玄徳道

道を語るブログです。

黙真人訓、神道。

2023-02-20 22:15:00 | 道院
道を学ぶ者は、必ずその身を調柔し、その気を調柔して、はじめて神に合し、最後には想念がともに止み、気息も又尽きて、はじめて無に合するのである。

何故に、神が無に合して、はじめて道に入る事が出来るのであろうか。

それは、天下の物はみな、有より生じて、有は無より生じてくるからである。

調柔の二字は、調について論ずれば、調整、調養、調正などなど、一様ではない。

柔とは則ち、和である。

身を調正するとは即ち、道の理によって身を修めるので、身が調わなければ、則ち精を損ない、その行為は不当で、でたらめとなり、その行動は傲慢となるなど、一様ではない。

その身を調柔するとは、その身の不当なところを調和して、当を得るようにし、不和なところは、以て和を得るようにし、不正なところは以て正を得るようにすることである。

故に身が調柔しなければ、精を傷(そこ)なって疾病を招き易いのである。

心が調柔しない者は神を失い、神を失う者は、又種々の異なった現象があらわれる。

ある者は自ら又これを、覚り、人はこれを知っていながら、そのなった原因がはたして、どこにあるのか解らないのである。

気が調柔できない時には、時(つね)に暴虐の気を起こして重大なる疾病を招くだけでなく、さらに早死にする者も、どうしてそうなるのか、その原因が明らかでないのである。

吾が道院では坐功を積んでいる者は、その病を招く原因について、多くがこれを明らかに理解している。

而(しか)し神が無に合し、気息も又尽きると言う事は、又善く悟り、勤め修め、功候の深純なる者でなければ、これを明白にすることは、出来ないのである。

例えて言うならば、老子がいうには、「気を専(もっぱ)らにし、柔を致して能(よ)く嬰児たらん」と。

何を気を専らにするといい、何を以て柔を致すのであろうか。

生まれて一年にみたない赤子というのは、元気を未だ散じることなく、乾体は未だ破られることなく、百に一つも知る事が無いとは、まさに、これ気が専らになったところの妙であり、百に一つも能がないとは、まさに、これ和を致すところの妙である。

そこで気を専らにして、柔を致すは、無知(知ることなく)無欲(欲することなく)無思(思いなく)無慮(慮(おもんぱか)ることなく)にして、神気が故に能(よ)く一を抱き、魂魄が故に能く相随う所以である。

或いは、修練の士がいて、神気を収め蔵しているといっても、それはただ、その妄想を除き、その呼吸を調えているだけで、神は気に入る事ができず、気は神に帰する事ができず、真息は相依る事が無い。

故に一を抱いて気を専らにし、柔を致すこと、嬰児の如く、自然の妙を有する事が出来ないのである。

この一節の要点は、元気を充ち固め、乾体を充ち固めて、無知無欲無思無慮にして、功を用いる事に在る。

そして、神気が自然に一を抱き、自然に真息が相依れば、凡息は自ら尽きるのである。

もし、如何にして一を抱くか、如何にすれば、真息が相依るかを、人為的に尋ねれば、その相に着(執着)することによって失われ、功を進める事は出来ないのである。

天地は柔和を以て万物を生じ、厳粛を以て万物を殺す。

柔和とは生気であり、万物はこれを得て、生じるだけでなく、万物で能くこの気を存する者もまた、長久でいられるのである。

厳粛とは殺気であり、万物はこれを得て、死するだけでなく、万物で自ら、その気を造る者で早死にしない、ものはないのである。

この意義を明らかにする者は、万物の理と同じであり、則ち身を修める者は、先ずその性情とその気質を調え、我が身をして、常に生の方に処(お)るようにして、自らの死の因を造らないようにすることである。

且つ柔弱は、春夏の気であり、人がこれを得て生ずれば、性情は平和となり、事を行っても、寛恕となり、自ら是として、固執する事無く、勝とうとして、人と争う事無く、公平無私の心を以て、天地和平の気を養い、その身の生気を培養すれば、その気は、自然に長久となり充ち固まるのである。

