goo blog サービス終了のお知らせ 

玄徳道

道を語るブログです。

合坐合霊道。

2023-06-15 18:40:00 | 私的考察
霊とは如何なるモノであり存在であろか。

「神は万物普遍のにして、人は天地経綸の主体であり、神人合一して、ここに無限の権力を発揮する。

普遍とは、宇宙創造の現象であり、ありのままと言うことでもあり、そして、そのありのままの自然とその現象には、霊が在ると言う事でございます。

坐とは如何なるモノでありましょうか。

一般的には瞑想と呼ばれ、自身の深奥に至り、また、自然と調和する事と成り得られる道でございます。

私は左足がモートン病になった時に、何とか足指を開きのアイテムを付ければ登れるかもと、六甲山剣座へ登りましたが、途中、激痛により、脂汗を流しながら、何とか到着致しました。

痛みの為、剣座の前の小岩に腰を下ろし、そのまま、坐をする事にしました。

季節は四月中旬にして、藪蚊さん等おいでにならない時期であり、痛みを鎮化する為でもありました。


さて、坐るという事は、実に継続あるのみでして、鎮魂法帰神術と同様に早期の効果は決して得られません。

例えば、ある宗教教祖が先天坐を初めて行った時に、神、仙、仏が降りて来られ、同時に、道院は本物であった等と書かれておられる宗教教主もおられますが、それは、全て妄想であり、坐の功験には、いっときの期間がかかります。

速功は不可でございます。

簡単に言うと、母の母胎にあったとき、胎息していた呼吸が、オギャーと生まれて肺呼吸となり、肺呼吸が自然の呼吸となった人が、直ぐに胎息の呼吸法に戻るには、ある程度の時間が必要である所以であります。

吾が先天坐は胎息をもって、歩む道と至します。


剣座の前に坐し、痛みも何もかも感じなくなり、ただ、自己の気の運(めぐ)りがあり、ふと気がつくと、剣座と一体化のような感覚を受け、また、周りの樹木とも繋がってまいりました。

坐の経典「太乙北極真経」には合坐の道が示されており、かつての老祖は、先天炁により、人、岩、樹等、霊在る存在を枢府に上乗させた事を思い浮かべました。

私達人間は、全てを差別致します。

太古では、人は草木と語り、動物や虫を差別すること無く、一体感をもっておりました。

全ての宿る霊を感知し、その働きは違えども、全ての生物や植物、岩石すら地球に於ける生成化育の役割としての存在意識なる普遍意識が根底にあったからでございます。

太古以降は、人の知恵が増すにつれ、人間は植物、動物、虫類の存在意義を無視し、それらをさげずむ、優越意識の思うがままに、自然を征圧し、また、同類である人間を望むままに、制圧し、奪い合い殺し合うようになってしまいました。


坐るという事は、その欲望、差別意識が薄くなってきます。

故に、坐をする者は、互いに繋がる事が可能となります。

坐のような事を自然体でする、樹木、磐座などは特に、感合し、合坐合霊をしやすくなるのは、当然であるのです。

故に、人よりも、天然の樹や、磐境、磐座と合化するは、易しい。

現実に、多様な思念あるニンゲンと交わるは難しい。


私の自我も人間に漏れず、魔王のように酷く、唯我独尊にして、誰に対しても従う事が出来ない暴れん坊であった時期もありました。

されど、先天坐の道は、本当にわたしを済度(すくっ)てくだされました。


坐の道は無限大であり、先天坐を基礎とする者へ、お願いです。

老祖の弟子である方々は事あるごとに神坐す斎庭に行って頂きたいです。

もし、あなた様が、神氣湧く神社に行けば、坐する者が来れば、その主催神は大変喜んでくだされます。

坐する者は、天地運行を体内で司るからであります。

一般の人間が、神坐す神社に行っても、自己の願いを述べるだけであり、神の生成化育に、関与されないからでございます。

私が面白いと思うブログ、「アメブロの神主が語る「神霊」と「霊術」と古き日本の心を伝へるブログで…」では、「神は人を救わない」と述べておられますが、然りでございます。この方、選別意識が凄過ぎて、中庸を得た人が、学びとして、見れば丁度善い真理を得られる事となると考えます。

