syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

新宿 歌舞伎町 西口から代々木八幡

2015-07-13 | 気まま旅

「副都心」、丸の内・大手町・日本橋・銀座の都心に対し、渋谷・池袋・新宿を副都心・新宿副都心とよぶが、新宿は駅西側の超高層ビル群一帯を指して
その中心は、江戸時代「十二社弁天池」の行楽地を埋め立て、「淀橋浄水場」の約34haの土地であった。
浄水場は東村山市に移転し、その跡地を含んで約96haあると云う。
「内藤新宿」江戸時代は、甲州街道・青梅街道の分岐点で追分付近に,信州高遠藩主「内藤氏」の下屋敷(御苑)の一部に宿場が新設された(江戸中期)
特に「明暦の大火・1657年)後、市街整備されている。それまでは、農村地帯、明治に入り、広大の跡地は、軍用地、学校などに転地転用している。
    

「歌舞伎町繁華街」
大部分は新宿区発足前には旧淀橋区に属した地域(三光町は旧四谷区)。
元々は「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯と長崎藩邸があったところで、明治以降は鴨場となっていた。
当初は角筈村、1889年からは淀橋町に属した。当時の地名は字十人町、字矢場。
1893年、淀橋浄水場建設に伴い、残土で鴨場の池が埋め立てられ、造成され、1920年には、東京府立第五女学校(現在の東京都立富士高等学校)が
この地に開校。学校を取り巻く周囲は閑静な山の手の住宅街として大臣や軍人の邸宅もあり発展していったと云う。
1932年、東京市淀橋区に編入され、市街化が進んだ。1945年の東京大空襲で一面焼け野原となったが、第二次大戦後、石川栄耀らによって
「(現在の歌舞伎町一番街付近に)歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」
という復興事業案がまとめられ、この都市計画から、計画担当者の石川栄耀の提案により、新しい町は歌舞伎町と名付けられた。
結局、財政の面などからこの構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまったと云う。

                そのコマ劇場も姿を変えている。
    

昭和30年,新宿コマ劇場建設・歌舞伎町には娯楽施設が数多く進出。歌舞伎町の中心に新宿コマ劇場が建設され、歌舞伎町が盛り場としての形態を整えた昭和31年に、売春防止法の制定売春防止法の制定と施行によって、新宿へやってくる客層は従来の新宿2丁目からより駅に近い歌舞伎町へと向けて流れが変わったと云う。歌舞伎町は、ここから急成長を遂げる。
その後、日本経済の高度成長の波に乗り、日本最大の繁華街へと成長していく。
風俗店も歌舞伎町に乱立する。歌舞伎町に少しづつアジア系の外国人の姿が増えだし、次第に歌舞伎町には「危険な街」「風俗店の街」というイメージが付きまとうようになって永い。

  

「新宿西口・思い出横丁」今でも健在
西口のガード沿いに立ち並ぶ長屋造りの飲み屋街。
戦後間もない昭和21年頃、戦後の食料品を思うように入手できない時期に、多くの露店が比較的手に入りやすい進駐軍の牛や豚のモツでもつ焼き屋を始め、今でもやきとり屋やもつ焼き屋が多いのはその名残だという。
飲み屋の他にも定食屋や金券ショップ等。

  歌舞伎町で古くから開業していた天然果汁喫茶店「マルウス」夜のみ営業と云う。
    

「利光鶴松」1864-1945 政治家・実業家・小田原急行鉄道創業者
大分県生まれ、1884年に上京、教員を務めたのち、明治法律学校に進学し代言人(弁護士)となる。
その後、東京市会議員、衆議院議員を務めたのち実業界に転身。

「小田急電鉄」
戦前、「利光鶴松」が経営した電力資本・鬼怒川水力電気を親会社とし、利光は、郊外鉄道の将来性に着目し、東京市内の地下鉄網「東京高速鉄道」
山手線を外周する「東京山手急行電鉄」・城西地区の開発を目的とした「渋谷急行電鉄」などを次々と企画したが、
結局実現したのは小田急線と井の頭線(渋谷急行計画の後身)東京高速鉄道は、後に「五島慶太」らの手により実現した。
電力国家管理に伴う日本発送電への統合で、基幹事業の電力部門を奪われた鬼怒川水力電気は小田急を合併し、電鉄会社となったが、中国・山東半島での鉱業に乗り出したのが裏目に出て同社の経営を圧迫し、そのため、利光は一切の事業を東京横浜電鉄の五島に譲渡、吸収合併され東京急行電鉄
となった。
このため企業乗っ取りの歴史である大東急形成の中で、小田急だけは事情が異なるのだが、大東急解体の旗頭となったのは旧小田急関係者であったと云う。新生小田急は1948年、東京急行電鉄(東急)から、事業を譲り受け発足。
この時、井の頭線は東急から京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に移譲され分離したが、その代わりに戦前は無関係であった箱根登山鉄道と元来東京横浜電鉄の関連会社であった神奈川中央交通を東急から譲受し系列会社とした。
戦前は無関係だった江ノ島電鉄の持株の一部も東急から譲受したが、後に買い増しを行い系列下に収めている。
近年、西武鉄道と営業資産の協力関係、共通商品の開発に乗り出して功を奏しているとも云う。