故に、「人の生や柔弱にして、死や堅強なり、万物草木の生や柔脆なり、死や枯槁なり」と言っているが、これは老子の心坐の方法である。

これは、ただ、一二の例を挙げて、以てめいめい坐功に勤める者の参研の対照とし、真経の奥妙を悟り、坐とともに、功候を進めて、これを明らかにするのである。

自然に純任(まか)せるのが先天の坐法であり、それがとりわけ重要である。

能く求めずして、得るところの境地に至れば、恬適爽快である。

四大皆空の時は、天地との間に界(さかい)がなくなり、無相無知にして、渾然と合して一となる、これが上乗の妙である。

もし、よく功を用いれば真経も又、その要点を明らかにすることは、難しくないのである。

礼義孝弟謹行は、これ、その要点である。

「一たび他念があれば、胚胎は皆非である。」

すなわち、謹行礼義孝弟でなければ、たとえ、君の坐がどんなに、良くても、たとえ、真経が全部わかったとしても、その功を成就する事は出来ないのである。

これは、その一端を挙げて言ったのである。

坐功の功候を大成させるには、ただ、坐功のみを積んで、意を誠にして、心を正し、身を修め、知を致して、至善に至り、明徳を明らかにすることが無ければ、これを学ばずして、目的に到達する事は出来ないのである。

吾は新修のために、進言し、善くこれを悟ることを望むのである。
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黙真人訓、天道。

2023-02-18 17:42:00 | 道院
天理良心は、自然に基づくものであり、私情に偏った人欲を、どうして欲しいままに、する事が許されようか。

世間の多くの聡明なる者は、誤って、貪り欺くことを、真理と解している。

天が人に授けた理。

これを、天理と、言う。

この、天理がどうして、能(よ)く知り、能く明なのであろうか。

それは、良心だからである。

良心とは、良知良能である。

何を良知良能と言うのであろうか。

それは、知らずして、知るのがこれ、良知で在り、能くする(習得による事無く、自然に能くするを言う)のが良能である。

天の人に授けるところのものは、本来は公平無私で、心を差し挟む事無く、人々に対して本来均等である。

従って、人々は皆、聖賢仙仏となることが出来るのであるが、何故、人々が皆、聖賢仙仏となる事が難しいのであろうか。

これには、多くの研究の余地がある。

天から授けられたところのものは、それは、あたかも、一握りの種子を巻き散らしたようなもので、世俗の衆生は、めいめいの環境や資質が、それぞれ少しづつ異なっている処がある。

或いは、父母の遺伝や教養、及びそれぞれ遭遇することも、一様ではない。

これは、大きく二つに分けて言えば、富貴と貧賤に拘らず、善と悪との二つの途(みち)にほかならないのである。

ある人は、生まれながらにして、能く知り、また、苦しんでこれを、明らかにする人もあり、また、学んで智を致す人もあるが、その知り、明らかにし、致すに及んでは、則(すなわ)ち、同一である。

これによって、天が授けるところのものは、多数が同じであると云う事がわかるのである。

ただ、後天の環境や、めぐり遇いによって、各種各様の人がいるので、それは、人心の異なることも、あたかもその顔が、めいめい異なっているが如くである。

ここで、善人については、暫く論じないことにする。

それは、善根夙慧のある人は、一度渡(すく)
えば、明らかに成り.一度(ひとたび)学べば、その天理の正を知るからである。

それに対し、不善の人は、何故渡(すく)い難く化し難いのであろうか。

それは、後天に於いての嗜好や私情に偏った人欲が習性となって、しまうからである。

たとえ、それが、いかに閉ざして覆われていても、その内心では、常に天理良心が働き現れている。

この現れは、別に本人が希望するところのものではなくても、それは、自然のあらわれである。

この僅かな現れを、疎かにし、本人がそれを重視しないので、一度(ひとたび)あらわれてもみな消えてなくなり、それだけの事に止まってしまう。

それは、私情に偏した力が強すぎるからである。

能(よ)く、このわずかな現れを重視して、これに反復して、追究し省察して、大切にすることが、即ち工夫を用いるところの、要点である。

小さい事を積み重ねて、大と成す事ができ、少ないものを積み重ねて多と成す事が出来るように、この僅かな現れを積み重ねて行けば、この、私情に偏った人欲は、日に日に減して行くのである。

朱子は、ここのところを工夫して頗る会得するところがあった。

彼が言うには、人々が心を修めるのに、これを説けば千言万言を費やしても、それを説き尽くす事は出来ず、その法門も非常に多くあるが、帰するところは、只、天理と人欲の争いに過ぎないのであると。

例えて言えば、天理と人欲は、吾が心中において、あたかも両軍が相対峠しているようなもので、天理が一歩進めば、人欲が一歩退きら人欲が一歩進めば、天理が一歩退くのである。