ちなみにその方は、神社には、神は居ないとも仰っておられ、私はそのような神社も確かにあるので、その激しき 日本原来の鬼神界を現れを歓迎する、不徳を好む面がある、悪人、鬼雷でございます。


基本、神は人には、関与せず。

神は自然なり。運行なり。太極なり。

ただ、神の眷属による、人との因縁があるのみ。


つまるところ、人の思念が、神様が救ってくだされると妄想するだけなのでございます。

神は人を救わない。

是非あるかもですが、ここは重要でございます。

されど、救わぬ神は、人を扶ける。

神が自然ならば、人たる種も自然物だからでございます。

 

神坐す、神社で、坐する事が出来れば、それは、善き行法となります。

しかし、現実に、神坐す、神社で、先天坐は、出来ることもありますが、人がいれば、この人怪しいと、思われ、坐することは難しいですね。

そこで、鳥居を潜れば、心坐を成し、御神前に至れば、いのり、から、息坐へチェンジ(胎息となる)し、虚空の最中に神柱や、御神霊も交われば、合坐合霊による、清浄化合、天人合化、天地和合、自然安寧へと至り、世の平和の基礎を打ち込む杭となり、この世界を襲う劫業を弭化する事も可能であるのです。

息坐とはあくまでも、無相無念でございます。

磐座磐境が在る神域、聖域でも同様の結果が得られるのです。


扨て、世に云う、悟りを開く人、聖者、聖人、神人の霊種とは、過去世には、岩石と樹木の霊であった者が多く、黙然として、態度と言動に出さず、静黙をもって、人を導く聖者が多いようであります。

言わば目立たない、騒がない、自慢しない、敬虔な人。


人を導くに当たるには。

お金を取らない。

見返りを求めない。

親切に教える。

質問は大好きである。


真に神に使える者は、如何なる事があろうとも、金銭を要求しないのです。


救いに、命の次に大切なお金を払うことにより、悪劫を祓う事が出来る云々、それに連なって、カルマ、業、劫を述べられる人も多いのです。

しかし、結局、大金を払わなければならないのであれば、それは、商売であり、神の道では決してありません。

神にお金は無用であります。

それに携わる人が欲しいのであります。

ただし、神社仏閣による運営、維持にはお金が必要なことは、確かであり、納得して、玉串なり、賽銭なり、喜捨をする事は大切な事でもあります。


いずれにせよ、自分を救えなければ、他人を救えないのは、自明の理でございます。


われ自身を救えるのは、真我である、自分自身の深奥でございます。

もし、貴方が宗教や占いを欲する人であれば、永遠に、それに依存し、自己深奥の道は決して得られないのでございます。

坐すると占を欲しなくなりますよ。占に依存しなくなりますよ。


そして先天坐を為し、合坐する神人が一人でも増えれば、その貢献は計り知れません。

もし、あなたが、至聖より、道名を得た人であるなれば、一宗教に偏らず、吾が老祖の大道を歩むべきであると考えます。









コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑記道。

2023-05-30 20:55:00 | 私的考察
私は、三ヶ月前、左足にモートン病を発症しました。

まあ、大した病気では無く、女性では、ハイヒールを履いている女性の多くがなる神経病でありまして、ジョギングのし過ぎでなる病気でもあります。

ランニングしている時に何故か痺れる左足の中指薬指。違和感を感じておりましたが、痛くも無く、ランニング後は何の痺れも感じて無い為に放置していました。

そして、勤める会社の専属医の整体の先生に聞くと、おそらくその原因は、足首の柔軟性が無いと言われました。

何にせよ、走る事は、心肺機能、体力を鍛える事になるのと修行、修道の一環と考えていたので、空いた時間を見つけると走ったり、筋トレをしておりました。

ある時、仕事でしゃがみ、爪先立ちで、動いていると、左足裏に激痛が走りました。

現在の左官仕事は、しゃがみ、爪先立が多い仕事なのです。

痛みを愛する私でも、かなり痛い。

あまりに痛いので、妻がすすめる整骨院に行きました。立って左足に荷重がかからないと、痛みが発祥せず、足指を折り曲げたり、足裏をさわったり、エコーをあてますが原因はわかりません。
取り敢えず、痛んだ箇所に電気を当てて、足首のリハビリを受けて、痛い箇所にゴムパットを当てて様子見になりました。

