syuの日記・気まま旅

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市川関所(市川橋)-江戸川を下る 14

2016-06-11 | 気まま旅
「新宿・市川宿・八幡宿」
佐倉街道(成田街道)のうち水戸街道からの分岐である新宿から次が市川宿、八幡宿(3番目の宿場であるが、市川宿を数えずに新宿の次とする説もある)、現在の千葉県市川市八幡。新宿から八幡宿までは五街道の1つである日光街道の支線として道中奉行の支配下に置かれている。
水戸街道は、千住宿で日光街道から分岐し、次の新宿で佐倉街道と分岐している。
新宿からは2里6町、船橋宿からは1里15町、江戸日本橋からは5里33町であった。
市川宿は、江戸から近く、参勤交代における宿泊地として認識されていなかったようで、本陣・脇本陣ともに未設置。
関所と江戸川の渡し場に近くにあり、更に南の「今井の渡し」を経由してあるいは海路を経て行徳から船橋宿に抜けるルートも認められていた。
宿場町としての発展の資料は少ない。
現在は、高速道が発達して交通経路は変わったが、それまでは、ここ市川橋・千葉街道・国道14号線(荒川の小松川橋ー市川橋)が本流道路。
江戸時代から、水戸街道・新宿から分岐し、成田新勝寺詣・佐倉藩など諸大名はこの道を使っている。

市川宿ー八幡宿ー船橋宿ー大和田宿ー八千代宿ー臼井宿(佐倉宿)-酒々井宿ー成田寺台宿ー「成田街道」。

  

運搬船が行き来していた「行徳宿」も、江戸から成田山参詣の旅人に人気であった。この運搬船、銚子で水揚げされた鮮魚を「本行徳河岸」から
再び積み替え「江戸日本橋小網町の「行徳河岸」まで運ばれていた。行徳宿はその中継地として賑わっていた。
本陣や問屋場などは残っていないが、当時の常夜灯・寺院・神社・古民家があると云う。

    

「船橋宿」
船橋は古い、日本武尊が東征で、海老名川を渡ろうとしたが水嵩で無理であったが、地元の漁民が舟を並べて橋渡しとしたのが起源と伝わっている。
江戸日本橋から旅人は、この「船橋宿」を最初の宿としていたようである。
船橋大神宮門前町と幕府献上の漁場としても栄えた。が、戊辰戦争で市川・船橋は、焼き尽くされている。

  

「市川」は、江戸から近く、15~20km圏内に位置し、便利で首都圏のベッドタウンとして人気であるが、昔は、江戸の豪商・文人が好んで住み、
傾斜地も豊かで、「真間川」と「黒松」並木と「桜」並木で静かな佇まいが続いいている歴史ある町であったが残念ながら、大邸宅は、マンション
や小住宅と人口増・車増社会で変貌していた。

  

「市川関所」
国府台は、下総台地最西端で「江戸川」は、向かい東京都江戸川区小岩で、江戸時代には、関所が設置。
国府台は、法皇塚古墳・下総国府・・で地名も「国府台」が、平安中頃から衰退、そこに千葉常胤が兵を集め鎌倉に向います。
江戸時代には、ここに江戸川を挟んだ、「市川関所」が設置。
関所は、交通の要所に設置され、徴収や検問をします。関は、陸路(街道)上で、道路関・海路関が、

           市川橋の江戸川国府台土手に関所跡が
    

                 国府台・真間川(市川住宅地)


                 国府台・真間川(江戸川合流)


                  国府台鎮座「春日神社」
    

加藤清正の母「伊都女」は、娘時代から「日蓮宗」の熱心な信者で、清正公は、母と二人暮らしの貧しい生活の中で、母の信仰する姿を見て成長した。
清正公は、津島の日蓮宗「妙延寺・住職、日順大徳」の教化は、偉大な物で、つちかわれたとある。
戦場では、常に頭には、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、手柄を立てれば「法華経」の力と信じ信仰を深めたと云う。
清正25歳の時、父の菩提寺に「本妙寺」を建立している。
東京池上本門寺石段・名古屋熱田神社の鎮客門・誕生地に「妙行寺」などを。

安国院神木「タブの木・親子タブ」高さ12.1m・太さ2.43m(クスノキ科常緑高木)


日蓮宗ー山号玉泉山ー安国院   加藤清正公霊堂
  

「市川橋」の前身は、明治3年(1905)に架設されている。現在の北側、関所跡辺りと云う(江戸川橋と云った)
現在の下りー昭和38年・上りー昭和42年に開通ー旧市川橋を補強で、上下線、橋脚の形成が異なっている。
奈良時代から中央の人達で出入りが多かった。
江戸川橋も、明治に入り、国府台陸軍駐屯地の関係で木橋が架けられている。市川橋は、歴史ある橋の一つ。

            



次回は、東京都江戸川小岩から江戸川を下って行きます。

市川国府台ー江戸川を下る 13

2016-06-10 | 気まま旅
千葉県よ、もっともっと「千の葉・緑の町に」

市川市は、県の北西、川を隔てて江戸川区と接し、市名は、江戸川の下流、市場が開かれていた所からなどが諸説。
下総台地の緑地には、古代の遺跡が多い、縄文の中~後期で、最も古いのに「姥山貝塚」、我が国の初の集落遺跡と云われ、堀之内貝塚・曽谷貝塚・環状馬蹄形貝塚がある。
大化の改新により、国府台には「下総国国府」が置かれ、国分寺・国分尼寺が建立し、政治と文化の中心地。
戦国時代は、「安房里見氏」と「小田原北条氏」の合戦場となり、北条氏の支配を得て江戸時代へ。「幕府直轄の緒領地、寺社領地」。
「下総中山」は、日蓮宗五大本山の一つで法華経寺の門前町。
「行徳付近」は、利根川水運の河港と成田参詣の拠点、昭和初期まで東京湾の最大塩田地帯。
                 下総台地


「第二次世界大戦」時は、軍の下士官養成機関の教導団が設置され、終戦まで兵舎に野砲兵連隊があった。国府台の桜並木は、その当時の老木巨木の桜木で知られていたが住宅・交通などで伐採されたが一部残され、当時を偲ばせている。