この工夫を用いる時には是非とも、しっかりと足を踏みしめて、必ず人欲に打ち勝つ信念を持って、少しもこれを揺るがせにすることは、出来ないのであり、昔の聖賢が朝に乾乾として、勤め励み、夕べに惕(おそ)れ謹しんで、戦々兢々として、戒慎恐懼したゆえんである。

また、もう一つの例えによると、修人の中のある人達は、この大道が平坦なる大通りであり、当然この大道を堅定不二の心を持って歩まねばならないと言う事を知っている。

しかし、また、別に一本の小路がある。

それは、ある一つの物事に君が引きずられて、知らず知らずのうちに、この脇の小路に足を踏み入れてしまうことになる。

そこで一体如何なる物事によって、君は引きずられるのであろうか。

この物事とは、或いは財貨、利益、名誉、地位や六根六塵あったり、要するに人々の愛好するところの物語である。


そこで一たび、この脇道に足を踏み入れてから後は.間も無くして身心上における非常な苦しみや、精神的な荒廃で、その苦痛に耐えられなくなるのである。

そこで夙根ある人は、この時になって初めて、道を間違い、是非善悪の判断が間違っていた事に気がつくのである。

この時になって、これら一切の誤りから、脱却しようと思っても、しかし、それは大変な事である。

それは、既によくない事に染まっているからである。

そこで必ず大なる明智と決心と犠牲を払って、はじめて、元の道に戻る事が出来、自己本来に復(かえ)る事が出来る。

これらの明智、決心と犠牲は、夙根(前世の修養)の厚い人にして、はじめて出来るのである。

或いは、別の種類の人は、これらのイバラの荒廃した道に入り込み、苦痛の段階に至ってもまだ、自覚する事は知らずに、さらに勇気を振い起こして、自分は奮闘するのだ、自分はイバラの荒廃した道を一掃して、今迄通行出来なかった小路を切り開いて、旅人の為に福利や便宜をはかり、その為に自分は勇敢に突進し、この小路を開く上での犠牲になるのだと、大声で叫んでいるが、しかし、これは徳を度(はか)らず、自らの力を量らず、道理に合わない事であり、それは、人々のみな、盲従すべきものでは決してないのである。

人々には、本然の良知良能があって、人々のすべて一切の表現「中(うち)に誠あれば外に形(あらわ)れる」を明らかに弁ずることが出来るのである。

世俗にいる、ある人は自ら聡明てあると自惚れているが、その実、誤りと真理の違いは、たとえ修人でなくても、また、能(よ)く明らかに弁ずる事が出来るし、それらの人々の心中で考えていることと為していること等、一言一語、一行一動は皆、あたかも、たなごころを指すように明らかである。

従って、これを口に出さず黙して善を修悟する者は、吾が師匠であり、不善なる者は吾が資(たすけ)となる(自己にこれらの不善の有無を反省する資(たすけ)となる)のである。

御釈迦さまが、現身説法(現世に姿をあらわして法を説き衆生を済度すること)すること数十年にして、円寂(帰道、死亡)の前に弟子が数ヶ条について質問した。

その一ヶ条に、不信の弟子が、吾が仏(釈尊)
が円寂した後には、如何に処理するかと、御釈迦さま曰く、「黙擯」(黙してしりぞける)
と。

この二字に寓されている意について、各長老須菩提はみな、大いに覚悟った。

各弟子も又、頓(とみ・急に)に明らかとなった。

蓋し、修とは一心の誠に在り、誠でなければ道慈の根幹に到達できないのである。

全て一切の因果輪廻、天国、地獄は皆、自ら修め、自ら練り、自らの心に工夫を用いるのである。

天理良心は如何なる人といえども、これを滅却させることは出来ない。

只.自らのこころを修練して、みずからの功候を成す事に在る。

各位はそう思うであろうか。

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黙真人訓、修道。

2023-02-13 20:31:00 | 道院
時のある所、機がこれによって生じてくる。

機は、どうして生じてくるのであろうか。

吾が心の感応によるのである。

吾が心はどうして、能(よ)く感じるのであろうか。

それは、一誠が中に蔵され、運(めぐ)るからである。

中は炁霊感化の本である。

心が道慈に在りて、大公至正の心で、偏った欲望の私心(利己心)が無くして、はじめて、感応の顕現は、吾が心に悟るのであり、吾が心は一虚空の包(宇宙)であり、能くこの能力がある者は、功候の修進にある。

