まわる世界はボーダーレス

世界各地でのビジネス経験をベースに、グローバルな視点で世界を眺め、ビジネスからアートまで幅広い分野をカバー。

2020年のシンガポールのクリスマス

2020-12-15 18:10:05 | シンガポール

2020年は世界的にコロナが蔓延し、世界的な観光地のシンガポールも海外からの観光客がほとんどいないクリスマスとなりました。せっかくの美しい飾り付けなので、このブログで共有したいと思います。トップの写真はシンガポールのオーチャードロードのメインの飾り付けです。夜になるとこんな感じになります。







アイオンというショッピングモールのイルミネーションはとても華やかです。

こちらのクリスマスツリーはアイオンの外のものですが、風が吹くと、風車が回るようになっています。



こちらは、アイオンの向かいのTangsの飾り付け。ここはいつも聖書の中の言葉がテーマになっています。



次の写真は、アイオンの向かい側のウィーロックプレイスの飾り。



ウィーロックプレイスの中はこんなふうになっています。



オーチャードマリオットからグランドハイアットに向かう途中のスコッツスクエアのクリスマスツリーです。



オーチャードのメインの交差点を、南に下っていきますと、Wismaの建物。そこの飾り付けがこちらです。





そしてこちらが、パラゴン。



高島屋のあるニーアンシティーは例年大きなクリスマスツリーがあるのですが、今年はありませんでした。

昼間のオーチャードの飾り付けはこんな感じ。



マンダリンギャラリーの前です。



デザインオーチャードの建物の上のクリスマスツリーです。



オーチャード313にあるクリスマスツリー。



オーチャードゲートウェイ。



オーチャードから離れて、ラッフルズシティのツリー。スワロフスキーです。



ラッフルズシティの中はこんな感じ。



ラッフルズシティの近くのキャピトルビルディング。以前、この建物の3階のオフィスで働いていたので懐かしいです。今はケンピンスキーというホテルになっています。



クラークキーセントラルの中のクリスマスツリー。



ずっと離れてハーバーフロントのビボシティ。



ショピングモールの中にもクリスマスツリーがあります。



こちらはホーランドビレッジ。



ボタニックガーデンのMRTの駅の近くのクルーニーコート。



そしてこちらは、タングリンモール。





まだまだ素敵な飾り付けはいっぱいあるのですが、たまたま通りかかったのだけでもこんなにたくさんあります。

とりあえず写真だけ並べてみましたが、シンガポールのクリスマスの風景はこんな感じです。

来年は世界からの観光客で溢れているシンガポールであることを望みます。

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シンガポールのマックの限定商品、Ninja Chicken Burgerに感激

2020-11-28 16:40:21 | シンガポール

11月19日からシンガポールのマクドナルドで、サムライバーガーとニンジャバーガーという商品が販売されています。シンガポールでの期間限定商品なのですが、最初にバス停の広告で見かけ、そしてコマーシャル動画で見かけて興味を持ちました。こちらがそのコマーシャルです。



侍も忍者もあまり強そうじゃないんですが、サムライバーガーは、ビーフの照り焼きソースにクリーミーマヨ入り、ニンジャバーガーはクリスピーチキンの南蛮ソースにキャベツときゅうりが入り和風タルタルソースがトッピングしてあるという説明に食欲が刺激されたのでありました。



一週間前から食べてみたいと思っていたのですが、シンガポールに何店舗もあるマクドナルドはどこも長蛇の列。ひょっとして、オーチャードの伊勢丹の上の映画館の入り口にあるマックだったら映画を観に来た人くらいしか来ないので、入れるかなと思って行ってみると、ばっちりでした。すっと入れました。



シンガポールのマックは、最近はタッチパネルのスクリーンでの購入です。商品を選び、店内と、カウンターで自分でピックアップを選び、クレジットカードでの決済です。ネットでの評判がわりとよさそうだったニンジャバーガーのセットを注文しました。

