syuの日記・気まま旅

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茂原 法華宗大本山ー鷲山寺

2015-07-04 | 気まま旅
「茂原市」県中央・丘陵北東部で九十九里平野にまたがっている。海水が入り込んで「藻原」が多く、原野が続く意などが諸説になっている。
古代は、「藤原氏」の荘園が開かれ・中世は、「斉藤氏」所領、近世は、「旗本領地」。
1606年「六斉市」が開設され、九十九里平野・海浜地域の農産物っ集積地として活況商業活動が営まれ、上総木綿の生産地としても栄えた。
現在は、農業地帯と天然ガス開発などで工業化が進んでいる。

            天然記念物・鶴枝ヒメハルゼミの発生地


「日蓮」 1222-82 安房生まれ、日蓮宗開祖・立正安国論・京都で「日像」が長年努力し、「妙顕寺」勅願寺とされた。

「本門法華宗大本山ー鷲山寺」
1276年領地「斉藤兼綱」の館を「寺」とし、「藻原寺」等が建立せれている。


鷲山寺、山号ー長国山、宗派ー法華宗本門流、本尊ー三宝尊。創建年ー1277年、開山ー日弁・開基ー小早川内記。
塔頭が、二院ある(観妙院、妙本寺)。

「日蓮大聖人御尊像」(伝 日法聖人御作)。

開山以来、四度の火災に遭い諸堂を消失、現在は、本堂、庫裏、開山堂、鐘楼堂、水行堂、仁王門、香神堂、長屋門、などを備えるが仮設のものが多い。元禄大地震による、大津波の犠牲者供養碑がある。
歴史ー1264年、日蓮は小早川内記の帰依を受ける。
   1277年、日弁は小早川内記の外護により、鷲山寺を建立。
   1535年、火災により、焼失・再建。
   1705年、火災により、焼失・再建。
   1862年、火災により、焼失・再建。
   1954年の昭和29年、茂原市主催の打上花火により、本堂は焼失すると、焼失・再建を。

                   仁王像
  

              元禄津波供養塔ー市指定有形文化財
    

「鎌倉時代」この地を支配していた領主斎藤兼綱は笠森に来ていた日蓮上人を館に招いた 。
日蓮は清澄寺で立教開宗宣言(1253)をした後地頭に追われて鎌倉に向かう途中 。
話を聞いて一族は日蓮に帰依し、ここに最初の法華道場を造った。

「藻原妙光寺」
    

「日弁」1239- 1311
鎌倉時代の法華宗(日蓮宗)の僧。日辨とも。越後房。越後阿闍梨。中老僧の一人。
1239年、駿河国富士郡に生まれ、1251年、天台宗の滝泉寺にて出家。
名を宥弁と称す。1275年、身延山に日蓮を訪ね、「真言亡国とはいかなる義なりや。」と詰問、ものの見事に論破されると云う。
弟子となることを許され、「日弁」の名を賜る。
1277年、小早川内記の外護により、鷲山寺を開山。
1308年、山城国へ赴き布教し、青柳山本門寺(現・宥清寺)を開山。
1310年、陸奥国へ布教の旅に出、陸奥国伊具郡(現・宮城県角田市)で折伏を終え鷲山寺への帰途、暴徒に襲撃され凶刃に倒れる。享年73歳。
遺体は弟子の手で鷲山寺を目指したが、常陸国赤浜(現・茨城県高萩市)で荼毘に付し、供の者たちは残灰で像を造り、像のみ鷲山寺に帰山した。
角田市に殉難碑。高萩市に墓所、赤浜願成寺52世日有代に願成寺壇信徒と寶塔寺、成願寺等の有縁者による墓域整備がされている。

「小早川内記」
小早川氏は日蓮と1264年,「小松原法難」の後、鎌倉への帰途、かつて茂原の領主であった小早川内記の屋敷に招かれ一夏九旬の期間を過ごされた。
その時の縁をかたちにせんものと、1277年、弟子の日弁に命じて 上総鷲巣の地に一寺を建立された。
日弁聖人は堂舎を創建して「長国山鷲山寺」と命名し、七堂伽藍を供え法華宗の大本山としての威容を誇ったという。

