syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

土肥 金山と丸山城跡

2015-08-17 | 気まま旅
静岡県田方郡土肥町・伊豆半島西海岸、駿河湾の臨む、中世期以来の地名、説はいろいろある。
1577年、採掘、1606年、「大久保長安」が幕府の金山奉行に任命。「土肥千軒」と云われたのがこの頃、金産出量が増えていく。
が、1965年閉山した。1680年頃坑道から「温泉」が湧きだした。それを鉱湯と云われた。土肥温泉である。土肥海岸・温泉・金山跡などで
全国に知られた観光地になった。-坑道湧出し平均95℃・硫酸塩泉ー沼津港から船をおススメ。

土肥金山の坑口・土肥金山・土肥鉱山」は、伊豆市の指定史跡。1972年からテーマパークとして一般に公開。
金山は明治から昭和にかけては、佐渡金山に次ぐ日本第2位の産出量があった。1965年に鉱量枯渇のため閉山。
土肥マリン観光株式会社が、観光坑道、鉱夫らの人形で再現、砂金採りの体験も。
金山資料館「黄金館」には、土肥金山に関する資料や鉱石などが展示され、ギネスにも認定された250kgの世界一の巨大金塊などもある。

  第一期黄金時代を明治時代から昭和にかけて第二期黄金時代を迎え佐渡金山に次ぐ生産量を誇った。


金山は、1577年発見。幕府直轄の金鉱として採掘した金銀は慶長小判の地金に使われ、1596ー1615年には、繁栄を極め、幕府公許の妓楼が連なり、
土肥港は金塊を運ぶ葵定紋の千石船で賑わったという。
昭和40年廃坑、一部坑道を整備して当時の採掘の様子を見せる観光施設に。

          砂金採りのできる「砂金館」(有料)
  

「丸山城址」
形式ー 山城・丸山スポーツ公園(船溜り)の北半島状に突き出た山に出城と、西から東へ掛けての山に本城がある。
年代ー 戦国時代
城主ー 富永氏 「遺構 郭・土塁・堀切・石積など。
      


明応年間以前より土肥周辺に勢力を持っていた高谷城主、「富永政直」の支城。
1493年、、北条早雲が伊豆へ侵攻を始めると早雲の家来となり領地を安泰される。
その後、富永直勝ー政家と続き、1587年頃の豊臣氏による小田原征伐の動きに対し、「土肥の水軍基地」を守る為に
高谷城と共に改修されたと思われるが、丸山城はその半ばで放棄されたと云う。

  

遺構は、国道脇から出城側へ道を下ると幅10m程の堀切が、出城の山頂部には東西30m、南北50mの平場が見られ、東北側には兵糧貯蔵庫だったと思われる5m四方程の土塁で囲われた郭が残っていると云う。
海に面した北側には六、七段の腰郭が付属など、
出城は、「小田原の役」以前には本城として機能していたが改修により出城として位置付けられた。
物見曲輪が畑となり残っていた。
堀切地形の畑が見られ、郭が案内板に表記されているが畑に、遺構は見られない。

                     丸山スポーツ公園


          土塁と、虎口、兵糧庫の虎口には石積が藪に覆われている。
  

                  国道から見た出城
  

「日蓮宗・妙蔵寺」ー伊豆市八木沢。

境内に七福神が安置・本堂右側の石段の上に「平和の鐘と世界の平和の塔」、塔の石段下、「原爆の少女の像2体を建立」。
広島にて原爆で被爆して白血病になり、12才で死去した故・佐々木禎子さんをモデルにしたブロンズ像。
長崎で被爆した15才で死去した故・林嘉代子さんをモデルにしたブロンズ像が。



  伽藍山(876m)-太平洋展望台・西伊豆ラインの登山道入り口辺りで周りは田圃
    

「日蓮宗・栄源寺」
三十三観音。たくさんの観音像が祀られている。
観音様の御名を唱え、心に念じお参りすれば難病が快癒するのは勿論、交通難など諸難から免れ、、、。

山門は、伊豆市の文化財に指定。観音堂・三十三観音・七観音・非母観音・水子観音・大観音。
  

1471年、池上8世大運阿闍梨日調により改宗された西伊豆で最初の日蓮宗の寺。
  

                    栄源寺ー山門


次回は、駿河海岸に沿って17号・夕映えの丘、西浦・沼津方面へ。

伊豆天城 狩野城跡

2015-08-12 | 気まま旅

「伊豆半島」
三島ー沼津ー伊豆長岡ー戸田ー土肥ー賀茂ー西伊豆ー松崎ー南伊豆 駿河湾で、ー下田ー河津ー熱川ー伊東ー熱海ー湯河原に、相模湾で、
中央に韮崎ー大仁ー修善寺ー天城ー河津 狩野川が、