しかし、安静にする事が出来ないのが現場作業です。パットが足指に変な体制をとらせた為か、更に痛みが酷くなり、左足の中指にも激痛が走る事となりました。

何日か整骨院に通いましたが、良くなる兆しが見えないので通うのをやめました。

作業中、足を踏み込めば、激痛が私を襲い、それがストレスとなり、筋トレも暫く出来ませんでした。

ユーチュウブなどで、モートン病を検索し、改善法を実行しましたが、いずれも効果はありませんでした。

ネットでモートン病を完治出来る所を探しても、原因は背骨の歪みとか云々とかで、爪先立ち仕事をするガテン系の人の治療方法はありませんでした。

取り敢えず、日々我慢をしておりました。

このまま、永遠に走れない、また、痛みと付き合う日々に心は折れかけました。


しかし、足指を広げる百均の商品を妻が持っていて、閃きで、これを足指に付けてみました。

これを付けて、試しに筋トレのバックランジをしても、痛みが走りません。

痛みを発症から一ヶ月して、ようやく筋トレが再開できました。

これを付けて仕事をしますと、痛みが半分無くなりました。

ゆえに、なんとか、六甲山も登れるかもしれないと、六甲山剣坐へ、向かいました。

六甲山には、松葉が生えていますので、松葉を頂戴する為でもあります。

足指を広げて、六甲山を登り降りましたが、1時間ぐらいたつと、物凄い痛みが襲って来ます。

登山とは非常に、足指を動かし、平地より、足指に負担がかかる事を知りましたね。特に登る時の痛みより、降りる時の痛みには、歯を食いしばるのみでありました。

剣坐に着いた時は泣きそうでした。しかし、いつも、剣の磐座では、磐笛、祝詞.経.咒をあげるだけなのですが、痛みが酷くて、つい小岩に腰をかけてしまい、そのまま、坐して、しまいました。

怪我の功名か、その時の、坐がとても良く、様々な感合を受けました。また、その話しはまた、ブログにて書きたいと考えます。

どうすれば、足の痛みが治るのか。会社の産業医(柔道整復師)に相談し、足首に、テーピングしたり、骨盤の歪みを治したりしましたが、どうにもなりません。

左足は常に踏み込むと、スイッチが入り激痛があります。

それでも、足開きのアイテムにより、多少は救われておりました。

その最中、会社の役員が、前に足の親指を痛めた事があり、2度のブロック注射で治ったと言われ、整形外科を進めて下さったので、素直に、整形外科に行きました。

近くの整形外科の老先生による診察は先ず、問診です。レントゲンを撮ります。さらに問診です。

足を広げる段階で、広げる事により、神経の圧迫が減少していて、やはり、モートン病であり、「あなた、この病気について、良く勉強されている」と言われ、治療には、インソールを履いて、矯正治療するか、注射を打つか、手術するかと、言われましので、即座に注射を打ってくださいとお願いしました。

本来は痛みが出る、トリガーポイントを探して注射を打たねばなりませんが、私の場合はピンポイントの痛みはありませんので、足裏のコキコキ鳴る、スイッチ箇所に打ってもらうようにお願いしました。

そうすると痛みが、足の中指以外は消えました。

整形外科とは、レントゲンを撮り、痛み止めのシップや内服薬をくれるだけで、根本治療では無いと常に考えておりましたので、ブロック注射を見直しました。

ちなみにインソールも、安全靴に敷き大分楽になりました。

それから二週間して、整形外科に行き、まだ痛む足の中指に注射をお願いしましたから、壊死するからダメだと、言われ、ならば、前に打った人差し指と中指の中間の足裏にお願いしましたら、注射はそんなに打つもんでは無いと言われ、「内服薬と塗り薬で、痛みが和らいでいくから」とお願いされたので了解しました。