こちらがそれです。フライドポテトは、海苔塩です。



所詮ファーストフードだからと思って、それほど期待せずに食べてみたら、実に美味しい。



黒いバンズと、南蛮ソースのクリスピーチキン、そして和風タルタルソースの見事なアンサンブル。バンズもチキンも柔らかく食べやすいのですが、白キャベツの千切りと、きゅうりの輪切りが食感のアクセントを与えています。バンズと南蛮ソースから香ってくる甘みも素晴らしい。日本円で数百円のファーストフードなのにこんなに美味しくてよいんだろうかと、つかの間の幸せを感じたのでした。海苔塩のフライドポテトも美味しかったです。



この商品、実は2017年にも発売されていたんですね。あまりに人気があったんでリバイバルで発売されたようです。こちらが2017年のコマーシャルです。

2017 Ninja



そして下のものが、2017年のサムライバーガーのコマーシャル。

2017 Samurai



今回のものは来月で終わると思いますが、またリバイバルしてほしいものです。

10月には、シンガポールのマックで北海道サーモンバーガーという限定商品があり、これもトライしましたが、こちらも美味しかったです。こちらが、そのコマーシャル。



今年は、コロナで往来が自由にできなくなっていますが、こういうのがあると食事の楽しみが増えてよいですね。
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シンガポールのブギスジャンクションで過去の時代にタイムスリップ

2020-10-18 13:12:10 | シンガポール

昔のブログを見ていたら2006年に書いた記事が出てきました。当時、シンガポールのブギスジャンクションにPARCOがあったのですが、その場所が一世紀以上前、遊郭街であり、日本人の娼婦が数多くいた場所だったという話です。シンガポール人でも知っている人はほとんどいないし、歴史の中で忘れさられるべき話で、ブログで書くのもちょっと躊躇するのですが、過去の事実として紹介しておきたいと思います。ということで、過去の記事をベースに、現在の状況をアップデートして記事にしてみました。

上の写真は、シンガポールのブギスジャンクションのショッピングセンターの風景です。以前、PARCOがあったのですが、ビクトリア・ストリートからノースブリッジ・ロードに向っていて、右側がインターコンチネンタルホテルになっています。綺麗に復元されていますが、昔ながらの建物が並ぶ通路の上は透明の屋根で覆われ、この通路を挟んだ一帯に様々な店舗や、飲食店が並んでいます。屋根があるので、この通りは雨でも全く問題がありません。

この写真の通りは、地図には載っていませんが、マレー・ストリート(Malay Street)と言って、昔の道路標識が残っているのでそれがわかります。ノースブリッジ・ロードとビクトリア・ストリートを縦に結んでいるのが、マレー・ストリート。インターコンチネンタルホテルの北側をビクトリア・ストリートに並行して通っているのがマラバー・ストリート(Malabar Street)、そして少し南に、ノースブリッジ・ロードと並行して通っているのがハイラム・ストリート(Hylam Street)です。こちらが、標識です。



向こう側にインターコンチネンタルホテルの裏口が見えています。下の写真は、マラバー・ストリートに向かう標識。建物にもマラバー・ストリートの地名のプレートが付いています。



下の写真は、ハイラム・ストリートの一角。



こちらの地図は、時代が特定できませんが、昔のシンガポールの地図です。



ブギスジャンクションのショッピングモールの片隅にあったので、撮影しました。ビーチ・ロードが本当に海岸通りで、ラッフルズホテルは、道を挟んで海に面した海沿いのホテルでした。西のほうも、テロック・アイヤーが海岸通りでした。シェントンウェイも、サンテックも、マリーナベイも海の底です。



この地図は、現代の地図に、三つの通りを書き入れたものです。右の地図は、以前、ラッフルズホテルの博物館(今は無い)で見たものです。三つの通りの名前がはっきりと表記されています。

この三つの通りは今のシンガポールの地図には載っていません。しかし、実はこの場所を発見するには、語り尽くせぬドラマがあったのです。シンガポールでも知ってる人はほとんどおらず、日本人でもほとんど知らないのではないかと思います。

