素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

デジブック 『播磨の古刹・国宝巡り』鶴林寺と浄土寺へ

2013年02月09日 | 日記
 2009年10月24日のブログである。この本との出会いが仏像巡りのきっかけとなった。
「目覚めよ仏欲!隠れた(宝)寺、教えます。関西の寺」

 第九の練習に出かけた時、1万円をくずす必要があり、電車の中で読めばいいかと本屋に立ち寄った。平積みコーナーにあった10冊余りの中で、パッと目に入ったのが「目覚めよ・・・」880円と両替えにはちょうど良い値段だし、写真も多く文章も固苦しくなく電車で読むには最適と思い買った。

 ページをめくっていくとこれがなかなかいい。野球でいえば“出会い頭のホームラン”みたいなもの。むずかしい本の合間あいまに楽しんでいる。冒頭のキャッチフレーズ。

 《寺へ行く楽しみはいいろいろ。  
   たとえば、仏像に出合うこと。お堂の中で向き合う空気感や迫力は、
   博物館では決して味わえないもの。

  一歩一歩登る階段の先には、非日常の絶景が待っているし、
  建物や庭を見るときに、くわしい専門知識は不要。
  このカタチ、この角度など、お気に入りを見つけて、あとは好きなだけどうぞ
 
  絵や書はもちろん、調度品もアートだったり、
  まるでテーマパークのように、仕掛けやユーモアある寺も。

  見どころはひとつではなくて、寺の数だけ楽しみ方がある。
  世界遺産もいいけれど、何度も行きたくなるような、
  自分だけの寺、マイ寺を見つけに行こう!》

 私のマイ寺は“新薬師寺”かな、40年ほど前に出合って(当時は今と違って、土壁もくずれかかっていて質素の極みだった。)7年ぐらいのサイクルで行っている。昨日行った安倍文殊院に「大和十三佛霊場国宝・重文の公開と拝観*大和十三佛巡り」のチラシが置いてあり、ちょうど新薬師寺の薬師如来と十二神将のあまりおめにかかれないいい感じの写真が使われていたので嬉しくなって持ち帰った。いろいろな寺を訪れたが、仏像は人間の『心象風景』を表現しているように思えてきた。仏像と対峙しながら、自分自身とも向き合っている感がする。

 あまたの災害、戦火をくぐりぬけ数知れない多くの人をずっと見続けてきたことを思う時、これからも見つづけて行くだろうと思う時、何んともいえない感慨を感じる。特に、明治の初めにあった廃仏毀釈の爪あとを垣間見る時学校の授業では決して感じることはできない歴史の重みを感じる。

 限りある人生という明白な事実。だからどうする?ということを問いかける機会になる。


 それから3年余り、本で紹介されている寺をベースに実に多くのお寺を巡り、たくさんの仏像と出会ってきた。その中で少し離れた所にあるのが鶴林寺と浄土寺である。播磨の国、加古川に沿って位置する。

 以前に鶴林寺から西日を光背に受ける浄土寺の阿弥陀三尊を拝み、夜の伊丹空港で夜間飛行に飛び立つ飛行機を眺めながら食事をするというプランをつくり出かけたことがあった。しかし、西宮を過ぎたあたりで阪神高速の渋滞情報を見て、一般道で加古川市へ行こうとして大失敗。第二神明道路に入りそこね、国道2号線のままで行けるだろうと走らせたが、これが大誤算。須磨海岸を過ぎたところから大渋滞で停止状態になってしまった。結局、先に進むことを断念し、沿道のレストランで遅い昼食をとりUターンした。その後も道に迷いながら四苦八苦して阪神高速までたどりつき、夜の伊丹空港だけは予定通りになったという苦いながらも楽しい思い出がある。

 それ以来、いつかまた鶴林寺と浄土寺へという思いを持ってきた。1月末の朝、突然「2月9日は鶴林寺と浄土寺へ再トライしたら!」というお告げがあった。ものごとを起こすときにこういうお告げはままある。基本的にはそれには忠実に従うことにしている。理屈を超えた世界の話である。

 ということで、今日は同じ過ちをしないようにポイントを押さえながら鶴林寺と浄土寺を巡ってきた。2つの寺とも本で読んでイメージしていたものよりも数段よく、「ああ!う~ん!おお!フゥ~」という言葉でしか表現できない。マイ寺の中にしっかり入った。帰路、車を走らせながら感じた「心のぬくもり」は何ものにも代えがたいものであった。

デジブック 『播磨の古刹・国宝巡り』
コメント
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