             下総台地がピンク色に


国府台と云えば、万葉集伝説歌を収めた、真間の玉児奈橋
                「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈けむ手児奈し思ほう」、、、。

又、芭蕉・一茶も訪れており、勝海舟が別宅を構えていた。
永井荷風や幸田露伴や谷崎潤一郎、慶応義塾鈴木恒男教授や歴史文学の中国の郭沫若が1928年から10年市川で波乱万丈の生活を、
戦前まで兵舎であった所には、東京巣鴨商業専門学校(巣鴨商専)現在の 単科大・千葉商大)がある。

                弘法寺-山号・真間山「日蓮宗」


「弘法寺」ー三宝尊と伏姫桜ー
奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされ、平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称した。
その後、天台宗に改宗し、鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗。

大檀那の「千葉胤貞」より寺領の寄進を受け、室町時代、山下に真間宿・市川両宿といわれる門前町が発展し、
徳川家康より朱印地30石を与えられる。
江戸時代、「徳川光圀」が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈られ、紅葉の名所として知られていた。
諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されていると云う。
明治時代、火災のため諸堂は焼失し、その後、再建され現在に至る。
境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜が有名。
小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。

市川真間からの階段           一茶の句碑               仁王門
    

仁王門            鐘楼                         樹齢400年の伏姫桜
    

境内の桜          朱雀門と呼ばれる「赤門」右に里見竜神 堂   太刀大黒尊天
    

                    千葉商大校庭の桜(戦前の兵舎跡)


                   千葉商大校庭の桜並木(戦前の兵舎跡)
    

国府台は、源頼朝より下総の守護に任ぜられたのが「千葉氏」守護所が置かれ、(下総台地の西南端の位置と云う)。
戦国時代「太田道灌」により築城が。
                   千葉商大付近


                   国府台運動公園入口


                 東京医科歯科大学教養部


「安藤(歌川)広重」1797-1858-江戸八代洲河岸生まれ。
歌川豊国は、歌川豊春の門下生・役者絵が得意の門を叩いたが満員ー歌川豊広の門人、印象派西洋芸術に影響を受けている。
代表作ー東海道53次・60余州名所図会・江戸名所百景。

       歌川広重画「名所江戸百景・鴻の台利根川風景」、今の国府台付近。




「里見公園」ー市立公園ー
春の花見の名所 、面積8.2haと広い。
江戸川の流れを見下ろす高台、15世紀、太田道灌が仮陣を建設


「里見義弘」 1530-78  庶民の落首を重視した善政の南総の武将。
安房国の戦国大名・佐貫城主・上総国制圧後、下総国へ進出すべく、上杉扇谷定正の執事太田道灌が仮城を国府台に築城。後里見氏が城を築城する。
小田原北条二代目(早雲の子)北条氏綱が、(鎌倉時代の執権北条氏の名で改姓した)扇谷上杉朝興を破り武蔵国制圧し、1538年北条氏綱と激突、
足利古河公方・里見軍は大敗する。
上杉謙信、武田信玄と同盟を結びながら、一貫として北条氏を敵対したと云う。
1564年、北条三代目氏綱の長男(武蔵国日本三大夜戦で河越城を破る)とも戦っている。
最後は、里見氏は、講和している。(館山に北条海岸の名が残っている)

「里見義弘」は、領民を大事にした大名で、落書に自由に申し出て良いと云う法律・公認している。他に例が無い。
また、実際に、代官の福原信濃守を批判する狂歌を取り上げ解任させている。
義弘ほど領内を巡視した大名は珍しいと云う。人々の意見を取り入れ善政に生かした大名の姿勢を知ることができる。
また、大酒飲みで臓腑が破れ没したとある。

公園入口の桜並木 満開時は桜のトンネル                     桜祭り
    

「北条軍の反撃」足利・里見軍は、一時勝利に気をよくし、里見義弘は、出陣が正月早々であった事を配慮して兵士たちに酒を振舞う。
だが、遠山・富永の早い段階での潰走によって主力を結果的に温存する事になった北条軍は、撤退したと見せかけて、翌8日未明に再度江戸川を渡って
里見軍に夜襲をかけたのである。
酒宴の後の里見軍は大混乱に陥った。更に北条軍の工作で里見軍の主力である土岐為頼(一説には義弘の外祖父ともいう)が義弘を裏切って戦場を離反、筆頭重臣正木信茂は戦死し、義弘は同じく重臣の安西実元が身代わりとなり、合戦直前に里見側に寝返ったために戦場に遅参してきた土気城主酒井胤治に救出されてやっとのことで戦場を脱出したと云う。(第二次国府台の合戦から)

                      国府台城址の碑


「近年の再検証」で、合戦の経過記録は永禄6年1月の戦いと翌永禄7年1月の戦いが混同されて出来上がったものであるとの考えが有力視されている。
6年にも本格的な戦闘があったとする史料の存在が明らかになり、従来は7年のものの誤記と考えられてきた記録も、単純に誤記と信じるわけには行かなくなり、 1月8日未明の奇襲については永禄6年とする記録があることに加えて、現存する北条氏による発給文書において永禄7年の戦いで里見軍を潰走させた日付を2月18日としているものが存在すると云う。
戦後、永禄7年の戦いの後、北条軍は一気に上総にまで進出して、土岐為頼に続いて正木時忠(時茂の弟)を服属させている。
だが、苦境に立った里見軍は却って積極的な軍事行動によって北条軍を牽制し、三船山の合戦での勝利により北条軍の安房遠征を失敗に追い込み、両氏の戦況は再び膠着するとある。
小田原北条氏と里見氏の確執の場、数次に渡る激しい戦いは激しく、 国府台は江戸という肥沃で広大な平野を一望に見渡せる重要な戦略拠点。
この台地をめぐって何度も血腥い争いが繰り広げられた。
中でも有名な戦いが、天文7年(1538年)の第一次国府台の合戦、永禄7年(1564年)の第二次国府台の合戦である。



