素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

別のピラティスのレッスンにも初参加

2013年03月27日 | 日記
 今年に入ってから、月曜14時から50分間「はじめてのピラティス」というスタジオレッスンにできるだけ参加している。マラソンももちろんだが長い目で見た時に筋力トレーニングだけではなく体幹いわゆるインナーマッスルも意識してトレーニングする必要があると思ったからである。本などで自己流に行なったりはしていたが姿勢とか呼吸とかよくわからない部分もあるし、苦手な部位のトレーニングはついつい避けてしまうきらいがある。

 用事があったりして毎週コンスタントに参加とはいかないが回を重ねてくると何となくイメージがつかめてきた。同じレッスンに参加している人やスタッフから水曜日にあるピラティスも参加してみてはすすめられていた。難点は時間である。12時20分から50分となると1日のリズムのつくり方が難しくなる。そこまで無理して受けなくてもいいと参加していなかった。「月曜よりは少しきついが、絶対に参考になるので惜しいなあ」と言われていた。たまたま今日は12時20分に行くことができるようになったので参加してみることにした。

 「バランスピラティス」というレッスン名で月曜日とは違う方の指導である。ポイントの押さえ方が上手く、呼吸のタイミングや姿勢の取り方などであいまいだった所がよく理解できた。ただバランスとなっているだけあって難度は高い。プルプルと体がよく震えた。

 急所をしっかり押さえつつ初めてで思うように動けない者を励ましサポートしてくれる居心地の良いレッスンを受けながら「教える立場にある人は、時々学ぶ立場に身を置くべきだ」ということを強く思った昔のことを思い出した。

 私が自動車の運転免許を取得したのは勤め始めてからであった。結婚して子育てをしながらの共働き生活を考えた時、自分が同じような境遇で育ってきた経験も思い起こし、自動車の免許は絶対必要だと思った。それまでは自動車が嫌いだったが、生活のためにはそんなこと言ってられないと勤務後の夜や休日を使って自動車学校へ通った。

 今はずい分変わったと聞くが、当時は自動車学校へ行く人の数が多く、横柄な教官がたくさんいた。高圧的な物言いは当たり前という感じであった。一歩まちがえれば命に係わることだから厳しくても仕方がないかと思っていた。知識が乏しくて、不慣れで自信のない人間にとって教える人の言動がどのように影響するのかということを学んだことは貴重だった。

 10名ぐらいの教官に教えてもらったがその中で2名の方だけが感情的にならず、初心者のわからない部分や心理状態をよく踏まえて的確に指導してくれた。この経験は、自分自身が教える立場でわからない生徒、できない生徒、失敗をしてしまった生徒を前にした時にどうすべきかを決める参考に大いになった。

 それ以来、逆の立場に身を置くことは心がけてきた。「教える」ことと「学ぶ」ことは不即不離の関係である。

 「教える」立場に立つことがなくなった今、「学ぶ」ということに身を置くことの意義は『脳へ新しい刺激』をもらうということになるのかなと考える。他にも自分の経験を絶対視したり美化するということを戒めてくれるということにもつながるかもしれない。

 水曜日12時20分は厳しいが、できるだけ参加していこうと思った。
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