上六にある大阪府教育会館(高津ガーデン)で用事を済ませた後はいつものように市内を歩くことになった。今日は上町筋を歩き大阪城公園の梅林の様子を見てJR京橋駅から東西線に乗るというコースにした。
高津ガーデンを出て上町筋まで行こうとしたが、例によって変化をつけたくなって二筋手前で右折して大阪城公園に向かった。上町筋とは平行しているが40メートルほど内側に入っただけで感じが全然違った。道に沿ってお寺がやたらに多い。住居標示を見ると「城南寺町」とある。「大阪城の南にある寺町か」と頭の中で復誦していたら「大阪城のある場所はもともと石山本願寺で、城郭といってもよい巨大な寺町を形成していて織田信長も手を焼いたほどの一大勢力を誇っていたんだからここに寺が多くあっても不思議じゃない」ということに思いがいたった。
石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂(現在の大阪府大阪市中央区大阪城・馬場町・法円坂付近)にあった浄土真宗の寺院、城郭である。正しくは大坂本願寺という。
天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、天正8年(1580年)に顕如が明け渡し、その直後に焼亡した。
寺地は上町台地の北端にある小高い丘だった。その北で淀川と旧大和川が合流しており、その付近にあった渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」[1]と呼ばれたという。同寺建立以前は、古墳であったとも言われ、生国魂神社の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の磐座であったとの説もある。なお、同神社は後の大坂築城の際に上町台地西麓の現在地へ遷座されている。
石山本願寺は、堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に城郭化していったと考えられている。そうしていくうち、いつの日からか「摂州第一の名城」と言われるほどになり、石山本願寺城とも呼ばれるようになった。実際、石山合戦では織田信長を相手に、足掛け10年間も戦うことができた。特に3度目の戦いの第二次木津川口の戦い以降、天正6年(1578年)から天正8年(1580年)までの約1年半に渡り、ほぼ無補給で耐え続けた事は、日本史上ほかに類が無く、特筆に値する。[Wikipediaより抜粋]
大阪城公園の梅林は3連休ということもありにぎわっていた。110種類ほどの梅が植えられているので早咲きから遅咲きまで長い期間楽しむことができる。今は早咲きの
「一重野梅」 「冬至梅」
「寒紅梅」などが見頃である。
他に盆梅や大阪城をバックにした梅見も楽しんだ。思いのほかよく咲いていた。
むめ一輪一りんほどのあたたかさ (嵐雪)
ほんの少しだけ春の訪れを感じて帰ってきた。
高津ガーデンを出て上町筋まで行こうとしたが、例によって変化をつけたくなって二筋手前で右折して大阪城公園に向かった。上町筋とは平行しているが40メートルほど内側に入っただけで感じが全然違った。道に沿ってお寺がやたらに多い。住居標示を見ると「城南寺町」とある。「大阪城の南にある寺町か」と頭の中で復誦していたら「大阪城のある場所はもともと石山本願寺で、城郭といってもよい巨大な寺町を形成していて織田信長も手を焼いたほどの一大勢力を誇っていたんだからここに寺が多くあっても不思議じゃない」ということに思いがいたった。
石山本願寺(いしやまほんがんじ)は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて、摂津国東成郡生玉荘大坂(現在の大阪府大阪市中央区大阪城・馬場町・法円坂付近)にあった浄土真宗の寺院、城郭である。正しくは大坂本願寺という。
天文2年(1533年)に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、天正8年(1580年)に顕如が明け渡し、その直後に焼亡した。
寺地は上町台地の北端にある小高い丘だった。その北で淀川と旧大和川が合流しており、その付近にあった渡辺津は、淀川・大和川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、また住吉・堺や和泉・紀伊と京都や山陽方面をつなぐ陸上交通の要地でもあった。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」、後に「大坂」[1]と呼ばれたという。同寺建立以前は、古墳であったとも言われ、生国魂神社の境内であったともいわれている。同神社は太古からの神社であるため、この地が太古の磐座であったとの説もある。なお、同神社は後の大坂築城の際に上町台地西麓の現在地へ遷座されている。
石山本願寺は、堀、塀、土居などを設けて要害を強固にし、武装を固め防備力を増していき、次第に城郭化していったと考えられている。そうしていくうち、いつの日からか「摂州第一の名城」と言われるほどになり、石山本願寺城とも呼ばれるようになった。実際、石山合戦では織田信長を相手に、足掛け10年間も戦うことができた。特に3度目の戦いの第二次木津川口の戦い以降、天正6年(1578年)から天正8年(1580年)までの約1年半に渡り、ほぼ無補給で耐え続けた事は、日本史上ほかに類が無く、特筆に値する。[Wikipediaより抜粋]
大阪城公園の梅林は3連休ということもありにぎわっていた。110種類ほどの梅が植えられているので早咲きから遅咲きまで長い期間楽しむことができる。今は早咲きの
「一重野梅」 「冬至梅」
「寒紅梅」などが見頃である。
他に盆梅や大阪城をバックにした梅見も楽しんだ。思いのほかよく咲いていた。
むめ一輪一りんほどのあたたかさ (嵐雪)
ほんの少しだけ春の訪れを感じて帰ってきた。