第二次国府台の戦いは、里見義弘(義尭の子)・太田資正の連合軍と、北条氏康(早雲の孫)の間で繰り広げられた。


                   公園内は、花見客で混雑


「北原白秋」 (旧宅の紫苑草舎が)1885-1942 与謝野鉄幹に不満で「明星」を退き、「パンの会」結成、「邪宗門」「思い出」
        「桐の花」抒情詩人と云われ民衆に親しまれて。「赤い鳥」で詩と音楽に著作200冊に上る。福岡出身。

                   白秋の旧家

                                        夜泣き石
  

  

                  僅かに残る土塁・堀跡 郭跡
    

この2回の戦いで多くの将兵が多数討死にした。
今でも土を掘り返すと茶碗のかけらや、武具の切れ端が見つかることがある。里見公園内には戦死した将兵の霊を鎮める江戸時代の石碑が建っている。
江戸川を見渡す崖のあたりは樹木がうっそうと繁り、今にも箙に矢を立てた血まみれの鎧武者が現れそうだ。
夜中になると泣き声が聞こえるという言い伝えの石もある。

「羅漢の井戸」 国府台城の飲み水場 里見軍は、5000人以上の戦死者が 
    
太田道灌が築城工事中、出土したと伝わる「明戸古墳跡と石棺」

            里見公園から見る江戸川に


里見広次・正木内膳らを始め5千の戦死者を出し、里見義弘 は安房に敗走。
以後、この地域は北条氏の支配を受け、1590年に 徳川家康が関東を治めると国府台城は廃城している。

    

           市川真間川(坂川)江戸川と合流
    

「江戸川」は、東北地方や北関東からの物資を涸沼・霞ヶ浦・銚子から利根川経由で江戸川へと運ぶ流通幹線。
房総半島を周回する海路よりも距離が短く安全性も高かった。江戸川周辺からも、野田の醤油、流山のみりんなどが産物として江戸に運ばれ、
重要な川。歴史もあり、古くは、太日川・太日河と呼ばれ、渡良瀬川の下流部で、利根川とは別に江戸湾へと流れている。
更級日記、吾妻鏡、義経記などにも「太日川」を渡ると云う述が見られる。



「矢切りの渡し」ー船村徹作曲ー

      ついて逃げてよ、、、 ついておいでよ、、、夕暮れの雨が降る 矢切りの渡し

                     親の心に そむいてまでも 恋に生きたい ふたりですー

    

                 舟で渡れば、葛飾柴又


「矢切りの渡し」付近は、「国府台合戦」の戦場となった場所,この付近から国府台付近にかけて、伝説や史跡が多く伝わっている。
    

矢切りの渡し船で、    静かな江戸川を            柴又公園は、さくら祭り
    

「葛西清秀」 1161-1238 葛西氏初代当主 墓所ー四ツ木「西光寺」に。
父ー豊島清元・母ー秩父重弘の娘・妻ー畠山重能の娘、桓武平民の流れを汲む。源頼朝と歴戦。
頼朝が、平家打倒の兵を挙げ、千葉常胤氏軍と上総軍も加えた軍勢が隅田川まで進軍、そこに清元軍ともに葛西軍が参じている。隅田川から静岡富士川へと進軍する。葛西氏は、頼朝・頼家・実朝と仕えている。

江戸時代以前の渡良瀬川の流域全体をカバーする「葛西領・郡」は広く、渡良瀬川はその後の利根川東遷事業によって、江戸川(古くは、太日川・太日河))となったので、現時点では江戸川(及びその後に成立した中川)の流域を占める郡といってよいと云う。
したがって、その範囲は南北に細長いものとなっている。 現在の行政区域では、北は渡良瀬川と利根川の合流地点である茨城県古河市、江戸川の西の流域である埼玉県幸手市・吉川市・三郷市、東京都葛飾区・墨田区・江東区・江戸川区、千葉県浦安市、江戸川の東の流域である千葉県野田市・流山市・柏市・松戸市・市川市・船橋市にまたがる広大地域。(葛飾郡総社は、船橋市西船五丁目にある葛飾神社)
1878年(明治11年)の郡区町村編制法の制定により、同年に一部が東葛飾郡・西葛飾郡・南葛飾郡に、翌1879年に残部が北葛飾郡・中葛飾郡となり消滅した。

郡内に下河邊荘、下河邊野方荘、八幡荘、松戸荘、風早荘、夏見御厨、葛西御厨、葛西猿俣荘、大結牧といった荘園が成立した。
この地域が広大であった事から中心線の太日川を境界として東側を葛東郡(あるいは葛東)、西側を葛西郡(あるいは葛西)と称する慣習が現れた。
近世、利根川東遷事業により、太日川が利根川下流になったこともあり、江戸時代初期の1683年に、太日川より西の地域を下総国から武蔵国へ編入した(この地域を「葛西」と呼ぶ場合もある)。しかし、同じ寛永年間に関宿(現野田市)・金杉(現松伏町)間の東側に新たな流路が開削され、
これが江戸川の本流となったために、この区間については、後も下総国葛飾郡が江戸川の両岸にまたがることになったと云う。
江戸時代、江戸幕府の支配の下で、当郡内のうち江戸城に近い本所や深川は江戸市街地の一部を構成し、町人地区は町奉行の支配下に置かれ、利根川に面する軍事・交通上の要衝である古河や関宿には譜代大名が配置された(古河藩、関宿藩)。
初期には山崎(現野田市)や栗原(現船橋市)、藤心(ふじごころ。または相馬郡舟戸。ともに現柏市)に規模の小さな藩が置かれていたこともある(下総山崎藩、栗原藩、舟戸藩)。しかし、これらの藩の領地はいずれも当郡の一部を占めるのみであり、郡内の多くの村は関東郡代支配下の幕府直轄領(天領)または旗本支配地とされた。

