素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

デジブック 『ぶらドラ桜井』

2009年10月23日 | 日記
デジブック 『ぶらドラ桜井』


たまたま立ち寄った本屋で、ふと目に留まった本。はまりました。眺めているだけでも楽しいです。今までよくわからなかったことが「そうだったんか」と納得です。出かけたくなります。

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内田樹・名越康文著「14歳の子を持つ親たちへ」読み終わる

2009年10月21日 | 日記
 今、論壇でユニークな光を放つ二人の2年間に渡る対談をもとに、ていねいな推敲を経て出来上がった本書は新書判で680円とお手軽な感じだが、中身はなかなか深い。内容を二人の間の息、間合いのようなものをふくめてうまく紹介することはできない。是非読んでみてくださいとしか言えない。
 
 ただ、記憶に残った2つの単語は紹介しておきたい。

 1つは、内田さんがまえがきのキーワードとして使った『居着く』という言葉。武道の用語で、本来は恐怖や緊張のあまり足の裏が地面に貼り付いて身動きできない状態を指すのだが、武道に限らず人間と人間の出会った瞬間の話に広げられていたが、私自身のいろいろな人との出会いの時を思い浮かべるとすごく腑に落ちて思わず「そうなんだよな」とつぶやいてしまった。

 もう1つは、対談の最後のほうで登場した『ルーティン』という言葉。辞書によると、〈いつもの手順。また、日常の仕事。日課〉⇒毎日繰り返される平凡な日常生活。これを“つまらない”という風潮があり、何かクリエイティブな生活にあこがれる傾向にあるが、もっとルーティン・ワークの大切さに気づかないといけない。というのが二人の意見。

 これも今までの経験からうなづけること。個人でも家族、学級、学校、チームなどの集団において、何らかのルーティン・ワークが確立できると、安定と伸長が図れると思う。

 『ルーティン』をキーワードに、イチローのこと、学校、学級、授業のこと、チームのことなどを考えると自分の中ではスッキリとしたものがあるのだが、今のところ、言葉(文字)でうまく表現できない。もうしばらく頭の中で醸造させておく必要がある。会って話をする機会があれば語り合いたいと思う。

 
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読書の秋!

2009年10月20日 | 日記
 季語に「秋麗」というのがあることを“季節のたより”で知った。心がほっこりするおだやかな日和のことである。その秋麗にはできるだけ車を使わずに歩きか自転車で用を済ませるようにしている。帰り道、「ああ秋やなぁ」という光景に出会ったので写真に収めた。昨日の“季節のたより”の句
 *掛稲の すぐそこにある 湯呑かな (波多野 爽波)

また、別の句“夜長にて ページの間に 旅をする”(二木 千里)
 並行して読んでいる「14歳の子を持つ親たちへ」はほぼ終わりかけ、「ためらいの倫理学」は遅々として進まず半ば過ぎ、先日KKさんが「面白いよ」と貸してくれた「間違いだらけの教育論」(諏訪哲二著)を半分近くまで読み進んでいる。
 
 諏訪さんは80年代後半注目をあつめた「プロ教師の会」で論陣をはっていた人でなつかしい。宝島社から出た、少々過激なタイトルの教育シリーズはほとんど読ませてもらった。当時、いくつかの発想のヒントをいただいた。

 まだ、順番待ちをしている本が5冊。こんなに天気が良いと日中はどうしてもウロウロしてしまう。やはり読書は秋の夜長か。
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人材育成は個々の学校で

2009年10月19日 | 日記
 17日の毎日(11)面に、貝塚四中と松原七中の実践が紹介されている。貝塚四中は荒れた状態から、約10年間の再生の取り組みの結果、「大阪の奇跡」と呼ばれるほどの回復をし、注目を集めている学校である。

 再生の取り組みの第一歩は「生徒同士がつながる仕組み作りが大切」と生徒会の役割を強化した。生徒指導の秦真人教諭(41)の話。「最初の2年は難航したが、3年生の懸命な姿勢に後輩があこがれて続いていくという良い流れができた。」
 「どの学校でも問題行動を起こす生徒は1割、黙っていてもきちんとできる生徒も1割。中間の8割がどちらに流れるかが鍵」「どんな生徒でも学校に居場所があれば安定する」
 これらのことは、目新しいことではなく、過去さまざまな中学校で取り組まれた実践からでてきた原則のようなものである。

 中国からの帰国生徒など日本語指導の必要な生徒も少なくない松原七中では、プリントを使った反復学習もするが、学校全体で成長しようという取り組みに重点を置いている。

 それぞれの学校は、生徒数、取り巻く条件、教職員構成、歴史などすべて異なるのである。その分析を通じて各学校は最適と思われる方法をみつけだしていかなければならない。そのために他校の実践を研修したり、物の考え方を学習したり、お互いの実践を検証したりということが必要になる。

 転勤で新しい学校に行けば、前の学校で得たことは財産としては残っていても、また一から分析・実践・検証をその職場でやらなければいけない。結局その繰り返しを地道に積み上げていくことしか人材育成の道はないように思う。

