道を学ぶ者は、必ずその身を調柔し、その気を調柔して、はじめて神に合し、最後には想念がともに止み、気息も又尽きて、はじめて無に合するのである。
何故に、神が無に合して、はじめて道に入る事が出来るのであろうか。
それは、天下の物はみな、有より生じて、有は無より生じてくるからである。
調柔の二字は、調について論ずれば、調整、調養、調正などなど、一様ではない。
柔とは則ち、和である。
身を調正するとは即ち、道の理によって身を修めるので、身が調わなければ、則ち精を損ない、その行為は不当で、でたらめとなり、その行動は傲慢となるなど、一様ではない。
その身を調柔するとは、その身の不当なところを調和して、当を得るようにし、不和なところは、以て和を得るようにし、不正なところは以て正を得るようにすることである。
故に身が調柔しなければ、精を傷(そこ)なって疾病を招き易いのである。
心が調柔しない者は神を失い、神を失う者は、又種々の異なった現象があらわれる。
ある者は自ら又これを、覚り、人はこれを知っていながら、そのなった原因がはたして、どこにあるのか解らないのである。
気が調柔できない時には、時(つね)に暴虐の気を起こして重大なる疾病を招くだけでなく、さらに早死にする者も、どうしてそうなるのか、その原因が明らかでないのである。
吾が道院では坐功を積んでいる者は、その病を招く原因について、多くがこれを明らかに理解している。
而(しか)し神が無に合し、気息も又尽きると言う事は、又善く悟り、勤め修め、功候の深純なる者でなければ、これを明白にすることは、出来ないのである。
例えて言うならば、老子がいうには、「気を専(もっぱ)らにし、柔を致して能(よ)く嬰児たらん」と。
何を気を専らにするといい、何を以て柔を致すのであろうか。
生まれて一年にみたない赤子というのは、元気を未だ散じることなく、乾体は未だ破られることなく、百に一つも知る事が無いとは、まさに、これ気が専らになったところの妙であり、百に一つも能がないとは、まさに、これ和を致すところの妙である。
そこで気を専らにして、柔を致すは、無知(知ることなく)無欲(欲することなく)無思(思いなく)無慮(慮(おもんぱか)ることなく)にして、神気が故に能(よ)く一を抱き、魂魄が故に能く相随う所以である。
或いは、修練の士がいて、神気を収め蔵しているといっても、それはただ、その妄想を除き、その呼吸を調えているだけで、神は気に入る事ができず、気は神に帰する事ができず、真息は相依る事が無い。
故に一を抱いて気を専らにし、柔を致すこと、嬰児の如く、自然の妙を有する事が出来ないのである。
この一節の要点は、元気を充ち固め、乾体を充ち固めて、無知無欲無思無慮にして、功を用いる事に在る。
そして、神気が自然に一を抱き、自然に真息が相依れば、凡息は自ら尽きるのである。
もし、如何にして一を抱くか、如何にすれば、真息が相依るかを、人為的に尋ねれば、その相に着(執着)することによって失われ、功を進める事は出来ないのである。
天地は柔和を以て万物を生じ、厳粛を以て万物を殺す。
柔和とは生気であり、万物はこれを得て、生じるだけでなく、万物で能くこの気を存する者もまた、長久でいられるのである。
厳粛とは殺気であり、万物はこれを得て、死するだけでなく、万物で自ら、その気を造る者で早死にしない、ものはないのである。
この意義を明らかにする者は、万物の理と同じであり、則ち身を修める者は、先ずその性情とその気質を調え、我が身をして、常に生の方に処(お)るようにして、自らの死の因を造らないようにすることである。
且つ柔弱は、春夏の気であり、人がこれを得て生ずれば、性情は平和となり、事を行っても、寛恕となり、自ら是として、固執する事無く、勝とうとして、人と争う事無く、公平無私の心を以て、天地和平の気を養い、その身の生気を培養すれば、その気は、自然に長久となり充ち固まるのである。
故に、「人の生や柔弱にして、死や堅強なり、万物草木の生や柔脆なり、死や枯槁なり」と言っているが、これは老子の心坐の方法である。
これは、ただ、一二の例を挙げて、以てめいめい坐功に勤める者の参研の対照とし、真経の奥妙を悟り、坐とともに、功候を進めて、これを明らかにするのである。
自然に純任(まか)せるのが先天の坐法であり、それがとりわけ重要である。
能く求めずして、得るところの境地に至れば、恬適爽快である。
四大皆空の時は、天地との間に界(さかい)がなくなり、無相無知にして、渾然と合して一となる、これが上乗の妙である。
もし、よく功を用いれば真経も又、その要点を明らかにすることは、難しくないのである。
礼義孝弟謹行は、これ、その要点である。
「一たび他念があれば、胚胎は皆非である。」
すなわち、謹行礼義孝弟でなければ、たとえ、君の坐がどんなに、良くても、たとえ、真経が全部わかったとしても、その功を成就する事は出来ないのである。
これは、その一端を挙げて言ったのである。
坐功の功候を大成させるには、ただ、坐功のみを積んで、意を誠にして、心を正し、身を修め、知を致して、至善に至り、明徳を明らかにすることが無ければ、これを学ばずして、目的に到達する事は出来ないのである。
吾は新修のために、進言し、善くこれを悟ることを望むのである。