680年では、駿河国に田方、賀茂2郡を割いて1国、律令制では、田方・賀茂・那賀の3郡で国府を三島市鷹部屋、後に長谷に移ったとある。
古来罪人配流の地、源頼朝・日蓮が流された平安時代、駿河守「藤原維景」は、「狩野氏」名乗って、子孫は、伊東・宇佐美・河津氏として栄えて行く。
「伊豆介」として赴任した「平 時方」は、北条・韮山の土着、その子孫が「北条時政」らで「蛭ヶ小島」に流罪の「源頼朝」を擁して鎌倉幕府
の樹立に貢献した。時政の娘が「政子」頼朝亡き後「尼将軍」と称されている。
室町時代に「足利政知」は、田方郡堀越・韮崎町に居を構え、関東支配をめぐって下総の「古河公方」と対立した。
足利政知没後「伊勢新九郎・北条早雲」は、堀越公方を攻め、「韮山」を拠点に伊豆を支配していく。
北条早雲は、小田原に進出して戦国大名「北条氏」の礎を築いた。
近世に入り、伊豆は天領・幕府領となり、三島代官ー韮山代官「江川氏」が支配した。
1792年、ロシア遣日使節「ラクスマン」が根室来航し海防問題が持ち上がり、伊豆は、江戸防備の重要地となり、老中「松平定信」は、「下田」を
開港場となった。韮山に「反射路」が築かれた。
戸田に「洋式帆船」が建造・1868年の明治元年韮山県が置かれ、1876年静岡県に合併、、、。

「狩野城跡」
平安末期の1100年頃、「狩野氏」によって築かれた城の跡。
標高190mの城域には,鎌倉時代に発達した二重堀を備え,本郭・西郭・南郭・中郭・東郭・出丸に区分、中世山城の遺構が,重要な史跡
    

「狩野氏」
平安時代後期の11世紀半ばから室町時代後期の15世紀まで約400年にわたり、狩野地区の領主。
北条早雲が伊豆に攻め込んだときには敵対、後に狩野城を開城して降伏、小田原に移って後北条氏の家臣団の中枢で活躍した。
狩野城は、狩野川と柿木川合流点の南側の丘陵地に、急峻な斜面に囲まれ、深い空堀が各郭を区切るように設け、二重堀。
残っている地名から、戦のない平常時には城内でなく、西側の平坦地に住んでいたものと推測される。
近くには、「法泉寺」の、しだれ桜は天然記念物で、3月下旬には桜まつりも開催、花見客が訪れる。

    

祖・狩野維景が駿河守を退任し,初め,市内日向に館を構えたが,その子「狩野維職」が伊豆押領史を務め、軍事上の必要もあり要害の地を選んで
この地に移ったと云う。
最初の城主は二代維職が三代維次。維景から五代の孫茂光は,その子親光と共に源頼朝に従い,1180年、石橋山の合戦に敗北自刀したが,
子孫は鎌倉,室町両幕府に伊豆を代表する武将として仕えた。
1493年、からの「北条早雲・伊豆侵攻の折,城主狩野道一は足利方に付き戦い,敗れて開城したと云う。
その後一族は小田原に移り,後北条氏の重臣として重職を歴任している。
 
室町時代中頃から絵師として栄えた。狩野派の初代狩野正信は,維景から十六代の孫。
  

「狩野派」は、 親・兄弟などの血族関係を中心とした画家の集団で,江戸時代末期までの およそ400年もの長期間 日本の画壇に君臨し、特異な画家の系列である。
室町幕府の御用絵師となった「狩野正信」を祖として,元信・永徳・山楽・探幽・・・など名前を挙げきれないほどの多くの名人を輩出している。
この狩野家が 狩野城と どのような関係があったかについては,必ずしも明確な説明はない。