近世までは、後の南葛飾郡域を指して葛西と呼んでいる。
「葛飾」都の北東部、武蔵野の東方の原野ー葛が茂っているー所からきていると云う。平安中期から葛西氏の領地で青戸に「葛西城」があった。
江戸期は幕府領・関東郡代士はいけに置かれていた。金町が中心で宿場町で「柴又」が帝釈天門前町として発展した。
産業は、水田・レンコン・堀切の花菖蒲・金町のネギが知られている。他に正月用注連飾りの製造が盛ん。
今は、玩具工場の中小企業が増えている。江戸時代、利根川の大工事で隅田川までを下総であったが葛西郡は武蔵国に編入している。

               柴又・映画「男はつらいよ」で有名に


                    柴又天釈天参道
    

「柴又帝釈天」    日蓮宗・経栄山ー題経寺  1631年日忠上人の開創
    

              本尊ー日蓮上人自刻の帝釈天板
    

             60日毎の「庚申大祭」は、大賑わい


          庚申信仰縁起の竹製「はじき猿」は、郷土玩具として人気


             「男はつらいよ」の舞台でお馴染みの山門


              本堂裏手 お祭りで大賑わい


「山本亭」
大正末期から昭和初期に作られたとされている。
浅草でカメラの部品を製造していた合資会社山本工場が関東大震災で被害を受けたため、柴又に移転した際に瓦業者の屋敷の跡となっていたものを取得し、改修したものである。山本家が4代に渡って住んでいたが、1988年3月14日に葛飾区の所有となり、1991年4月から一般公開された。

                 都選定歴史的建物「山本亭」
  

「柴又公園」
日本庭園のある「山本亭」や「寅さん記念館」を含み、区の桜見物、観光名所の一つ になっている。
江戸川河川敷の広場は、レクリエーション・スポーツの場として開放。

            公園頂上は、哲学の川・江戸川が一望できる
  

  

次回は、市川橋から

下総国分寺-江戸川を下る 12

2016-06-06 | 気まま旅
「市川市」
縄文時代より栄え、市内には「堀之内貝塚、姥山貝塚、曽谷貝塚等」多数の貝塚があり、その集中度は国内最大級と云う。
律令時代には、市域に「下総国の国府」が置かれ、「真間」に「手児奈という絶世の美少女がいたという伝説がある。
そのうわさは遠く都にまでとどき「万葉集」に詠まれるほど。東国(関東)を、代表する地域だったと思われる。
市川の歴史は古く、市内北部の台地上には、旧石器時代の遺跡がいくつかあるー(丸山遺跡、権現原遺跡、今島田遺跡等)。
貝塚等縄文時代の遺跡は約60箇所にのぼる。さらに、弥生時代の遺跡も何箇所かある(須和田、杉ノ木台、小塚山、宮久保、国府台等)。
国府台より広がる高台は、常に、市川一帯の歴史を担っている。
古墳時代初めには小集落ができた(北根、前原、鳴神山、杉ノ木台)。
古墳はこのときはまだないが、その後、この高台上にも多くの古墳が築かれた。
法皇塚古墳(現・東京医科歯科大構内)、弘法寺古墳(真間山弘法寺敷地内)、明戸古墳(里見公園内)の3基の前方後円墳のほか、国府台近辺だけで約30箇所の古墳があったと推定されている(国府台古墳群)。
その後、国府台に律令制により国府が置かれ、下総国の中枢となった。
10世紀には平将門の乱に巻き込まれ、12世紀には石橋山の合戦に敗れて安房国に落ち延びた「源頼朝」が、上総広常と下総国府で合流して軍勢を立て直し15世紀には太田道灌が国府台に仮陣を置き、その弟の太田資忠が国府台城を築城した。
16世紀には、国府台城は、里見義堯ら里見氏と後北条氏との間で2度にわたり戦われた「国府台合戦」の舞台。

「JR武蔵野線・市川大野」駅ー神奈川鶴見(西船橋)起点94.7km・府中本町から65.9km、開業昭和53年
    

      市川大野緑台地に、和風庭園「万葉植物園」-入園無料
    

万葉集に詠まれている四季を通じ約155種の植物が所狭しと展示されている。

庭園面積ー3387m2・平成元年に開園された。
    

万葉の歌人ー「山部赤人」奈良時代初期の宮廷歌人・和歌49首載っている。が赤人のの名は歴史書に無い、
(下級官人で終わったと思われる)
            歌からは、藤原氏と親しい関係であったようである。地方回りの国府の役人を歴任したようである。万葉代表者

      「柿本人麻呂」代表歌人、7世紀の後半、人麻呂は、春日氏の同族で中でも柿本氏は名門に生まれている。
皇子・皇女の為に多くを残している。和歌88首、壬申の乱で失脚し、流されたのではとする説もある・石見国。(大友皇子に仕えている)
            
平安時代では人麻呂は和歌の神として祀っている。
    

万葉集は、約4500首の歌が、その三分の一が、何らかの(150種以上)植物を詠んでいる。

朝顔・紫陽花・女郎花・楓・杜若・片栗・桔梗・葛・・・・。
    

園内は、せせらぎと、池、藤棚、石灯篭・・、ゆったりとした雰囲気。
    

大野「将門伝説」-下総には各地に将門伝説がー
大野台地に、「城山」と呼んでい所が、
この地域には、各所に土塁や空堀の跡がみられ、また昔の字名には、御門、殿内、殿台、殿台下、迎米、馬寄場、一ノ谷、ニノ谷というような
中世城郭の形跡をとどめる地名が残されていると云う。
伝承によると平将門が築いた下総西部を鎮圧するための出城であるということで、現在・第五中学校敷地の北端にある小さな石の祠を、
今でも「将門さま」と称して供養を続けている人も。
現在の遺構からは将門の時代と結び付けることはむずかしく、戦国時代に属するものと考えられている。
天満宮(御門)・第五中学校のグランドをはさんだ北側の高台に建つ天満宮は、
関東の覇者として君臨した平将門が、938年、京都の天満宮(北野神社)を、この地に勧請したものであると伝えている。
それは、菅原道真公の像を描いた掛軸に「抑天満宮者 人王六十一代 朱雀天皇御宇 天慶元年 平親王将門公 皇都天満宮 下総大野ニ移ス」と。
その由来を記したものが残されている。
大野の地域には城山台地を中心に平将門伝説が古くから伝えられ、また信仰されてきた。
市川市域に残る「将門伝説」には、市域の北東部、即ち、この大野の将門崇拝伝説に対して、中部以南では菅野の不動院・御代院・八幡不知森などに、
将門調伏伝説が伝えられる。将門伝説は、船橋・佐倉・成田などにも。

