syuの日記・気まま旅

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武蔵野・多摩動物園 緑地1

2019-05-14 | 季節だより

「多摩ニュータウン」
東京南西部の丘陵地帯に造られた計画人口約30万人、総面積2890haの日本最大のニュータウン、1971年の入居開始から約35年、現在では住民の高齢化や建物の老朽化など色々な問題を抱えている。
緑豊かな住環境は、現在でも住民に大変愛されて、定住率の高さが高齢化に拍車をかけている。開発の中心だった住宅都市整備公団(現在の都市機構)の解体や都の撤退など、この街を取り巻く環境は大きく変わりつつあると云う。
多摩ニュータウンの開発は、
高度経済成長期における庶民の住宅難の解消のため行政が必要に迫られて決断した計画で、官主導の街づくりで、何世代にもわたって守り、受け継がれてきた多摩丘陵の自然を壊し、峰を削り、谷を埋め、地形を変え、行政界を超えて一大ニュータウンを造ろうとしたが、開発に当たっての開発区域は4市に跨がっていて、その区域は一つの行政区域であることが望ましい事など分かっていたが、区域内の中央部分を東西に縦断する京王相模原線、小田急多摩線の2本の鉄道も稲城市、多摩市、八王子市にまたがって多摩ニュータウンを一体的に結んでいる。 
またニュータウンの主要幹線道路である、尾根幹線道路、多摩ニュータウン道り、野猿街道は共に鉄道と並行して3市を東西に結んでいる。
これら交通網を考えてみただけでも多摩ニュータウンが行政の一元化を考えて建設が進められて来たという。
基本的な問題さえも手付かずのまま 三十年が過ぎようとしている。 
住宅建設についても、当面住宅難の解消のためのものとしては役割は果たしてきたものの、このままだと当初の構想の様にベットタウンの域を出ない
政府の構造改革は、特殊法人の廃止、民営化を進めようとしているが、多摩ニュータウンも大きな転換期を迎えようとしている。
住民の手によってベットタウンではない本当のニュータウンを作りあげていく段階が、そのために住民の意識改革も行われなければならない。
多摩ニュータウンは、都南部の多摩丘陵に位置し、標高150m前後、多摩市を中心に稲城市、八王子市、町田市に及ぶ東西14km、南北2~4kmの大規模な住宅開発地域である。京王相模原線を利用することにより、新宿から約35分で結ばれており、大都市東京のニュータウンとして、大阪の千里ニュータウンとともに、大都市の住宅供給を行ってきた開発である。
1960年代、日本の高度経済成長によって東京圏は都市化が急速に広がっていき、大量の勤労者が流入していった。それに伴って、住宅宅地需要が増加していき、中心市街地の地価の高騰によって、郊外である多摩地域でも無秩序な開発(スプロール化)が進行していると云う。

居住環境の良い宅地・住宅を大量に供給することを目的として、1965(昭和40)年、「新住宅市街地開発事業都市計画」が決定、計画人口約30万人、総面積約2980haの多摩NT開発が行われることになった。
新住宅市街地開発事業という、施行者が土地を全面買収して宅地造成などを整備する事業で、土地区画整理事業という。
所有されている土地を換地という手続きによって区画形質の変更を行って宅地としての利用を増進する事業によって行われている(道路や下水道などの整備は関連公共施設整備事業によって行われている)が、多摩NTでは前者の土地を全面買収することをメインとして宅地造成をしており、歩車分離を徹底させた(ラドバーン方式)道路構成やバランスのとれた建物や公園の配置など、開発設計思想の反映された個性と魅力のある面的な住宅開発がされている。


           多摩動物公園 入園有料 65才以上 300円 毎週水曜日休園


            交通機関 私鉄京王線・多摩モノレール 動物公園駅下車


高大な園内に約130種の動物が観察できる。

                園内には、シャトルバスが巡回している。


            昆虫園・アフリカ園・オーストラリア園・アジア園がある。


主な動物ー昆虫ホール・キリン・チンパンジー・クマ・ライオン・ゾウ・コウノトリ・カンガルー・サイ・・・・。



              ここの園内は、他と違い「武蔵野台地の緑」が。
























続く。

高幡不動 -行基建立

2019-05-11 | 季節だより
「行基」 668-749 社会事業で多くの人を救った高僧。
奈良時代の百済系渡来氏族の僧侶ー法相宗「道昭」のもとで学ぶ、師の影響大で社会事業に、朝廷に招かれ大仏建立・大僧正になる。
「行基年譜」僧院34・尼院15・橋6・船・池・溝・堀・川・・・。第二の行基は出ていない。

