諏訪さんの話は、宝島社から出版された雑誌でよく読んだ。80年代後半から90年代後半にかけてだが、だいたい過激なタイトルがついている。本棚に並んでいるだけでも 子どもが変だ!親を粉砕するやり方ダメ教師殲滅作戦それでもまだ生徒を教育できるのか?教育改革総点検!「日本の教育」改造案プロ教師の学校大論争!プロ教師の管理教育・入門という具合である。
諏訪さんは熱いものを内に秘めて静かで論理的な語り口という印象があった。久しく氏の書いたものを読む機会がなかったが、KKさんから「過激なとこあるけど面白いですよ」とのコメントがあったので借りることにした。変貌して“カリスマ教育者”たちに喧嘩でも売ってるのかなと興味深く読ませてもらった。
結論からいえば、諏訪さんは変わっていない。8人の人達をとりあげているが、あれもだめこれもだめ的な荒っぽい話ではなく、教育現場での実践をベースに考えてきた氏の教育観に基づいて検証されている。したがって8人の各氏に対する好感度には差がある。 私の受け取った感じでは、高いほうから並べると苅谷剛彦・西研・内田樹・渡邉美樹・斎藤孝・陰山英男・寺脇研・義家弘介かな
印象に残った部分(このあたりが諏訪さんの核心?)を抜粋すると
教育を「文化」としての教育(活動)の側だけから眺めると、近代社会がひとに課さざるをえない「啓蒙」としての教育、すなわち、教育そのものの本義を見失うことになる。
教育を考える際に、社会の一単位としての「個人」と、その人それぞれの独自性や個性や内面である「自己」とを区別すべきだと言う。今までの教育においては、「自己」(その内面や独自性)が大切にされてきたが、そのことによって社会に有用な主体的な「個人」や自由な「個人」がつくられてきたわけではないと判断している。
陰山さんはどうやら、子ども(生徒)を「文化伝承の対象としての子ども」としてのみ考え、「主体的人格としての子ども」とはあまり意識していないようである。この「文化伝達の対象としての子ども」と「主体的人格としての子ども」は教育の二律背反とも呼ばれるテーマである。
私は自分が教師だから「先生はえらい」とは言えず。「教師には権威性が必要だ」と言ってきた。指導力や権威性のある人が教師になるべきという合理的な考え方ではなく、すべての教師(公教育の学校の教師)たちに社会は権威性を付与すべきだと主張してきた。
教師は自己の体験を基にしつつ教師になるが、自己を絶対化してモデル化することは避けなければならない。自己の体験を超えた複雑で複合的な人間のイメージをいくつも内面化していなければならない。
教師は生身の個人が生身をさらしてするようなものではない。義家さんの教師認識はあまりにも大雑把すぎて、その語りは教育のリアリティに触れていない。実際の教師の働きは彼の持っているような自分の体験の絶対性や、自己過信に基づく大仰な思い込みによって保証されるのではなく、瞬間瞬間の生徒(子ども、若者)との知的やりとりや情的やりとりや規範的やりとりを通じて、その教師が生徒に何を伝えているか、そして、その生徒が何を受け取っているかによって測られるのである。
「ゆとり教育」には人間はもともと自ら学ぶものだ、そうでなければ人間でないといった強い能天気な確信が前提とされているし、学力中心主義には人間はまず教え込まれないと学ぶ力を持たない、人間は教育によって人間となるのだというある種リアリスティックな認識がある。私自身は後者のほうが前者に先行すべきだと思っているが、かと言って、前者の考えも否定できないという気がする。
理想(理念)と現実とはもともと関係のないものだと言える。理想はとりあえずひとの頭のつくりあげた虚構であり、現実は人間であり、社会であり、歴史であり、生産であり、生活であり、合理も不合理も亡霊もふくまれているような得体の知れない世界の複合的な内実(実体)だからである。
教育者、とりわけ私学の教育者がこういう気高い生き方と産業人としての自立を求めるのはいい。ただし、それは自分の生き方を見せることや、その哲学を語ることによってなされるべきであろう。つまり、教育という営みは総じてそうだが、とりわけ、生き方や倫理にかかわることは、受け取るかどうかは相手(被教育者)の主体性(自由)にまかせるべきであろう。教育者がどんどん提示してもいいと思うが、学習者に受け取るべきことを強制する質のものでない。
渡邉美樹なる人物は、この本を読むまで知らなかった。すると今日の新聞の広告欄に「勝つまで戦う」(渡邉美樹の超常思考)という本の宣伝が写真入りであるのがパッと目に入った。ああこんな顔の人なんやと思い、キャッチフレーズを見た。今までだったら目に留めずに流していたと思う。また少し自分の世界が広がり、諏訪さんのその後(まだまだ熱いやん)をみたり、世間で耳目を集めている教育者を別の角度から見ることができたりと刺激をもらった。KKさんに感謝。