  

「一級河川 狩野川」 延長ー46km。
川流域は、火山地帯であり、箱根山・愛鷹山・富士山・天城山・達磨山などの第四紀火山や、新第三紀に形成された火山性地層からなる静浦山地などに囲まれ、流域の多くが脆弱な火山岩及び火山噴出物で地質が構成、大雨などで崩壊しやすいことも洪水の要因であると云う。
名称の由来は、日本書紀によるもので、「応神天皇」5年の274年、「伊豆の国」で船を造り、その名を「枯野」と称したとある。
それが軽野からカヌに変わったという説。伊豆市の湯ヶ島地区の松ヶ瀬には、軽野の造船儀礼と深く関わっていた神社である「軽野神社」が残る。

「宝蔵院」
延暦19年の800年、「弘法大師空海」が開いたのが始まりと伝えられている。
境内にある「いの字石」は空海が宝蔵院の山門前で発見され、法力によって「い」の字を刻んだと伝わるもので古くから無病息災に御利益があると信じられている。
後、1598年、佛山長壽禅師が改めて開山、永平寺(福井県永平寺町)の末寺となっている。
現在の山門は、1659年、に再建、単層切妻、銅板葺(元茅葺)、間口3m、奥行3.1m、彫刻は2代目甚五郎が彫ったものと伝えられ、
(伊豆市指定文化財に指定) 

    
弘法大師の創建と伝わる寺で、その後曹洞宗に改宗。本堂左手に弘法大師の命石といわれる霊石 ”いの字石" が残っている。

1659年、再建の山門に、「狩野元信」の下絵で左甚五郎作と伝えられる竹に虎の彫刻がみられると云う、
甚五郎作の篇額で表が船原山、裏が牡丹も残されている。

                        宝蔵院
    

「土肥温泉・日蓮宗 清雲寺」
小田原北条氏時代の土肥城主富永山城守の菩提寺。
天保三年建立の現今本堂に日蓮聖人一代記を掲額、畳一帖大の杉板(90枚)に岩絵具・貝粉などで描かれている貴重な文化財。日蓮聖人の生涯を描いた板絵額があるお寺として知られている。この90枚の絵を描いたのは浮世絵師の「歌川国秀」氏で、歌川氏が51歳の時に完成させた絵だと云われ、
明治23年、日蓮宗門篤志家の賛助により奉納された。
板絵は90枚にも及び、板の上に和紙を盛り上げて立体感を出すなどの手法を凝らし、肉筆彩色画で、大型の額の中でも傑出した作品と云う。
建物は、大工の神様として語りつがれる「酒井多次郎 藤原政房」。

(一運斉国秀画伯 作品 明治二十三年掲額)
現在では、その板絵が観光の名所、壮大な寺院内には、位牌堂(富永山城守御位牌・檀家各位の御位牌をお守りし山城守の開運を授かり無病息災を祈る)・七面堂(七十七段の石段を上りつめたところに御堂があり七面天女・鬼子母神女性の守護神・大蓮院(三十番神)

                 日蓮宗ー清雲寺
    

「日蓮聖人一代記 90枚を掲額 浮世絵師 歌川国秀 作」ー市有形文化財ー(本堂内)

日蓮大聖人の一生を知ることができる。


「七面大明神」
七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。
七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになったと云う。
山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺「敬慎院」に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれる。
伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、1297年、九月十九日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。
七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。
その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があったと云う。

                          七面大明神
  

次回は、土肥金山・丸山城跡へ。

独鈷の湯・修善寺温泉

2015-08-10 | 気まま旅
県南東部・伊豆半島北・狩野川中流・田方郡修善寺町、空海が806-810年に発見したと伝わる「修善寺温泉」の町。
南北朝期に「足利基氏」に執事職解任された「畠山国清」が立てこもった「修善寺城(小立野)」があった。
1596年頃から「大久保長安」開墾のー瓜生野金山は30年掘削されている。一時衰退した「修善寺紙・立野半紙」室町時代に復活している。

「独鈷の湯」狩野川にある露天風呂。
虎渓橋の河原にある。-病気の父を助けようと若者が、持っていた独鈷(鉄銅の仏具の棒)掘り当てた温泉ー弘法大師(空海)にまつわる伝説
空海は、他にも湧水(温泉)で村を救亥救済したとある。-弘法清水・弘法水・弘法井戸・杖立て井戸・お大師水・弘法願水等ー