    

小田急線・代々木八幡駅・駅№H04.(渋谷、代々木)
駅周辺ー代々木八幡・代々木公園 日本航空発始の地記念碑・区立富ヶ谷図書館・山手通り・井ノ頭通り
駐日ベトナム大使館・駐日ブルガリア大使館等

            新宿から4ッつ目「代々木八幡駅」下車
    

「代々木八幡宮」

渋谷区代々木に鎮座。旧社格は村社。八幡神として応神天皇を主座に祀り、天祖社・天照大神、白山社・白山大神を配祀。
    

建暦2年の1212年、源 頼家の近習・「近藤三郎是政の家来であった荒井外記智明」によって創建。
頼家が修禅寺で暗殺された後、智明は、武蔵野国代々木野に隠遁し主君の冥福を祈る日々を送っていたが、建暦2年、鎌倉の八幡大神から宝珠のような鏡を授かり、託宣を受ける夢を見たと云う。
そこで、同年、元八幡の地に小祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けたのが当社の始まりであると伝える。

             現在でも例祭は9月23日に行われている。


                    本殿


「代々木八幡遺跡」
境内にある。 昭和25年の1950年、発掘調査で縄文中期とみられる多数の遺物や住居跡などが発見された。
その際に加曽利E式土器が出土したことから、この住居には約4500年前に人が住んでいたと推定されている。
住居跡には竪穴住居模造家屋が復元されており、区の史跡に指定。

                  約4500年前と推定
    

終わります。

高田馬場 保善高校から

2015-07-12 | 気まま旅

幕府の馬場、区の北部、神田川で西と北・上・下高田村で下高田村は「豊島区」、神田川沿岸低地は工業地で、JR・営団地下鉄・西武新宿線の駅周辺は
再開発され商店街を形成している。駅前の大通りが「早稲田通り」。
高田馬場駅周辺には、早稲田大学・学習院・保善高校・海城学園・予備校等多くの学生で賑わう駅。
講談で知られた「高田馬場仇討・堀部安兵衛」」は西早稲田の水稲荷神社境内に碑が建っている。
今日は、保善高校・海城からJR新大久保、新宿歌舞伎町方面へ歩く。

    

新宿の北部に位置する地域は、「戸山ヶ原」と呼ばれ、 敗戦までは大規模な陸軍の施設があった地域です。
陸軍軍医学校・公園には、かまぼこ形の射撃場・兵舎があった。
また、731部隊が、生体人体実験を行ったとされる、「防疫研究室を含む軍医学校」も 現在は、戸山公園の運動場や、 国立感染研究所、障害福祉センターなどになっている。その一角に、陸軍第一病院から軍医学校へ通じる、 地下道の出入口の跡が残っていると云う。

    

「戸山公園」
新宿区にある都立公園、敷地は明治通りを挟んで、大久保地区(西側)と箱根山地区(東側)に完全に分かれ、地名としては、戸山二丁目・三丁目と大久保三丁目にまたがる。

当地一帯は、江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷、2代藩主「徳川光友」により、回遊式庭園「戸山山荘」として整備され、敷地内には箱根山に見立てた築山の玉円峰(現在の箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景が、11代将軍「徳川家斉」の訪問を受けるなど、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園であったと云う。
この頃の戸山山荘を描いた谷文晁による絵巻が現存している。その後は数度の火災や水害により荒廃したが、尾張藩の財政難などもあり復興されず、明治維新後、戸山山荘は明治政府に明け渡され、跡地には1873年、陸軍戸山学校が開かれ、太平洋戦争終結まで、陸軍軍医学校、陸軍の練兵場などに利用。
戦後、軍事施設はすべて廃止され、1949年の昭和24年、跡地に戸山ハイツの建設が開始、一部を公園として整備され、「戸山公園」として開園。

    

「保善高校」
1916年 - 安田財閥の「安田善次郎」翁の寄付に基づき、東京市神田錦町に前身の東京植民貿易語学校が開校、
まもなく安田財閥の持株会社である安田保善社に経営が移管となる。校長は「新渡戸稲造」。
1920年 - 東京植民貿易語学校夜間部を併設。1923年 - 東京保善商業学校(昼間部)を新設、同時に東京植民貿易語学校夜間部を改組し新たに現在の保善高校の前身である東京保善商業学校(本科夜学課)を設置。 関東大震災で創立当初神田にあった校舎が焼失。
1924年 - 東京植民貿易語学校(昼間部)・東京保善商業学校(昼・夜)が東京市本所区(現・墨田区)横網に新校舎を建設。
安田保善社が新たに設立した保善商工教育財団の経営に引き継がれ、、、、、。