     日蓮上人は山中腹に立像ー日弁・小早川氏は正座合掌し日蓮に向っている二体の像
  

「藻原寺」
1312年、 藤原範綱は大檀那となり、妙光寺を建立。1511年、 地震により、祖師堂は倒壊する。その後、再建。1630年、身池対論に妙光寺から日東が臨む。1868年、 寺号を「藻原寺」と改称。

1932年、 藻原寺78世・日我の発願により、山門を再建。
 
  

文化財ー鋳銅鰐口(千葉県指定有形文化財)・藻原寺文書(茂原市指定有形文化財)・石造釈迦如来立像(茂原市指定有形文化財)
藻原寺本堂唐門向拝彫刻(茂原市指定有形文化財)・武志伊八郎信常彫刻など。

    

旧末寺は、全国に、(日蓮宗は昭和16年に本末を解体したため、現在では、旧本山、旧末寺と呼びならわしている。)
市場山妙弘寺(茂原市茂原)塔頭・藻原山東光院(茂原市茂原)塔頭・寂光山本照寺(宮古市愛宕)・常寿山雲山寺(仙台市宮城野区小鶴)
常光山本敬寺(千葉市中央区本町)・増長山高伝寺(千葉市若葉区加曽利町)・本覚山上行寺(千葉市緑区茂呂町)・法龍山浄泉寺(千葉市緑区)等。

    

建治3年の1277年、日蓮大聖人の直弟中老である日弁上人により、この地の小早川内記の邸宅に建立。
日蓮大聖人が小松原の法難の後、鎌倉への帰途、笠森観音堂で一夜を過ごし、翌朝この地の城主小早川内記が訪れ、大聖人を自宅に迎え、大聖人が身延に入山した4年後、弟子の越後阿利日弁上人に命じ、鷲山寺建立を託された。
    

「戒壇塚」-多宝塔式、高さ25m。茂原市のシンボルとして親しまれている。


「大堂(祖師堂)」- 間口12間、奥行き14間4尺、176坪を有する本堂。 開山、日蓮大聖人生身の御影(ご尊像)をお祀りしていると云う。
「華経殿」-当山の守護神「華経房日徳尊儀」が安置。
「石像」 釈迦如来立像ー1691年造立。茂原市文化財。胴部で継ぎ合わせた丈六の丸彫立像。

                   鐘楼堂は、1688年建立
    

「荻生徂徠」1666ー1728(満61歳没)儒学、文献学者 。
儒学者・思想家・文献学者、(一説では「徂來」が正しいとする)、5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究の荻生北渓。その弟の影響を受けて、「明律国字解」を著している。

江戸に生まれ、幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。
しかし1679年、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である
ここ、上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った。
ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。
この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。
1692年、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念し、芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していた。
近所の豆腐屋に助けられたといわれている。
1696年、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給され、彼に仕えたと云う。
 
                「藻原寺の裏手・茂原公園」


昭和初期に開設された公園。
春を彩る園内のさくらは、ソメイヨシノなど約2,850本が植えられ、「さくら名所百選」に選ばれている。 遊歩道が整備され、市民の憩いの場。
園内の弁天湖では、多数の亀が甲羅干しをしている姿も見られる。

    

桜まつりー「日本桜の名所100選」にも選ばれた桜の名所・茂原公園で、
3月25日(水)〜4月12日(日)に開催。
朱色の弁天堂と桜の組み合わせはまさに絶景と云う。夜間は桜がライトアップされ幻想的な雰囲気に包まれると云う。

茂原七夕まつりー七夕まつりは毎年7月下旬に。約700本の竹飾りや鼓笛隊パレードや茂原阿波おどり、関東屈指の七夕まつりとして賑う。

茂原秋まつりー毎年9月に行われる。3基の神輿が地区内を練り歩く、勇壮なまつり。茂原太鼓等が、

                     桜の名所


「石造釈迦如来立像」ー市文化財
胴部で継ぎ合わせた丈六の丸彫立像で、合掌印を結び、衣文の彫法も浅く、整然としている。
慈愛に満ちた童顔で、現世を静かに見守る姿は素晴らしく、かなりの石工の手になるものであることがうかがわれる。
釈迦如来の印相は、通常説法印であるが、この像のように合掌印は珍しい。
これは石彫りの制約から彫り易さや、強度の点を考慮したものと思われる。
台座は蓮華座で、銘文によると元禄四年の1691年、に造立したとある。

