玄徳道

道を語るブログです。

反戦病道。

2025-01-18 18:25:00 | 地道
世に、ハンセン病がある。

私は、若木時に、早朝の千日前線の地下鉄にて、顔が崩壊し、爛れておられる人が私の向かいの席におられた。

私は、その姿と形を見た瞬間に、自分の不運を呪い、また、その穢れが私に入らない事を即座に望んだ。

ひるがえれば、その方の病を何なるかを私は、詳しく存じ上げない。

しかしだ、その醜い姿を見て、不運であると感じたのは、真実なり。

また、そこに、美人な、女性がいたならば、今日はラッキーと思ったであろう。

今、私には、その醜さがおのれ、自信である事が理解出来る。

私の心は、相当に醜くかった。

神は愛なり。仁とは、忠恕なり。大道廃れて仁義あり。人心を破棄して天理に至る。

などの知識は、あったが、知識のみを理解した、悪人であり、邪悪でもありました。

また、今、振り返り、その嫌悪とは、カルマへのガソリンであることを理解しました。

私は、二十代前半にて天帝老祖の弟子となったが、師の名を穢す行為と思想は、はてしなく、申し訳無いです。

私より、遅く、至聖先天老祖の弟子となられた、双子の姉妹は、私の遥か彼方の上を行く。


さて、私が一目見た、その顔の崩れた、男性を穢れと感じた、瞬間に神は私へ、更なる試練を与える事となる。

私は、坐して、それを坐道として、また、神は内在し、その覚醒を神鳴るとする。

されど、若木時には、人を神と観れず、穢れとするは、吾がカルマなり。

ああ、天罰覿面なり。

私的に、反省して、述べる。

人の御魂は、見たままと、真理なり。

されど、神は人に試練を与え、人の思考の逆をいかれる。

こんな、反戦病を創る神など、拳で、ぶっ飛ばしてやれば、良いのであろうけれど、神には、肉体もなく、我無く、意識無く、善悪無く、人間には、その意図は永遠に関する事は不可なり。

坐してからこそ、かつての自らの未熟を理解し、また、若き時の嫌悪感は、相手の御魂の鏡により、私に降りかかる。

今の私の審神では、ハンセン病の方は、すべからく、天使からの転生者が多く、御魂で、言えば、国祖国常立尊、大山祇神。

それは、未来の地球が崩れて行く姿を、吾が姿な投影されて、大難を小難に。小難を無難にされるべく、生まれたこられた、尊い御魂なのであられる。

これを知り、これを悟れ。

そして、ごめんなさい。

かむながら、たまちはへませ。


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祈り道

2023-10-06 20:15:00 | 地道
昔、ある宗教団体に属していた時(
その団体は、株式会社にて、宗教団体しないと言われていたが、手の平を返して、宗教団体申請を行い、宗教教団となりました。)

その団体では、神様に通じる祈りを、秘伝として、教えてもらいました。当然に金銭がかかります。

その宗教は、教祖教主(大本教の出口直刀自と王仁三郎聖師の関係の如く、教祖と教主の関係があったようだが、教祖の女性が認知症となった噂があり、教主は教祖にもなりました。女性の教祖は表から隠されました。)

