素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

北朝鮮の核問題

2013年02月13日 | 日記
 北朝鮮の核実験は決して容認できるものではない。しかし、核による抑止力を最大限行使してきたアメリカのオバマ大統領の非難演説には複雑な思いを持ってしまう。ノーベル平和賞を受賞するもとになった、初当選した時のあの演説以後アメリカは核兵器に関して変化はあったのだろうか?大いなる疑問を持ってしまう。オバマ大統領は少なくとも任期中のできるだけ早い時期に、被爆地広島、長崎を訪問すべきであると思う。

 自らが開発した核の脅威のため、核の拡散を防止する国際協定を取り決めているが、核保有国を中心にしたした核による支配の構図は変っていない。その中で、現体制をよしとしない勢力が核による対抗手段を考えたとしても何ら不思議ではない。これこそ今、世界が抱えている大いなるジレンマである。米ソが激しく対立した冷戦時代よりもある意味今のほうが危険ではないかと思う。

 世界の海には原子力潜水艦が数多く航行しているという現実は、原子力発電所の活断層の話よりはるかに怖いことである。また、先日のテレビで、かつてアメリカが水爆実験の場にしていたマーシャル諸島の核汚染が60年近く経つ今も深刻で、ようやく一部だけ除染されてきたという現状が放映された。私が生まれたのとほぼ同じ頃の出来事で、核の恐ろしさをあらためて認識させられた。

 今の核の問題、すべてはあの時から始まっているということを決して忘れてはいけないだろう。その上に立って、げんじつの問題にどう対処するかを考えることが肝要である。諸悪の根源は北朝鮮である。という単純な悪玉論だけには乗せられたくない。

 忘れていたマーシャル諸島について、もう一度見直してみた。『ビキニ水爆から50周年、核実験場とされたマーシャル諸島の今』という早稲田大学大学院博士課程の竹峰誠一郎さんの2004年の報告の一部である。

 1954年3月1日、アメリカが水爆「ブラボー」をビキニ環礁で爆発させた時、東約160キロメートルの海域には、静岡の焼津港を母港とするマグロ延縄漁船、第五福竜丸が操業中であった。第五福竜丸は、アメリカが当時核実験場周辺に設定していた危険区域の外にいた。しかし乗組員23人は、水爆「ブラボー」に遭遇し、空から降ってきた白い粉を浴びた。白い粉とは、水爆の爆発により焼けた珊瑚礁が、灰になって上空に吹き上げられ降下したものであり、その珊瑚礁の灰には、核爆発によって生じた放射能(放射性物質)が多量に付着していた。それはいわゆる「死の灰」であった。「死の灰」を浴びた乗組員は、3月14日焼津港に帰港した。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院した。第五福竜丸のヒバクは、帰港2日後の1954年3月16日『読売新聞』朝刊一面でスクープされ、社会問題化した。第一報では、「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」、「23名が原爆病」、「太平洋ビキニ環礁付近で、焼津の第五福竜丸が原子爆弾らしいものに遭遇した」、「水爆か」などと伝えられた。
 第五福竜丸のもとには、東京・大阪・広島から専門家がかけつけ、乗組員の健康調査や第五福竜丸の放射能調査が行われた。第五福竜丸の船体と、持ち帰ったマグロ、サメ、サンマなど2500貫(1貫3.75キロ)からは強い放射能が検出され、魚は廃棄処分となった。
 放射能の検出は、第五福竜丸だけにとどまらなかった。その年の3月から12月まで日本政府の指示により、マーシャル諸島周辺海域を通過した漁船の放射能検査が行われ、連日大量の魚が廃棄処分となった。政府調査だけでも、被災した日本漁船の総数は856隻、廃棄された魚は約486トンにのぼった。
 ビキニ水爆被災は人々の日常生活を直撃した。放射能に汚染されたマグロは「原爆マグロ」と呼ばれ、その騒動は日本全国に波及した。街の魚はほとんど売れなくなり、廃業する魚小売業者も出た。その年の4月以降には「日本全国で放射能雨が降った」との報道により、農産物に対する恐怖も広がった。
 9月23日には無線長の久保山愛吉さんが亡くなった。久保山さんの最期は壮絶で、暴れて、静止をしようとする家族に「何をやったって効きゃあしない。こんなことぁもうたくさんだ」と怒鳴り返していたという(大石又七『ビキニ事件の真実』みすず書房、2003年、55頁)。
 ビキニ水爆被災は、日常生活を直撃し、かつ日本人にとって広島、長崎に次ぐ三度目の核犠牲者を生み出すものとなった。それは原水爆兵器に対する怒りと恐怖となって、原水爆実験反対署名運動が津々浦々でとりくまれた。署名運動は思想・信条・政党・宗派をこえて行われ、1955年8月には3200万人にも達した。こうした署名運動を背景に、広島・長崎の体験も思い起こされ、55年8月、第一回原水爆禁止世界大会が広島市で開催されるに至った。
 署名運動は世界的にも広がりを見せ、全世界で6億7000万人に達した。1955年ロンドンにおいて、ノーベル賞受賞らが連名で、ラッセル・アインシュタイン宣言を発表した。宣言では、人類と核兵器の危機的な関係を直視し、東西の立場を超えて人類の生存の問題として共に核兵器廃絶に踏み出すことが訴えられた。
 世界のニュースとなった第五福竜丸の背後には、「死の灰」を浴びたマーシャル諸島の現地の人々がいた。このことが日本で知られるようになったのは、あの「ビキニ」から17年後の1971年、原水禁を中心に開催された「被爆26周年原水禁世界大会」に2人のミクロネシア代表(当時)が参加してからである。原水禁は、彼らの調査団派遣要請にも応え、1971年医療調査団をいち早く派遣した。調査報告は、原水爆禁止日本国民会議・ミクロネシア調査団編『ビキニ水爆実験によるマーシャル群島民の被曝調査報告』1972年、にまとめられている。
 ビキニ水爆被災の舞台となったマーシャル諸島では、広島・長崎への原爆投下から1年後の1946年から1958年にかけて、ビキニ環礁とエニウェトク環礁において67回に及ぶ原水爆実験がアメリカによって実施された。そのなかでとりわけ現地の人々に影響を与えたのが、1954年3月1日に実施された水爆「ブラボー」、つまりビキニ水爆被災であった。マーシャル諸島において3月1日は、核被害を想い起し被害者を追悼する「Nuclear Victims Remembrance Day」という公休日となっている。
「あのビキニ」から50年、核実験場とされたマーシャル諸島の今を、現地調査をもとに報告する。


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