しかし、実際にはこの薬の効果はありませんでした。

そこで、モートン病が何故発症したのかを考えると、私の足指は、親指以外はろくに動かせません。そこで考えたのは、西洋靴が世に広まってから、モートン病が現れ、足の指を使って、大地を踏み締めていた、原始古代、江戸期には、無かったのではと考え、今更、裸足で外出することは不可能ですので、足指をストレッチ用のゴムバンドを使って鍛えることにしました。

これは、脱臼防止用にインナーマッスルを鍛える為に買ったものです。

これを使って親指以外の足指を一つ指ずつ、五十回、両足を2セットから4セットするように心掛けました。

当然に五十を超えるおっさんの足指は退化しておりますので、反応は鈍いのですが、千里の道も一歩からでございます。

筋トレと並行して二週間行い、左足中指の痺れ感はありますが、痛みが和らいで来たので、いよいよランニング再開する事にしました。

久しぶりの走りは気持ち良く、また、途中の公園の鉄棒にて順手懸垂も10回しました。懸垂は肘を伸ばし必ず、顎を鉄棒より上げてします。行き帰りの鉄棒箇所は二箇所あるので、10回四セットです。いずれ、20回を1セットとして出来るようになりたいです。

さて、久しぶりに走っていると、右膝に違和感です。さらに走ると痛み出しました。5キロ走り3キロ歩いてしまいました。

体力的には全然行けるのにと、右膝に不安感が増しました。

モートン病の足指は、少し痛いぐらいで、全然平気でした。

次の日も走りだすと、途端に右膝に痛みが出て、速く走って、痛んで来たら歩いてと交互に歩いたり走ったりしました。

右膝の痛み対策として、太ももの内側広筋をゴムバンドを使って筋トレをし、2日後、対策として、臍下丹田に意識を込め、尚且つ全身の経絡に気を入れるイメージをし、特に右膝は強固になるように、気を入れて走りました。

走っていると右膝が弱気となり、違和感が出て来ますが、その度に臍下丹田に力を入れ、気を経絡に入れ、右膝を強化するイメージで走りましたら、痛み無く完走(八キロ)出来ました。

まあ、なんせ、五十を超えてから、走るゆえに、いろんな身体の貧弱差と故障箇所が出て参ります。

ああ、ちなみに、学生時代は、帰宅部でした。

人生に於ける修行的には、肉体をなるべく若い内に酷使し、鍛錬を積み重ねるが正解である事をつくづく考えます。

元々貧弱な私が筋肉を鍛えて、尚且つ、五十歳を超えてから、走る事は、無茶であります。

ゆえに、様々な障害が生まれてきます。私のモートン病のように。

されど、私は、太陽の洗礼、コロナウィルスに罹った時に改心し、肉体を疎かにしないと。

故に無茶を承知で、吾が肉体を苛め、鍛えているのです。

週に三回か二回ですが、筋トレのメニューは、腹筋ローラーを膝付きで20回2セット、立ちコロで腕を真っ直ぐに伸ばして、10回。

腹筋ローラーの膝付きでは、負荷が少なくなって来ましたので、立ちコロに変えつつあります。昔は立ちコロと言っても中途半端な体制でやって、腹筋をよく攣っておりましたが、最近は立ちコロで全力で腕を水平に伸ばし、自分の限界を超えるべく頑張っております。正味の全力の水平の立ちコロは、2回しか、出来ませんが、最初は1回も出来なかったので、千里の道も一歩からであります。

バックランジ100回、十キロ重さ100回、二十キロ重さ100回。

二十キロスクワット20回2セット。(私の家には五キロの鉄アレイが4本しか無く、それを使っているためです。)