諏訪さんは熱いものを内に秘めて静かで論理的な語り口という印象があった。久しく氏の書いたものを読む機会がなかったが、KKさんから「過激なとこあるけど面白いですよ」とのコメントがあったので借りることにした。変貌して“カリスマ教育者”たちに喧嘩でも売ってるのかなと興味深く読ませてもらった。
結論からいえば、諏訪さんは変わっていない。8人の人達をとりあげているが、あれもだめこれもだめ的な荒っぽい話ではなく、教育現場での実践をベースに考えてきた氏の教育観に基づいて検証されている。したがって8人の各氏に対する好感度には差がある。 私の受け取った感じでは、高いほうから並べると苅谷剛彦・西研・内田樹・渡邉美樹・斎藤孝・陰山英男・寺脇研・義家弘介かな
印象に残った部分(このあたりが諏訪さんの核心?)を抜粋すると
教育を「文化」としての教育(活動)の側だけから眺めると、近代社会がひとに課さざるをえない「啓蒙」としての教育、すなわち、教育そのものの本義を見失うことになる。
教育を考える際に、社会の一単位としての「個人」と、その人それぞれの独自性や個性や内面である「自己」とを区別すべきだと言う。今までの教育においては、「自己」(その内面や独自性)が大切にされてきたが、そのことによって社会に有用な主体的な「個人」や自由な「個人」がつくられてきたわけではないと判断している。
陰山さんはどうやら、子ども(生徒)を「文化伝承の対象としての子ども」としてのみ考え、「主体的人格としての子ども」とはあまり意識していないようである。この「文化伝達の対象としての子ども」と「主体的人格としての子ども」は教育の二律背反とも呼ばれるテーマである。
私は自分が教師だから「先生はえらい」とは言えず。「教師には権威性が必要だ」と言ってきた。指導力や権威性のある人が教師になるべきという合理的な考え方ではなく、すべての教師(公教育の学校の教師)たちに社会は権威性を付与すべきだと主張してきた。
教師は自己の体験を基にしつつ教師になるが、自己を絶対化してモデル化することは避けなければならない。自己の体験を超えた複雑で複合的な人間のイメージをいくつも内面化していなければならない。
教師は生身の個人が生身をさらしてするようなものではない。義家さんの教師認識はあまりにも大雑把すぎて、その語りは教育のリアリティに触れていない。実際の教師の働きは彼の持っているような自分の体験の絶対性や、自己過信に基づく大仰な思い込みによって保証されるのではなく、瞬間瞬間の生徒(子ども、若者)との知的やりとりや情的やりとりや規範的やりとりを通じて、その教師が生徒に何を伝えているか、そして、その生徒が何を受け取っているかによって測られるのである。
「ゆとり教育」には人間はもともと自ら学ぶものだ、そうでなければ人間でないといった強い能天気な確信が前提とされているし、学力中心主義には人間はまず教え込まれないと学ぶ力を持たない、人間は教育によって人間となるのだというある種リアリスティックな認識がある。私自身は後者のほうが前者に先行すべきだと思っているが、かと言って、前者の考えも否定できないという気がする。
理想(理念)と現実とはもともと関係のないものだと言える。理想はとりあえずひとの頭のつくりあげた虚構であり、現実は人間であり、社会であり、歴史であり、生産であり、生活であり、合理も不合理も亡霊もふくまれているような得体の知れない世界の複合的な内実(実体)だからである。
教育者、とりわけ私学の教育者がこういう気高い生き方と産業人としての自立を求めるのはいい。ただし、それは自分の生き方を見せることや、その哲学を語ることによってなされるべきであろう。つまり、教育という営みは総じてそうだが、とりわけ、生き方や倫理にかかわることは、受け取るかどうかは相手(被教育者)の主体性(自由)にまかせるべきであろう。教育者がどんどん提示してもいいと思うが、学習者に受け取るべきことを強制する質のものでない。
渡邉美樹なる人物は、この本を読むまで知らなかった。すると今日の新聞の広告欄に「勝つまで戦う」(渡邉美樹の超常思考)という本の宣伝が写真入りであるのがパッと目に入った。ああこんな顔の人なんやと思い、キャッチフレーズを見た。今までだったら目に留めずに流していたと思う。また少し自分の世界が広がり、諏訪さんのその後(まだまだ熱いやん)をみたり、世間で耳目を集めている教育者を別の角度から見ることができたりと刺激をもらった。KKさんに感謝。