    国指定文化財「曽谷貝塚跡」-面積50111.87㎡、公有32159.92㎡の広い規模ー


東西210m・南北240m・緩やかな傾斜する台地上に。縄文時代中期~後期ー遺構・竪穴住宅の集落で、明治以降何度も発掘調査。
昭和37年「遺跡横断調査」で、多くの出土物を発見している。貝は蛤・貝層・土偶・何種の土器・埋葬人骨などが

        曽谷は、北原白秋・永井荷風・幸田露伴が愛した地
  

                     曽谷春日神社
    

「国分川に架かる橋・国分橋」利根川(江戸川)水系一級河川
水源は、松戸市五香ー東国分で春木川と合流し真間川・江戸川へ。国分寺跡へ向かうと「腹切様」と云う石塔が

                     長さー8.5km


「下総国分寺跡」-国の史跡ー
国府台の南端、かっては、「金光明寺」と号している。江戸時代は、寺領15石を拝領の寺、明治22年国分山・国分寺に。
戦国時代「国府台合戦」や火災で、詳細な文献は失われている。境内の発掘調査などから礎石などが出土し、多く残されている。

    「宝珠院」真言宗豊山派・下総33か所観音・市川七福神(毘沙門天)
    

奈良時代、聖武天皇ー日本各地に建立された国分寺で、下総国分寺・後継寺院にあたる。
境内は、国分寺跡上に位地している。

国分橋                 石塔                   門
    

「法隆寺式伽藍配置」 
塔は、西・金堂ー東西25.5m南北22.m、講堂ー東西27m、南北19m東に・七重塔は、18m。

                国分寺伽藍配置図
    

                    本堂
    

天満宮            筑前黒田家に召し抱えられた「山崎茂右衛門基久家の歴史」の碑?
    

                   下総国分尼寺跡


                   寺跡(広場に)


                   寺跡(広場に)


                   寺跡(広場に)


                     庚申塔


2014年3月「奈良・平城京」掲載。
「平城京」
古都の奈良は、710年の平城京への遷都に始まると云える。784年の長岡亰への遷都、10年後の平安京により「平城京も終わりを告げる
社寺は、奈良にとどまったが、廃都し大半は衰退していく。
皇室の保護を受けた「東大寺・興福寺・春日社」の藤原氏の勢力で発展させている。中でも、興福寺は、顕著であった。寺は、荘園を増大させると同時に、12世紀には、春日社を薗氏は池に置くことになる。春日社の神威を利用して、東大寺など一部の社寺を除い大和国の社寺を
末社・末社化させ、その豪族・土豪をも従属させていく。この状態は中世末期まで続くことになる。
1180年の源平合戦で焼き尽くされるが、のちに復興再建され以前よりまして偉容を呈するようになる。
奈良に大きく影響を与え、門前郷の形成である。鎌倉時代末で街の姿が出来ている。
町の大半が「興福寺郷」で、寺門郷(南都七郷)・一乗院門跡郷・大乗院門跡郷の3つに分かれている。春日社は興福寺郷、元興寺郷は、
「治承の兵火」の後大乗院門の支配を受ける存在になった。鎌倉時代に入り、中期に、一乗院・北市ー大乗院・南市ー1414年寺門郷は、
中市が開設している。しかし、交通・店舗商業の発達で中市を除き廃絶された。

都と川、市街地に排水路をつくるために、佐保川や秋篠川の流れを変え、新たに人工的に水路をつくる。
宮殿や屋敷を建てるために必要な木材は、藤原京から建物をうつし、不足分は滋賀県の田上山から切り出し、筏にして宇治川、木津川を通り、木津で陸あげして都に運んだのである。
平城京への遷都は、707年に遷都の議論をし、710年には遷都するという、かなり急なもの、この早急な遷都を可能にしたのは、
藤原京から多くの建物がうつされたからだといわれている。
平城京の大路・小路には、道の両側に、下水、排水の役目をもった溝をつくり、排水は、秋篠・佐保川や人工的につくった川に流れこむようにつくられている。

近鉄京都線が跨ぐ「秋篠川」、名もゆかしい秋篠の里、光仁天皇氏寺「秋篠寺」は、雑木林に囲まれた上流に、
    

「平城宮」跡は、幻想的な野原、広大である、野原が続く。だが、只の野原ではない、かって世界的規模のメマガノポリスの心臓部があった
都の中心平城京あとである。在都74年間、唐の新羅などが大陸から渡来し異国の文化と国内各地の物産品など続々と平城京を目指した所。
人・物・金・情報など集結した国際都市でもあった。しばらく野原に立ちすくんでいた。

694年藤原京・天武天皇(天皇中心国家に)・天武天皇の妻持統天皇女帝・文武天皇・元明天皇710年「平城京遷都」

奈良時代の天皇は、元明天皇(708~714)女帝・元正天皇(715~723)女帝・聖武天皇(724~751)後半期から光明皇后が実権をもつ・孝謙天皇(752~758)女帝・淳仁天皇(759~763)実質的には孝謙天皇が実権をもっていた。
称徳天皇(764~769)女帝 (孝謙天皇の再即位)・光仁天皇(770~773)と続く。

奈良7代70年の帝都「平城京」の中心、広さ約120ha 内裏・朝堂院「公式儀式を行う」・官庁街・東院の四ブロックに
  

「資料館」は、奈良文化研究所が昭和34年から発掘調査をしている。
その成果を分りやすく展示し、宮殿内部を模型などで出土品と展示している。

遺構展示館は、発掘した状態をそのまま見る事が出来、北棟奈良時代4回の建て替えられた柱跡・井戸。又南棟の大量のレンガ敷き詰め建築が見られる。

奈良時代後半の「西宮」は殆ど残っていないが、大極殿の基壇・階段の地覆石の跡と見られる溝状遺構が部分的に検出したと云う。
それにより、基壇・階段・規模が確定されたと云う。