                狩野川支流桂川の河原にある「独鈷の湯」


温泉街ー風の径ー
竹林の小径から、桂川を望む。ギャラリー等が、小径を抜けると、その先に「赤蛙公園」、遊歩道があり、先に、「源範頼の墓」へと続いている。
径の途中には、配湯所と呼ばれる「貯湯槽」(過去温泉の需要が高まるにつれて、温泉管理が無秩序であった為に源泉の主要含有量が低下したことも)
その後、2つの配湯所を作り、第1配湯所で必要量の温泉を集め、第2配湯所が、

                      竹林の径
   

「修善寺」
山号ー肖盧山、創建は、空海の弟子「杲隣」、真言宗であったが、北条早雲再建し曹洞宗になる。

鎌倉時代、宋の蘭渓道などが修法している
    

1194年源頼朝に幽閉された弟「源 範頼」は、梶原景時に襲われ自刃し、鎌倉2代将軍「頼家」が幽閉・殺害、、、修善寺物語(岡本綺堂)
我が国最古の金銅独鈷・木造大日如来坐像・木造釈迦如来坐像ー重文が安置されている。
    

源頼家 1182-1204 頼朝の長男、 鎌倉2代将軍 北条氏を討とうとしたが破れ、修善寺へ幽閉、三代将軍に実朝となる。若くして破滅した将軍

「指月殿」
伊豆最古の木造建築と言われる指月殿、
北条政子が2代将軍の菩提所として建立した。
指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立文字を解く言葉。
鎌倉から送られてきた5~6千巻にも及ぶ宋版大蔵経を収める経堂で、大部分の経本は散失してしまい、わずかに「放光般若波羅密経・巻第二十三」だけが残り、巻末には「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提 尼置之」という政子の墨書がある。
現在は修善寺の宝物館に保存。
本尊である釈迦如来坐像(県指定文化財)は、蓮の花を持った禅宗式という珍しい形をしており、杉を中心にした寄木造りで高さ203cmもあり、
この種の像としては伊豆最大のもの。
阿吽二体の仁王像は、本尊よりさらに古く藤原時代の作と言われ、修善寺の全盛時には寺門の入口を守っていたとされている。
本尊ともども大変貴重な三体は、昭和57年(1983年)に2年の歳月を掛けて修復。

源頼家の墓と 主君の暗殺の敵討ちを13 士が計画したが、事前にそのことが北条方に漏れ、撃取られた家臣の13士の墓。
    

「源範頼」 兄頼朝に謀反を疑われ不運の武将。
範頼公の墓、源範頼は、源頼朝の異母弟、母は遠江国池田宿の遊女だったといわれている。
1159年の「平治の乱」後、藤原範季に養育されたことから、その一字をとり「範頼」と名乗り、「源平合戦(治承・寿永の乱)」で
源義経とともに頼朝の代官として活躍し、1193年、、頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に起こった「曽我兄弟の仇討ち」をきっかけに
失脚してしまう。
「吾妻鏡」、「曽我兄弟の仇討ち」は5月28日に発生。頼朝は無事だったが、鎌倉には「頼朝も討たれた」という誤報が伝わる。
心配する北条政子に対して範頼は「私がいるから心配ない」と言ったのだという。しかし、この言動が頼朝から謀叛の疑いをかけられ、8月2日、
範頼は疑いを晴らすため、頼朝に起請文を提出するが、起請文の署名に「源範頼」と記してしまう。
この事に頼朝は「源家の一族と思っているのだろうが、すこぶる思い上がりである」といって激怒し、8月10日には、範頼の家人当麻太郎という者が
頼朝の本心を確かめようと頼朝の寝室の床下忍び込むという事件が発生した。
ますます立場の悪くなった範頼は、8月17日、伊豆修禅寺に幽閉され、間もなく梶原景時に攻められ自刃したと伝えられている。