山崎朋子さんという作家がいます。代表作は『サンダカン八番娼館』。映画にもなりました。



ボルネオ島(カリマンタン)の北のはずれのサンダカンという港町に娼婦として売られていった日本人女性が、故郷の天草に戻った後、その過去ゆえ村八分の扱いを受けている。山崎さんは、その女性を訪ねていき、女性の過去を取材するという話です。数年前に読んだのですが、実に感動的な作品でした。

その続編という形で山崎さんが書いたのが『サンダカンの墓』という本です。



この本は文春文庫で出ていたのですが、絶版となっているようです。山崎さんが、サンダカンとか、他の「からゆきさん」の足跡をたどって旅をする話となっています。

その中に、シンガポールの話が出てきます。大正時代から昭和の戦争前の時期にかけて、シンガポールに遊郭があり、貧しさゆえ日本の農村から売られていった「からゆきさん」がそこにもいたということでした。日本人たちはそこを「ステレツ」と呼んでいたという話が出てきます。英語のストリートが訛っての「ステレツ」でした。

山崎さんが取材をしながらたどり着くのが、先ほど紹介した三つのステレツ(ハイラム、マレー、マラバー)だったのです。山崎さんの本によれば、このステレツはチャイナタウンにあると書いてありました。

数年前にこの本を読んだとき、この通りは今はどうなっているんだろうと思って、東京の広告代理店のシンガポール現地法人に駐在員として滞在していた私は、チャイナタウンをぐるぐると探索しました。しかし、どこを歩いても、そのような名前の通りを見つけることはできませんでした。区画整理されてしまったのかなと思っていました。

たまたま会社に1980年代頃の地図がありました。その地図を見ていたら、何と、ハイラムとか、マラバーの名前があるではありませんか。それはブギスであり、その一帯を取り潰して商業施設になったのだということがわかりました。

実際に現地に行ってみて、山崎朋子さんがかつて訪れた3つの通りが、ちゃんと通りのネームプレートまできちっと残っているのを見て、感激しました。そして、建物の外観も昔の建築を綺麗に再現しているのです。今の人たちは、そんなことを全く知らずに、ショッピングや、飲食を楽しんでいる。その複雑なギャップを感じながら、この場所で、一世紀以上も前の日本とシンガポールの歴史に思いを馳せるのでした。チャイナタウンや、インド人街なども時代とともに場所が移動していたんですね。ちなみにミドル・ロードはかつて日本人街であり、日本の商店が立ち並んでいたそうです。下の写真が現在のミドルロード。右に見えているのがインターコンチネンタルホテルです。



日本人街だった頃の面影は全く残っていません。

山崎さんが「サンダカンの墓」を発表したのは1977年ですが、その中で、ステレツの名残を求め、苦労してこの三つの通りを探しあてます。その時には、すでに娼館はなくなっていたのですが、朽ち果てた娼館の名残を見て、彼女は、感慨にふけるのです。しばらくこの通りを歩いた後、ここを去る前に、ふと立ち止まって、もういちどその悲しみの街の名残を眼に焼き付けるという表現がその本の中に出てきます。具体的な表現は忘れてしまいましたが、それは映画のラストシーンのようであり、本を読んでから20年以上経っている今でも記憶に強く残っています。

2016年の12月に刊行された「シンガポール日本人社会百年史」(シンガポール日本人会刊)を見ていたら、シンガポールのからゆきさんの歴史が出ていました。最初は、1882年、黒金という女性が上海から四人の日本女性を連れてきて、馬来街(マレー・ストリート)二番に店を開いたのが始まりのようです。その後、1902年(明治35年)の記録では、「シンガポールには妓楼が82軒あり、本邦娼婦が811名在籍」となっています。その頃をピークに、日本人娼婦の数は減っていきますが、1920年、シンガポール日本人会と日本基督新嘉坡教会などの努力で廃娼が行われます。帰国せずに私娼となってシンガポールに残った娼婦も多かったそうです。