資料館無料、いろいろイベントがある。   9時(10時)~16時
  

一時は、「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛り成り」と詠まれるほどの栄華を誇っていた平城京も100年以降荒廃し続け田畑に変貌し見る影もなくなってしまった。
現在、少しずつ整理されてきたが残念ながら、ただの歴史公園に。

官庁街路             近鉄奈良線が                 越えると二条大路
    

710年飛鳥にちかい「藤原京」から、奈良盆地の北端に新しくつくられた「平城京」は、唐の長安をモデルにして設計され、南北約5km
東西約6km、都の中央北端には政治の中心となる「宮」がつくられ、約1km四方の広さで、大極殿・朝堂院・天皇の住まい内裏・周囲に国の役所が建ち並んでいた。
聖武天皇が、740-745年間、都を移し、改築している。

十二堂跡と朝堂院(遠方に朱雀門と近鉄線)            第一次「大極殿」屋根の形に特徴が
  

「大極殿」宮殿の中でも最も重要な建物、即位の儀式・元旦の朝賀など、天皇の玉座(高御座)が置かれた。
間口44m・奥行20m・屋根の高さ27mで、平成22年(平城遷都1300年記念)復元完成している。

「聖武天皇」が745年戻って新たに出来た「第二次大極殿」明治末発見している。

「第一次大極殿」屋根の形                                  天皇の玉座(高御座)
    

「朱雀門」は、平城宮の正門・朱雀門。
その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まって歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいたと云う。

聖武天皇によって752年に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年 765年に創建された。
これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。
この他、法華寺、唐招提寺、菅原寺(喜光寺)、新薬師寺、紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。

2006年3月10日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。
下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見された事に依る。この羅城は中国の都城の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。

第二次大極殿は745年聖武天皇が「柴香楽宮・大極殿」を造る           発掘調査中
    

「平城天皇楊梅陵」
桓武天皇の第一皇子。母は、皇后藤原乙牟漏。種継暗殺事件に関与したとして皇太子を廃された叔父の早良親王に代わって皇太子となり、桓武帝崩御によって即位。
重なる遷都や蝦夷征伐軍の派遣で疲弊していた財政緊縮のため、役所の統廃合や地方行政の円滑化を行った。
長期政権だった、父桓武天皇の治世を超える事に情熱を傾けるあまり、元来病身であった帝は今で言うノイローゼにかかり、実弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。即位からわずか3年の治世であった。
自らは上皇となって、京都から旧都の平城京へ移り引き籠もったが、健康の回復とともに、次第に嵯峨政権に干渉を始める。
その周囲にいたのが、藤原仲成・薬子の兄妹である。薬子は平城天皇の女御でもなく、尚侍という低い地位の女官だったが上皇の寵愛を受け、
兄の仲成と共に上皇に政治的な影響力を持つようになる。平安京遷都に不満を持つ旧勢力も周囲に集め、次第に平安京の勢力に匹敵するほどの状況となり、上皇は平城遷都の詔を発するなど「二所朝廷」と称されるほどであった。
薬子は、平城上皇が天皇時代の、妃(藤原縄主(式家蔵下麻呂の子)と藤原薬子(式家種継の子)の間の長女)の母であり、もともとは娘の付き添いで入内していたものであるが、平城天皇は妃よりその母を愛してしまったという経緯があると云う。

東院庭園の先、国道24号線に平城天皇楊梅陵
    

次回は、市川国府台へ

山菜取りと富士山荘の暮らし

2016-06-03 | 富士山麓日記
5月も最終、今日は曇り空で富士山もかすんでいる。河口湖IC


陣馬の滝方面に山菜取りに出かけた。


滝の水量が多く激しく水が落ちている。


湧水もこの通り


付近の小川、澄んだ水があふれている。


この付近には「あまちゃつる」が群生している。沖縄など暖かい地方によく群生するあまちゃつるだがこの辺りは
富士宮市に位置するのか暖かい。


今日の田貫湖、富士山がかすみかかって影のよう。


湖の端のほうにクレソンが群生している




青木ヶ原樹海を走り抜けわが山荘へ。


今夜はクレソン鍋。あまちゃツつるは干してお茶にする。忙しい1日。





矢切りの渡し 野菊の墓  江戸川を下る 11

2016-06-02 | 気まま旅
「江戸川」この川は、高齢者がゆっくりと休める、「宿場の町造り」を考えたらどうか。私は、「江戸川」を「哲学の川」と呼んでいる。

[国分川分水路]
国分川では,台風通過の度に流域で数百ha・数千戸もの家屋が浸水し、流量自体が多いため、特に合流先の市川真間川流域では市街化の進行も著しく、
松戸市内上流部から流出した洪水が数年に一度の割合で記録的水害を起こしている。
下流市街地では河道の拡幅にも限界があり、真間川の治水事業開始前から抜本的解決を図り対策が行われ、国分川分水路・松戸市の和名ヶ谷にて
国分川本川より分派し、同市上矢切で坂川へ接続する延長3,362m・流域面積19.4㎡の分水路を。
和名ヶ谷水門から上矢切水門までの2,555mがトンネル区間になっている。昭和48年、より松戸市が主体となり都市小河川改修事業として事業が
開始され、昭和58年、までに用地取得と開削部の工事を行った。
翌年より真間川流域総合治水事業に組み入れられ、千葉県主導でトンネル工事が進められ、平成5年、トンネル部分の工事が完了。
その後は、水門や和名ヶ谷水路(国分川分水路と交差)の整備。平成6年、通水を開始し、国分川分水路工事の一環で坂川下流部1.8kmの改修工事、
坂川の江戸川合流地点にあたる柳原排水機場の改築工事が付随的に行われ、平成9年、全事業が完了した。

国分川工事事故ー1991年の平成3年、台風18号による豪雨の影響で、松戸市建設中の分水路トンネル工事に濁流が流れ込み、坑内にいた7名が水死
した。(坑内1600m離れた現場)