                       源 範頼公の墓
    

達磨山東斜面を流下する狩野川・桂川沿いに形成された温泉街で、歴史は古く弘法大師と文学とのゆかりも深い。
我々の新婚旅行は、交通公社の「寿コースの2泊3日、熱海・伊豆一周」で、最後が、修善寺温泉で解散、その当時の賑わいは無い。
岡本綺堂ー修善寺物語ーの舞台でもある。夏目漱石のー修善寺日記の碑もある。



次回は天城方面

世界文化遺産に 韮山、反射炉

2015-08-08 | 気まま旅

静岡県田方郡韮山町、県東部伊豆半島北部、狩野川中流の町。
西部は狩野川(沖積平野)東部は丘陵地 1160年源頼朝流された「蛭ヶ小嶋」は西部で、頼朝・北条氏に関わる遺跡が多い地域。
室町時代は、関東官領に背いた「畠山国清」が創建した「国清寺」が北部にある。
1457年、将軍足利義政弟政知が、鎌倉に入れずに、韮山に住んだと云う。伝・堀越御所跡
小田原の「北条早雲」は、韮山城居城としていた。徳川家臣内藤信成が入封したが関ケ原の戦い後廃城・江戸中期になって

代官「江川太郎左衛門」-軍政の近代化を推進した名代官ー 1801-55

西洋流兵学者(父江川英毅の次男)35歳で家督を相続している、高島流砲術を習得し、「佐久間象山」は門弟。
代官として農民一揆平定で甲斐の国の支配を任ぜられている。

     「世直し江川大明神」-黒船来航2年後過労で惜しまれて病死している


「韮崎反射炉」 -今年の7月5日ドイツ・ボン「39回世界遺産委員会」で・明治日本産業改命遺産 世界文化遺産・決定ー
(明治日本産業改命遺産は、長崎・軍艦島、萩・反射炉と城下町、釜石・高炉跡、と韮山反射炉の4ヶ所)

国指定史跡・所有ー国有・管理ー伊豆・敷地ー3.016m2・炉高さ約15.7m・構造ー連双2基4炉・外部石組積、内部耐火煉瓦アーチ積
                  煙突部煉瓦組積。      観覧料¥100

    

1,840年アヘン戦争、日本は列強諸国に対抗、軍事力強化するため、西洋先端技術導入を積極的に開始する。江川英龍など蘭学者が立ち上がった。
西洋砲術・鉄砲、大砲の生産・西洋建築、築城術・海洋・農兵制度・海防政策、、、幕府に進言している。
1853年ペリー艦隊来航を受け幕府も動く。進言者「江川英龍」を責任者そして幕府は、この反射炉と品川台場の築造が決まった。
反射炉は下田港の予定であったと云う。ペリー艦隊入港の為、韮山へ、1855年「江川太郎左エ門英龍」は、完成を見ずに亡くなり、
息子英敏が築造している。
                1857年反射炉完成
    

「江川太郎左ヱ門英龍と蘭学」
渡辺崋山・高野長英ら交わり、-外国の社会事情・国際情勢を深め、我が国の立場を深く憂慮したと云う。
幕府に、沿岸防衛の建議・農兵制度と近代兵制・西洋の砲術研究訓練・測量技術と実施・・・食料パンの製造(兵糧の為)最初のパン製造。
西洋式造船監督・江川塾の教育と欧米との共和、民主主義に深い関心を寄せていたと云う。
領民からは、「世直しの江川大明神」敬われている。又初の種痘を行って、領民の天然痘流行から守ったと云う。
書画・詩作・工芸品なども残している。

  

「小田原城初代城主 北条早雲と江川家」
源頼朝の平家挙兵(1180)に参戦、江川庄を賜っている。その後、鎌倉時代・室町時代ー伊豆の豪族として地盤を固め、狩野川の支流の名にちなみ
姓「江川」と改めたと云う。北条早雲の伊豆進出が1493年、23代英住が土地提供し「韮山城」を築城させた。
その後、5代北条氏の家臣となっている。28代英長からは、徳川家康に仕え、伊豆が幕府直轄地となり「代官」で伊豆国を統治する。
江川家幕末の英龍は、文化人・思想家・技術者として知られている。
16代英親は、流罪「日蓮」1261年数日間お迎えしと云う。

邸内ー枡形(城門間の広場・表門(1696年建設)・役所跡(現在梅林)・井戸(1688-1703酒造りの仕込み水に、江川酒早雲・家康が褒めた美酒と云う)
蔵・武器庫・パン祖の碑・土間・・・・。 入館料¥500

