前回までに1970年代の自分史を摘んでみた。果たして、私にとって人生の出発点とも言うべき時代との抗いが鮮明に描き切れただろうか。その答えは否である。私とは誰かなどという、現在では死語となった【自分への問い】が有効なはずもない。あるのは、ただ1970年代という死屍累々の文字通りの荒地が即物的に拡がっているだけであろう。しかしながら、それでも私にとって1980年という区切りはあるにはあった。1979年の自主イヴェントの失敗と業界(音楽・放送)参入の断念、そしてついに大学の中退があった。しかし、これらは今で言うところのニートとはどこか違っていた。何らかの社会活動への参加の意欲は燻り続けていたのだ。その一つが【俳句】であった。この最初の俳句入門時にあったのは、俳壇を構成する【結社】の投句・句会・吟行(写生)などの集団的創作活動であった。これは極めて社会的なもので、結社運営と所属(結社)員の日常(句作)を主宰するということ自体が、企業や家族と近似していた。ラジオの深夜放送の俳句コーナーから紹介された俳句結社『河』は、偶然にも映画・出版界の寵児であった角川春樹氏が副主宰を務めており、その時代や社会に風穴が開けられていた。しかも、新人会として既存結社員とは区別して結社内句会を展開しており、私のような時代から取り残されていた者には格好のアイデンティティを提供される場となった。ほぼ同時に、書店で発見した『現代俳句』の坪内稔典氏はそれとは全く異なる俳句へのアプローチを行っていた。私はここでも引き裂かれたのだった。・・・《続く》
70年安保闘争史(1968~70) 『怒りを歌え』(宮島義勇監督 1970) 縮小版 3h16m
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=qg0L9LEz-lA#t=868偽
北斗賞とは、俳句総合誌「俳句界」が毎年40歳までを対象に、新作150句を募集し、俳句の未来を拓く若い俳人を輩出することを目的とした賞である。最新の第7回の受賞作は西村麒麟(33歳)の『思ひ出帳』(1月号)であった。その受賞第一作『如来』(10句・同誌3月号)に付され、自身の来歴を披露したエッセイをまず見てみたい。
僕は、体は弱いし勉強も出来ない。外国語も出来なければパスポートもない。人見知りで酒飲みで、ワインやクラシックにも詳しくない。カラオケも嫌いで地図は読めない。子どもの頃から周りの人のことがいつも羨ましかった。それでも自信満々に生きているのは俳句があるからだろう。僕には俳句がある。花を見て嬉しい、蝶が来て幸せ。なんなら美味しい空気を吸うだけでも満足できる。だから、大丈夫。
今日、若者たちはこのように人間一般とその社会の隅々にまで蔓延する《生》の希薄感の底辺で、かろうじてその日々の自我の充足感を与えられている。その彼らが自ら立ち上がり、自信を持って自己主張出来る何らかの手段を手に入れることは極めて稀なことであろう。にもかかわらず、西村は《俳句》によって『自信満々に生きている』とあえて言い切る。それは、言い換えればそれだけ青春期を言い知れない孤絶感の中に送って来たということである。思えば、私たちもまた半世紀近い過去から現在までの長い時間を俳句表現とはかけ離れた場所で、やはり甚だしい孤絶感を持って費やして来た。その個有の時間の累積と、現在の若者たちの謂わば《個》の垣根を超えた全面的な孤絶を現出する空間との違いはどこにあるのだろうか。とりあえず、受賞者の作品群を俯瞰してみたい。
鮟鱇の死後がずるずるありにけり/栃木かな春の焚火を七つ見て/鳥帰る縄のごときを連れ立ちて/墓石は金魚の墓に重からん(田中亜美抄出) 蛍の逃げ出せさうな蛍籠/天牛の巨大に見えてきて離す/学校のうさぎに嘘を教へけり(立村霜衣抄出) 白とも違ふ冬枯の芒かな/どの鴨も一回りする流れあり/ストーブや一秒ほどの夢を見て/帰宅して気楽な咳をしたりけり(受賞第一作より)
賞の決定は3名の審査員の合計点による。その中の立村霜衣の選後評に注目した。
そもそも、この人々は旧世代のある群の作家たちのように、自分の立ち位置を決めて、そこから、いわば演繹的に、俳句を作り出すことはしないのである。かつての、イデオロギーのごときものを設定し、その線に沿って世界を見、その線に沿った作品を発表する、そうして、その設定の段階で仮想できる敵に対し、おなじみの文言で批評なり反論なりを用意しておくという、それらしく見えて本当は楽な創作との関わり方には、はじめから目もくれないのだ。
・・・《続く》
落花とは死後の世界を生きること 白濁はにごりにあらず落花の夜 脳内のパッチン落花の声なのか 落花受く人の生死にまぎれ無し 大空襲記念碑落花の坩堝と化す 俳諧自由落花の自由に酷似せり あり得べき原発全廃落花の日 落花後の皮膚アレルギー立ち眩み 浅草の落花焼酎の臭いだす 生と死のプロセス落花の突き刺さる 東京に出て東京の落花浴ぶ 俳句雑誌渦終刊号落花行 落花せり亡父足蹴にするごとく この世から始まる落花再生す 山上のキリスト落花の加速せり
*極レア!名曲マイフェバ21世紀のカバー付
私は、2013年10月にインターネットのブログ(俳句カテゴリー)で句作を再開した。1979年にラジオの深夜放送の俳句コーナーで俳句と出遭い、いくつかの結社・同人誌や総合誌の公募などを5、6年続けたが、何をどう書けばいいかわからなくなり休止した。それから30年もの月日が経っていた。これだけは確かに言えるが、当時、坪内稔典氏が言っていた実存を構成する必要条件としての【生活の必要】が無くなったのだろう。俳句を書く(作る)ことのない、それ以後の30年間は、むしろ【自分を取り戻す】ための充電期間だったように思える。1980年から10年刻みで3つの大きなサイクルを表現意識(言語)の【定型性】というフィルターを通さずに、肉体に直にぶつけて行った30年だったのかもしれない。要するに逃げ場はもうどこにも無かったのだ。俳句形式とは、時代から置いてけぼりを喰らった者の身の丈にフィットした格好のシェルター(駆け込み寺)だった。ところが、ここでも俳句結社とか【有季定型】とか、大よそ俗世間の生活上の《強制力》の寄り集まった面倒臭さ極まる架空の擬似生活空間だった。1980年代の初頭に当たって、公私共に宙ぶらりん状態の私にとって、俳句とは【生活の必要】どころか生活の桎梏でしかなかった。しかし、ほんの一瞬間だけ安らぎを与えてくれる仮初めの場所でもあった。すでに目の前から消えたはずの彼らは、俳句形式というワンダーランドで確かに闘っていたのだから。・・・《続く》
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