     水田でよく見る白鷺ーダイサギ・チュウサギ・コサギ・アマサギの4種いる。


葛飾金町ー帝釈天ー松戸ー矢切りの渡しの江戸川は、「陸橋」が込み入っている。

           東京外環自動車道ー葛西大橋ー松戸ー市川ー高谷間
    

「国道6号線」日本橋ー台東区・墨田区・葛飾区、千葉県松戸市・柏市、我孫子市、茨城県取手市・龍ケ崎市・牛久市・土浦市・石岡市・水戸市・ひたちなか市・日立市・高萩市・北茨城市、福島県いわき市・双葉郡双葉町・同郡浪江町・南相馬市・相馬市、宮城県岩沼市・名取市
指定区間ー都中央区日本橋から宮城県仙台市宮城野区日の出町まで。

「東日本・JR常磐線」
都荒川区の日暮里駅から千葉県北西部、茨城県、福島県の太平洋側を経由して宮城県岩沼市の岩沼駅までを結ぶ。
    
                                   東京スカイツリー
    

                陸橋を抜けると広場に
  

「矢切」
県松戸市にある上矢切、中矢切、下矢切の3地区の地区の全体。
3地区は、松戸町に合併する前の各村単位で、上矢切村、中矢切村、下矢切村である。

               河川敷きに「矢切苑」-休憩する
    

「水五訓の碑」-黒田官兵衛(黒田如水)の教え。
1、自ら活動して他を動かしむるは水なり。2、常に己の進路を求めて止まざるは水なり。3、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
4、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり 。5、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり。
雪と変じ霰と化し凝しては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を失はざるは水なり。水というものを通し、人間としての生き方を。
1- 水は自らが動くことで周りのものを動かし、運んでいる。
2-自ら考えて道を拓くことを心がけよ。責任は自ら。
3-あきらめることからは、なにも生まれない。壁によってさえぎられることも。
4-人を追いやることをせずに共に頑張る。社会にはさまざまな価値観を持つ人が、長所を。
  水を一つにまとめ、大きな目的に向かって集約してゆくような、そんな度量を持つ人間。
5-常に自然の理にそって物事を考えよ。 水は温度の変化、器の形によって次々と自らの形を変え、本質は一切変化することがない、柔軟に。
          
            「水五訓」を思い出し、きっと、あなたの道標に。


             明治・大正・昭和初期頃の矢切りの渡し


「矢切り」地名は、戦国時代に起きた「第二次国府台合戦」にて、里見方が矢が切れ負けたことから
「やきれ」→「やきり」→「やぎり」となった説と、矢の飛び交うことことを嫌い、矢を切る。(矢はもういらない)という説もある。
(本土寺の過去帳に「妙心尼 文安四(1447年)丁卯三月ヤキレ」の記述ある。又、矢切神社の石塔に、元文五年(1740年)下矢喰村の記述がある)
                   ここ「一里塚」からー民営渡し舟・「矢切の渡し」があるー運行は、確認。

                「野菊の墓」文学碑へ。
    

日本音風景百選石(穴から風の音が)       野菊の墓記念碑
    

               両側一面どかな「畑ー野菊の小路」


     矢切り橋                     坂川
    

                 矢切り苑から徒歩20分位
    

「西蓮寺・野菊の墓の碑」
「矢切の渡し」、江戸時代の初期にすでに、農民渡船として使われていた。
江戸川から、台地上の「西蓮寺」には、伊藤左千夫の小説、「野菊の墓」を記念する文学碑が建てられている。
この地は、かつて、「北条氏・里見氏ー国府台合戦」主戦場。両軍合わせて一万余の戦死者がでた激戦地であった。

                真言宗豊山派の寺「西蓮寺」
    

「1564年-、北条氏康と里見義弘軍・の戦い」
北条軍は、江戸川柴又、小岩側に江戸城代家老遠山丹波守直景と葛西の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣させ、
高城胤辰軍も北条方に加勢し、下矢切大堀(矢切神社付近)に布陣。
里見軍は、八千余の軍兵が矢切側の台地上に布陣し、遠山、富永等は、大将北条氏康の到着を待たず里見軍へ攻め寄せ、両軍は今の矢切の渡しから
西連寺付近で激突しますが、北条方が敗退し遠山、富永は討死する。
しかし、北条軍は二手に分かれて、得意の夜襲をかけ、油断している国府台本陣の里見軍を急襲し、北条軍が勝利をおさめる。
この合戦で両軍合わせて一万余の戦死者がでたと云う。「第二次合戦」

寺の坂道を、大坂と呼ばれ、遠山丹波守直景・富永三郎右衛門尉が討ち死にした激戦地と伝えられている。
                      高台の野菊苑
  

国府台合戦で激しい戦いで、地元民も人足に狩り出され、塗炭の苦しみの中で、弓矢を呪うあまりに「矢切り・矢切れ・矢喰い」の名が生まれたと云う。
住民の平和を願う塚
                「矢喰村庚申塚」塚の裏が矢切神社
  

「北総・公団線」-京成グループ企業ー

        千葉ニュウ―タウンー白井ー鎌ヶ谷ー東松戸ー「矢切」ー柴又ー京成青砥へ
    

千葉県山武市で掲載。
「伊東左千夫」ー歌人・小説家 (1864 - 1913)
千葉県成東町殿台に生まれ、 年少の師「正岡子規」に傾倒し、長塚節とともに、島木赤彦、斎藤茂吉ら次の世代に師。
「野菊の墓」「分家」等の小説の名作もある。
万葉的な熱い情けに富んだ一世の詩家として懐かしまれる。