こちらの写真は、その百年史に出ていのを撮影させていただきましたが、ハイラム・ストリート(写真絵葉書)というキャプションがついています。娼館が無くなった後、日本の商店の看板が立ち並んでいるのがわかります。

私はたまたま山崎朋子さんの本を読んだので、このような歴史を知っているのですが、知らない人がほとんどではないかと思います。私たちの今の繁栄は、過去の悲しみの歴史の上に築かれているんだと思うと、のんきに浮かれてばかりもいられないのですよね。
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今も残る戦争の記憶

2020-10-16 18:20:41 | シンガポール

上の写真は、シンガポールのセントーサ島のシロソ砦にある展示ですが、山下将軍が連合軍に降伏を迫る場面です。この展示の後、太平洋戦争が終わり、日本軍が降伏する場面に繋がるのですが、この期間、戦地や日本本土では、数え切れないほどの悲劇が生まれていました。

NHKの連続テレビ小説「エール」を見ていたら、ビルマでの戦場の場面が描かれ、豊橋の空襲が描かれていました。私は豊橋市のすぐ隣の田原市の出身なのですが、母は豊橋市の杉山の生まれで、子供の頃、昭和20年6月19日の豊橋空襲の話は何度も母から聞いていました。市街地からは電車で何駅も離れているのですが、空が真っ赤に染まっていたのが見えたという話は今でも鮮明に覚えています。畑にいたら、アメリカ軍の飛行機が機関銃で撃ってきたので、必死に逃げて物陰に隠れたという話も聞いたことがありました。

戦争が終わって10年経った年に私は生まれました。今から思えば10年の月日は、ついこの間のことです。子供の頃には、戦争の余韻があちこちに残っていました。豊橋の市街地では、傷痍軍人をよく見かけたし、母の実家の農家の裏山には防空壕がまだ残っていたし、家には、父親のものなのか、祖父のものなのか、鉄兜やガスマスクまで残っていました。子守唄で軍歌をよく聞いていました。

小学校の頃、漫画雑誌で「0戦はやと」や「紫電改のタカ」とかの戦争漫画が連載されていて、夢中になって読んでいたし、クレパスで描く絵は戦闘機の絵でした。中学校では、学級歌というのがあって、週替わりだったか、月替わりだったか忘れましたが、みんなで曲を決めて、毎日一回合唱をするというのがありました。時々、軍歌になりました。「麦と兵隊」という曲はその時覚えました。今では考えられないことではありますが。

古関裕而さんの作曲された、「露営の歌」や、「暁に祈る」、「若鷲の歌」などが、ドラマの中で流れましたが、反戦思想に染まった人たちはこれをどのように聞いたのでしょう。ドラマの中には登場しなかったのですが、「シンガポール晴れの入城」という曲があります。福島三羽ガラスで作った曲の一つです。昭和17年(1942年)2月15日のシンガポール陥落を記念して作られた曲のようです。

私は今、シンガポールでこれを書いています。家の窓の外にブキティマの景色が広がっていますが、シンガポール陥落を前にして激戦地となった場所です。フォードのブキティマ工場で連合軍が降伏をしたのですが、そこは今、戦争博物館になっていて、痛ましい戦争の遺品が展示されています。

実は、シンガポールには、いくつもの戦争遺跡があります。国立博物館には、日本軍の戦車のレプリカや、日本統治下で使用された紙幣や、パスポートなどが展示されていますし、セントーサのシロソ砦には要塞跡が残っていて、連合軍に「イエスかノーか」と迫った山下将軍の会談の場面が人形で再現されています(上の写真)。フォートカニングにある地下壕跡のバトルボックスなどもありますね。日本ではほとんど見る機会がありませんが、太平洋戦争の歴史に関して、シンガポールで初めて接することができました。

