「副都心」、丸の内・大手町・日本橋・銀座の都心に対し、渋谷・池袋・新宿を副都心・新宿副都心とよぶが、新宿は駅西側の超高層ビル群一帯を指して
その中心は、江戸時代「十二社弁天池」の行楽地を埋め立て、「淀橋浄水場」の約34haの土地であった。
浄水場は東村山市に移転し、その跡地を含んで約96haあると云う。
「内藤新宿」江戸時代は、甲州街道・青梅街道の分岐点で追分付近に,信州高遠藩主「内藤氏」の下屋敷(御苑)の一部に宿場が新設された(江戸中期)
特に「明暦の大火・1657年)後、市街整備されている。それまでは、農村地帯、明治に入り、広大の跡地は、軍用地、学校などに転地転用している。
「歌舞伎町繁華街」
大部分は新宿区発足前には旧淀橋区に属した地域(三光町は旧四谷区)。
元々は「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯と長崎藩邸があったところで、明治以降は鴨場となっていた。
当初は角筈村、1889年からは淀橋町に属した。当時の地名は字十人町、字矢場。
1893年、淀橋浄水場建設に伴い、残土で鴨場の池が埋め立てられ、造成され、1920年には、東京府立第五女学校(現在の東京都立富士高等学校)が
この地に開校。学校を取り巻く周囲は閑静な山の手の住宅街として大臣や軍人の邸宅もあり発展していったと云う。
1932年、東京市淀橋区に編入され、市街化が進んだ。1945年の東京大空襲で一面焼け野原となったが、第二次大戦後、石川栄耀らによって
「(現在の歌舞伎町一番街付近に)歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」
という復興事業案がまとめられ、この都市計画から、計画担当者の石川栄耀の提案により、新しい町は歌舞伎町と名付けられた。
結局、財政の面などからこの構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまったと云う。
そのコマ劇場も姿を変えている。
昭和30年,新宿コマ劇場建設・歌舞伎町には娯楽施設が数多く進出。歌舞伎町の中心に新宿コマ劇場が建設され、歌舞伎町が盛り場としての形態を整えた昭和31年に、売春防止法の制定売春防止法の制定と施行によって、新宿へやってくる客層は従来の新宿2丁目からより駅に近い歌舞伎町へと向けて流れが変わったと云う。歌舞伎町は、ここから急成長を遂げる。
その後、日本経済の高度成長の波に乗り、日本最大の繁華街へと成長していく。
風俗店も歌舞伎町に乱立する。歌舞伎町に少しづつアジア系の外国人の姿が増えだし、次第に歌舞伎町には「危険な街」「風俗店の街」というイメージが付きまとうようになって永い。
「新宿西口・思い出横丁」今でも健在
西口のガード沿いに立ち並ぶ長屋造りの飲み屋街。
戦後間もない昭和21年頃、戦後の食料品を思うように入手できない時期に、多くの露店が比較的手に入りやすい進駐軍の牛や豚のモツでもつ焼き屋を始め、今でもやきとり屋やもつ焼き屋が多いのはその名残だという。
飲み屋の他にも定食屋や金券ショップ等。
歌舞伎町で古くから開業していた天然果汁喫茶店「マルウス」夜のみ営業と云う。
「利光鶴松」1864-1945 政治家・実業家・小田原急行鉄道創業者
大分県生まれ、1884年に上京、教員を務めたのち、明治法律学校に進学し代言人(弁護士)となる。
その後、東京市会議員、衆議院議員を務めたのち実業界に転身。
「小田急電鉄」
戦前、「利光鶴松」が経営した電力資本・鬼怒川水力電気を親会社とし、利光は、郊外鉄道の将来性に着目し、東京市内の地下鉄網「東京高速鉄道」
山手線を外周する「東京山手急行電鉄」・城西地区の開発を目的とした「渋谷急行電鉄」などを次々と企画したが、
結局実現したのは小田急線と井の頭線(渋谷急行計画の後身)東京高速鉄道は、後に「五島慶太」らの手により実現した。
電力国家管理に伴う日本発送電への統合で、基幹事業の電力部門を奪われた鬼怒川水力電気は小田急を合併し、電鉄会社となったが、中国・山東半島での鉱業に乗り出したのが裏目に出て同社の経営を圧迫し、そのため、利光は一切の事業を東京横浜電鉄の五島に譲渡、吸収合併され東京急行電鉄
となった。
このため企業乗っ取りの歴史である大東急形成の中で、小田急だけは事情が異なるのだが、大東急解体の旗頭となったのは旧小田急関係者であったと云う。新生小田急は1948年、東京急行電鉄(東急)から、事業を譲り受け発足。
この時、井の頭線は東急から京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に移譲され分離したが、その代わりに戦前は無関係であった箱根登山鉄道と元来東京横浜電鉄の関連会社であった神奈川中央交通を東急から譲受し系列会社とした。
戦前は無関係だった江ノ島電鉄の持株の一部も東急から譲受したが、後に買い増しを行い系列下に収めている。
近年、西武鉄道と営業資産の協力関係、共通商品の開発に乗り出して功を奏しているとも云う。
小田急線・代々木八幡駅・駅№H04.(渋谷、代々木)
駅周辺ー代々木八幡・代々木公園 日本航空発始の地記念碑・区立富ヶ谷図書館・山手通り・井ノ頭通り
駐日ベトナム大使館・駐日ブルガリア大使館等
新宿から4ッつ目「代々木八幡駅」下車
「代々木八幡宮」
渋谷区代々木に鎮座。旧社格は村社。八幡神として応神天皇を主座に祀り、天祖社・天照大神、白山社・白山大神を配祀。
建暦2年の1212年、源 頼家の近習・「近藤三郎是政の家来であった荒井外記智明」によって創建。
頼家が修禅寺で暗殺された後、智明は、武蔵野国代々木野に隠遁し主君の冥福を祈る日々を送っていたが、建暦2年、鎌倉の八幡大神から宝珠のような鏡を授かり、託宣を受ける夢を見たと云う。
そこで、同年、元八幡の地に小祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けたのが当社の始まりであると伝える。
現在でも例祭は9月23日に行われている。
本殿
「代々木八幡遺跡」
境内にある。 昭和25年の1950年、発掘調査で縄文中期とみられる多数の遺物や住居跡などが発見された。
その際に加曽利E式土器が出土したことから、この住居には約4500年前に人が住んでいたと推定されている。
住居跡には竪穴住居模造家屋が復元されており、区の史跡に指定。
約4500年前と推定
終わります。