          市内に現存する石仏中最大のものでかつ彫技も優秀である。


次回は、千葉城へ。

三大朝市の勝浦と八幡岬

2015-07-01 | 気まま旅
勝浦市は、県南東部、鴨川・御宿の間で同じ外房海岸、勝は潟・浦は海浜を意味する。平安中期、上総介興世王が八幡岬に「勝浦城」を築き
後に里見氏の家臣「正木氏」の居城。江戸時代に入り、徳川家康の家臣「植村泰忠・3000石」で入封し、1682年4代「忠朝」の時に
勝浦藩が成立、後江戸中期には、幕府直轄領や旗本領となった。
植村氏は、地域産業復興の為「朝市」を開設、-勝浦三町江戸まさりーと云われる賑わいの中心に。
「興津」は、東北地方と江戸を結ぶ「東廻り」の航路の拠点地。
漁港は、イワシ、サバの水揚げが多い港、遠洋漁業基地ともなった所でカツオの水揚げは県内最大漁港、海岸全域「南房総国定公園」
鵜原理想郷おせんころがし断崖・海中展望塔の海中公園・守谷洞窟・レジャーランド観光地もある。
内陸の上総丘陵部は、「夷隅川上流域」にあたり、リゾート開発も進んでいる。

「興世王」 生年不詳 - 940年
平安時代中期の皇族。出自については、伊予親王の玄孫で、時世王の子とする説がある。
信憑性に乏しい。承平天慶の乱の首謀者の一人。官位は武蔵権守従五位下。また、新皇を名乗り挙兵した「平将門」から上総介に任じられるが、これは正規の官職ではない。

「外房里見家 家臣団・正木通綱」~1533。
外房正木氏当主。正木家は内房の系統と外房の系統に分かれる。
外房正木氏は内房正木氏の庶流ながら大きな勢力を持ち、里見家当主から厚遇された。
大膳亮。永正五年、里見義通が安房鶴谷八幡宮を修繕すると、国衙奉行として祭祀に従事。
大永六年、後北条家への攻撃のため品川に出陣。天文二年、稲村城に呼ばれたところを、敵対の意志有りとして里見義豊に討たれた。
子は時茂、時忠。その後、外房正木氏は正木時茂の系統である小田喜正木氏、正木時忠の系統である勝浦正木氏に分かれ、小田喜正木氏の当主は正木通綱と同じ大膳亮を名乗り、勝浦正木氏の当主は左近大夫を名乗っている。

「植村 泰忠」1539 -1611
安土桃山時代の武将、江戸時代初期の旗本。植村泰職の子。土佐守。子に植村泰勝、植村政泰、植村家政室。
幼くして父を亡くし、三河国鳳来寺の大叔父二位法印教円に育てられ、鳳来寺薬師別当となり、安養院と号す。
三方ヶ原の戦いに僧兵を率いて徳川家康に加勢し、戦後に還俗し、遠江国榛原郡内に領地を賜る。
小田原征伐における武蔵国岩槻城攻略で親族の本多忠政とともに参戦し、武功を挙げ、家康の関東入りに従い、上総国夷隅郡勝浦3000石を。
関ヶ原の戦い後に2000石を加増され、勝浦を居所とし、それまでの勝浦城を廃城にし、勝浦の街の基礎を築いたと云う。
領民に市を開かせて、日本三大朝市に数えられる勝浦の朝市のはじまり。

  

勝浦海岸から、陸地に、「久留里線・小湊鉄道、上総中野駅・大多喜(城)・養老渓谷」に。
市内には、「海中公園」「県立海の博物館」「季節の花々の・花野辺の里」「宇宙通信所」等がある。
これから向かう安浦トンネルを抜け、勝浦湾突端「八幡岬公園」へ。

日本三大朝市・飛騨高山朝市・輪島朝市・勝浦 朝市の3つの朝市。昔から生活に溶け込む朝市で、新鮮な食べ物が .
    

