「修めるは坐より始まり、成ずるのも又、坐より始まる。」
と真経にあるように、修道は必ず坐より始めなければならない。
しかし、静坐しても必ず、成果が上がらないのは何故であろうか。
その原因は何処にあるのだろうか。
ここで同修各位と共に討論してみよう。
道を修めるには、必ず心を修めなければならない。
心というものは、動き易く、落ち着かせるのが難しい。
これは、後天的な物欲の心であって、先天的に一人一人に授けられた元性、道心とは違うのである。
先天の清浄な心は、我々がこの世に生まれて来てからの習性や物欲によって次第に束縛され、汚染されて、その結果、心を正し、意を誠にし、身を修め、家を斉(ととの)えるいう事が出来なくなっている。
順って、先天本来の心にかえるのに、まず静坐より始めて心を静かにし、気を平らかにすることから始めるのである。
「一平則息」とは、心が空になれば、無欲となり、無欲となれば、五行(肝・心・脾・肺・腎)の気は平らかとなる。
気が平らかとなれば、真息(先天の呼吸)は自然に運(めぐ)り充ち、化し、生じる。
真息が多くなれば、外流が喝(つ)きず、内源はますます盛んとなり、それは大海のようになる。
先天の炁は孕んで、無形の水が成り、有形が生じて、道の基はここに立つのである。
根本である道基が確立すれば、我が身の先天の炁・霊・性、後天の精・気・神は、みな自ずから運化の中において不可思議な力を発揮する事が出来、道の妙果を成す事が出来る。
順って能(よ)く病を退け、能く災禍を無くすのである。
我が一身の疾病を無形のうちに退けるとは、即ち良医が未だ病気にならないうちに治すと同じであり、我が一身の災禍を無くすとは、我が一身の罪業(悪因)を消す事が出来、我が霊を養って元性に還る事が出来る者は、凡俗を超えて、聖域に入る事が出来るのである。
このように、静坐の効果は大きく、かつ重要であるから、求修(老祖の道)の初めに必ず静坐をもって修道の大本とするのである。
修視返聴の工夫は、妄念を除いて、元素の胎に復帰する為に行うのであって、妄念を除かれれば、坐功は一度であり、妄念を化せれば、坐功は二度であり、元素の胎に復帰するのは、坐功三度である。
静坐を始めたニ、三年間は、雑念が多く、急にこれを取り除く事は出来ない。
そこで修視返聴の工夫を続け、じっくり時間をかけて坐を練習して、はじめて効果が現れてくる。
「有欲竅を観、無欲妙を観る」とは、老子の言葉で、無形の竅、無形の妙を観るとは、自然の観であって、観ると言う意識が無いのである。
初心者は意識しなければ、観ることが、出来ないが、竅を印堂(眉間)に守るのは、念を止める練習方法である。
一寸した雑念を止めるには、少し静にしておれば、除去される。
しかし、両眼の神気を眉間の竅に集中し、凝らすのは、よろしく無い。
ここに神気を凝らして、その部分が何か詰まったように感じたり、頭がフラフラしたり、血圧が高くなるのは、意識を用いて竅を観、知らないうちに気力を使ったからで、必ずリラックスしてゆっくりとこれを除去する事である。
坐功が堅定になれば、自然に雑念は消える。
そこで知って置かなければならない事は、雑念が起きた時に、これを嫌ったり、打ち消そうとする心を起こさない事である。
もし、嫌ったり、打ち消そうとする心を起こせば、一を除こうとしてニを生じる事になり、打ち消そうとすればするほど、念は念を呼んで、その結果、心を安定する事が出来ず、静坐を続ける事が出来なくなる。
また、「心を以って心を縁とせず」とは、これも雑念を化(なく)す方法であるが、この偈の意味を多くの人が理解していない。
これは、心に一念が起きた時、その起きるにまかせて、それについて行かないようにすることである。
例えば、「この様な事を行えば、世間では滅多に得られない、名誉や地位を得る事が出来、社会の人々はみな自分の事を知って尊敬してくれる。」と名誉を好む念が起きたとする。
この人の心中には、早くから名誉を好む種子が植えられていて、それが今、芽を出したのであるから、当然、心は喜んで付いて行き、「もし、自分がこれをやれば、この様な栄光と尊敬を勝ち取る事が出来る。」などと思う。
しかし、すべて自分の心の中で思い、考え、描いた幻想であって、事実は、必ずしも、そのように行かないが、この幻境の中で行動し、少しでもそれが実現すれば、たちまち有頂天となる。
そして、身体が疲れるのを省みず、本性を害(そこな)っても気付かず、炁霊が散失するのもわからず、大病が無形の内に醸成されているのも知らない。
ある日、突然に我が身に災難が降りかかるに及んで「これは我が運命のしからしむところか、どうして神は助けてくれないのか。」と慌てふためき、嘆くのである。
