昨日の市民の森での『山野草展』では大文字草が印象的だった。市民の森の前には道をはさんで楠葉中学校がある。勤務はしたことないが、顧問会議でよくおじゃましたのでなつかしく眺めた。
1974年(昭和49)に楠葉中学校と私が教師生活をスタートさせた村野中学校(廃校)が同時に開校したので、市内の他の中学校とはまた違った思いがよぎる。
グランド越しに校舎を見ながら15日の朝刊に載っていた『教員養成6年に延長・修士課程修了が条件・民主改革案』に思いを馳せた。
新聞によれば、『大学院修士課程(2年)の修了を教員免許取得の条件とし、養成過程は計6年に延長。 教育現場で実習する総時間を現行の2~4週間から1年程度に増やす。 また、10年程度の現場経験を積んだすべての教員が、大学院などで1年程度研修を受け「専門免許状」を取得することを事実上義務化する。』というのが民主党改革案の概要みたいだ。
家主が代わっても、「講習、研修を増やせば教員の質は上がる」という発想そのものは全然変わっていないというのが率直な感想である。
採用されるかどうかのわからない度が高いから、6年もかかる免許の取得を敬遠する人が多くなるのではないだろうか。教員免許保持者の絶対数不足に陥る危険性が大である。
1年間程度の教育実習!?果たして受け入れることができる学校があるのだろうか。2~4週間であっても現場では受け入れ体制をつくるのに四苦八苦である。身分の中途半端な実習生を1年間誰が?どのように?何を?指導していくのだろうか。学ぶ生徒にとっては1回きりの教材を練習台として延々とさせるつもりなのか?2~4週間分のまずい部分は、後でフォローできる。
新任として採用して、指導教官を1年間つける今の方がましである。教育実習は3週間で充分である。
一番油がのってきて現場で働かなければならない時期に、現場を離れなければならない状況をつくっていいのかな?大学院の教授が、いろいろな現場を経験してきた者に必要なことをきめ細やかに提供できるのかな?運転技術や医療技術などと教育技術は本質的に違うように思う。端的に言えば「正解」というものはなく同じ現場を共有するもの同士が意見や情報を交流、交換していく中で最適と信じる道を求めるしかないのである。
自分の新任の時の経験を一般化するつもりはないが、参考のために
私は、教育実習を4週間、大学の附属中学でおこなった。指導案づくりや実習記録は半端やなかったと思う。教科指導も学級指導もすごく鍛えられた。同時に指導教官も自分の授業に関しては遠慮なく突っ込んでくることを要求した。実習生と指導教官、実習生同士の間に結構火花がとんでいた。その時の「教育実習記録綴」は一生の宝としている。
その教育実習中に一貫して指導されたことは「的確に発問し、できるだけ生徒の考える時間を保証しろ。教師はしゃべりすぎてはいけない。」であった。最初はどうしても説明が多くなったりしがちだが、4週間鍛えられると思考を促す発問をかなり的確にできるようになるものである。授業スタイルについてかなり自信をつけて実習を終えることができた。
枚方市で教師生活のスタートをきったわけだが、学校の事情で、3年生の数学を一人で全クラス受け持つことになった。くわえて1年生の理科(市教委公認専門外の無免許運転)も2クラス担当したので日々厳しかった。教育実習で身につけた授業スタイル=(説明は少なく、的確な質問で生徒に考えさせる授業)でやったら、混乱の極み。「何がいいたいの?」「答えは何?」考える時間は雑談の時間となってしまった。
2年ほど先輩の同僚に話したら、附属の生徒と普通の公立中学の生徒では集団の質が違うと笑われてしまった。
その時、学生時代よく見に行っていたデパートの店頭販売をしているおじさんのしたたかなしゃべりしかないと思った。無関心な通行人に注意をむけさせ客にする。客の反応を見ながら巧みにしゃべりまくり聞く気にさせる。手際よくポイントを押さえ商品の説明をする。自然に買う気にさせる。
スタートの時は、説明10分考えさせる40分ぐらいの感じだったが、1週間後は40分説明10分考えさせるという授業にチェンジしていた。
現場に立ってみないとわからないことが多い。そのことをベースに考えないといつまでたっても無駄な時間とお金を使うだけで、現場を振り回し、疲弊させることばかりうちだされるのではないか。じゃあどうするんだ?ということはまた次の機会に。