  

「北条早雲」 1432-1519 戦国武将先駆け 小田原北条初代
京都の伊勢氏説が有力、通称ー新九郎・駿河国の今川氏から「興国寺城」を貰う。伊豆国に乱入「堀越公方」の子殺害し一国平定する。
大森氏の小田原城を奪い取る。三浦・新井城滅ぼし相模国併合。
小田原城主大森藤頼に「伊豆国で鹿狩りを云い、鹿が小田原に逃げたと云い、攻め込んでいる」
租税は、4公6民の善政を。88歳の長寿。

韮山城・龍城山
南北約400m・東西約100mで細長い尾根に5つの曲輪を配置、天ヶ岳南北約1100m・東西約700mの山で標高128m、低地に御屋敷・大手門・外池など。
発掘では、本城周囲(龍城山)-堀・園池・道路・屋敷跡で、堀は幾重にもめぐって、本城南・東側に屋敷跡の遺構が、城下町になっていたと思われる。
堀は、障子堀、石組みの水路で区画されている。

  

1493年-伊勢宗瑞、伊豆に侵攻 足利茶々丸滅びる。1500年ー城内に熊野権現社勧請と伝わる。1537年ー今川義元と対立「河東一乱」
1569年ー武田信玄伊豆に侵入。1570年ー韮山城「北条氏規」合戦。1580年ー駿河港海戦(北条と武田軍)。1589年豊臣方韮山城攻め始まる。
1590年ー韮山城開城ー家康家臣内藤信成韮山城主に。

               1600年内藤信成 駿府へ転封 韮山城は廃城に
    

次回は、修善寺へ。

山中湖から三嶋大社

2015-08-05 | 気まま旅

山梨県南都留郡山中湖村にある淡水「山中湖」

富士五湖のひとつで最大の面積を持つ。
湖面の標高は富士五湖の中では最も高い位置にあり、日本全体でも第3位。逆に水深は富士五湖の中で最も浅い 13.3m。
(世界文化遺産・富士箱根伊豆国立公園に指定)

富士北麓に点在する富士五湖の中ではもっとも南東に位置し、南都留郡山中湖村の中央に位置。
山中湖は相模川の源流である。「桂川」呼ばれている。
山中湖は富士五湖で唯一 天然の流出河川を持った湖でもあり、湖面の形は北を上にして見ると鯨の形に似ている。

                  雨上がりの朝の湖畔


「東富士演習場」
富士山東麓の御殿場市、小山町、裾野 市にまたがる陸上自衛隊の演習場。
面積は8,809ha(88.09km²)で本州の演習場では 最大と云う。このうちの畑岡地区は富士総合火力演習場。

「富士総合火力演習」
「そうかえん」ー 陸上自衛隊が行う演習の一つ、静岡県御殿場市の東富士演習場で実施。
一般公開の演習は、陸上自衛隊が行うイベントの中で最も人気があり、戦車やヘリコプター、様々な火砲などによる実弾射撃を間近に。

次回・平成27年度富士総合火力演習ー 平成27年8月23日(日) 10:00~12:00



「須走」-静岡県小山町ー
県北東、もと、駿東郡須走村・酒匂川支流の佐野川の上流に位置する。富士登山東口の拠点として栄えた。現在自衛隊富士学校・東富士演習場



「国道138号」
総延長ー73.2 km・制定年ー1953年指定・起点、山梨県富士吉田市ー御殿場市ー終点、神奈川県小田原市



「鎌倉往還」
江戸ー甲府間の旅程はほぼ2泊3日と云われている。
江戸との諸商品の移出入は同時に江戸文化流入の道でもあった。
甲州街道と東海道との脇往還として駿(静岡県)豆(静岡県)相(神奈川県)3州と結ばれる鎌倉往還は
御坂峠から富士北麓を籠坂峠越えで東海道沼津宿に通ずるが,郡内領と密接なつながりをもち,次に駿河と結ぶ中道往還は右左口峠を越え
精進,本栖の湖畔を経て富士西麓から東海道吉原宿に達した。
富士川舟運に並行して,甲州街道韮崎宿へ結ばれる駿信往還その他がある。

  