腕立て(ついでに握力を鍛える為に指立てています。)ふせ、100回2セット。

腕立て伏せも、50回までは何とかでしたが、騙し騙し、100回をし、それを初めて2セットした時は、あまりのしんどさで、夜は眠れなくなりました。夢に出て来るしんどさでした。

腰の筋トレ30回2セット。

背筋起こし、50回、左起こし50回、右起こし50回、2セット。

鉄アレイ二十キロプレス50回2セット。

頭に五キロの鉄アレイを持ったまま、レックレイズ50回2セット、十キロ1セット。

これ以外でも、脱臼防止用のインナーマッスルの筋トレ等等しており、筋トレの時間が1時間から、2時間ぐらいまで、時間がかかり過ぎるのが悩みの種でございます。

筋肉とは、破壊と再生の機能を持ち、インドの神、シヴァの如きであり、鍛えれば、応える、人体の神秘でもあり、それは、老若男女を問いません。

また、筋肉とは荒御魂であり、勇気と忍耐力を表します。

また、私が良く参拝する、兵庫県西宮市の廣田神社の祭神は、天照大御神の荒魂であり、瀬織津比売神であり、浄化を表し、肉体の免疫力を上げて、不浄病を浄化する働きがございます。

血は気であり、筋肉を動かすことにより、血流は増し、血気盛んと成る所以でございます。

今、運動が出来るのであれば、運動し鍛練すべきです。

人は裏切る人もおられ、信頼出来る人も当然におられますが、筋肉は決して、当人を裏切りません。

精神世界を探索する者の多くは肉体をないがしろにする人が多いが、魂は天に還り、歩んだ経験なる魄が想念界に残り、魄は肉体に比例する為に、死んだ後は骸の如く地に沈む者が多いのであります。

中和なる魂と健全なる肉体を以って、人は天地に還るべきなのでございます。






コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先天坐道雑記11。

2022-12-31 06:27:00 | 私的考察
最近は、ジョギングし、身体の代謝を上げた後に、筋トレをし、真経を学び、坐すれば、慶びが倍増します。

人にとって、身体は、とても大切であり、身体をおろそかにし、精神や心だけを大切にするのは、真の霊主体従の道では無いと、思う日々であります。

身体を造るのは、水や食べ物であり、それを消化吸収する内蔵であり、脳髄であり、血液筋肉運動であり、螺旋する氣であり、心であり、本性であり、神に連なる魂であり、宇宙を運(めぐ)る霊でもあります。

もし、この世で病を経て、亡くなる事になれば、その人の生成化育の神業は、害(そこな)われます。

魂と肉体は、別物では無いからです。

相互互助。

魂が清いから、魂のみが神界に行ける訳でも無く、清い魂の持ち主でも自殺したら、当然に地獄に堕ちるが如く、魂肉は不二であり、常に一体であります。

戦争で殺し殺されても、然りです。

今、この瞬間に、肉体をおろそかにし、神なる道のみを大切にするのは、誤りであると考えます。

健康で無ければ、神なる道も、神なる道を閉ざす結果ともなりえます。

此処で大事な事は、食べる事。

運動する事。

坐する事でございます。

私は、未だにお酒を少し嗜みますが、酒は百毒でございます。なんせ、身体の代謝を阻害し、肝臓すい臓を傷めるからです。

そして、日本は緩やかな、神と人が和する国なのは良いのですが、添加物天国であることは、残念に思います。

発癌性物質が当たり前のように、スーパーで売られております。

利益追求の企業。腐らず保存する為の毒物を使用される。

安易な便利性、美味しさを求めた結果でもあります。

ゆえに、全ての原因結果は、人間の宇内にあるのです。


ちなみに私は四回目のコロナワクチンを打ちました。

ワクチンを打つと、自己の免疫力が一時崩壊し、コロナウィルスや病気に罹りやすくなります。

私の姉は二十年以上、添加物や小麦粉を食べずに、運動とヨガと和食にて、風邪やインフルエンザに罹らなかったのですが、コロナワクチンを打った為に、一時、コロナウィルスに罹ってしまいました。

