埼玉県大里郡寄居町・県北西部で荒川が、秩父山地を抜けて関東平野に出る所に形成された谷口の町「寄居」城下町の人々が寄り集まった集落で「寄居」
中心部は、荒川扇状地の扇頂部に位置している。土地は東向きに傾斜。
中世の城「鉢形城」の城下町で栄えた。江戸に入っても「秩父街道」の要衝・薪・木炭・絹等の集散地であった。
1473年、「長尾景春」築城ー鉢形城ー
立地、北・荒川、東その支流深沢川、南と西は山に囲まれ自然の要害地で、面積24haに及ぶ北武蔵最大の平山城であった。
現在も土塁・空堀等の遺構が残っている。(2度目の掲載)
連雀小路・鍛冶小路・鉄砲小路・外曲輪・新小路・殿原小路・深沢川・橋・土塁・城跡・荒川と堅城の「鉢形城」
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1473年,山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった「長尾景信」が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。
長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男「長尾景春」ではなく弟「長尾忠景」。
山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。
長尾景春はこれに怒り、1476年、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。
これが鉢形城の始まり。
1932年、 遺構の残存状況が良好な考古資料。関東地方の戦国時代の状況を示す文献資料も豊富に残され、(国の史跡に指定)
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1515年、上杉 憲房は、山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継いだ。
しかし、家臣として仕えていた「長尾景春」が離反し、「扇谷上杉家の上杉朝興、相模の後北条氏2代北条氏綱、甲斐の武田信虎」などとの長年にわたる抗争のなか、1525年に病没した。
後を養子の上杉憲寛が継いだが、のちに争いの末、実子の上杉憲政が継いでいる。
平成16年、鉢形城公園の開園と同時に、「鉢形城歴史館・寄居町埋蔵文化財センター」が開館している。(有料¥200)
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1546年, 北条氏3代「北条氏康」が上杉朝定・上杉憲政の拠る川越城を攻略する「河越夜戦」が起き、それに勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立
1564年、 氏康四男「北条氏邦」が鉢形城へ入城。
以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点。
その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、1569年には、武田信玄による攻撃を受け、1574年には、上杉謙信が城下に火を放っている。
歴史館館内入口
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1590年, 豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は、前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍 (35000) に包囲され、
北条氏邦の老臣黒澤上野介ら (3000) が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城。
その後、徳川家康の関東討入にともない、「成瀬正一」「日下部定好」が代官となって周辺の統治を行う。
豊臣連合軍の城包囲陣地(35000の兵)
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現在で樹齢、約150年。高さは18m、枝張りは、東西23.5m/南北21.8mで、根回りは6.5mほどの桜が。ソメイヨシノの片親である「エドヒガン」
名前のとおり関東ではソメイヨシノよりやや早めの彼岸のころ満開する。 堀と畝
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「新編武蔵風土記稿」によれば、はじめ「源経基」によって築城。のちに熊谷「畠山重忠」が在城したといわれるが確証ない。
深沢川と馬出し・その横に「長久院」跡が・復元で石積み土塁・四脚門・三の曲輪が。
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1569年、武田信玄が小田原城攻撃のため上州から侵攻してきた際に鉢形城も攻められたが、守りが堅いのを見た信玄は、そのまま南下して滝山城に。
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埼玉県秩父郡長瀞、秩父盆地の北東・名勝天然記念「長瀞」にちなんでいる。荒川両岸、河岸段丘上にある。江戸時代中心集落の野上では絹織物・たばこ
大豆などの「六斎市」が開かれた。(長瀞玉淀県立自然公園の中心地。
荒川上流の「親鼻橋」から「高砂橋」の4kmの間を長瀞と呼ばれる。
「宝登山神社」
長瀞駅西やく1km、宝登山東麓に鎮座。
祭神ー神日本磐余彦尊ほか2神を合祀。日本武尊が東征の途中に、ここで猛火に包まれたとき巨犬が尊を救ったと云う伝説があり、火止山とも云う。
宝登山神社
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秩父神社・三峯神社とともに秩父三社の 一社。宝登山山頂には奥宮が鎮座する。
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ロープウエイ・宝登山頂駅、標高450.9m・付近には、宝登山神社の奥宮、猿・鹿・ウサギなどの小動物がいる宝登山小動物公園などがある。
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「旧新井家住宅」(重文)
長瀞駅と神社の中間、郷土資料館に隣接。
中野上にあった江戸時代の養蚕農家を1975年に移築復元された。切妻造で、栗材の板葺き石置き屋根、軒下に格子。
旧新井家住宅
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住宅が建設された年は、はっきりしていない。
しかし、ここには三峰山高雲寺(三峰神社)の祈とう札が多数残されており、最も古いものには延享2年の銘があり、延享2年は西暦1745年。
従って、旧新井家住宅が建設された年もこの頃と考えられている。
建物の構造は、かつて長瀞に多く見られた養蚕農家の姿をよく表していると云う。
特徴は、屋根が板葺、下地となる竹の上に長方形の薄い栗板を重ね、この上に漬物石くらいの大きさの石を置いて板を押さえている。
天井がないので、室内から見上げれば竹と栗板がまるみえ。
戦争中、秩父に疎開していたので懐かしい。
旧新井家住宅
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秩父鉄道長瀞駅 駅から河岸までのお土産屋などの商店街 石畳みに
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秩父盆地を出た荒川が、深く削った渓谷で、西岸・結昌片岩が露出「巾約数十m・長さ500m」岩畳・岩石段丘がある。
表面には水流で出来た「甌穴・ポットホール」が数多くある。
「ライン下り」も楽しめる。
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東岸岩壁は、中国揚子江名勝「赤壁」にちなんで「秩父赤壁」と呼ばれている。
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「長尾景春の乱」
扇谷上杉家の家宰・太田道灌が武蔵国に勢力を拡張する好機として攻め込んでくる(道灌の母は景春の叔母にあたる)。
景春も勇戦したが、道灌の八面六臂の活躍の前に各地で敗れて景春の勢威は衰退。
このため景春は足利成氏の支援を受けることで、何とか道灌と戦い続けたが、1478年、、道灌の策略で長年対立していた上杉氏と足利成氏の間で和議が成立。長尾景春は、後ろ盾を失い、結果として太田道灌に攻められて鉢形城は落城し、秩父の山岳地帯に逃れる。
1480年、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ、景春は武蔵国を追われてしまう。
景春の最後は、1514年、に白井城にて死去、享年72(「双林寺伝記」)。
実際には駿河などの亡命先で客死したとみられている。景春が数十年にわたって反乱を続けたことは、結果として関東における上杉氏の勢力を大いに衰退させることにつながった。
北条早雲は、長尾景春を「武略・知略に優れた勇士」として賞賛したという。
次回は、伊豆・伊東七福神巡りを掲載します。
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