功のあるところ、候を養うところは、均しく平生の人に応待し、物に接し、世に処して、事を処理する上において、テストするのである。

たとえば、心が能く止水の如く、また明鏡の如く清らかで、事物が発生して来るや、ひとたび、照らして、そのしかる由縁の故を知り、そのしかる所以の理を明らかにし、その事が過ぎ去ってしまえば、跡を残すことなく、いぜん本然に復する。

本然とは自然であり、自然と天地とは、合一し、万物と合一する。

この種の修果は、皆、一誠によって修行して得たものである。

天地の運化については、人々が偉大にして、深遠なことは、測り知ることができない事は、皆知っている。

然(しか)も無心にして、為せば、為さざるは無いのである。

この一点より、坐功の上乗の修練方法を悟る事ができ、また世に処して、事を処理する上に於いて、人に対して、紛争を解く上での一切の妙訣を悟ることができる。

このの字の工夫は、知ったからといって、すぐ、実行するできるものでは、決してない。

必ず、一切の幻想、一切の妄想を取り除いて、はじめて能く工夫を用いて、真の効果を得ることができるのである。

各方は、みな吾が師の弟子(至生先天老祖の弟子、道院の修方を指す)にして、経訓は非常に多く、宝物も豊富である。

もし、能く心を潜(ひそ)めて、密(ひそ)かに修めて、自ら(真の自分自神)を得ることができれば、成就しない、道理は無いのである。

ただ、最も恐ることは、この山(青玄道)に登っていながら、他の山を見ては、もっと高いのではないかと思い、この山で埋蔵されている宝物を発掘して得る事が出来ないのに、他の山には宝物発掘する上での何か、近道があるのではないかと思い、もし、他の山に、真の近道があるか否か、埋蔵されている宝物が比較的豊富であるか、否か、我の願望を達成させてくれるか否か、を問うたとしても、確実にこれを知ることは、出来ないのである。

しからば、どうして、このように異なったものを見ては、心がその為に移り変わって、新奇なものを好むという、心理が働くのであろうか。

それは、経訓に、対して深く研究して、その玄奥を得ていないので、別にその秘奥を尋ねようとする、一念によって、動かされるからである。

ほかの山の宝物は、必ずしもあてに、なるとは限らず、吾が山の宝物は、すっかり、荒廃してしまっているのである。

古人が読書するのに、朱子を以って論ずれば、普段この一章(天の命ずるこれを性と謂い、性に率(したが)うこれを道と謂い、道を修めるこらを教えてと謂う。)において、その玄奥を深く明らかにすることは出来なかった。

いかに期間が長期にわたろうとも、必ず、この一章を悟解して後に、はじめて第二章を読むことが出来るのである。

現在は乱世の故を以て、人心の多数は、時流に流されて、動いているので、いかなる工夫を用いるにせよ、その上面(うわつら)を得ただけで、一知半解である。

それでも、自らその博学と能力を誇り、通りいっぺんの学問で、人の師となっている。

吾が院会(道院紅卍字会)の同修は、皆、一誠を発願して、四つの願を宏めている。

ある者は、少数ではあるが、ほしいままに、社会の俗流を観て、俗務を以て本とするところの者は、言語行動において、完全に真誠を失ない、かつまた、誠を実に愚かなことで、時代の流れに合わないと見做している。

したがって、お互いに騙し合い、一点たりとも、真実の現われが無いのである。

修人とは、いわゆる、人を修める者であり、範を立てて、世間の人の手本となるので、したがって狂瀾(荒れ狂った大波)が盛んに荒れ狂っているのを救い、滔滔たる時流の悪い、風習に流される事なく、不撓不屈の精神的ささえとなるのである。

十目の視る所、十手の指す所、みな、警しめ戒めて、深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如く、聖者賢者すらも、時々刻々に謹慎(つつし)んだのである。

我々修人は、道院において、求修して、一修人となった以上は、一言一行、一事一務についても、常に次のように考えるべきである。

それは、外部の人は、我々が如何なる責任を負って、いかなる道慈を修めているか知らないのである。

ただ、君の一言一語、一挙一動、一事一務の上において、君の為していることが、はたして自分の為にやっているのか、はたして、道慈に合致しているかというところより、君のその人物がはたして、修行の工夫を為しているか、はたして、道慈に合致しているかを評定するのである。