身体に異物を入れるのは、やはり、自然からすれば、おかしなことであるのです。

私の場合は、人類の咎、罪穢れを身体に受け入れる積もりでワクチンを受けていますが。

この大いなる地球も人類が利便性の為に造り出した、排気ガス、公害汚染や思念の劫を常時受け入れてくださっております。

地球には申し訳ありませんが、全てのインフラが無くては、人が生活する為の経済が成り立ち出来ません。

故に、いずれ人類はその報いを受ける日が必ずやってまいります。

その中で坐する事の意義は、吾自身の氣を固く集め、精(真水)を身体に運(めぐ)らせ結び、吾が内なる神(火水)は回光し、凝り、高く広く増し、そうすると、内なる神へ、炁が任運自然に聚まり、天地と同じ生成化育の運行を致します。

この人たる小天地の生成化育の中で、人の思念なる劫、人類の犯した業、罪穢れを弭化(先天のうちに抹消する働き)し、吾が坐軸は、地球のポールシフトと同化し安定させます。

また、先天の坐法とは、瞑想とは違い自己の潜在意識に潜りません。神を見たり、神に聞いたりするものでもありません。

ただ、黙って、心は平らかにし、静かに坐るだけです。

堅・誠・恒をもって坐れば、気が固まり身体に充満致します。溢れる氣は自然と八脈に百絡に流れ水車の如く、神秘の7つの華を回転回光させます。
そうすると、呼吸は自然と胎息となり、魂霊身体は宇宙に即した状態となります。これを「適」と呼び、坐して適すれば、それは形心坐が神化し息坐となります。

息坐は全てに通じます。

通は適の母であり、氣通、精通、神通を感得致します。吾が内なる神、外なる神と無形にて通じるのでございます。



扨て、神の分け御魂を頂いている人間は、頂いている神々の系統の御魂、それぞれの役割があります。

親神の働きと、自身の身魂が同調し、生成化育し、自然と調和させる為には、坐が必要でございます。

いずれ、人は死に、肉体は滅んでしまいますが、この肉体を最大限に活用すればこそ、魂は水晶の如く、清く高める事が可能でございます。

加齢と共に朽ちる肉体でありますが、筋肉と坐は、期待(氣体)を裏切りません。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クリスマスイブに述べる道。

2022-12-24 20:19:00 | 私的考察
イエスが生誕した由縁は、一重に、慈愛あるのみ。

それは、釈迦意識に繋がり、すべての人を幸せにしたい。キリスト意識ともいう。

イエスも釈迦も水より樹木と生誕し、自然の調和を愛する大樹の化身でもある。いや、その水より人と成らず、水より大樹となり、そして、人と生まれたゆえに、人意識よりも、より、主一無適なる静寂を悟り、涅槃ヘ辿り着きた存在でもあります。

故に、争うことをされず。競うことをされない。

植物は、競わず、群れても同調せず、個により、成長する。

いにしえの人は、全て、水より生まれたが、生まれ変わりがある以上、人は、木や、磐から、生まれた人に劣るなり。

人は知恵があり植物を下に見る。そして、人は、物に乱れるが、樹木や岩石は物に乱れず。

ゆえに、太古の樹木岩石は聖人となり、人は愚かになり、物に、左右されやすい。

小人閑居して不善を為す如くなり。

多くの人は小人となる。 

ああ、私もその小人の一人であります。

ここに、人の意識の高低が生まれた所以でもあります。

聖人と民草の意識の違いは、此処にある。

人は、我を大切にするが、岩石、植物は、我を大切にせず、あるがままの個性を自然を顕すなり。


扨て。

人が真理への道を臨むのであれば、坐するしかないと考える日々であります。

静修。樹木の如く、岩石の如く。

坐の道とは、昏まず、沈まず、塞がず、滞らず。

故に炁が錬れる。

その回天が止む事は無い。

坐とは静。

その相対とは、思い。

かつて、白光真宏会を主催された、五井昌久さんは、病により死んだ。

彼の生き様は、著者「天と地をつなぐ者」に久しい。道を修める者は読むべきでございます。

光透波の小野田早秧さんは、その病になる寸前に、五井教祖により、その思いを捨てよと、申されたが、小野田早瑛さんは、その思いは、とても大事なもので、教祖の言語を拒絶された。