 学力テスト成績上位の福井県のことも紹介されていた。福井市立中藤小学校の岩佐明晴校長の話。「特別な学力対策はしていない。教師が毎時間きちんと授業するのが一番大事。学力テストの点数がイコール学力なのかという思いもある。」また県教委の担当者の話「教育には地域性や風土がかかわっている。他の都道府県と比べた順位に意味はない」

 学校を教師と生徒、生徒と生徒、教師と教師がもっとゆとりを持って学びあえる共同体の場としていくことこそ、生徒も力をつけ、教師も力をつけていくために必要なことだと思う。
 
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教員養成の民主改革案に思う

2009年10月18日 | 日記
 昨日の市民の森での『山野草展』では大文字草が印象的だった。市民の森の前には道をはさんで楠葉中学校がある。勤務はしたことないが、顧問会議でよくおじゃましたのでなつかしく眺めた。

 1974年(昭和49)に楠葉中学校と私が教師生活をスタートさせた村野中学校(廃校)が同時に開校したので、市内の他の中学校とはまた違った思いがよぎる。

 グランド越しに校舎を見ながら15日の朝刊に載っていた『教員養成6年に延長・修士課程修了が条件・民主改革案』に思いを馳せた。

 新聞によれば、『大学院修士課程(2年)の修了を教員免許取得の条件とし、養成過程は計6年に延長。 教育現場で実習する総時間を現行の2~4週間から1年程度に増やす。 また、10年程度の現場経験を積んだすべての教員が、大学院などで1年程度研修を受け「専門免許状」を取得することを事実上義務化する。』というのが民主党改革案の概要みたいだ。

 家主が代わっても、「講習、研修を増やせば教員の質は上がる」という発想そのものは全然変わっていないというのが率直な感想である。

採用されるかどうかのわからない度が高いから、6年もかかる免許の取得を敬遠する人が多くなるのではないだろうか。教員免許保持者の絶対数不足に陥る危険性が大である。

1年間程度の教育実習!?果たして受け入れることができる学校があるのだろうか。2~4週間であっても現場では受け入れ体制をつくるのに四苦八苦である。身分の中途半端な実習生を1年間誰が?どのように?何を?指導していくのだろうか。学ぶ生徒にとっては1回きりの教材を練習台として延々とさせるつもりなのか?2~4週間分のまずい部分は、後でフォローできる。
 新任として採用して、指導教官を1年間つける今の方がましである。教育実習は3週間で充分である。

一番油がのってきて現場で働かなければならない時期に、現場を離れなければならない状況をつくっていいのかな?大学院の教授が、いろいろな現場を経験してきた者に必要なことをきめ細やかに提供できるのかな?運転技術や医療技術などと教育技術は本質的に違うように思う。端的に言えば「正解」というものはなく同じ現場を共有するもの同士が意見や情報を交流、交換していく中で最適と信じる道を求めるしかないのである。

 自分の新任の時の経験を一般化するつもりはないが、参考のために
 
 私は、教育実習を4週間、大学の附属中学でおこなった。指導案づくりや実習記録は半端やなかったと思う。教科指導も学級指導もすごく鍛えられた。同時に指導教官も自分の授業に関しては遠慮なく突っ込んでくることを要求した。実習生と指導教官、実習生同士の間に結構火花がとんでいた。その時の「教育実習記録綴」は一生の宝としている。
 
 その教育実習中に一貫して指導されたことは「的確に発問し、できるだけ生徒の考える時間を保証しろ。教師はしゃべりすぎてはいけない。」であった。最初はどうしても説明が多くなったりしがちだが、4週間鍛えられると思考を促す発問をかなり的確にできるようになるものである。授業スタイルについてかなり自信をつけて実習を終えることができた。

 枚方市で教師生活のスタートをきったわけだが、学校の事情で、3年生の数学を一人で全クラス受け持つことになった。くわえて1年生の理科(市教委公認専門外の無免許運転)も2クラス担当したので日々厳しかった。教育実習で身につけた授業スタイル=(説明は少なく、的確な質問で生徒に考えさせる授業)でやったら、混乱の極み。「何がいいたいの?」「答えは何?」考える時間は雑談の時間となってしまった。
 2年ほど先輩の同僚に話したら、附属の生徒と普通の公立中学の生徒では集団の質が違うと笑われてしまった。
 その時、学生時代よく見に行っていたデパートの店頭販売をしているおじさんのしたたかなしゃべりしかないと思った。無関心な通行人に注意をむけさせ客にする。客の反応を見ながら巧みにしゃべりまくり聞く気にさせる。手際よくポイントを押さえ商品の説明をする。自然に買う気にさせる。

 スタートの時は、説明10分考えさせる40分ぐらいの感じだったが、1週間後は40分説明10分考えさせるという授業にチェンジしていた。

 現場に立ってみないとわからないことが多い。そのことをベースに考えないといつまでたっても無駄な時間とお金を使うだけで、現場を振り回し、疲弊させることばかりうちだされるのではないか。じゃあどうするんだ?ということはまた次の機会に。
 
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