         陸の保善・海の海城、陸(軍)の保善は、戸山公園入り口前
    

「海城中・高等学校」
1885年の明治18年、 漢学者の新楽金橘が余力学舎を芝区三田(現、港区三田)に創立。翌年、 余力学舎を東京英華学校と改称。
1888年、 麻布区桜田町、麻布区仲ノ町(現、港区西麻布・六本木)に移転。東京英華学校を海軍兵医学校予備校と改称。
1890年、 麹町区元園町(現、千代田区麹町)に移転。 海軍兵医学校予備校を一旦廃校し、古賀喜三郎が私財を投じて海軍予備校を創立。
1899年、 麹町区霞関町(現、千代田区霞が関)に移転。海軍予備校に併設して日比谷中学校を設置。1900年、 海軍省の要請により、海軍予備校を
海城学校と改称。 海城学校・旧日比谷中学校校友会を合併し学友会が発足。 日比谷中学校閉鎖、海城中学校発足。財団法人海城学校認可。
1921年、 海軍予備校・日比谷中学校・海城学校・海城中学校の卒業生を糾合して、同窓会組織である海原会が発足。 豊多摩郡大久保町字百人町
(現在地)移転。1931年、 財団法人海城学校を財団法人海城中学校と改称。1944年の昭和19年、 太平洋戦争激化により、生徒が勤労動員に出動、、、。

                海城中・高等学校  
    

「全龍寺」
鐵雙和尚が寛永年間の1624-1643年に創建したと伝えられる。
鐵雙和尚は、成願寺六世で寛永初年の1624年、「清見寺」を創建したと伝えられる。
清見寺創建の後、創建したものと推定。 禅宗曹洞派、多摩郡中野村の「成願寺」末寺、
徳川家康は,今川氏に人質としてあったが、清見寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた寺。

       海亀山と号す。 閻魔堂・ 鐘楼、貞享年中鋳造の鐘
    

「皆中稲荷神社」
新宿区百人町にある稲荷神社・市街地に鎮座している。賭け事に利益があるとして知られている神社。

祭神ー宇迦之御魂神
    

天文2年の1533年ある夜、稲荷大明神が鉄砲組与力の夢枕に立ち射撃を伝授し、その霊験が評判となり、「皆中稲荷(みななかのいなり)」
と呼ばれるようになった。
その後「当たる」ものに利益があると人気をあつめ、「賭けごとの神」として親しまれていると云う。

歴史ー天文2年(1533年)、創建ー明治32年、明治天皇によって大久保つつじの和歌が詠まれる。昭和16年、大久保つつじの和歌の記念碑が建立し、
平成14年2月、「例祭」に、「鉄砲組百人隊行列」が、(区の無形民俗文化財)
    

「新宿・百人町」の地名。
内藤清成が率いていた伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことに由来。
百人組と呼ばれた江戸の街の警護を担当する鉄砲隊は、その鉄砲術が江戸でも1、2を争うほどの腕前であったという。
江戸時代、鉄砲隊が居住し副業としてつつじの栽培が盛んであったと云う。
由来を持つ青山百人町(青山)、根来百人町(市ヶ谷)も存在したが町名の統廃合で姿を消している。
大久保百人町が残るのみ。

    

次回は、新宿歌舞伎町方面へ。

亥鼻公園 千葉城

2015-07-09 | 気まま旅
千葉の語源は、千草(沢山の緑の地)の生え茂る豊かな土地・「万葉集」の防人の歌には、「知波乃奴」と詠まれている。
平安時代(800年前後)、桓武天皇の子孫「平 良文」が、千葉の地にすみ、その二男「平 忠頼」が「千葉介」を名のった。
忠頼の子「千葉忠常」は、この地域の最大豪族で、上総国大椎(現在の緑区)を本拠地としていた。
1126年、その子「千葉常重」は、「池田郷・亥鼻」に城に移っている。城を中心に城下町が形成された。
これが現在の千葉市である。
「千葉常重」の子「千葉忠胤」は、下総国の守護に任ぜられ、300年以上、各地の地域に勢力をふるっている。当時、鎌倉に比べられる有力城下町
であったと云う。だが、一族内部で対立し、1470年頃、亥鼻から本拠地を「佐倉」に移し、ここで「千葉城」は、廃城している。
江戸時代は、「佐倉藩・生実藩の所領となった。寒川・登戸等の港は、「佐倉藩」で領内物資の積出港として栄えた。
佐倉宿ー房州街道・上総街道・東金道・土気道・佐倉街道等が交わる宿場町。

「千葉神社」
千葉市中央区にある神社。旧社格は県社。

祭神ー 北辰妙見尊星王(天之御中主大神)・相殿 経津主命・日本武尊
    

千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立。
千葉氏の祖平忠常の子覚算大僧正によって伽藍が整備されたと伝えられる。
以降千葉宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、千葉氏宗家の元服は代々この寺で行われた。
「千葉常胤」の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていた。

                    創建1000年頃
    

1591年,徳川家康が関東に入部し、この寺を参詣して寺領安堵ならびに太刀一振を寄進.
朱印地200石と十万石の格式が与えられたと云う。
江戸時代には北斗山金剛授寺尊光院と称する真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって神社。
本尊も祭神に改められ、妙見菩薩と天之御中主大神は長年神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、今日でも同社が日本有数の
「妙見信仰」の中心とされてきている。
                       本殿