「富士登山道・本宮須走 浅間神社」
平安の桓武天皇の時代、802年、
富士山東脚が噴火、当時の国司・郡司(朝廷の役人)は、恐れおののく住人のために鎮火の祈願を行うべく、富士山東面・須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行したと云う。すると、噴火が収まったと云う。
平城天皇の時代・807年、鎮火祭跡地・現在の御社殿の地に神をお祀りしたことが、創建と伝えられる。

平安時代、弘法大師(空海・真言宗)が当社にて修行を行い、富士登山をしたという伝承も存在したことから、かつて中世期頃までは弘法寺浅間宮と称されていたとも云う。
室町時代ー江戸時代には、一般庶民による富士山登拝信仰・富士講や修験道者の信仰を集め、須走口登山道・須走の宿場町とともに栄え賑わった。
この頃より、須走口登山道の9合目・迎久須志之神社、6合目・胎内神社、5合目・古御岳神社、4合目・御室浅間神社、2合目・雲霧神社は当社の神主により祭祀が行われていた。
明治時代、政府による国家神道の方針の下、全国神社は国家の管理下におかれ、県社(静岡県が管理する神社)の社格が授けられた。
大正時代ー昭和時代初頭は富士講による登山参拝者が最も増えた時期であり、講社により建立・寄進されたものが残っている。

現在、富士山本宮浅間大社(富士宮市・富士宮口)、北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市・富士吉田口)等と共に、富士山登山道の麓に鎮座する神社として、崇敬を集め、平成19年には御鎮座1200年の佳節を迎えている。
(富士山とともに世界文化遺産に登録)
  

静岡県東部、伊豆半島の基部、東に境川・西に黄瀬川の扇状地上に市街地が広がり、古代には、「伊豆国府」」が置かれた。
地方行政中心地でもある。鎌倉時代に「三嶋大社」の門前町・江戸時代には下田街道の分岐点の宿場町として発展し、箱根越えの拠点である。
「富士箱根伊豆国立公園」玄関口。

「伊豆国一之宮・三嶋大社」
三島駅から南約1kmの町の中「大宮町」に鎮座。三島明神とも称している。
祭神ー大山祇命・事代主命で、創建は不明であるが平安時代初期には文献などに登場している。
源頼朝・北条政子の鎌倉時代は、武家に信仰され保護を受けている。
江戸時代530石を領有した。

          社家の「河合家」は、三島暦を発行・国宝政子奉納した絵手箱など多数。
    

「源頼朝」 1147-99 武家政治の創始者 鎌倉幕府初代将軍、源義朝嫡男・母は、熱田大宮司藤原季範の娘、平清盛継母「池禅尼」
平家盛と生き写しだったので命乞いをして伊豆へ流された。

「北条政子」 1156-1225 頼朝の妻、尼将軍と云われた女性政治家 2男2女を生む 父ー北条時政 弟ー義時
次男ー頼朝の次男 実朝を将軍とし、後見役として幕政に、義時を二代執権にして実権を握る。

               二人が腰かけた石
  

「蛭ヶ小島」 静岡県伊豆の国市の地名。源頼朝の流刑地として知られる。当時は、海に浮かぶ島であったと云う。
しかし、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されるのみで、「蛭ヶ島」というのは後世の記述であり、真偽のほどは不明と云う。
発掘調査では弥生・古墳時代の遺構・遺物のみで、平安時代末期の遺構は確認されていない。
「吾妻鏡」では頼朝の流刑地について「蛭島」とのみ記している。
蛭ヶ島公園として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、これを記念する
碑が1790年に建てられたと云う。

         「蛭島碑記」国市指定有形文化財・公園内には頼朝・政子夫妻の像が作られている。


蛭ヶ小島という名前から狩野川の中州というイメージで小説などに描かれることが多いが、狩野川はやや離れており、地質調査の結果から当時も付近を大きな河川が流れるということはないことが分かっている。
平安時代の蛭ヶ島一帯は水田で、水田の多い湿地帯のなかに島状にある微高地であると考えられる。

    

公園内に建つ茅葺きの建物は、江戸時代中期の農家の建物「上野家住宅」を移築したもので、静岡県の有形文化財に指定されており、内部には民具や農具などを展示して、歴史民俗資料館となっている。
  

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