった。
「桜井」は、県中北部、奈良盆地南東「三輪山」の南西麓の市街地で、初瀬川が東西に流れ、木材集散地として発達した所。
古代大和国の中心「志貴」と呼ばれ、金屋に式内大社・延喜式神名帳記載の大社が鎮座している。
「三輪駅」は、桜井市三輪県北部、旧磯城郡三輪町で、三輪山の西麓初瀬川の谷口になる。三輪素麺の産地で知られている。
上街道の市場・宿場町、大和一之宮である「大神神社」鳥居前町としてにぎわった。「日本書紀」にみられる古い街で、三輪山・三輪川は、
歌枕となり、「万葉集」に詠まれている。
「平等寺」は、桜井市三輪にある曹洞宗の寺院。
三輪別所ともいう。本尊は十一面観音である。かつては三輪明神(現・大神神社)の神宮寺。
蛇がよく出る「平等寺」三輪山、縁起がいいと云う,山辺の道、三輪山の麓から奈良方面に、神話・伝説・万葉、、、。
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伝承によれば、「聖徳太子」の開基、慶円の中興とされている。
「大三輪町史」は、平等寺以前の大三輪寺遍照院の存在から空海開基説の存在も述べている。
平等寺が前述資料に明確に現れてくるのは鎌倉時代以降であり、初見は「弥勒如来感応抄草」の1236年である。
同書によれば慶円によって、三輪神社の傍らに真言灌頂の道場が建立され、その道場が「三輪別所」であった。
この当時、平等寺が存在して「三輪別所」と呼称されており、その後比較的早い時期に「平等寺」という寺号で呼ばれることとなったことは確実であり、これが、現在史料で明確に確認できる最古の例である。
聖徳太子を開基、慶円の中興「三輪別所・平等寺」
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鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは、三輪明神の別当寺の地位にたっていた。
「大乗院寺社雑事記」には、興福寺が平等寺に御用銭を課していることが見られ、大和国の他の寺院同様、興福寺の末寺でもあった。
醍醐寺との関係も保持し、内部に「学衆(興福寺大乗院)」と「禅衆(醍醐寺三宝院)」という、二つの僧侶集団が作られ、両者が共存。
室町中期には、禅衆と学衆が激しく争ったことも、「大乗院寺社雑事記」には描かれている。
大神神社の神宮寺でさかえたと云う。三輪明神の別当寺の地位と云う。
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江戸時代には、興福寺の支配を離れ、真言宗の寺院となりつつも、修験道も伝えていた。
朱印地の石高は80石。また、伽藍配置は、江戸時代の絵図により知られる。
三輪明神の南方に慶円上人開山堂のほか、行者堂・御影堂・本堂・一切経堂など、複数の堂舎が存在したことがうかがわれる。
1868年(明治元年)、神仏分離の太政官布告が出される。これにより、1870年には、平等寺は三輪神社の神官が管理するにいたり、堂舎は破壊され、平等寺は廃止となる。1959年の「大三輪町史」編纂の段階では、「現在は、その伽藍は存在せず、わずかに塔中の石垣のみが遺跡として存在するとともに、主たる仏像は翠松寺に移されている。堂舎は存在せず、一切の建物も残っていない状態となっていたと云う。
1977年(昭和52)、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。
永平寺副監院丸子孝法によって現在は伽藍も復元されている。
昭和57年本堂再建
十一面観音は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。
梵名は文字通り「11の顔」の意である。観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の1つでもある。
玄奘訳の「十一面神咒心経」にその像容が明らかにされている通り、本体の顔以外に10または11の顔を持つ菩薩である。
護摩会なども行われている。
長岳寺の二天王像、金屋の石仏などもとは、ここにあった。明治の廃仏全廃、明治13年復興している。
これから、三輪山を奈良市北へ連なる山々の裾を歩いて行くが、全長約26kmある。
天理までが約16km、小雨交じりで歩きづらいが行ける所まで向かう。
太子は、49歳で、即位の野望を果たせず、悲運の人生を。「大神神社から東海自然歩道で天理方面へ」
次回は、大和一の神宮、大神神社へ。
「桜井線(万葉まほろば線)」は、全線が奈良県内、奈良駅で関西本線(大和路線)、終点の高田駅で和歌山線に接続している。
開業時は、大阪市・京都市などから橿原市・桜井市・天理市方面へ向かう重要な交通機関として位置づけられていたが、
近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道および奈良電気鉄道によって現在の近鉄大阪線・京都線・橿原線・天理線などが建設された