         「亀石」-霊験石、撫でると御利益があると云う。
    

「胤重寺・智窓院」-山号光明山・浄土宗ー
開山ー「雲巖上人」(祖師・法然上人、鎮西聖光上人の法孫)
俗籍は当国旧領主・千葉介常胤の四男・武石三郎胤重の末孫ー武石三郎胤盛の舎弟と云う。

境内には、県文化財「戸塚揚心流祖戸塚彦介英俊、二代彦九郎英美の墓」
英俊は、1813年、江戸西大久保に生れ、父より術の皆伝を受けて幕府の講武所初代教授。

    祖先「胤重」の菩提のため、永禄元年建立、「胤重寺」と号したと云う。
    

「千葉城址・郷土博物館」 入館料¥60
千葉市内には、豪族が築いた大きな古墳「大覚寺古墳・人形塚古墳」がある。8世紀に入ると、国分寺造営・千葉寺等が姿を現してくる。
古代仏教文化が栄え、平安時代には、豪族武士団が発生、桓武平家系の「千葉氏」が勢力を伸ばしていく。
鎌倉時代には、全盛期、千葉氏が下総守護職・大豪族に成長した。が、「千葉氏」は、室町に入り衰退し、豊臣秀吉・小田原攻めで減亡。

       亥鼻公園・文化の森に、「千葉氏」居城跡ー1126年千葉常重築城


「千葉常胤」平安 - 鎌倉時代初期、1118ー1201  享年84
千葉介。墓所は鎌倉市扇ガ谷 浄光明寺。上総権介、下総権介 。氏族ー桓武平氏良文流、房総平氏、千葉氏 (父母ー千葉常重、石毛政幹の娘)
兄弟ー常胤、小見胤隆、 妻ー正室:秩父重弘の娘 ・子ー胤正、相馬師常、武石胤盛、大須賀胤信、国分胤通、東胤頼、日胤

「保元・平治の乱」
千葉常胤は、保元元年の1156年、「保元の乱」に出陣し源義朝指揮下で戦う。
常胤を義朝の郎党とする見方もあるが、「保元の乱」での後白河天皇側の武士の動員は官符によって国衙を通じた公式動員であることに。
「平治の乱」で「源義朝」が敗死すると、1161年 には常陸国の「佐竹義宗(隆義の弟)」が前下総守・藤原親通から常重の証文を手に入れ、藤原親盛(親通の子・平重盛側室の養父)とも結んで伊勢神宮に再寄進しこれも伊勢神宮に認められ支配権を得る」
千葉常胤も、再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。このため、伊勢神宮側では常胤側の窓口となった禰宜・荒木田明盛と義宗側の窓口となった禰宜・度会彦章の対立が生じた。
佐竹義宗が伊勢神宮に供祭料を負担して寄進状の約束を果たしたことが評価され、1163年、に義宗の寄進を是とする宣旨が出され、1166年、に明盛から彦章に契状を提出し、1167年付で和与状が作成された。
当時、和与による権利移転は悔返を認めない法理があり、これによって度会彦章・佐竹義宗の勝訴が確定。
千葉常胤は、佐竹義宗と激しく争うことになる。

この頃、「平治の乱」で敗れた「源義朝」。
大叔父にあたる源義隆の生後間もない子が配流されてきたため、千葉常胤は、流人としてこれを監督しつつも、源氏への旧恩から、この子を密かに
源氏の子として育てた。これが後のー源頼隆ーである。

   天守に弓を引く千葉常胤像(当時天守はなかった)、頼朝の信頼厚く御家人筆頭


「上総広常」~1184 別名ー介八郎、平広常
官位ー上総権介 ・氏族ー桓武平氏良文流、房総平氏、上総氏 ・父母ー父 平(上総)常澄 ・兄弟ー伊西常景、印東常茂、匝瑳常成、佐是円阿、
大椎惟常、埴生常益、天羽秀常、広常、相馬常清、臼井親常、時田為常、金田頼次 ・子ー能常、平時家室、小笠原長清室 。

1183年,源頼朝は、千葉広常が謀反を企てたとして、梶原景時に命じて、双六に興じていた最中に広常を謀殺。嫡男・上総能常は自害、
上総氏は所領を没収。後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、
頼朝は、広常を殺したことを後悔し、即座に広常の同族である「千葉常胤」預かりとなっていた一族を赦免。
しかしその広大な所領は千葉氏や三浦氏などに分配された後だったので、返還されることは無かったという。
赦免は、当初より予定されていたことだろうというのが現在では大方の見方である。
慈円の「愚管抄」(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した1190年、後白河法皇との対面で語った話として、
広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べた事を記している。
広常の館跡は、正確な位置は今もって不明だが、近年、千葉県夷隅郡大原町(現いすみ市)や御宿町一帯で中世城館址の調査が行なわれ、検討。

                         歌川芳虎画


  