この原因は劫数(因果)によるものではなく、名誉を好むという欲望の種子にある。
自ら植えた種子から現れた幻境を明らかに悟ることなく、それを妄りに実現しようとするから、欲望の心を縁として、心は千変万化して、静定する事が出来ないのである。
もし、求修の何たるかを明らかにせず、静坐を研究し練習しなければ、その生涯を幻境や得失の中に過ごして、自身の先天後天の三宝を残らず、消耗してしまう事になる。
順って、静坐の功候を練るのに、必ず守らなければならない、条件は、堅・誠・恒であって、毎日決まった時間に坐ることである。
志が堅く無く、心が誠で無く、恒心が無いのに、静坐によって凡俗を超え、聖域に入ろうとしても、それは常識から言っても難しい事ではなかろうか。
そこで正しく修めようとするなら、先ず正しくない点が何処にあるかを知る事がである。
恒心が無ければ、何事をやっても永続きせず、好処を得る事は出来ない。
まして、自然の坐法においては、休まずに、毎日続ける事が大切である。
その次は誡を守ることである。
初歩においては、矜・躁・偏・急の心は除く事をもって基本とする。
矜(驕り)であれば霊が失われて、躁(騒ぐ)であれば、気を損ない、偏(中正を得ず)であれば、気が化せず、急であれば、妄りに動き、やみくもに進んで失敗し、いつまでも後悔する事になる。
矜躁偏急のどれであっても、一度足を踏み外すと、均しく非劫非数の災禍に会うことになる。
そこで、四誡(太乙北極真経にある教え)を常に読み、事ごとに誡めることである。
心が平静な時には、人々はこの四誡(矜躁偏急)が自分と関係が無いと思っている。
しかし、一たび煩雑な仕事に遭遇すると、たちまち平静の候を保つ事が出来ない。
更に他人が理由もなく、横暴非道我が身に加えてくる時には、特別に四誡を慎むべきである。
坐功に正しく無い処がある者も、またその原因を知り、これを招いた理由を明らかにすべきで、そこではじめて、悟覚、証明する事が出来るのである。
たとえば、枯木のような、生気のない坐(枯禅)というのは、どうして、そうなったのか言えば、明らかに無理して空にさせて、いるからである。
もし、自分に僅かでも強制して、力んでいる処があれば、これを緩めなければならない。
また、相に着して、快適でなければ、幻想を生じるので、自分にこの様な事があれば警戒し、相である以上、どのような相であっても着してはならない。
天国の相に着すれば、天国の幻想が目前に現れ、仙仏に着すれば仙物が現れて会話をしたり、美女に着すれば、綺麗に飾った女性が出現し、財貨利益に着すれば、その富貴は天下に冠なるような状態で現れる。
これらは、完全に「心を以って心の好む縁に引かれる」ところの幻境であり、仮のものを真と思って喜び、自ら作り上げた固疾を打ち破ることが出来なくなるのである。
更に坐の時、意識が無くなって眠るが如く、あるいは、いびきをかき、あるいは、八度(三十二分)坐っても、完全に念が動いて治らない。
前者を昏沈、後者を錯乱と言って、軽視出来ない、坐功の大病である。
達磨仏の訓示で云う「何を昏沈というか、炁が未だ凝らざるなり。
何を錯乱というか、念が未だ浄まらざるなり。
炁とは先天の元炁であり、心に在る時は性となり、元神となる。
腎に在れば命となり、元炁となる。
そこで、神が動けば炁が動き、神が静となれば、炁も静となる。
神が行けば炁も動き、神が止まれば、炁もも止まる。
それ故に神が炁を制御せず、性が命を摂(おさ)めることが出来なければ、昏沈に陥り易くなる。
また、元炁が、未だ充実せず、心神が静でなければ、雑念は続々と生じ、散乱となり易いのである。
能く性を以って命を摂(おさ)め、命を以って性に帰すれば、行住坐臥に、おいて物あるを知らず、身あるを知らず、まさにこの時には、万慮寂静にして、物我一体となる。
百念は消化されて、心神は一致し、彼此なく、是非なく、物我なく、本性は明らかに知り、吾が太虚に帰ることが出来る。
これが修道の秘訣であり、劫を脱するところの良薬である」と。
この一節は、性命の元神が、心腎にあれば、昏沈、錯乱する事がなく、水火が相済(ととの)い、性命二つに修まる事を指摘している。
能く坐が定まって妄念がない事を、止まるを知ると云う。
その止まるところを知って、はじめて陰沈、陽亢の害なく、陰陽が平衡するので、水火相済の功は、ここに在り、自然に後天より、先天に返り成ずるも、また、坐より得られる。
すべて、この中において悟り、明らかにして功を用いるのである。
以上大略を述べたが、坐に参じる各同修は、これに基づいて、討論しなさい。