利用者が少なく、朝のラッシュ時であったが学生が多かった。
「桜井」は、県中北部、奈良盆地南東「三輪山」の南西麓の市街地で、初瀬川が東西に流れ、木材集散地として発達した所。
古代大和国の中心「志貴」と呼ばれ、金屋に式内大社・延喜式神名帳記載の大社が鎮座している。
「三輪駅」は、桜井市三輪県北部、旧磯城郡三輪町で、三輪山の西麓初瀬川の谷口になる。三輪素麺の産地で知られている。
上街道の市場・宿場町、大和一之宮である「大神神社」鳥居前町としてにぎわった。「日本書紀」にみられる古い街で、三輪山・三輪川は、
歌枕となり、「万葉集」に詠まれている。
「平等寺」は、桜井市三輪にある曹洞宗の寺院。
三輪別所ともいう。本尊は十一面観音である。かつては三輪明神(現・大神神社)の神宮寺。
蛇がよく出る「平等寺」三輪山、縁起がいいと云う,山辺の道、三輪山の麓から奈良方面に、神話・伝説・万葉、、、。
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伝承によれば、「聖徳太子」の開基、慶円の中興とされている。
「大三輪町史」は、平等寺以前の大三輪寺遍照院の存在から空海開基説の存在も述べている。
平等寺が前述資料に明確に現れてくるのは鎌倉時代以降であり、初見は「弥勒如来感応抄草」の1236年である。
同書によれば慶円によって、三輪神社の傍らに真言灌頂の道場が建立され、その道場が「三輪別所」であった。
この当時、平等寺が存在して「三輪別所」と呼称されており、その後比較的早い時期に「平等寺」という寺号で呼ばれることとなったことは確実であり、これが、現在史料で明確に確認できる最古の例である。
聖徳太子を開基、慶円の中興「三輪別所・平等寺」
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鎌倉末期から明治の廃仏毀釈までは、三輪明神の別当寺の地位にたっていた。
「大乗院寺社雑事記」には、興福寺が平等寺に御用銭を課していることが見られ、大和国の他の寺院同様、興福寺の末寺でもあった。
醍醐寺との関係も保持し、内部に「学衆(興福寺大乗院)」と「禅衆(醍醐寺三宝院)」という、二つの僧侶集団が作られ、両者が共存。
室町中期には、禅衆と学衆が激しく争ったことも、「大乗院寺社雑事記」には描かれている。
大神神社の神宮寺でさかえたと云う。三輪明神の別当寺の地位と云う。
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江戸時代には、興福寺の支配を離れ、真言宗の寺院となりつつも、修験道も伝えていた。
朱印地の石高は80石。また、伽藍配置は、江戸時代の絵図により知られる。
三輪明神の南方に慶円上人開山堂のほか、行者堂・御影堂・本堂・一切経堂など、複数の堂舎が存在したことがうかがわれる。
1868年(明治元年)、神仏分離の太政官布告が出される。これにより、1870年には、平等寺は三輪神社の神官が管理するにいたり、堂舎は破壊され、平等寺は廃止となる。1959年の「大三輪町史」編纂の段階では、「現在は、その伽藍は存在せず、わずかに塔中の石垣のみが遺跡として存在するとともに、主たる仏像は翠松寺に移されている。堂舎は存在せず、一切の建物も残っていない状態となっていたと云う。
1977年(昭和52)、曹洞宗の寺院、「三輪山平等寺」として再興した。
永平寺副監院丸子孝法によって現在は伽藍も復元されている。
昭和57年本堂再建
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十一面観音は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。
梵名は文字通り「11の顔」の意である。観音菩薩の変化身の1つであり、六観音の1つでもある。
玄奘訳の「十一面神咒心経」にその像容が明らかにされている通り、本体の顔以外に10または11の顔を持つ菩薩である。
護摩会なども行われている。
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長岳寺の二天王像、金屋の石仏などもとは、ここにあった。明治の廃仏全廃、明治13年復興している。
これから、三輪山を奈良市北へ連なる山々の裾を歩いて行くが、全長約26kmある。
天理までが約16km、小雨交じりで歩きづらいが行ける所まで向かう。
太子は、49歳で、即位の野望を果たせず、悲運の人生を。「大神神社から東海自然歩道で天理方面へ」
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次回は、大和一の神宮、大神神社へ。
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