素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

『千の証言』プロジェクトは貴重

2014年12月07日 | 日記
 毎日新聞社とTBSテレビが共同して、戦後70年に向けて戦争の記憶を活字や映像として残す『千の証言』というプロジェクトを立ち上げ、戦争にまつわる「一枚の写真」「思い出の品」「心に残る風景」「忘れられない言葉」という4つのテーマで募集している。

 今日は元気象担当の増田善信さん(91)の話が掲載されている。戦前の「気象技術官養成所」(現気象大学校)を経て召集され1945年6月に島根県出雲市の海軍基地に配属になった増田さんの任務は、沖縄の米艦船を目指し飛び立つ爆撃機「銀河」の操縦士に、航路の天候を伝えることだった。

 途中に積乱雲や台風があれば出撃は即中止。積乱雲に入れば強い上昇気流で機体が空中分解する恐れがあるし、飛び立って悪天候で戻れば、物資欠乏のなか貴重な燃料が無駄になる。

 ある日、1機が「前方に積乱雲」と連絡を入れ、引き返してきた。飛行隊を統率する中佐から予報を間違ったことを強く叱責された増田さんは、後日機が引き返した奄美大島付近の気象データをひそかに取り寄せ、積乱雲のないことを確認して中佐に、自分は間違っていなかったと反論した。その時、中佐は「もういい」と遮り「帰ってくることもあるんだよ」とぽつりと言った。その時、増田さんは自分の正しさを主張することが死の恐怖にとらわれた操縦士の「うそ」を証明することになるということにハッと気づき、自分を恥じた。その痛恨の思いは戦後69年間、ずっと消えずにいるという。

 元寇の時の『神風』ではないが、戦争において気象というものが重要な要素になっていることは古来からの戦争記録からも明白である。それゆえ気象データは重要な軍事機密となることを増田さんは自身の経験から話している。

 増田さんは1941年に18歳で、故郷の京都府宮津市の測候所で予報官人生をスタートさせた。そして、その年の日本時間の12月8日未明に旧海軍機動部隊がハワイの真珠湾を攻撃し、日本が米国に宣戦布告をした日の夕方、中央からの気象電報を受け取った増田さんは仰天した。これまでは風向き、風速、気圧、気温、雲形などが順に数字で送られてきて、それらを天気図に書き入れて完成させるのだがこの日の電報は意味不明の数字や言葉の羅列であった。新米の増田さんは急いで所長の家に走ったが、報告を聞いた所長は驚く様子もなく、測候所にもどり金庫室から赤表紙の乱数表を取り出した。

 この時、気象情報が機密となり暗号送信に切り替わったと知った。その日から天気予報は消え、台風が近づいても住民に注意を促すことができなくなった。「ここまでやるか」。戦争は恐ろしいと初めて思ったという。

 東南海地震の情報が遮断されたこととも相通じるものがあり、敗戦後のラジオ放送で復活した天気予報を聴いて「やはり平和のシンボルだ」と思った増田さんの言葉は重い。

 気象情報はいつでも軍事機密となるという状況は、今も同じであることを日米安全保障条約に基づいて結ばれた日米行政協定や2001年のアフガニスタン攻撃時のアフガ二スタン周辺の天気図などを引き合いに出して増田さんは憂慮する。

 ちょうど、増田さんの『千の証言』の下に、「特定機密保護法成立1年」の抗議デモの写真が掲載されているのも「今」という時代を考えさせられる


 
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