伊東左千夫「野菊の墓」
・・・15の政夫と17の従姉民子。政夫の母親の体調がよくないので、民子は看護や仕事の手伝いで斉藤家にやってくる。
小さい頃から仲がよかった2人は、次第に男女の恋愛感情を抱くようになる。
しかし、兄嫁や作女のお増はそれが気に入らずに、母親に告げ口などをする。
母親は2人に、もう子どもではないのだから、あまりべたべたしてはいけない、という内容の説教をする。
それに民子は2歳上の女。世間体的にもふたりが結ばれるなどとは考えられない。その説教以来、民子は政夫のもとへあまり近づかなくなってしまった。それが原因なのか、政夫は民子を女性として感じるようになる。
ある日、2人は少し遠い斉藤家の畑まで、収穫にいくようにと、母親に頼まれる。
久しぶりに2人で語らえるので、お弁当を持って楽しみにでかける。
道々、野菊が生えている。
ふたりとも野菊が好きだ。
そして、民子は野菊に似ている、と政夫は言う。このニュアンスを2人は意識し、会話は少なくなる。
想いは通じていた。
世間体の悪さから(明治時代なので)、政夫は早めに中学校(いまの高校か)に進学させられる。
下宿なので、民子と離れなければならない。政夫は、お見送りにきた民子に想いを込めた手紙を渡す・・・・。

     伊藤左千夫の代表作「野菊の墓」像(伊藤左千夫記念公園内に)
  

・・・・ある日、政夫のもとに電報が届く。
急いで家に帰ったところ、民子が死んだことを告げられる。
母親は無理に嫁にやったことを後悔しており、取り乱している。
民子の気持ちが本心ではないので、半年ほどで離縁され、その後、民子は病気になり死んでしまったのだ。
死後、民子が手に持ち、胸に押し寄せていたのもは、政夫の写真と手紙だった。ここにきて、政夫と民子の強い気持ちを知り、皆、すすり泣く。
政夫は民子の墓に参る。
周りには野菊がたくさん生えている。政夫は7日間通いつめ、民子の墓の周囲一面に野菊を植えた・・・・・。

       左千夫記念公園ー先に、生家・歴史民俗資料館が
    

左千夫は、(上総国武射郡殿台村・現在の千葉県山武市)の農家出身。
明治法律学校(現・明治大学)中退し、明治31年、新聞「日本」に「非新自讃歌論」を発表。
歌よみに与ふる書・に感化され、正岡子規に師事。
子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌「馬酔木・アララギ」の中心となって、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成したと云う。
1905年の明治38年、には、子規の写生文の影響を受けた小説「野菊の墓」を「ホトトギス」に発表。
夏目漱石に評価される。代表作に「隣の嫁・春の潮」などを次々に。
東京帝国大学学生の三井甲之や近角常音が出入りをしていた。
常音の兄である真宗大谷派僧侶の「近角常観」とも知遇を得て、常観が主宰していた雑誌「求道」(求道発行所)に短歌を寄稿する。
1913年の大正2年、に脳溢血のため死去。
                公園内には、記念碑が多数ある。
    

左千夫の菩提寺は、東京普門院、
真言宗智山派の寺院。山号は福聚山という。亀戸七福神・毘沙門天を祭っている。
寺は、以前掲載し、普門院は、1522年に武蔵国豊島郡石浜(現在の荒川区)に創建された古刹
元和年間(1615年~1624年頃)に現在の土地に移った寺。
歌の世界に生き甲斐を見出した時は、37歳、それから50歳で没する13年間に「馬酔木」を経て「アララギ」を創始し、門下からは島木赤彦、斉藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などの大歌人が出ている。短歌と小説、随筆、写生文などの幅広く才能を発揮した。

          明治22年墨田区江東橋(錦糸町駅に近い)で乳牛改良社を開業している。
    

茶の湯・左千夫は、茶道にも通じており、正岡子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、左千夫の自宅を「無一塵庵」と名付けたと云う。
一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立した。(現在では生家に移築)
左千夫はもともと旧派の和歌を詠んで、号は「春園」。
正岡子規より年長だが、子規に議論を吹っ掛けにいって、逆に論破され、門下に連なったとも云う。
子規の死後、機関誌をもたない「根岸短歌会」のために「馬酔木・あしび」を創刊するも、雑誌は売れず廃刊。
三井甲之の「アカネ」がこれを引き継いだが、同人の間に不満続出。紆余曲折を経て、「アララギ・当初は漢字書き」を創刊。
雑誌の経営難・資金難、さらに自宅が洪水の被害を受けるなどの困難がふりかかる。
「アララギ」が安定したあとも、島木赤彦の作品をめぐって、斎藤茂吉と誌上で激論を交わした。
それでいて斎藤茂吉の異色な作品をかばったとある。
島木赤彦・斎藤茂吉・土屋文明などの個性の違う弟子たちや、長塚節・岡麓らの子規門下をまとめ、いわば「根岸短歌会」の「重石」だった。
岡井隆のいう「大同団結」の気風をアララギの中に育んだのは、伊藤左千夫の功績。
生前、自身の歌集を出版することはなく、小説の執筆に傾倒したこともあり、「野菊の墓」などの作品が。



「作田川」ー2級水系(高倉川と合流する)20.7km・河口ー九十九里海岸。
千葉県山武市北西の大木地区付近に源を発する。
JR総武本線とほぼ平行に流れ、同市雨坪付近で源川を合わせる。
日向橋以降は河川改修により拡幅されており、同市椎崎付近では旧河道が残る。
八反目橋で狭まり、成東堰にて両総用水を分ける。程なくして山武市街に達し、成東・東金食虫植物群落のすぐ北側を流れる。
河川幅が徐々に広がり、東金市に入ると武射田堰を越え、山武市との境界付近で境川を合わせる。
両市の境界を流れ、白幡ニュータウンを越えると九十九里町に入る。
鶴巻堰手前で真亀川より分流してきた高倉川を合わせ、更に河川幅は広がる。
九十九里橋を過ぎると、片貝漁港より太平洋へ注ぐ。周囲は九十九里浜で、作田川を境として東に作田海水浴場、西に片貝海水浴場が広がる。
流路延長20.7kmのうち、源川合流地点より下流18.218kmが二級河川に指定。
明治・大正時代までは支流の境川の名称が使われていたが、近年になって「作田川」に改められた。

大橋に、童べの時 覚えねど 岡負へる日南成東は 春によろしもー左千夫

           左千夫も子供時代は、この川で遊んだであろう
    


次回は、市川方面へ。