その後、五井教祖は発病されるのである。

私は、小野田早瑛さんとあった事がある。

老祖の兄弟子、先輩である、kigunnさんが小野田早苗さんの愛弟子であった所以である。

小野田師は、老祖より、特名を賜っておられる存在でもありました。白白白光(きょうこう)即ち、彼女も老祖の弟子でありました。

白を三つ重ねた文字であり、漢字変換できませんでした。

五井さんも老祖の弟子であり、道名は、昱修。

五位昱修さんは、日の出の神の化身でもありました。


思いとは、人の積み重ね。

吾が師老祖は、思いの弊害を解く。

されど、人の進化の由縁は、思いによる。

思凝霊。

人の都合勝手の想念を貪り喰らい、勢力を伸ばす。

陰度(恨み辛み)より、派生した九尾の霊は、その人の思いを採用し、自己の眷属を増した。

されど、正邪伴に含むが神なり。

清濁ありて、中府に素あり。

清は登り、天となり、濁は降りて、地となす。

そして、濁っている、地は穢れているのであろうか。

否。

それぞれの働きと役割がある。

そして、天地の子、小天地の人類も然りなり。

思いを弊害としてはならない。

人の思い。

その思いを丹田で昇華する、

思いを神適するには、丹田に修めるのみ。

人体には、後ろの百太郎の如く、百通の神が宿っている。

その重要の一柱が、木官神。

肝臓に宿る神である。

腎臓には、都海神。

肺臓には、華蓋神。

人体には、百絡の神が宿っており、百神の総合体が人間でもある。

丹田とは、人に内在する神の一柱なり。

故に、チャクラを開こうとする意識では、決して開かれず。

天地の神、身体の百絡の神、そして、真吾たる、吾が内に内在する神を悟らねば、ならない。

丹田とは、人の心から離れていて、吾が内なる、魂の根源。

任運自然なる自適を明(さとら)ねばならない。

吾が内鳴る神と出会えずして、あまつちの神と出逢える所以は無い。

出逢えた想っても、真なる神ではなく、眷族か、使神か、思凝霊か。妄想か。

ああ、かむながらたまちはえませ。


さて、さて、この聖夜。いや、そう、人が安寧を願う静夜。。。平和を願う意思を持たれる日。

イエスキリストは、実在された。この聖者が別者と、される方もおられるが、彼は確かに、12月25日に生誕された。

ちなみに、イエスに水の洗礼を施したヨハネは三月五日に生まれている。

三六では、ないが、三五。あなない。


イエスキリストを悪魔と呼ぶ者もおる。

なんせ、キリスト教徒同士のカトリック、プロテスタントの殺し合い。

歴史を見れば、キリスト教徒の歴史は暗黒期が多いように思える。

何故そうなるのであろうか。


人は、物を得る為に、助け合ず、殺す種が宿っているからである。

されど、世界の古代民族に連なる子孫、大和の国に生まれた、種には、人を活かしたい、和する種も宿っている存在もある。

いずれにせよ、混濁するが、自然の人なる種なり。

ああ、そして、聖夜なり。

人が静かに神を思念し、そして、内なる、キリストと出逢えることを、吾は深く臨むのである。

誰にでも、釈迦意識が宿り、キリスト意識が宿っている。

釈迦は先ず、水の洗礼を施し、キリストは火の洗礼を施している所以でございます。

是を知れ。


コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善と悪の別れ道。

2022-12-05 08:13:00 | 私的考察
ああ、人は善と悪に別れる習性がある。

その善悪は、常に人の主幹に寄る。

なんせ、神に善悪は無い。たぶん。無極であるが故に。

吾が師、老祖は、善悪を含む中、人に於いては、その善なる活動を臨んでおられるが。

神は鳴り響き活動されるのみ。


道を求める者は、常に、ふんわり、心を浮かさねばならない。

