心を修める第一歩の工夫には、特に静坐が大切である。
しかし、坐を始めて、すぐに静となることは難しい。
それは、雑念妄想が相次いでやって来て、一つの念が治まらないうちに、また次の念が起きて止むことがない。
その原因をきわめてみると、凡てはその心が、いまだに虚空となっていないから、七情六欲が絶えず起こってくるのである。
目でいろいろなものを見るとき、目自身に何の欲望があろうか。
この欲望は心にある。
耳でいろいろなものを聞くとき、耳に何の欲望があろうか。
欲望は心にある。
鼻で嗅ぐとき、舌で味わうとき、鼻や舌がどうしてその香りや味を欲することがあろうか。
これと同じように、一身の安逸や妄心を欲するものはまた、心にある。
譬(たと)えて言えば、心に欲するところがあれば、たとえ千里を歩いても、疲れを感じないし、心に欲するところがなければ、すぐに近くであっても足は一歩も前に進まない。
どんなに美味しいご馳走を出されても、心がここになければ、食べてもその味がわからないのである。
各方は試みに考えてみよ。
妄念妄想にはいろいろな奇々怪々な想念があるが、修方(道院の修養者)である以上、殺人放火の思いを抱いたり、強姦窃盗の念を起こすことは決してないであろう。
それはこのような想念や心が無いから、このような行動を起こさないのである。
各、修方は更に詳しくこれを悟れば、雑念妄想が起こってくるのは、心が動くことより、起こってくるのである。
この故に坐を修める時に、収視返聴して竅(虚)を守るのである。
収視とは目で見たことによって起きる心の中のあらゆる想念を放下することであり、返聴とは耳で聴くことによって起きるあらゆる想念を放下することである。
しかし、目で視、耳で聴くあらゆる、想念を断絶して枯木死灰(心の熱い活動がなく、死んでいるようなさま)となってもいけないのである。
竅を守るとは、即ち虚空であって、心が何ものにも、とらわれる事が無くして、生き生きととして、はたらいている所以である。
それ故に心は人の根源であり、修道の最も大切なところであり、天地の主宰であり、道慈のかなめでもある。