話は変わるが、最近では予備校などの学習塾にて、宗教やそれに繋がる団体が蠢いていますね。

そこには(予備校と占いも事業としている)、占い師がおられ、多くの人々を幸せへ導いていると、自画自賛。

さらに、北極老人、南極老人とのたまう。

人間は、知らないのであろうか。

他者から、与えられた助言に従えば、自信の御魂の輝き無くとも、ある程度の幸福を得られるが、それは、給料の先取りの如く。

自らの徹底努力無くして、真の幸福は得られない。

また、真の神様と出逢った事がある人は、占いを否定と肯定は、しない。

神様は、この苦海の最中、ある程度の占いを黙認しておられるが、願わくば、自己努力を臨んでおられる。


しかし、悩める受験生を籠絡し、洗脳する働き。やはり、若者の純粋さは、思想を植え付けるには最適であり、多少の若者は、因縁とカルマにより、善きも悪しきも、囚われる。

ああ、かむながらたまちはへませ。

さて、神様に通じる祈りとは、簡単に云うと、神様を感動させる。神様を、感激させる。神様を心から喜んで貰う。神様を心から納得して貰う。

朝、目が覚めたら、会社のこと、人間関係のこと、自分の働きなどを、神様の為となるように祈る。

私は、その祈り方に遇わないから、祈りませんでした。

神様の為に云々言いながら、結局は、自己の願望を叶えようとする、嫌らしさ、に嫌悪したからです。

いえいえ、本音は、そんな祈りを、1時間も2時間もしなくちゃならないの、自己満足するだけの祈り、面倒くさい。

その点、根本誠乾先生は、「彼らの祈りは、世の宗教と、等しく、祈らねば信仰の証しが無い。祈らねば、信仰が続かない。

しかし、道院の先天坐は、祈る事は無い。ただ、黙って坐る。そして、見方.変えれば、坐とは、無極に至る為の祈りでもあると。」

私は考える。

祈りとは、素直であるべき。

自己の邪悪、嫌悪する部分、隠さずに、神様に祈る。

私は神様に祈ること、願う事もありませんが、ただ、いつも、自己の浅ましさ、至らなさ、邪悪さ、愚かしさを、言葉に出来ない、自己のありのままを、「しせいせんてんろうそ」と現して、唱えます。

私は考えます。

信仰とは、自分と神様の唯一無二の世界。

そこに宗教的な、儀式や遣り方などは、参考にする事はあっても、大した問題も無く、正しい祈り方云々も必要無く、無二の空間を揚々悠々中中する。

至誠が天に通ずと、ありますが、「誠は天の道なり。誠は神の道なり。これを誠にするが、人の道なり。」

「心だに 誠の道に 叶いなば 祈らずとても 神は守らん。」

日本には多くのイスラム教徒が海外より渡来し、働いてくださっております。

彼等はひたむきに、アラーへ、朝昼夕方晩祈ります。

そのイスラームの儀式的祈りは、日本人から見れば愚直であるかもしれないが、異国の地で働く彼等を神様は厚く守護して、いらっしゃっる。

たかが儀式、されど、魂で通じれば、真祈。

故に、彼等は、自己信念のままに、祈る。

祈りとは、形式では無い。

祈りとは、自らの御魂の発露あるのみ。

そして、神に通じるのは、自らの神の分魂のみである。

また、真音なる、言霊のみが、神に至りて、全てに通す。


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水源道。

2021-12-13 18:27:00 | 地道
太乙北極真經で曰く、木に根本あり。水に水源あり。

水源木本。

道院の故、根本誠乾先生は、全ての存在には、必ず根があると。

貴方の根は親であり、親を大事にしなければ、自分を汚すと。

確かに、人は祖に基づき、祖は神に元づく。

しかし、安易には、うなづかない。

親が子を殺して、子が親を殺すが人の真実の世界なり。

太乙北極真經にあるがごとく、その種を滅ぼすのは、親が子を殺し、子が親を殺し、截源、自断として、種の断絶が描かれている。

太古より、滅びた種は多くあり。

人間はどうなのか。ただ、一部の、滅びを推奨する阿頼耶識の因果により、行われている。

故に、今の人類に自断は無い。しかし、未来は不透明であり、人の因果以外に、地球に積もった劫は相当なものである。

老祖の弟子は速やかに、それを化さねばならない。

滅びの阿頼耶識とは、悪意の積算。積もり重なった結果の行いである。


親を大切にするのは、当たり前だのクラッカーであるが、親に虐待を受けた者も確実にいる。

私は大阪で暮らしたいるが、かつて西淀川区の西淀川警察署の後ろのマンションで、幼い女の子が虐待され、バルコニーで死亡した事件があった。

私は神に文句をいった。てめえは、何も出来ない神なのかと。そして、俺も何も出来なかった。

さらに、言う。馬鹿ばかりの無能の神ども、幼き子を守る事も出来ない無能な神ども、俺がいつか、神となり、子供と、女性の、守護者となると。

それほど、自分の無能さに腹が立っていましたね。

未だに無力である。情けなし。


それと、同じく、神の眷族も自然破壊の一端によって、機能を奪われている。


奈良の古代出雲族の聖地、ダンノダイラ。

巻向山の水源地。

そこに水神社があり、よこしまな(邪魔)、気を湧き上がっている。(眷族は水蛇神。)