「結城野合戦・結城浜の戦い」
1180年9月、に下総国であったとされる合戦であるが、「源平闘諍録」にある説話。
「千葉常胤一族」と「千田荘の領家藤原親正(政)の間の合戦」(千葉・千田合戦とも呼ばれる)

「千葉氏の祖千葉常重」は、「平 常晴」から相馬郡を譲られて相馬郡司となり、1130年6月、伊勢神宮に寄進し相馬御厨が成立する。
しかし、1136年、官物未進を理由に下総守藤原親通に召し上げられ、更に、1143年、には、源義朝の介入があり、1161年には、藤原親通の子親盛から入手した新券を理由に佐竹義宗に奪い取られるなど、従来からの下総在地豪族だった千葉氏と、為光流藤原氏や佐竹氏との相馬御厨や橘荘などの荘園を巡る軋轢が生れていた。
親盛の子の親政は、千田荘の領家として下総匝瑳郡に進出し両総常陸の武士団を率いていた。
親政は、千田荘の本家である皇嘉門院の判官代でもあり、本家は勿論領家も中央に在るのが通例にも拘らず、皇嘉門院とそれに連なる摂関家の威光を背景にした下総進出であった。
親政は、時の平氏政権を築いた伊勢平氏とは、忠盛の婿でありかつ資盛の伯父という二重の姻戚関係。
このため、下総における千葉氏の立場は、治承の頃には危機的な状況に追い込まれていた。
石橋山の戦いに敗れ安房国に逃れた源頼朝に加担したのは、こうした状況を打破するための「千葉常胤」の起死回生の賭けだった。

  

「臼井城」(佐倉市臼井田付近)
1114年、平常兼の子の常康が臼井に居を築き臼井六郎を称したと伝えられるが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではなく、
臼井氏の中興の祖といわれる臼井興胤の代(14世紀中頃)に城としての基礎が置かれたといわれている。

      

12世紀中頃、「臼井常康」が築いたと伝わる。14世紀中頃、本格的城郭として整備。1479年、「太田道灌」の率いる上杉方に攻められ、
七ヶ月に及ぶ篭城の後落城。
1557年、「臼井久胤」の後見として「原 胤貞」が入り、原氏の支配下(1551年(天文19年12月(旧暦))とする説もある)。
1561年ー「上杉謙信」に呼応した里見側の「正木信茂」に攻められ落城。1564年、原 胤貞が奪還。
1566年ー臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける。1574年、生実城が里見氏の手に落ちたため、原氏の本拠となる。
1590年ー小田原征伐により原氏が滅び、豊臣側に接収され、後に「酒井家次」が封じられた。
1604年ー酒井家次の高崎移封に伴い廃城となった。

                    臼井城
    

天守閣から
千葉城を亥鼻城とも云う。規模は、千葉寺~国立千葉大学医学部、付属病院と広大な城であった。
天守閣は、小田原城などを模したと云う。東側には、千葉県庁が聳えている。

               千葉県は、もっともっと緑の県に
    

これで、千葉県外房を終わります。

七沢温泉

2015-07-07 | 気まま旅

「大山の東麓に点在する温泉郷」-七沢温泉、広沢寺温泉、かぶと湯温泉など。
山裾の斜面に旅館が建ち並ぶ温泉郷。


      村中山観音寺や日向薬師・大山眺望散策・七沢森林公園森林セピラー基地・猪料理が。
  

「七沢城址」
室町時代中期の1450年、に勃発した鎌倉公方「足利成氏」と関東管領「上杉憲忠」と戦いでは、
「憲忠軍がこの城に篭もった」との記録があり、城の成立もこれ以前とされている。
七沢城は扇谷上杉定正に継がれ、定正の兄朝昌が城を守ったとされるが、長享二年の1488年、扇谷上杉氏と勢力争いをしていた
山内上杉顕定率いる兵に攻められる。この戦いにより朝昌は戦死する。
山内上杉軍を撃退し、後、七沢城は朝昌の子朝寧・憲勝兄弟へと引き継がれるが、永禄五年の1562年、小田原より進出してきた
後北条氏の攻撃により七沢城は落城。以降、七沢城は利用されることなく廃城になったという。


  

「上杉憲顕」 1306-68 足利氏の姻戚 初代関東管領に任じられた。山内上杉氏の祖で基礎を築いた。

        七沢城跡は現在七沢病院が建ち、遺構は全く残っていない


            厚木七沢ー伊勢原日向を結ぶー薬師林道ー 
  


           熊が飛び出そうな林道(やっと道標が)


「山中にある巨岩 亀石」
木が生え、岩の上に堆積した土に木が根を付けている。幅15m・高さ8mー推定重量は不明の謎の巨岩。亀のように見える事から「亀石」という。

                    そそり立つ謎の巨岩


26点の仏像安置ー日向薬師ー

奈良時代初頭の霊亀2年の716年、「僧行基」により開山。

「僧行基が熊野を旅していた際、薬師如来のお告げにより、相模国のこの地(現在の神奈川県伊勢原市)に、日向山 霊山寺を開山したと伝えらる。

                     日向薬師
    


本尊ー薬師瑠璃光如来(鉈彫り 国重文)