彼らは、院会の各人を修人の代表と見做し、当然、修行したものが身体的に現れて来ると思い、道慈を代表しているので、当然、為す事が道慈の宗旨に合致しているものと思っている。

もし、君たち自分自身の自らの心の、この一点に関心を持って、能く実践して、この一点が実行できれば、話すことは、みな教訓手本となって、みんなが自然にこれを称賛するようになり、自ら巷間に知れわたるようになり、たとえ、上乗の宣闡資料を用いなくても、能く人々の心中に深い印象を与える事になる。

これは自然の感応によって、その功徳が賞賛されるのである。

さもなければ、たとえ、最高の宣闡資料があって、人々がそれを一見して、立ち所に感動して来たとしても、それを述べた人と接触し、その人が宣闡資料に書かれているように、立派でなく、さらに観察してみると、言行不一致のところが多くあると、言うことがすべて手本となると云う、イメージに疑惑を生じることになる。


したがって、私(黙真人)は、しばしば次のように主張している。

それは、内部を完全に整理して、修人各方がみな、自分をよく修め、中(うち)に誠なる者は、外にあらわれるのである。

吾人があるいは、自己の言行の不当なところに気が付かなくても、岡目八目で他人はよくわかるので、君が彼に対して道を語り、修を研(きわ)めると言っても、彼ははっきり、わからないのであるが、然しながら、君が誠であるか否か、修めているか否か、何を修めているか、何を考えているかについては、外部の人は、一たび接触して、君の談話を聞き、君の行動を観察すれば、一目瞭然である。

これは、如何なる道理によるものであろうか。

何故、自分の間違いに対し、自分で気付かず、他人がかえって、能く一目瞭然で全てわかるのであろうか。

それは、我々に過失があるのは、全てみな、欲望の心があるからで、一たびこの心があれば、この心の為に、障(さえ)ぎり蔽(おお)われて気が付かないのである。

孔子の弟子である子路は、自己の過失を指摘されることを聞けば喜び、顔子は過失の二度を繰り返さなかった。

これらは、皆修行の功候に対し、積極的で、勇敢であった。

現在の普通一般の人は、夙根(前世から受け継いだ修養の徳)や夙慧(先天から来る叡智)が無く、また、読書して、理を明らかにすることが出来ず、ある者は、自分にはたして、過失が有るや否やも知らず、ただ自分と考えの合わない人には、勝手に粗探しをし、勝手に人に教訓して、自分は他の人より、一段上であるので、このようにしてもよいと、思っている。

これは、すべて、修行の錯覚である。

これを修め省みて、悔い悟り、全てこの平易にして、身近な小さなところにおいて、先ずこれをよく修め、一切の習性や俗性、悪い習慣をすべてみな、取り除いて正義正心を以て修行をし、気質を変化し、心を清くして、欲を寡(すくな)くするところの本とするのである。

これは、我々が行路を、一緒に歩む上での第一歩の足かせである。

もしも、われわれが、この一歩をおろそかにして、大股で速やかに前進しようと思っても、必ずひっくり返り損傷することは、間違い無いのである。

この時と言う字は、時には人心によって造られ、この機というのは、時には欲望の為に蔽(おお)われてしまうのである。

願わくば、各地の男女同修がわれわれ、院会社に、至聖が壇に降りて訓を垂れること数十年、我々は必ず、院会社を試験場と見做し、我々の候行がこの数年来、はたして、合格したのであろうか。