「遠見岬神社」-祭神・天冨命。
神武天皇の側近として活躍した「天富命」、阿波の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の
布良の浜に上陸。
祖神である「天太玉命」を祀る社を建て、安房の開拓を進めたがその後当地で没したという。
天日鷲神の後裔の勝占の忌部須須立命は、八幡岬突端富貴島の天冨命の居跡に社殿を建立、開拓の祖神として祀ったのが当社の起こり。
1601年の大津波で岬突端の富貴島にあった社殿は決壊し社宝の多くが流失し、決壊した社殿と御神体が高磯の浜に流れ着き、流れ着いた
「宮の谷」に社殿を再造営、里見氏・安房正木氏および近郷領主の信仰が篤かったという。
1659年、領主の「植村土佐守」が神占によって現在地の「宮山」に遷祀したといわれ、現在の社殿は、1849年、改築。
江戸時代までは富大明神と称したが、明治6年、「遠見岬神社」と改称し郷社に列したと云う。
社殿のあった富貴島は、津波や元禄16年の1703年、大地震で海没し、現在は、一部が平島として残されているのみで、勝占の忌部が住んだこの地は勝占と呼ばれるようになり、「勝浦」の地名の由来といわれている。

                         遠見岬神社
    

                       遠見岬神社祭殿


「勝浦・本行寺、釈迦堂」
暦応2年の1339年、日続によって真言宗から日蓮宗に改められたと伝えられている。
1723年、五十座に際し、池上本門寺より日蓮上人の御歯骨が分与され厨子に奉安。
日蓮宗寺院の多い千葉県にあっても重層建築の釈迦堂は珍しいという。
日蓮上人の御歯骨を奉安するため建てたところから、舎利塔の意も含んで重層としたのではないかと考えられている。
三間堂で重層方形造り桟瓦葺で棟上に擬宝珠をのせ、上層には唐様式も加味され、整った美しい建物となっている。

                       本行寺ー市指定文化財
    

「八幡岬公園・勝浦城址」
勝浦湾の東側に突き出た細長い半島。三方を海で囲まれた要害であるこの地には、勝浦城があった。
徳川家康の側室で、水戸光圀の祖母にあたる「お万の方」の像が立ち、城址周辺は公園。
断崖に勝浦城址が、築城時期については様々な伝承がある。城郭の形態をなしたのは、「正木時忠」からではないかと考えられ、それ以前は
真里谷武田氏の出城か砦であったと考えられている。
正木時忠がいつ侵攻してきたのかは不明で、1539年から1541年にかけてではないかと考えられている。
正木氏は時忠から時通・頼忠と続き、1590年、小田原落城により関東が徳川家康の支配下に置かれるとほどなく「植村泰忠」に接収。
郭内、木戸脇、内宿、二のくら(廓)、三のくらなどの地名は残って、廓跡も八幡岬公園として生まれ変わり、
お万の方の銅像が青い太平洋を見つめている。
                       八幡岬公園
  