薬師信仰は、奈良時代に盛んになり全国に広まり、薬師如来は東方瑠璃山に在って現世のご利益を願う尊。
寺は、かつては勅願寺とされていましたが民衆の篤い信仰を受けて、法燈が受け継がれいる。

                    日向薬師
  


山号ー日向山・宗派ー高野山真言宗・本尊ー薬師三尊・創建ー(伝)霊亀 2年(716年)。
別称ー日向山霊山寺(近世以前の寺号)・札所ー東国花の寺百ヶ寺 神奈川7番

文化財ー<重要文化財>本堂(改修工事中)
木造薬師三尊像、木造阿弥陀如来坐像、木造四天王立像、木造十二神将立像、梵鐘など。

平成23年、本堂の大規模な改修工事、「平成の大修理」が行われていた。平成28年の12月には復元された本堂を公開予定とのこと。



「日本三大薬師寺」
日本三大薬師といえば、いろいろな言い方があるが、奈良の薬師寺と日向薬師、それに会津の勝常寺の薬師如来が知られている。
日向薬師は、地元では日本三大薬師に数えられているが、薬師如来は国分寺の多くで祀られているなど古刹に薬師如来は極めて数が多く、したがって日本三大薬師にはいろいろな言い方がある。まあ、定説がないと言える。
日本三大稲荷といえば、伏見稲荷と豊川稲荷と笠間稲荷である。佐賀の裕徳稲荷などを数えることもあるが、古刹としては伏見稲荷と豊川稲荷と笠間稲荷ということでほとんど異論はないようである。
薬師如来・三大薬師の本命かは判らない。
奈良の薬師寺とこの日向薬師と、もう一つは会津の勝常寺を挙げている人が多い。

源頼朝を語るとき政子との関係から日向薬師を抜きにできない。

日本三大薬師ー奈良の薬師寺は有名ですが、あと2箇所はどこでしょうか。


日向薬師は、平安時代の歌人
  相模の歌「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」であるとされている。
相模は相模守大江公資と結婚して、1020年、、夫の任地である相模に下向、1024年、には帰京しているので、前出の歌はその間に詠まれたもの、、
このことから、日向薬師は平安時代後期には霊場として栄えていたことがうかがえる。
鎌倉時代の史書「吾妻鏡」にも日向薬師にかかわる記事が見られる。
1192年には、源頼朝の妻「北条政子」の安産祈願のために読経をさせた寺院の1つとして霊山寺の名が。(この時生まれた子が後の源実朝)。
1194年には、源頼朝が娘の大姫の病平癒祈願のため自ら「日向山」へ参詣したとの記載もがある。

本堂改装中
  

「村中山観音寺」
観音寺は、奈良時代後期、元正天皇の頃の創設と伝えられ、不幸にも野火に遭い消失している。
元禄初年頃村民の協力により再建し、 日向一之沢浄発願寺の木食空誉弾阿上人が天台宗の寺として開山。
本尊ー馬頭観音菩薩が安置されていると云う。
上杉定正の愛馬月影を祀ったことによると伝えられている。
その頃は馬を飼っていた村人が、馬の安全と供養を、さらには五穀豊穣の祈りをこめて信仰されていたと云う。
古くは観音様の祭りに境内で草競馬が催されたこともあり、参道の途中には数多くの馬頭観音碑が建立されていると云う。


                     丘陵に観音像が
  


これで、相模湖から旅は終わります。










千葉市 千葉氏と頼朝

2015-07-06 | 気まま旅
千葉駅周辺は、JR総武本線が通り、それに沿ったタウンライナー(モノレール)・JR内・外房線、千葉急行鉄道・京成千葉線、、と駅周辺には
大型デパート・商業中心の高層ビルが立ち並んでいる。
1871年「廃藩置県」で「千葉県」成立し県庁がおかれ、行政機関が集中し中心として機能を担う。
千葉医学専門学校・病院・文教文化施設も設置され、地方中心都市化、又、国防衛線の一環として歩兵学校・兵器補給廠・鉄道第一連隊・気球連隊
軍部県でもあった。日立航空機・埋め立て「川崎製鉄」が、東京電力千葉火力発電所等重化学工業が促進された。
現在「千葉幕張新都心」で大型ホテルなどが建ち国際的ビジネスセンターとなっている。
埋立地も広がり、新都心ヘリボート・千葉マリンスタジアムの幕張海浜公園・検見川の浜・稲毛の浜・千葉港ポートパーク(JR京葉線)・川崎製鉄
と開発されている。



千葉みなと駅から県庁前駅を結ぶ1号線と、千葉駅から千城台駅を結ぶ2号線の2路線を持つ。
1988年3月に最初の区間である2号線スポーツセンター駅 - 千城台駅間が開業し、1999年3月に1号線を含めた全線が開通した。
総営業距離15.2kmは懸垂式モノレールとしては世界最長で、2001年にギネス世界記録に認定 。