はたして、何点とれたのであろうか。

自分で検討して明らかにすることは、はたして心に恥じる事は無かったであろうか。

偏向に任せ、習慣となった俗性に偏することは無かったであろうか。

道慈の真に合しないことが無かったであろうか。

求修の四大宏顔に叛く事が無かったであろうか。

悪因非行があっても、悔悟懺悔することを知らなかった事は無かったであろうか。

一々吾が心において、自ら省み、自ら覚り、自ら改め、自ら修めるのである。

現在の時機(とき)は、最後の機会である。

皆んなが共に目醒め、自覚して、自らを渡(すく)い、人を渡(すく)うことを希望する。




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三六九神示 大地がフルウ道。

2023-02-06 18:50:00 | 神示道
さあ、ドンドン、オノコロ、オノコロ、淤能碁呂嶋が動き始めたぞ。

さあ、団子をこねるぞよ。

吉備丹後(黍団子)じゃな。

キビダンゴを、オノコロオノコロ、まるめてさあ、串をさすと言う、さあ、どうじゃ。

キビダンゴをこしらえて、日の神様、月の神様に御捧げ申すぞ。

さあ、ドンドンさあドンドン、ちょっとな、仲なか、上手に丸くならぬ。

さあ、そこで、水かげんと言うな。

結んで開いて又、結ぶ、こねて、こねて、こね回す、するとねばりが出るのじゃな。

これからの日本もこねまわしの始めじゃな。

もっともっと、練らねばならぬ。

さあ、神界の吉備丹後(黍団子)と言うな。

黍団子が出来ぬと鬼退治が始まらぬ。

政治の世界もコネマワス、真の桃太郎出(い)
でませる準備じゃな。

練るぞ練るぞ、結んで開いてと言うな。

古き世の型崩れてゆく。

粉々になって、その粉にまずを水を入れて、はじめ、ばらばら、ねってねって、こねて一つとなる。

さあ、現の世の四九三の仕上げを五六四六(ごろじろ)と言うなり。

世界の様、オノコロオノコロ、大臼が回り始めたな。

天地の神の経綸の大臼がかみ合って動きます始めたぞ。

其の昔、但馬の来日山の金明の宮の宝座の基礎に、石臼を置いて、その上に、七五の玉石を入れた、鉄塔を据えた事がありたな。


其の型が実地の世の様と現れる時節となりて、天地の七十五の新しき世の言霊、鳴り響き、古き世の四九三を、天地の大臼で粉を引きて、捨てはせぬ。

それを、練って天垂敷世(あたらしきよ)の四九三を産む。

吉備丹後の四九三と言うなり。

ン。

(注 淤能碁呂島=淡路島にあり、淤能碁呂島神社あり。……平成六年、十月十六日、神行 業に奉仕する。)

(注 昭和五十二年十月十日。兵庫県城崎町、来日山(五六七))mの長谷の磐座に、大きな石臼を二つ重ねて据へ、その石臼には、種々の理合を刻み、その上に金色に塗りし鉄塔を乗せ、七十五の玉石を鎮め、金明宝座と命名す。

(注 金明宮=昭和四十八年十一月四日(旧十月十日)天火明命、来臨の山、来日山、長谷の磐座の前に、金と紫に塗りし、宮を建立。

三十六ヶの神石を鎮め、清明(すが)金命宮と号す。

祭神は、天照皇大御神、太弥勒大御神、国常立大神、豊雲野大神、天火明命、彦火火出見命、龍宮姫大神、金勝要大神、他、三十六神也。)


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三六九神示 雪道

2023-02-05 19:36:00 | 神示道
この度の北陸の大雪は、白山菊理比咩の神、九頭龍と化し、浄めの息吹であるぞよ。

人民大雪で困って居るが、雪は水となり、万物を育てはぐくむ事となるのじゃ。

降る雪には白山比咩氣が入っておるぞ。

浄め満ち充つぞ。

白山菊理比咩御現れの雪じゃ。

さあ、雪道は、最初に歩む苦労をいたすぞ。

その跡を皆ついてゆくのじゃ。

道にまよう人民を救わむと現れた聖人達の苦労を忘れてはならぬぞ。

救世の神霊(みたま・九聖の神霊)と称えて奉らむ。

感謝せねばならぬぞ。

先人の道開きの苦労ありて、今日があるのじゃ。

さまよえる現の世に、言うに言われん苦労いたして道を開きし聖人達。

救世の神霊を称え奉らむ。

さあ、降り積む雪にも感謝なされよ。

春となれば、溶けて流れて水となる雪、姿は消えてしまうのじゃ、

苦労と言うのもそんなものじゃ。

苦あれば楽あり、禍(わざわい)転じて福と為すのじゃ。

神の意(こころ)は何時も弥栄であるぞ。

立山は父の山、白山は母の山と申してあるぞ。

父なら神、母なる神ありて、現の世の父母もあるのじゃ。

父母の厚き恵み、厳しい時ありても、皆成長の為にあるのじゃ。

常に見守る父母の愛、忘れてはならぬぞ。

ン。

(注 白山菊理比咩神=白山比咩神が本体で菊理姫神は御現れの姿であり、九頭龍神のとも現れ給う。)

(注 立山=富山県にあり、雄山神社が坐す。祭神は天之手力男命であるが、本体は伊邪那岐命であろう。白山は白山菊理比咩神の鎮まり給う山であるが、裏には伊邪那美命が鎮まり給う。)
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