「勝浦正木氏」
大多喜正木氏とともに里見氏に属し、天文年間から永禄年間にかけ東下総に侵攻し、小見川に城砦を構えて6年間占拠したというが、その時期や東下総侵攻の実態はよくわかっていないと云う。
勝浦正木氏は内房にも出撃拠点を持ち、金谷城を属城としたが、1553年、「房州逆乱」の後、金谷城は内房正木氏へと譲渡。
1564年、年の「第二次国府台合戦」で里見氏が北条氏に大敗すると、正木時忠は里見氏を離反し、北条氏に通じ、伊豆に五男の邦時(頼忠)を人質として差し出し、同年12月には時忠の嫡男・時通が一宮城を攻略して正木大炊介を没落させたことが上杉謙信書状に見える。
北条氏政は伊豆から勝浦城に軍船を回航するなどして、勝浦正木氏を支援している。
1576年、正木時忠が没すると、再び里見氏に属し、1579年頃、小田原に人質に出されていた頼忠が帰国して城主となった。
大多喜城主・正木憲時が里見義頼に叛旗を翻した「正木憲時の乱」では、里見義頼に属し、先鋒として金山城や吉宇城の攻防戦に参戦し、勝浦城は一時正木憲時に攻め取られたともいう。
1590年、小田原の役では里見氏に属したが、里見氏の上総没収によって勝浦城は廃城とされ、植村泰忠が勝浦に陣屋を構えたとある。
養珠院・お万は、伊豆で北条氏の人質となっていたが、北条氏の滅亡により徳川家康の側室として召しだされ、紀伊徳川家の祖となった
「徳川頼宣、水戸徳川家の祖となった徳川頼房」を生んだ。

勝浦城主・正木時忠の娘「お万の方」は、
豊臣秀吉率いる軍からの小田原攻めによ­って勝浦城が落城した際、この断崖絶壁に布を垂らして海へ降り、小船を使って脱出し­たと言われが


川津海岸の高台に官軍塚が、明治新政府と旧幕府勢力との間で戦われた戊辰戦争で、旧幕府の海軍副総督榎本武揚は、徳川恩顧の武士団を率いて北海道に渡り、函館の五稜郭に立てこもり、明治新政府から鎮圧を命ぜられた津軽藩主・津軽承昭が、五稜郭を攻めますが、激しい抵抗を受けて、苦戦。
これを知った承昭の実兄で熊本藩主の細川韶邦は、明治2年、藩士約350人を軍艦に乗せ、横浜港から援軍を送ります。しかし翌3日の夜、勝浦沖で暴風雨に遭い船は沈没。乗組員は荒波の中に投げ出されてしまいます。 勝浦の村人たちは、総出で救助にあたりましたが、200余人が犠牲に。
このときの遭難者を埋葬供養したのが「官軍塚」で、県の史跡に指定。
官軍塚には、熊本藩士と同郷の俳人中村汀女が往時をしのんで詠んだ句碑や、歌人斎藤茂吉の歌碑があり、また初夏にはアジサイも咲きそろう。

    

「養珠院」1580 - 1653
徳川家康の側室。徳川頼宣・徳川頼房の母。名は万、実父は勝浦城主「正木頼忠」。義父は蔭山長門守氏広。実兄は紀州藩家老の「三浦為春」
母は、北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭娘、あるいは田中泰行娘(=北条氏尭養女、板部岡江雪斎姉の娘・姪)と諸説ある。
実父の頼忠は上総勝浦城の正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の後を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚。
万はこの義父の元で育てられる。伊豆で成長した万は16,7歳の頃、家康に見初められ側室。
万は、1602年、に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年の8月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。
1603年、には、長福丸には常陸国水戸20万石が与えられ、1606年、鶴千代に下総国下妻10万石が与えられた。
1609年、長福丸は駿河国・遠江国50万石に、鶴千代は水戸25万石に移封され、後に頼宣は紀州徳川家初代藩主に、頼房は水戸徳川家初代藩主に。
義父の「蔭山家」は、代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受け、日遠に帰依した。
家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていた為、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、
日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させてしまった。
この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。
これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。
すると万は、「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免したと云う。
当時かなりの話題に、後陽成天皇も万の行動に感激し、万は天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物を賜ったという。
彼女は家康の死去した後、1619年、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。1653年に、万は死去。

墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺。1654年、徳川頼宣により建立された墓所。
駿府城の万の居間が移築され、妙法華寺奥書院として現存。

                山梨七面山白糸の滝にも養珠院像がある。
    

                  「徳川家康」正妻・側室。


「灯台」
大正6年、海抜70メートルの「ひらめきヶ丘」に建設。燈高21メートル、光度1­4万燭光。

                    八幡岬灯台
 

                     八幡岬
  

リアス式海岸、水深8m以上と云う・魚の生態や海底観察も出来る


次回は、茂原市へ。