日本国内最長のモノレールは大阪府にある大阪モノレール、世界最長のモノレールは中国重慶市にある重慶軌道交通である。


「千葉寺」-真言宗・山号 海上山
                 坂東三十三か所 第29番札


千葉駅から北約500mにある。
709年「行基」の開基と伝わる。
    

「行基」668-749 奈良時代の百済系渡来氏族出の僧。社会事業で多くの人を救っている。
法相宗「道昭」に学ぶ、大仏建立を助け、大僧正に任じられる。
業績ー僧院34・尼院15・橋6・樋3・布施屋9・船息2・池15・溝7・堀川4・道1、、。朝廷は弾圧している。その為第二の行基は出なかったと云う。

    

千葉寺は、千葉氏の祈願所として尊信を集めた。
「県の巨木・寺のイチョウ」
名前, 千葉寺のイチョウ,ー 幹周/樹高, 8m / 30m. 樹種, イチョウ(公孫樹), 保護 指定, 県指定天然記念物. 推定樹齢, 1300年。

           梅竹文透 釣燈籠は、青銅の重文ー国立博物館寄託
    

BC28000頃餅ケ崎遺跡・文六第一遺跡ーBC3000頃荒屋敷貝塚・加曾利貝塚・月ノ木貝塚。
400年頃大覚寺山古墳・七廻塚古墳・上ノ台遺跡
600年頃人形塚古墳・荒久古墳
645-東国国司の任命・下総国千葉郡に
717-千葉郡内に千葉・山家・池田・三枝・・・七郷が置かれる。
1126-千葉常重(大椎から千葉へ移る。
1180-千葉常胤、国府台で源頼朝軍参陣・(頼朝挙兵)
1185-千葉常胤・下総の守護に。
1274-千葉頼胤蒙古襲来で九州へ出陣ー千葉氏二派に別れるー下総-九州。
1331ー千葉貞胤、「北条高時」支配下に征西軍参加ー元弘の変
ー「奈良時代・上総国国分寺」ー後継寺院は、市原市真言宗豊山派・山号、[医王院」本尊ー薬師如来

周囲に谷や古墳があるため寺域は四角形ではないと云う。
南北478m、東西は北辺:254m・中央:345m・南辺:299m、面積は139,000m2に及ぶ(武蔵・下野に次ぐ大きさ)。
主要な伽藍地は南北219m、東西194mで、大官大寺式の伽藍配置。伽藍は大きく2期の造営時期が確認され、1期目は仮設的意味合いが強いと云う。
旧国分寺は応永年間頃まで存続が確認されていたと云う。
(千葉県立中央博物館内に当寺の復元予想模型が、市原市役所内に塔の復元予想模型がある)

「奈良時代・下総国国分寺」-市川市国府台の南端に所在。
創建時の国分寺跡地上に立ち、「金光明寺」と号していたという。
1190年-1199年、1243年、1264年-1275年に当寺の寺領を指すとみられる文献が残っている。
戦国時代の2度の国府台合戦や数度の火災によって詳細な文献は失われており、変遷は不明と云う。
本堂ー境内は国分寺跡上に位置し、本堂は金堂跡の場所にあたる。境内には創建時の礎石が多く残っていると云う。
国分寺跡の伽藍は現在の国分寺と重複する位置にあり、金堂跡は現在の本堂の場所にあたる。
金堂と塔が東西に並ぶ法隆寺式伽藍配置である。塔は、西に、金堂・講堂は東に傾いており、堂塔の向きは一定ではない。
一帯は、須和田遺跡や国府跡推定地が残り、古くから文化的中心地であった。
僧寺・尼寺とも変遷は明らかでないが、9世紀代は充実している一方で10世紀代から衰退が見られ、大きな変容が認められる。
金堂 - 東西31.5m、南北19m。講堂 - 本堂裏の墓地内に位置する。東西26m、南北18m。七重塔 - 18m四方。礎石は本堂前に移動されている。

          上・下総国分尼寺も接近して残っている。


「平忠常の乱」
平安時代、房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で1028年に起きた反乱。
平安時代の関東地方では平将門の乱以来の大規模な反乱と云う。平将門の叔父平良文の子孫に当たる「平忠常」が乱を起こし、
朝廷は討伐軍を派遣するが3年にわたって鎮圧できなかった。
有力武士の源頼信が起用されるに及び忠常は降伏したと云う。
この乱により房総三カ国は大いに荒廃し「長元の乱」ともいう。
1030年、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。
朝廷は、後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかったと云う。
忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭って抵抗、乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、
下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。
朝廷は、平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。
頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。
長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした1031年、春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。
頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、美濃国野上で忠常は病死し、頼信は忠常の首をはねて帰京。
忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。
1032年、功により頼信は美濃守に任じられた。
平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(今昔物語集)ためであるともいわれている。この乱の主戦場になった房総三カ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守藤原辰重の報告によると本来、
上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。
だが、同時にその原因は追討使であった平直方や諸国兵士、すなわち朝廷軍による収奪であったと明言している(「左経記」長元7年10月24日条)。