1974年(昭和49)に楠葉中学校と私が教師生活をスタートさせた村野中学校(廃校)が同時に開校したので、市内の他の中学校とはまた違った思いがよぎる。
グランド越しに校舎を見ながら15日の朝刊に載っていた『教員養成6年に延長・修士課程修了が条件・民主改革案』に思いを馳せた。
新聞によれば、『大学院修士課程(2年)の修了を教員免許取得の条件とし、養成過程は計6年に延長。 教育現場で実習する総時間を現行の2~4週間から1年程度に増やす。 また、10年程度の現場経験を積んだすべての教員が、大学院などで1年程度研修を受け「専門免許状」を取得することを事実上義務化する。』というのが民主党改革案の概要みたいだ。
家主が代わっても、「講習、研修を増やせば教員の質は上がる」という発想そのものは全然変わっていないというのが率直な感想である。
採用されるかどうかのわからない度が高いから、6年もかかる免許の取得を敬遠する人が多くなるのではないだろうか。教員免許保持者の絶対数不足に陥る危険性が大である。
1年間程度の教育実習!?果たして受け入れることができる学校があるのだろうか。2~4週間であっても現場では受け入れ体制をつくるのに四苦八苦である。身分の中途半端な実習生を1年間誰が?どのように?何を?指導していくのだろうか。学ぶ生徒にとっては1回きりの教材を練習台として延々とさせるつもりなのか?2~4週間分のまずい部分は、後でフォローできる。
新任として採用して、指導教官を1年間つける今の方がましである。教育実習は3週間で充分である。
一番油がのってきて現場で働かなければならない時期に、現場を離れなければならない状況をつくっていいのかな?大学院の教授が、いろいろな現場を経験してきた者に必要なことをきめ細やかに提供できるのかな?運転技術や医療技術などと教育技術は本質的に違うように思う。端的に言えば「正解」というものはなく同じ現場を共有するもの同士が意見や情報を交流、交換していく中で最適と信じる道を求めるしかないのである。
自分の新任の時の経験を一般化するつもりはないが、参考のために
私は、教育実習を4週間、大学の附属中学でおこなった。指導案づくりや実習記録は半端やなかったと思う。教科指導も学級指導もすごく鍛えられた。同時に指導教官も自分の授業に関しては遠慮なく突っ込んでくることを要求した。実習生と指導教官、実習生同士の間に結構火花がとんでいた。その時の「教育実習記録綴」は一生の宝としている。
その教育実習中に一貫して指導されたことは「的確に発問し、できるだけ生徒の考える時間を保証しろ。教師はしゃべりすぎてはいけない。」であった。最初はどうしても説明が多くなったりしがちだが、4週間鍛えられると思考を促す発問をかなり的確にできるようになるものである。授業スタイルについてかなり自信をつけて実習を終えることができた。
枚方市で教師生活のスタートをきったわけだが、学校の事情で、3年生の数学を一人で全クラス受け持つことになった。くわえて1年生の理科(市教委公認専門外の無免許運転)も2クラス担当したので日々厳しかった。教育実習で身につけた授業スタイル=(説明は少なく、的確な質問で生徒に考えさせる授業)でやったら、混乱の極み。「何がいいたいの?」「答えは何?」考える時間は雑談の時間となってしまった。
2年ほど先輩の同僚に話したら、附属の生徒と普通の公立中学の生徒では集団の質が違うと笑われてしまった。
その時、学生時代よく見に行っていたデパートの店頭販売をしているおじさんのしたたかなしゃべりしかないと思った。無関心な通行人に注意をむけさせ客にする。客の反応を見ながら巧みにしゃべりまくり聞く気にさせる。手際よくポイントを押さえ商品の説明をする。自然に買う気にさせる。
スタートの時は、説明10分考えさせる40分ぐらいの感じだったが、1週間後は40分説明10分考えさせるという授業にチェンジしていた。
現場に立ってみないとわからないことが多い。そのことをベースに考えないといつまでたっても無駄な時間とお金を使うだけで、現場を振り回し、疲弊させることばかりうちだされるのではないか。じゃあどうするんだ?ということはまた次の機会に。