昨年4月の亀岡での暴走事故の判決が京都地裁であった。19歳の少年が起こした事件だけに少年法ともからみ難しい裁判である。未成年者が引き起こす凶悪事件には被害者、遺族側の思いと量刑の間にギャのップがあることは理解できる。一方で更生という観点も看過できない。いつも悩んでしまうところである。
12歳~15歳という難しい年代と長く接してきた私の中にも、″厳罰に処する”と″更生への期待”という相反する2つの心が常に葛藤していた。このことに関してはまた折をみて考えをまとめてみたいと思っている。
今回は、無免許運転について考えさせられたことをまとまらないまま書いてみたい。ちょうど判決のニュースをしている時息子が帰ってきた。ポツリと言ったのは「無免許運転運転って、そんなに軽いのか?」である。私も同じことを思っていた。
今回の裁判にあたって、自動車運転過失致死傷罪ではなく、より刑罰の重い刑法の危険運転致死傷罪の適用を遺族側は求めたが、京都地検は「運転技術はあるので、危険運転致死傷罪の構成要件の未熟運転には当たらない」として見送った部分に???と感じるのである。
素朴に考えれば「無免許」=「未熟」となる。そこに「無免許だけど運転技術はある」という別の尺度を入れるのでややこしくなる。こうなると「免許制度って何だ?」ということになってしまう。世の中には免許の必要な職業が多くある。美容師、理容師、医師、看護師、教師、弁護士、税理士、調理師、・・・・・。免許がないのにこれらの仕事に従事していて摘発されるケースが多々ある。その時は、「無免許だけどとっても髪を切るのが上手ですよ」「無免許だけど手術はうまかった」「無免許だけど味は絶品です」なんてことは入る余地のないほど「無免許である」というだけで厳しく社会的制裁をうける。
その一方、免許があっても、その後の努力が足りなくて免許に値する技量を持ち合わせていない人が存在することも事実である。しかし、免許制度を堅持するためには免許の取得と中身の問題をしっかり区別して考えないとだめであろう。
免許をとる過程においてはお金も使うし、さまざまな勉強をしなければいけない。そういう過程までも含めての免許であると思う。だから誇りとか責任感が生じるのである。技術だけの問題ではないのである。
したがって、免許の「有る」と「無し」の間にはもっと厳しい線を引き、無免許にかんしては厳罰に処すれば良いと考える。
意外と免許に関しては甘い社会じゃないかと思う。特に、教育界においてはそう思う。
私が教育大学の受験を決めた時、どの科にするかでずい分考えた。得意、不得意がはっきりしていて偏りのある私では小学校教師は無理だと考えた。かといって高校生レベルを教えるほどの高い学力も持ち合わせていないことも自覚していたので中学校教師を目指した。教科も自分が好きで得意というだけでなく、教える立場ということからも考えて数学にした。幸い中免数学科に入学できた。そのカリキュラムを履修すれば中学と高校の数学免許が取得できる。常識的には中免で入った人も履修科目を増やし、小学校への実習も3回生の時に行い(中学校の実習は4回生)小学校の免許を取得して卒業するのだが、私はしなかった。指導教諭からは「今までそんな人はいなかった」と諭されたが「小学校では教えるつもりはないので免許もいらない」と必要最低限の履修で卒業した。
三重県の中学校の採用試験で不合格になった後、小学校なら採用できるという話があった。「免許持ってませんから」と答えると「臨免を出すから」ということを言われた。若かったので「何それ」とことわった。しかし、大阪府の枚方市の面接では理科も受け持つならば採用という条件が示された。中学教師への道を拓くために妥協した。1年生の理科を2クラス担当した1年間は針のムシロであった。
その教科ができるということと教えるということは違うのである。
12歳~15歳という難しい年代と長く接してきた私の中にも、″厳罰に処する”と″更生への期待”という相反する2つの心が常に葛藤していた。このことに関してはまた折をみて考えをまとめてみたいと思っている。
今回は、無免許運転について考えさせられたことをまとまらないまま書いてみたい。ちょうど判決のニュースをしている時息子が帰ってきた。ポツリと言ったのは「無免許運転運転って、そんなに軽いのか?」である。私も同じことを思っていた。
今回の裁判にあたって、自動車運転過失致死傷罪ではなく、より刑罰の重い刑法の危険運転致死傷罪の適用を遺族側は求めたが、京都地検は「運転技術はあるので、危険運転致死傷罪の構成要件の未熟運転には当たらない」として見送った部分に???と感じるのである。
素朴に考えれば「無免許」=「未熟」となる。そこに「無免許だけど運転技術はある」という別の尺度を入れるのでややこしくなる。こうなると「免許制度って何だ?」ということになってしまう。世の中には免許の必要な職業が多くある。美容師、理容師、医師、看護師、教師、弁護士、税理士、調理師、・・・・・。免許がないのにこれらの仕事に従事していて摘発されるケースが多々ある。その時は、「無免許だけどとっても髪を切るのが上手ですよ」「無免許だけど手術はうまかった」「無免許だけど味は絶品です」なんてことは入る余地のないほど「無免許である」というだけで厳しく社会的制裁をうける。
その一方、免許があっても、その後の努力が足りなくて免許に値する技量を持ち合わせていない人が存在することも事実である。しかし、免許制度を堅持するためには免許の取得と中身の問題をしっかり区別して考えないとだめであろう。
免許をとる過程においてはお金も使うし、さまざまな勉強をしなければいけない。そういう過程までも含めての免許であると思う。だから誇りとか責任感が生じるのである。技術だけの問題ではないのである。
したがって、免許の「有る」と「無し」の間にはもっと厳しい線を引き、無免許にかんしては厳罰に処すれば良いと考える。
意外と免許に関しては甘い社会じゃないかと思う。特に、教育界においてはそう思う。
私が教育大学の受験を決めた時、どの科にするかでずい分考えた。得意、不得意がはっきりしていて偏りのある私では小学校教師は無理だと考えた。かといって高校生レベルを教えるほどの高い学力も持ち合わせていないことも自覚していたので中学校教師を目指した。教科も自分が好きで得意というだけでなく、教える立場ということからも考えて数学にした。幸い中免数学科に入学できた。そのカリキュラムを履修すれば中学と高校の数学免許が取得できる。常識的には中免で入った人も履修科目を増やし、小学校への実習も3回生の時に行い(中学校の実習は4回生)小学校の免許を取得して卒業するのだが、私はしなかった。指導教諭からは「今までそんな人はいなかった」と諭されたが「小学校では教えるつもりはないので免許もいらない」と必要最低限の履修で卒業した。
三重県の中学校の採用試験で不合格になった後、小学校なら採用できるという話があった。「免許持ってませんから」と答えると「臨免を出すから」ということを言われた。若かったので「何それ」とことわった。しかし、大阪府の枚方市の面接では理科も受け持つならば採用という条件が示された。中学教師への道を拓くために妥協した。1年生の理科を2クラス担当した1年間は針のムシロであった。
その教科ができるということと教えるということは違うのである。