銭湯に自転車で往くほぼ裸 大木雪香 俳句愛好誌「海光」9号より
この句を最初に目にした時、文句無しにこの作者の当号掲載12句中髄一のものと思った。その理由は、【ほぼ裸】の下5に置かれたただ一言によって俳句形式という擬態をアッサリと突き抜けたからである。2018年のいま、俳句などというものがどのようにも存在し得ないことはあまりにも明らかである。なのに作者は、わたしたちは季題(語)諷詠・17音(数律)・結社の【有季定型】の三大要素の幻影の中を泳がされ続けている。子規・虚子に始まる偽装された日本的近代の亡霊が、現代の全国数十万の身霊に乗り移り、21世紀初頭のいまも列島界隈を跋扈している。作者はその虚子直系の俳句結社の中堅女流である。しかし、この【ほぼ裸】というような季題・季語としてのそれから決定的にかけ離れた認識を詠う者は皆無であるに違いない。
一句の具体的な読みに入る。銭湯に自転車で通う光景は、現在も地域によっては散見される。しかし、この作者自身の日常にはすでにあり得ないものである。1970年代のフォークソングの名曲『神田川』などの20世紀レトロとも違う。どこか即物的で無感動な印象は拭えない。しかし、一句の末尾に据えられた【ほぼ裸】の一言がこの句も逃れられないはずの近代俳句の【有季定型】を一挙に覆してしまうリアルさを持っている。若い女性の薄着を言っているわけだが、その辺りの事情は、掲載誌「海光」(横須賀市。林誠司発行)の句評に詳しい。ここであえて言うなら元ヤン・キャバ嬢・フリーター・・などの現代風俗の一端を覗かせる点である。また、私独自の視点を明かすと、これらの他者の光景を超えてゆく作者の自己認識の斬新さである。この【ほぼ裸】の一言の内に秘める定型言語上の起爆力である。さらに言えば、《裸》に付された『ほぼ』という婉曲な言い回しによって、目の前にある光景もろともに作者自身の真新しい《実存》が引き寄せられて来る。俳句形式の17音という制約(短さ)の中でこそ勝ち取られた新味の無限性と言えるだろう。【ほぼ裸】の解釈はもう一つあり得る。・・・《続く》
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ボニージャックス他 カバー 『神田川』
https://youtu.be/zE7Vk7lyVXY?t=16