へ。瞑想とは、黙って座り、自己を見出だす。そこに、神無く、グル無く、自然に孤独に、唯一無二の吾あるのみ。
やれやれだ。導師に依存する瞑想をすれば摩るほど、魂は磨り減る。
ははは、音楽を聴き、瞑想する。やれやれだ。それは、瞑想では無い。それは、好む音楽を聞いてリラックスしているだけ。
好きな、音楽に、囚われて、好んだ世界感により、マスターベイションして気持ちが良いだけの世界。
何せ、瞑想とは、気持ち良くなる世界感では無いから。
瞑想とは自らの発露を知覚し、因果を悟り、自らの神を覚え、生誕した、吾を
貫く、道標なのであるから。
やれやれだ。視覚に光を点滅させ、意識をそれにより、瞑想させるだと、それは、瞑想では無い。視覚により、脳内が混乱しているだけだ。故に妄想の幅が広がり、姿形無き神を妄想し、それを神と捉え、得意となり、三次元と二次元の世界を曖昧とする。
何度でも言う。瞑想とは、音に、囚われず、色光に、囚われず、只、黙って座る。
そして、瞑想により、躁鬱なる精神的な病気を得るは、それは、瞑想では無い。
瞑想とは、孤独であるが、自然なる地球の呼吸と一体となり、免疫力を倍加する。故に、真鳴る瞑想者は病を知らない。
瞑想最大の弊害は、グルの存在である。
瞑想者には、絶対導師の教えを守らなければならない。言う。
笑止。嘗てオウム真理教のグルに、従った人は、人を殺した。サリンを蒔いた。
人は元より愚か。過去未来現在ですら、騙されている。
瞑想とは初心者案内してくださる人と縁が在れば有り難し。
何せ、瞑想とは常に意識は自己に向けるにある。そして、瞑想の師に従う輩は、永遠の追従者であり、永遠の盲信者、グルの永遠の奴隷者。そこに価値を見出だす、魂の擦り切れる、淘汰者。何れ、何の悟りを神覚を知らずに朽ち果ててしまうのみ。
やれやれだ。導師に依存する瞑想をすれば摩るほど、魂は磨り減る。
それでも、人は依存する。
吾が師老祖が述べる、先天坐とは、簡単。ただ、何も望まず、黙って座れば善いだけである。
ただ、日常の努力として、一日十六分の時間を割くだけ、費用と師は、不要なのである。