この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。


「頼朝挙兵」
「三浦義澄」は、源頼朝軍の合流を目指し石橋山に向かうが、丸子河(酒匂川)の濁流に阻まれ、撤退を余儀なくされ、帰路途中・小坪の浜において
畠山重忠軍と遭遇し合戦に及んでいる。
その後、畠山重忠・河越重頼・江戸重長の三軍が衣笠城に押し寄せ、義澄の父・三浦義明が命を落としている。三浦軍は安房に渡り、源頼朝と合流
し、安房(一戦場)において、平家に味方する安房国・長狭常伴が頼朝の宿泊の隙を狙って夜襲をかけようと兵を挙げたが、事前に事態を察知した
三浦義澄が先回りし機先を制し長狭一族は敗北、 一方、「東(千葉)胤頼」は、源頼朝の使者・藤九郎盛長を父・千葉常胤とともに丁重に出迎え、
この上ない返事を盛長に持ち帰らせ頼朝を喜ばせている。
東胤頼が父に進言した。「下総国の軍勢のほとんどは平家に従う者達。私達一族全員が国境を出て頼朝様の居る安房国へ行ってしまえば、その隙を衝いて必ずや攻め込んでくるに違いない。まず足下の敵を攻め殺しておく必要があるのでは」との意見を述べ、 常胤もこの意見に同意。
「では、直ぐに攻め込んで撃ち滅ぼせ」と下知したため、東胤頼とその甥に当る千葉成胤は部下を連れて千葉の代官屋敷へ攻めかかった。
千葉の平家の代官(紀季經)は元からの大豪族なので数十人の兵隊で防戦した。
丁度北風が強く吹くので、千葉成胤は下郎達を館(市川市国府台)の後ろに回らせて、建物に火を付けて燃やさせたので、代官は火事に逃げ惑い、防戦のすべも無いままに、東胤頼が代官の首を獲っている。
頼朝は、この二人の味方で平家打倒の挙兵を。

平清盛                 源頼朝                 千葉常胤
    

「千葉常胤」 1118-1201 鎌倉幕府草創の筆頭御家人ー下総介
保元の乱頼朝と出陣・拠点を鎌倉進言・下総守護、頼朝征夷大将軍になると貴族の政所下文にならって「家司」、奥州征伐東海道大将軍で出陣
子孫は、各地に。

    

      「白幡神社」新宿町鎮座、頼朝が来訪時、境内に白旗を揚げたと云う


千葉氏系図
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王ーーー千葉常兼ー常重ー常胤ー胤正・師常・胤盛・胤信・胤通・胤頼・日胤
成胤ー胤綱ー時胤(下総千葉氏)ー頼胤(九州千葉)ーーーーー満胤ーー直重 常秀ー秀胤(上総千葉氏)

安土桃山時代の小田原合戦、豊臣秀吉と小田原北条氏との戦いのなか、千葉介直重率いる下総千葉氏の手勢は小田原城に入って豊臣勢と戦い、本拠地の佐倉も攻め落とされ、鎌倉時代から連綿と続いた大名としての下総千葉家は滅亡した。

    

1274年、千葉頼胤軍は、九州出陣。
1331年、千葉貞胤軍は、北条高時の支配下で征西軍の参加。

「元寇」
日本の鎌倉時代中期に、大陸を支配していたモンゴル帝国(大元ウルス)およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた対日本侵攻。
1度目を「文永の役」1274年、2度目を「弘安の役」1281年。ー蒙古襲来ー
特に2度目の弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、元寇以前では世界史上最大規模の艦隊で、九州北部が戦場となった。

関東の鎌倉政権の下に元軍が対馬に襲来した報せが届いたのは、日本側が防衛に成功し元軍が撤退した後で、元軍撤退後に元軍の対馬襲来の報せが
関東に届いた理由は、大宰府と鎌倉間が飛脚でも早くて「12日半」ほどは掛かったためと云う。
「勘仲記」によると、幕府では対馬での元軍が「興盛」である報せを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを総司令官として元軍討伐に派遣するか
議論があり、議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せている。
高麗からクビライの下へ派遣された「金方慶、印公秀」は、
三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧を費やしたこと、加えて民は日本征討(文永の役)による戦艦を修造するために、働きざかりの男たちは
ことごとく工役に赴き、日本征討に加わった兵士たちは、戦闘による負傷と帰還中の暴風雨により多くの負傷者・溺死者を出すなどしたために、今では耕作する者は僅かに老人と子供のみであること、さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って飢えを凌ぐ者があるなど、
「民の疲弊はこの時より甚だしい時はなかった」といった高麗の疲弊した様子を伝えている。
そして、再び日本征討の軍を挙げるならば、小邦(高麗)は、戦艦・兵糧の支給には耐えられないとクビライに訴えている。



1222年ー日蓮・安房国生まれる・1247年ー千葉秀胤、三浦氏の乱に連座し打たれる・1455年ー千葉胤直など一族焼き討ち・自殺
1538年ー後北条氏家・氏康軍ー足利・里見(義尭)連合軍、下総国府台で敗れる・1564年ー里見義弘ー北条軍に敗れる。、、、、

次回は、千葉城・亥鼻公園へ。