当時の日本は、南方諸国を植民地化して、日本語教育を徹底するのですが、その時使った教科書などの展示も各所にあります。戦時中に作られた、子供向けのアニメで使われた「あいうえおの歌」というのもありますが、このアニメ映画の音楽監督をしていたのが古関裕而さんだったんですね。このアニメで手塚治虫さんがインスピレーションを受けたらしいのですが、あらためて聴くといい曲です。アニメも素晴らしい。



ドラマの中では、古関裕而さんの慰問はビルマしか描かれていませんが、シンガポールにも慰問に来ています。ドービーゴートのキャセイシアターでディズニーのアニメも見たのだそうです。

太平洋戦争末期のシンガポールを舞台にした小説と言えば、浅田次郎さんの「シエラザード」です。以前、知り合いが、この本を読んでシンガポールが好きになった、と言っていたのを聞いて、すぐに読んだのですが、素晴らしい作品でした。ラッフルズホテル、ミドルロード、ソフィアロード、クラークキーなどが舞台になっています。

シンガポールは歴史が浅いですが、ここがかつて日本だったと思うと、同じ風景も違って見えたりします。戦争の悲劇を繰り返してはなりませんが、過去の時代から学ぶことも多いですね。

朝ドラを見ながら、そんなことを思ったりしました。
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シンガポール・スリングとラッフルズ・ホテルとサマセット・モーム

2020-09-22 16:40:15 | シンガポール
シンガポール・スリング。今や世界各地のバーで定番のこのカクテルは、シンガポールのラッフルズ・ホテルにあるロングバーという名のバーで生まれた。



ロングバーのバーテンダーが初めてこのカクテルを作ったのは1915年。日本では大正4年。芥川龍之介が『羅生門』を書いた年である。タイタニックが北大西洋に沈没するのが、1912年の4月14日なので、何となく時代の雰囲気もわかるような気がする。欧州では1914年の7月に、サラエボ事件を発端として第一次世界大戦が勃発している。

こんな頃、南洋の港町シンガポールのラッフルズ・ホテルでこのシンガポール・スリングという伝説のカクテルが誕生する。もともとのレシピは、ドライジン、チェリーブランデー、レモンジュース、砂糖をシェイクし、タンブラーに注いだ後、ソーダ水を満たすというもの。しかし、その後、ご本家のラッフルズ・ホテルのシンガポール・スリングは、勝手に進化をとげ、女性向けのトロピカルカクテルになった。

ラッフルズの現在のレシピは、ドライジン、チェリーブランデー、パイナップルジュース、ライムジュース、クアントロー、ベネディクティン、グレナデン・シロップ、アンゴスチュラ・ビターズをまとめてシェイクして、グラスに注ぎ、パイナップルやオレンジ、チェリーなどを飾るというもの。オリジナルのレシピに比べて、素材もだいぶ変わっている。

これを進化というべきか、堕落というべきかは、議論の余地のあるところだが、ラッフルズのものは、一杯飲めば十分という感じ。テーブルやカウンターに置かれている殻付きのピーナッツをつまみながらシンガポール・スリングを飲み、殻はテーブルや床の上に巻き散らかすというのがここのバーのスタイル。平日の午後のまだ明るい時間が、客も少なめで落ち着けるが、観光客で一杯になるとちょっとうるさくなる。



このホテルにかつて宿泊していた作家のサマセット・モームがシンガポール・スリングを飲んだのかどうかはよくわからないが、時代的には、ありえないことではない。このカクテルが誕生した1915年、モームは大作『人間の絆』を発表した。彼が41歳の年である。その翌年、結核の療養のため、アメリカ、ハワイを経て、タヒチに旅行に行く。タヒチと言えば画家のポール・ゴーギャン。彼はこの旅行で『月と六ペンス』のヒントを得たと言われている。

その後、シンガポールを訪問していたとしたら、その時には、彼が宿泊したラッフルズにはすでにシンガポール・スリングがあったはずだ。彼がそれを好んで飲んだのかどうかはわからないが、ここでドライ・マティーニを飲んだということは伝わっている。ラッフルズのバー&ビリヤードルームには、彼にちなんだ名前のマティーニが今もある。