何事にも囚われては、鳴らない。

この善悪響きある、世界において、ただ、空を無を求める。

雲の様に流されるのみ。

太陽の様に、熱を帯びず、大地の様に、震わず。

ただ、月の如く、夜空に反射するのみ。

月の裏には、重大な秘密があろうとも、月は、優しく人を護るのみ。


身体には、南極と北極とがあります。

南極に、文明あり。北極に試練あり。

これは、頭脳と、体幹のサトシ。

脳よりも、腹を括る。

人の身体が宇宙を示されておられる証でもある。

いや、南極たる、天庭も、北極たる、黒潭もすべからく合わされば、調和なる神人合一の境地を現す。

私は三回目のコロナワクチンを打ちました。

愛する妻の働きにより、四回目も打つ予定と、なっております。

死にたがり屋の私にすれば、これもまた、好奇なり。

扨、今のコロナワクチンは、人を滅亡させる存在なのか。

然りであり、否でもある。ワクチンは毒を以て毒を制する、研究者の証しでもある。

コロナワクチンは、人殺しの道具なのであろうか。人体実験を為す為の道具なのであろうか。

否であり、応である。

コロナワクチンの副作用で人は簡単に死ぬ。

されど、コロナワクチンを研究をされた、人は、人を殺そうと作ったものであろうか。

否。これは、明らかである。

そして、コロナワクチンで救われた人は、皆無で、皆、健康を害されたのであろうか。

否である。

幾億万年の最中、人は、業を劫を創り、天からの命を拒み(欲に囚われ、天命よりも、我が趣向に偏る。)、我のみ良ければ良い、我よしの心を増大された。

そこに如何なる、善意も利用され、金儲けの利益が繋がる。

コロナウイルスは太陽の洗礼でもある。

しかし、コロナワクチンは、悪意の象徴であり、その善意を信ずる者がある。

ならば、国が悪意を以て、それを示しているのあろうか。

国は社稷あるのみ。。。されど、人は偏る。

国とは、民草の思想の現れでもある。

国に悪意があるのは、民草の現れである。

国に善意があるのは、民草の現れである。

人の利己主義と、悪意は永遠に消えない。

その最中、国に責任を求めるは、社稷では無い。

国とは社稷であるが、民草は、社稷を求めない。

民草が求めるは利己主義。

人は、個人としては、善良であっても、民草となれば、乱れる。

喜怒哀楽の発せざるこれを中と呼び、一度発して、節に当たる、これ和と謂う。

神の道に、生きる者は、人の情に流されても、和を乱しては、ならない。

中は、天下の大本の明道であり、和は天下の達道であり、中和を明らかにして、天地が位し、万物を活かすのである。

坐の道は、ほんわか、かろやか、和やかにして、道を明らかにするのである。

人は、決めつける。

何を決めつけるのであろうか。

我が正しさを。

歴史を振り返れば、善悪などの争いは、不明であり、無明。

都合勝手。

結論を述べれば、ワクチンを、撃たずとも、自己の免疫機能を確立させる。その為には、添加物を摂らず、納豆などの発酵食品を食べれば、死のリスクを回避出来るのであります。

勿論、筋肉も鍛えねばなりません。

皆、ダイエット的に、微糖や、糖質OFFに喜ばれるが、悪意の添加物が身体を襲うのであります。

まあ、私は、打ちますが。嫁は強し。

美味い話しには裏があり、善い話も然り。

しかし、神は悪を以て善へ導き、人は善によりて、誤る事もある。その逆も然り。

人の生命は儚い。

交通事故、病気、癌化、殺害、戦争。

そして、常に人の心は、乱れる。

故に、人のカルマが劫を生み出し、命数を削るなり。

カルマに囚われない、唯一の方法は、我が身に一氣を集め、回天させるのみ。



ああ、かむながらたまちはへませ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする