三十歳を過ぎてから、毎朝、間断なく、坐して、十年以上。飲み会で飲み過ぎて、二日酔いでも、風邪や、熱がある体調が悪い日でも、仕事の現場が遠く、朝五時に出発する日でも、台風の日も、貫き通して、坐しました。
何せ、私は、無能なり。頭も悪く、人付き合いも下手、何の取り柄もなく、人嫌い。そんな、私が生きて行く上で、何が出来るのか。坐あるのみです。私には、先天坐しかなかった。
根本誠乾師は、満州国の生まれだったっけかな。少年時代に、満州にて、日本人の村が中国共産軍の侵略にあい、多くの日本人が殺され、その死体の後片付けを、殺されなかった、根本少年がさせられたようで。根本少年少年は、同胞を、殺された報復をわすれずに、なんとか、日本に帰国し、成人後、右翼に傾斜、中国共産党を倒そうと、台湾軍に紛れ混み、共産軍を攻撃した。しかし、共産党の捕虜となり、数年牢屋に閉じ込めれた。かれは、独房にて、日々、処刑され、殺される恐怖の葛藤の中で過ごされました。
日々の恐怖の中、彼は、ある物語を思い出した。それは、鎌倉幕府の北条時宗の物語。時宗は、執権と成る前は、自分の心が弱く、凄く悩んでおりました。とにかく、自分に自信を持てない。あるとき、禅の高僧にそのことを相談しました。禅僧は、簡単なことと請負、「喝。弱い時宗を捨てるのじゃ。」「弱い私を無くすにはどうすれば•••」「黙って座れ。座禅せよ。」時宗は、禅に打ち込みました。 時は、元寇のころ、時宗は、元の侵攻による、脅迫に、屈せず、果断に使者を切り捨て、国難に立ち向かいました。
根本宏は、この物語を思い出し、「私は、まだ、殺されてもないのに、日々、いつ処刑されるかと、心は既に殺されている。もし、時宗のように、弱い自分を無くせば、恐怖に立ち向かえるのではないか。」と彼は心を無心にすべく、毎日、毎時毎分毎秒、自分の吐く息を数え、恐怖を忘れようとされた。即ち、数息観。根本誠乾師は、これにより、恐怖に打ち勝ち、日本へと、奇跡的に送還されました。後、禅の大森曹玄老師に弟子入りされたが、禅の公案が難しく挫折された。
根本師を道院に誘ったのは、笹目秀和老人です。当時、笹目氏の悩みは、フウチ。フウチは、神霊による自動書記。しかも、中国語では、なく、漢文の古語の文字が表され、中国人でも、フウチの漢文を訳すには、知性の、教養が必要であり、まして、日本人である笹目老人には、理解と訳がなかなか出来ませんでした。根本師は、中国語と漢学の教養があり、ここに目をつけたのです。
笹目老人と根本師は、当初は、仲が良かった。根本師曰わく、「笹目さんは、釣る前の魚は、だいぶ可愛がり、私も可愛いがられたよ。だけど、釣った魚には餌をやらない人でね。」
当時からのフウチの翻訳は、呉清源氏の名前で出されていましたが、ゴーストライターのように影の翻訳は根本師がされておりました。
根本師は、宗教団体の教主、深見青山氏の師としては、割と有名でもありますね。
道や、誠、中庸、易の話しは、ぶっ通しで八時間位は、平気で言葉が、止まらないぐらい、講義される方でありましたよ。
私は直接、根本師の自宅を訪れ、五経の「大学」を修身済家治国平天下を教えて頂きました。
私が根本師より、よく賜った言葉「人欲を捨て、天理に還れ。」「この世に生まれた以上、天下にあってはならない存在となるか、なくてはならない存在となれ。」と。
坐の効用は、なんであろうか。
幸せも、不幸も、運も不運も、ありのまま受け入れることが出来るよう成ったかなあ。決して、他のせいにしない。
パチパチなる、ラップ音が減少したこと。
仕事では、少しは男らしく、責任感があり、決して逃げなくなったこと。
家族がインフルエンザでも、私には一切移らないこと。
風邪を殆どひかなくなり、ひいても、短時間で治癒すること。
神社好きだけど、それより奥宮の磐座が大好きになったこと。
私は坐の時間は、三十二分の八度。毎日やるからねえ、こんなもんでいいのさ。
私が六十歳を過ぎたら、十六度に変えるつもりなり。
毎朝、坐して、三十二分。時折、タイマーのセットを忘れると、気が付けば、一時間は、余裕で過ぎている、「ヤバい遅刻すると」あわてて、出勤する日もあるので、なるべくタイマーには十分気を付けております。
神社好きの私です。特に住吉大社の大神は、私の厳父の如き。住吉大社の地にて、氣の矯正をされることもしばしば。
ある時、自宅にて坐していると、私の内の中に、住吉大神がおられる事に気づいた。
老祖は、「外に神を求めるのでは、なく、中(内)に、道を見出すのである。」
そして、私の内には老祖も、八百万の神々がおられることを。それは、大いなる、流れ、普遍的意識であることを。
内なる神、内在する神への気づきなり。
まあ、伊勢白山道へと走ったのも、同じ仲間がいるハズと、嬉しかったからでしたが。ハズレ。
つづく。
何せ、私は、無能なり。頭も悪く、人付き合いも下手、何の取り柄もなく、人嫌い。そんな、私が生きて行く上で、何が出来るのか。坐あるのみです。私には、先天坐しかなかった。
根本誠乾師は、満州国の生まれだったっけかな。少年時代に、満州にて、日本人の村が中国共産軍の侵略にあい、多くの日本人が殺され、その死体の後片付けを、殺されなかった、根本少年がさせられたようで。根本少年少年は、同胞を、殺された報復をわすれずに、なんとか、日本に帰国し、成人後、右翼に傾斜、中国共産党を倒そうと、台湾軍に紛れ混み、共産軍を攻撃した。しかし、共産党の捕虜となり、数年牢屋に閉じ込めれた。かれは、独房にて、日々、処刑され、殺される恐怖の葛藤の中で過ごされました。
日々の恐怖の中、彼は、ある物語を思い出した。それは、鎌倉幕府の北条時宗の物語。時宗は、執権と成る前は、自分の心が弱く、凄く悩んでおりました。とにかく、自分に自信を持てない。あるとき、禅の高僧にそのことを相談しました。禅僧は、簡単なことと請負、「喝。弱い時宗を捨てるのじゃ。」「弱い私を無くすにはどうすれば•••」「黙って座れ。座禅せよ。」時宗は、禅に打ち込みました。 時は、元寇のころ、時宗は、元の侵攻による、脅迫に、屈せず、果断に使者を切り捨て、国難に立ち向かいました。
根本宏は、この物語を思い出し、「私は、まだ、殺されてもないのに、日々、いつ処刑されるかと、心は既に殺されている。もし、時宗のように、弱い自分を無くせば、恐怖に立ち向かえるのではないか。」と彼は心を無心にすべく、毎日、毎時毎分毎秒、自分の吐く息を数え、恐怖を忘れようとされた。即ち、数息観。根本誠乾師は、これにより、恐怖に打ち勝ち、日本へと、奇跡的に送還されました。後、禅の大森曹玄老師に弟子入りされたが、禅の公案が難しく挫折された。
根本師を道院に誘ったのは、笹目秀和老人です。当時、笹目氏の悩みは、フウチ。フウチは、神霊による自動書記。しかも、中国語では、なく、漢文の古語の文字が表され、中国人でも、フウチの漢文を訳すには、知性の、教養が必要であり、まして、日本人である笹目老人には、理解と訳がなかなか出来ませんでした。根本師は、中国語と漢学の教養があり、ここに目をつけたのです。
笹目老人と根本師は、当初は、仲が良かった。根本師曰わく、「笹目さんは、釣る前の魚は、だいぶ可愛がり、私も可愛いがられたよ。だけど、釣った魚には餌をやらない人でね。」
当時からのフウチの翻訳は、呉清源氏の名前で出されていましたが、ゴーストライターのように影の翻訳は根本師がされておりました。
根本師は、宗教団体の教主、深見青山氏の師としては、割と有名でもありますね。
道や、誠、中庸、易の話しは、ぶっ通しで八時間位は、平気で言葉が、止まらないぐらい、講義される方でありましたよ。
私は直接、根本師の自宅を訪れ、五経の「大学」を修身済家治国平天下を教えて頂きました。
私が根本師より、よく賜った言葉「人欲を捨て、天理に還れ。」「この世に生まれた以上、天下にあってはならない存在となるか、なくてはならない存在となれ。」と。
坐の効用は、なんであろうか。
幸せも、不幸も、運も不運も、ありのまま受け入れることが出来るよう成ったかなあ。決して、他のせいにしない。
パチパチなる、ラップ音が減少したこと。
仕事では、少しは男らしく、責任感があり、決して逃げなくなったこと。
家族がインフルエンザでも、私には一切移らないこと。
風邪を殆どひかなくなり、ひいても、短時間で治癒すること。
神社好きだけど、それより奥宮の磐座が大好きになったこと。
私は坐の時間は、三十二分の八度。毎日やるからねえ、こんなもんでいいのさ。
私が六十歳を過ぎたら、十六度に変えるつもりなり。
毎朝、坐して、三十二分。時折、タイマーのセットを忘れると、気が付けば、一時間は、余裕で過ぎている、「ヤバい遅刻すると」あわてて、出勤する日もあるので、なるべくタイマーには十分気を付けております。
神社好きの私です。特に住吉大社の大神は、私の厳父の如き。住吉大社の地にて、氣の矯正をされることもしばしば。
ある時、自宅にて坐していると、私の内の中に、住吉大神がおられる事に気づいた。
老祖は、「外に神を求めるのでは、なく、中(内)に、道を見出すのである。」
そして、私の内には老祖も、八百万の神々がおられることを。それは、大いなる、流れ、普遍的意識であることを。
内なる神、内在する神への気づきなり。
まあ、伊勢白山道へと走ったのも、同じ仲間がいるハズと、嬉しかったからでしたが。ハズレ。
つづく。