サマセット・モームは英国の作家として有名だが、実は、彼がシンガポールなどに来ていたのは、秘密諜報活動の一環だったという噂も。フランス生まれで語学に堪能だった彼は英国情報部で諜報活動を行っていた。バンコクのオリエンタルホテルや、シンガポールのラッフルズ・ホテルに宿泊していた
目的は、小説を書くというためではなく、実は、諜報活動だったのかもしれない。

第一次世界大戦が進行していた当時、日本の海外進出に対する欧米ABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中華民国、オランダの四カ国で日本のアジア進出を食い止めようとする作戦)が進展していた。ロシアではロシア革命が起ころうとしていたし、そのため、モームは世界各地に潜入する任務を帯びていたらしい。

何だか007みたいと思うかもしれないが、実はイアン・フレミングが『007』シリーズを書いたとき、モデルにしたのが、実は、サマセット・モームだったのだとか。たしかにロシアに行ったり、いろんな国に行っている。

大学受験の英語の参考書によく、サマセット・モームの例文がよく出ていたのを覚えてる。『要約すると』(Summing Up)というエッセイ集は、文章が格調高いので、英文解釈の教材としてかなり使われていた。文章が長く、構造が複雑で、受験生泣かせの作家だった。

実は私は、大学では英文学を専攻し、卒論はジョナサン・スウィフトだった。サマセット・モームは、彼の文学評論の中で、スウィフトの文章を非常に高く評価していた。一説によれば、モームはスウィフトの文章を一字一句暗記していたとか。

ところで、このラッフルズ・ホテルは、太平洋戦争でシンガポールが日本の占領下にあった時、「昭南旅館」という名前になっていた。この期間、シンガポール・スリングはどうなっていたんだろうか。優雅にカクテルを飲んでいるような余裕はなかったかもしれないが。

ラッフルズ・ホテルとバンコクのオリエンタル・ホテルの両方ともに、サマセット・モーム・スイートという名前の部屋が今も残っている。

*************

この記事を最初に書いてから10年以上の月日が流れた。2019年に改修工事が終わり、外観は昔と変わらない状態でリニューアルオープンした。Long Barは以前と同じ二階にできたが、入り口の位置が若干変わった。バー&ビリヤードルームは、BBR by Alain Ducasseという名前でお洒落なインテリアのレストランになった。以前のレトロな雰囲気でなくなったのは寂しいが、BBRの名前は、バー&ビリヤードルームの頭文字として残っている。

最近(2020年9月)の写真を以下にアップしておく。

こちらは、二階のロングバーに繋がる階段。



1915年にシンガポールスリングを作ったバーテンダーの厳崇文(Ngiam Tong Boon ギャムトンブン)の説明もある。



これまではこのバーテンダーはこれほどまでにフィーチャーされてこなかった。

ラッフルズホテルのシンガポールスリングは、ロングバーだけでなく、中庭のコートヤードでも提供されている。こちらは、スタンフォードロード側からコートヤードに向かう通路の様子。



左の看板の人物は、バーテンダーの厳崇文(Ngiam Tong Boon ギャムトンブン)だ。長い歴史を超えて、彼が蘇っているのはちょっと嬉しい。

そして、こちらは、BBR by Alain Ducasseの入り口。



ここでもシンガポールスリングはメニューにある。改装前は、よくここのバーで、ドライマティーニを飲んだのが懐かしい。10数年前、ここのバーには、分厚いカクテルメニューがあって、マティーニだけでも何十種類もあり、説明を読むだけでも文学作品を読んでいるかのような錯覚を覚えた。その名前のいくつかを今でも覚えている。ウィンストン・チャーチル、ロシアより愛を込めて、シカゴ、コスモポリタン…ジャズの生演奏を聴きながら、マティーニを飲んでいた、あの頃が懐かしい。

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