まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【俳句の此岸】30年前、生活上の必要の無い俳句をかなぐり捨てた/私とは誰か~プレおたく世代の現在(22)

2017-04-17 20:27:44 | エッセー・評論

*極レア!名曲マイフェバ21世紀のカバー

私は、2013年10月にインターネットのブログ(俳句カテゴリー)で句作を再開した。1979年にラジオの深夜放送の俳句コーナーで俳句と出遭い、いくつかの結社・同人誌や総合誌の公募などを5、6年続けたが、何をどう書けばいいかわからなくなり休止した。それから30年もの月日が経っていた。これだけは確かに言えるが、当時、坪内稔典氏が言っていた実存を構成する必要条件としての【生活の必要】が無くなったのだろう。俳句を書く(作る)ことのない、それ以後の30年間は、むしろ【自分を取り戻す】ための充電期間だったように思える。1980年から10年刻みで3つの大きなサイクルを表現意識(言語)の【定型性】というフィルターを通さずに、肉体に直にぶつけて行った30年だったのかもしれない。要するに逃げ場はもうどこにも無かったのだ。俳句形式とは、時代から置いてけぼりを喰らった者の身の丈にフィットした格好のシェルター(駆け込み寺)だった。ところが、ここでも俳句結社とか【有季定型】とか、大よそ俗世間の生活上の《強制力》の寄り集まった面倒臭さ極まる架空の擬似生活空間だった。1980年代の初頭に当たって、公私共に宙ぶらりん状態の私にとって、俳句とは【生活の必要】どころか生活の桎梏でしかなかった。しかし、ほんの一瞬間だけ安らぎを与えてくれる仮初めの場所でもあった。すでに目の前から消えたはずの彼らは、俳句形式というワンダーランドで確かに闘っていたのだから。・・・《続く》

 

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【俳句の此岸】すべてが謎のまま始まっていった/私とは誰か~プレおたく世代の現在(21)

2017-04-17 04:45:21 | エッセー・評論

私の上京10年の区切りとなった1980年代の始まりは、俳句と共に始まった。坪内稔典氏の【俳句とはこの後どう書くか】の言と、俳句以前の私自身の【この後どう生きるか】が見事に一致したのである。私の70年代、とくにその後半は全くの【空虚】であった。真っ暗闇という言葉があるが文字通り、何も無かったのだ。そのことにめげずに【フリージャズ】や【ニューミュージック】【歌謡曲】の世俗とは一定の距離を置いた《表層文化》つまり今日のサブカルチャーの本質論【軽いが重くて深い】に聞き耳を立て、何とか突破口を開こうとあがいた。あがき抜いていた。しかし、全ての努力は何度も空を切り、無に帰した。そんな時に、私が後に続こうとした70年安保(団塊)世代の一群が【俳句】の現代化に挑んでいた。まだ、闘いは終っていなかったのだ。ただその闘いは、70年安保当時のイデオロギーに凝り固まった《展望》などといったものの欠片も無い、ちっぽけな消耗戦でしかなかった。彼らの闘いとは、何とあの受験国語の必須項目(アイテム)であった【芭蕉】の俳句を、現代において蘇生しようということであった。芭蕉とは、たしか江戸時代に、当時辺境であった東北を《何のあても無くさまよい歩く》というやつである。その起点は日本文化の中心地であった《江戸》であったが、そこでも俳諧・発句という大よそ《得体の知れないもの》をこねくり回していた・・というアレであった。その俳句・俳諧を、何故・どのようにして現代の私たちの足下で再生するというのだろうか。すべてが謎であった。・・・《続く》


芭蕉は下級士族の出身で幕吏や大名家の俳諧師匠/新俳句入門(6)*改稿

2017-04-17 03:49:49 | 新俳句入門

従来の同記事シリーズの(6)の内容に著しい誤りがありました。ここに訂正します。松尾芭蕉は伊賀藤堂藩の下級士族の出身です。「奥の細道」の旅に、江戸から同行した曾良は幕府隠密(諜報員)だったことは定説になっています。幕府や各藩、商家などにとって各種旅人や薬売りなどは貴重な情報源となっており、彼らのスポンサーとなっていたのも事実です。また当時、各藩で階級の上下に関わらず【連歌俳諧】は和歌と並んで必須の嗜みで、在江戸の各藩の武家に弟子を多く持っていたようです。奥州への出立に当たっても、千住宿での2日間に多くの大名や有力商人などの饗応を受けていたようです。芭蕉は表向きの諜報活動の傍ら、みちのくの歌枕の地を訪づれ、独自の発句形式による新たな詩表現のかたちを追及したものと思われます。いずれにしても、芭蕉にとって奥羽各地への旅は、まさしく【非日常】を渡り歩く《漂泊》の行為であったはずです。その行き着くところが辞世の句とされる境地であったのでしょう。・・・《続く》

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る   芭蕉