天智7年の668年、河内国大鳥郡蜂田郷家原(現在の堺市あたり)に生まれる。
名は、貞知、父は、王仁の後裔の高志才知、母は蜂田古爾比売といわれ、いずれも渡来系氏族。
母方の家で生まれた行基は、15歳で出家して飛鳥寺で学ぶ。律令制のもとでは、一般人は仏教に関係のある豪族や部族の出身でなければ容易に僧尼になれず、出家者も自由に行動できなかった。行基は、父が五位の国守を出している帰化人の中級豪族で、学問や仏教に通じており、身近に道昭という高僧がいたことも入道に幸いした。
704年、に生家を改造して家原寺を創建。707年、40歳で生駒山の山房にこもる。母と暮らして孝養を尽くすかたわら山林修行を積み、712年、に修行を終えた。45歳を過ぎて布教活動に力を入れ、貧者や病者などの一時救護施設「布施屋」をつくる。しかし、これが原因で717ねん、に僧尼令違反で政府から弾圧されるが、それでも布教をやめなかったと云う。
行基の最大の功績は、「四十九院」という多数の修行道場を拠点に、橋、道路、港、堀川、布施屋はもとより、溜池や用水路、水門などの潅漑施設を整備し、新たな菩薩行、すなわち衆生救済のあり方を示したこと。律令政府の政策に則しつつ、庶民の利益となる施設を建造していったのである。
その活動資金や技術、労働力などは、行基の信者たちによって提供されたと考えられている。
仏教の教義を民衆に理解しやすい平易な言葉で説き、罪福を諭し、現世の要求を聞き入れ解放する積極性を持っていた。
上層農民や豪族には蓄財を否定せず、功徳を積みながら生産に励み、利の欲求を解放して社会に還元する「利益」を教えた。
721年、同じ渡来系の寺史乙丸から右京三条三坊にあった寺史の邸宅を寄進され、菅原寺(後に喜光寺と改名)とした。
749年、喜光寺で入寂ー享年82。
弟子たちの手によって火葬、生駒山中東麓の竹林寺に埋葬された。
行基は、歴史書「続日本紀」に、朝廷に歯向かう悪者であると同時に、庶民には仏の道を説く聖者として唐突に登場する。
主な活動であった庶民生活の基盤整備は、地位の高い人々が独占していた仏教を民衆に開放し、治政の貧困を暴く行動であることから、行基は僧尼令を犯す者という汚名を着せられている。
しかし、731年、朝廷は行基に従う61歳以上の優婆塞、55歳以上の優婆夷の入道を許し、聖武天皇自ら泉橋院(京都府木津川市)に行き、行基に面会している。この出会いによって、東大寺大仏造立の勧進僧の任を受け、それまで「小僧(しょうそう)」とさげすまれていた行基は、一気に大僧正の地位に就く。
この掌を返したような扱いは、世の移り変わりと言えばそれまでだが、天皇の抱く大仏建立という大目標に果敢に立ち向かえる人材は、行基しかいなかったことの証しでもあると云う。


            高幡山明王院金剛寺ー高幡不動ー真言宗智山派ー別格本山古寺


                    火防の不動・関東三大不動 本堂


「真言宗」 空海 774-835  六大縁起・即心成仏を教義の密教教団  弘法大師空海が開宗

                        仁王像


      二分し、豊山派、本山長谷寺・智山派、本山智積院   寺院数1万ヶ寺。

                        仁王門


                        五重塔


                       四季の道


                  巡拝山内88ケ所入口 山内経之供養塔


                  アガバンサス  鏡水句碑他







                  大日堂 天井に狩野法眼作「鳴き龍」がある。


                         丹頂草


「大日堂」-大日如来像 平安・不動明王像 室町・阿弥陀如来像 江戸・飯縄不動像 江戸・天井画鳴り龍 江戸・柱林山水朝陽夕 8枚
八福神像・書画・彫刻 江戸。

                        大日如来像




「上杉憲明」 1306-68 幕府に抗した反骨の武将、関東管領・「父子の忠節と功績は比類がない」直義の為に身命をなげうった。
       山内上杉の祖を築いた。

                       上杉憲顕・納札堂


重文ー丈六不動明王像 平安・仁王門 室町・鳴り龍 江戸・・・多数。

市指定文化財ー「文久の板碑」-鎌倉時代の武蔵国・高麗地方から南平に移住し、日野市に勢力を伸ばした「平姓高麗一族始祖之供養塔」と推定。
                         文永の板碑


ハイキングコース   不動ヶ丘・高幡城址へ。

                         大観音像


次回は、多摩動物園へ

土方歳三・北の果てにて散った新選組副長

2019-05-09 | 季節だより
多摩川沖積低地と日野台地、奈良時代烽火台のあった飛日野・武蔵七党の日秦氏が祀った「日野宮権現」がある。
江戸時代は、甲州街道「日野宿」と多摩川渡船場「日野の渡し・日野橋」があった。



「土方歳三」 1835-69 新選組副長 武蔵国多摩郡石田村の農家。
天然理心流剣術を学ぶ・道場主「近藤勇」と新選組結成副長に  鳥羽・伏見の戦いに敗れ東帰後、宇都宮、会津を転戦し北海道箱館へ。
兵士で退却者は、切り捨てたと云う。後霊を弔っている。新政府軍の銃弾を受け戦死した。

                     高幡不動 土方像














「程久保小僧」 藤五郎生まれ変わり物語り
文政5年11月、中野村に住む8歳の勝五郎(小谷田姓)が、兄と姉に、自分の前世は、程久保村の藤蔵(須崎姓)で、6歳の時に疱瘡(ほうそう---天然痘)で亡くなったと語りました。

勝五郎の話は、やがて父や母の知るところとなり、12月、勝五郎は生まれ変わりの顛末を以下のように、父母に詳しく語ったのです。 藤蔵が死んだとき、魂が身体から抜けだして家に帰ったが、誰も気づかなかった。→白い髭に黒い着物を着たおじいさんに導かれ、あの世に行った。→三年たったから生まれ変わるのだと言われて中野村の柿の木のある家に連れて行かれた→竈の陰に隠れていると、父母が相談をしていた。それは、家計を助けるために母が江戸へ奉公に行くというものだった。→藤蔵の魂は母の胎内に入り、文化12年10月10日に勝五郎として生まれた。(柿の木は、あの世とこの世の境にある木だといわれている)

勝五郎の生まれ変わりの話は、両親にとっては信じがたいものでしたが、母が江戸に奉公に行く相談をしていたという話は、両親以外の人は知らないことだったので、両親は勝五郎の語ることは本当かもしれないと思うようになりました。 程久保村のことを知っている人に聞いて見ると、藤蔵の家は実在し、疱瘡で亡くなった子どもがいることもわかりました。勝五郎の生まれ変わりのうわさが広まり、「ほどくぼ小僧」というあだ名がついて見物に来る人もいたので、勝五郎はとても嫌がりました。 文政6年1月20日、勝五郎とおばあさんは程久保村の藤蔵の家を訪ねることにしました。勝五郎は行ったことがないはずの程久保村の事をよく知っていて、祖母を藤蔵の家に案内しました。

藤蔵の家では、母しづと義父の半四郎がいて、勝五郎が藤蔵によく似ているといって喜びました。勝五郎は、初めてきたはずの家の中の事もよく知っていて、向かいの「たばこや」(屋号)の木は以前はなかったなどといって、みんなを驚かせました。(藤蔵の屋敷は、今も同じ場所にあります) 藤蔵と勝五郎の家は、その後親類のように行き来するようになり、勝五郎は実父久兵衛の墓参りもしました。

2月のある日、江戸から池田冠山(いけだかんざん)という大名(鳥取藩の支藩の藩主、当時は隠居)が、勝五郎の家を訪ねて来て、生まれ変わりの話を聞かせてほしいと頼みました。勝五郎は気おくれして話すことが出来なかったので、祖母つやが代わりに話をしました。3月、冠山は聞いた話を「勝五郎再生前生話(かつごろうさいせいぜんしょうはなし)」としてまとめ、松浦静山(まつらせいざん)や泉岳寺の貞鈞(ていきん)大和尚などの、文人仲間に見せました。冠山の著作は次第に多くの人の目に触れることとなり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました。冠山が、中野村まで生まれ変わりの話を聞きに行った背景には、文政5年11月、藤蔵と同じ6歳で疱瘡のために亡くなった末娘「露姫(つゆひめ)」の存在がありました。

4月、中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかどでんはちろう)が、源蔵・勝五郎親子を江戸へ呼び出しました。知行所での騒ぎが大きくなって、そのままにはしておくことが出来なかったからです。多門は、4月19日に源蔵親子から話を聞き、これをまとめて、上司である御書院番頭佐藤美濃守(みののかみ)に提出しました。

多門傳八郎の届書の写しは、すぐに多くの文人たちが入手することとなり、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)のところへも届けられました。篤胤は、友人の屋代弘賢(やしろひろかた)の勧めもあって、多門の用人谷孫兵衛に、勝五郎への面会を申し入れました。そして、4月22日に、源蔵と共に篤胤の学舎、気吹舎(いぶきのや)へ来た勝五郎から直接話を聞きました。篤胤が、勝五郎の話を聞いたのは、4月22・23・25日の3日間でした。

6月、篤胤は、勝五郎の話に自身の考察を加えて『勝五郎再生記聞(かつごろうさいせいきぶん)』をまとめ、7月22日からの上洛に持参、光格上皇と皇太后へお見せしました。御所では、女房たちに大評判となったそうです。

文政8年8月26日、勝五郎は気吹舎の門人になり、およそ1年ほど気吹舎にいたといわれていますが、その後の消息ははっきりしません。

勝五郎は、中野村に帰ってきてからは、普通の人と変わらない生活をし、農業の傍ら家業である目籠の仲買を行ない、裕福な生活をしていたと伝えられています。明治2年(1869)12月4日、55歳で亡くなりました。

明治30年に、小泉八雲が、随想集『仏の畠の落穂』のなかに、「勝五郎の転生」を書いたので、勝五郎の生まれ変わりは、海外の人にも認知される事例となりました。



                           藤蔵の墓 








次回」は、「高幡不動」から多摩動物園へ。