今回は二度目の対面であります。

經や祝詞を唱えようと、すると、単語が出て来なくなる。意識をそらされ、単語を忘却される。それは、四度目。

蛇は食うものの気を呑む習性があるようだ。

しかし、今度の天の橋立神業には、ここに来なければならなかった。

なんでかは、知らん。


神は悪を為して善とする。


祟り神と畏れられていた、艮の金神。

なんだ、蓋をあけりゃあ、人を信じた愛する神であった。


多くの人間は、今でも知らないが、祟り神とは、太古崇拝された神である。

強いもの勝ちよりも、調和を重んじた神が殆どである。

神は人の崇敬により、力を増すと言われているが、それは、真実でもあるが、人の盲信により力を増す存在もいる。それは神ではなく、思凝神である。

なんせ、人は迷信する。

自己の神を知らない者には永遠に迷信するのである。

神とは、人に左右されない。

しかもだ、人の御魂と能く感合し、神を拝み奉り、崇敬されなくても神は無償で助けるのである。


神は人を無償で愛する。そこでも、人には、信仰を求めない。

自ずから内なる神を覚信した信仰であるならば、神は喜ばれる。

そこで、迷信の妄想を離れた、真実の繋がりによる信仰を神は、臨んでおられる。

神は何時迄も待っておられる。目覚めを。

真の神は求めない。与えるだけである。

それは、人も同じである。愛する家族に見返りを求めない。ただ、与えるだけである。

見返りを求めるのは、仁愛を離れた、損得の世界である。


私が水神社の水蛇に臨んで、何も欲し無い。ただ、磐笛を吹き、經や祝詞咒を挙げ何も欲し無い。

一天指。

帰りに松と榊が落ちて来ました。

眷族神のお気持ちであられようか。



松と榊は食べる分だけと神棚に捧げるだけ頂き、あとは土に刺してきました。

根が生えると良いね。



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心道。

2020-04-23 20:47:47 | 地道
人は、何に因って生きてあるのであろうか。

食べる為に生きている。

働く為に生きている。

家族の為に生きている。

宗教の為に生きている。

まあ、八百万。人の心は本人しか知らない。

ならば、何故人は、新型コロナウイルスで死ぬのであろうか。

煙草による、肺へのダメージが因するのか。

高血圧や持病により、免疫力が堕ちる所以であろうか。

人がコロナウイルスで死ぬのは、自然からの淘汰なのであろうか。

否。

コロナウイルスが人口ウイルスならば、人類は、人類の因果により殺されるのである。

さて、何時の時代でも、心が強くなければ、人は生き延びる。「信念に死ぬこととを見つけたり。」
「死生に活あり。」

心とは、即ち免疫力でもある。

免疫力の機能は、全て氣から生まれる。

氣とは、何であろうか。人間機能を働かす、電池のごとき、天地万物共存共栄を促す、地球と人との合氣である。

人が勝手に生きているのではない、地球により生かされているのである。

体主霊従、物質文明を主体に生きている人は、寝耳に水であるが。


私は毎日、瞑想する。先天坐。そして、毎夕、鎮魂をする。

鎮魂法とは、鎮魂石に意識を鎮座する瞑想方である。かつて、復古神道中興の祖とされる本田親篤老翁が鎮魂石と岩笛を使い、かつての古法を復帰された。古神道の奥義でもある。

鎮魂石は、住吉大社と大神神社にて賜りました。

先天坐は虚空。鎮魂法は鎮魂石なる無機物と相対する。

この二通りは、確実に氣を回す。ゆえに氣が躍るのである。

氣が周り。踊れば、免疫力は衰えないのである。

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疫病道

2020-02-09 16:34:47 | 地道
釈尊は人には四苦悩があるとされた。

それは、死であり、生であり、老であり、病である。これを単純に考えれば、人間とは、苦しむ為に生まれてきたのかと、考える事もある。
老も死も、確かに克復は出来ない。それが神仙と成ったとしても。

しかしだ。生も病も、克復することも可能である。。。そして、それらをもし、克復出来たならば、それを楽しめる事も可能である。


この科学が、発達した現在でも、疫病が発生し、多くの人を苦しめ悩め、死へと導く。

否、文明が発達し、科学が万能となるからこそ、この相対的世界では、必ず、対抗する抗魔が働く。人々が楽しく安定する道が有れば在るほど、抗魔が来たりて脅かす。。。

陰あれば、陽、陽あれば陰。光あれば闇があり、闇があるから光が産まれるが如く。

好事魔が多しとは、この働きなり。

人々が疫病になるのは、現在医学では、感染力によると言うであろう。唾液、粘液等による感染。

そして、疫病とは地球に眠る生命力。怖れるは、人間のみ。

それらを防ぐ為に、うがい手洗い、マスク手袋、による保護の行いは大切である。

それらを含めて大切なのは、邪気や病気を怖れない事である。

病気を恐れれば怖れれば、嫌えば嫌うほど、病は、悪魔と同じで寄る。

意識すれば、するほど、よく感応する。

潔癖症程、病に憑かりやすいと、同じ道理でもある。


さて、坐する者は、免疫力は高い。故に病を退け、健康的であり、長寿でもある。

老祖の弟子は基より、多くの災劫を承け、それを化す。ゆえにその余波を受ける。だから、抗魔を最大限に抑える効果もあるのである。


ありとあらゆる生物の生命力を挙げる言霊は。
「はるち、うむち、つづち。」

出口運霊師の著作にも載っている。




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