早朝に太陽が昇り始める瞬間、黎明の気を浴び、気を食べると、心は清々しくなり、人は皆、神であり神の子であり、好悪も無く、民族の垣根を越えて、解かり合え、真に和することが出来るという思いが湧き出ます。この何気ない、無邪気な心こそ、道心であります。
道とは、歩むべき生命の元であり、太乙北極真経では、道胞、即ち「先天の炁胞」と述べられ、五教(道教、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教)の宗であり、根源なる至高の存在なのです。道院という団体では、根源鳴(な)る存在をを「至聖先天老祖」と述べています。
一部の宗教団体、霊能者ではこの神を北極星、北極神と述べたりしていますが完全なる誤りです。木を見て森を見ず、川を見て大海を知らず、半端な霊覚でしか捉えていませんね。
道、道心と相反する心が魔であり、欲心であります。人には好きな人、嫌いな人がいます。この好悪の根源こそが自己の中の欲望であります。人類発祥以来、その想念の蓄積が幽界の存在であり、悪魔の正体でもあります。そして誰しもの心には魔が存在するのです。ゆえに、吾が道が高まれば、魔も相対し、高くなるのです。
魔の正体は自己の欲心でありますが、自己の欲望を取り除く事は、今の現世の社会生活ではほぼ不可能です。様々な情報を得ている事態が興味心という欲であり、自身の生命エネルギーである「気」がそれにより消耗している真実を理解していても、どうすることもできないからです。
しかし、気の挽回する方法こそが坐であり、古より真理の探究者がこころざした法であります。しかし、坐することにより、真理を得た教えが長い年月を経て、人から人へと受け継がれていく中で、法が捻じ曲げられたり、魔の障壁があり、真実なる真我、内なる神との出会いである坐法が、下法である、人である師への恭順や信奉、帰依とされてきました。
ここに於いて、至聖先天老祖は人類の救済の筏、宝筏として、先天坐法を世に降ろしました。
しかし、それは、残念ながら、石門の弟子(六万年前より繋がる有縁の士)にのみ伝経されたにすぎません。
道院には道統があり、神様が決められた網則があり、道院に求修された方しか、先天坐を伝授されません。その門は狭いのです。ましてや日本の道院が隆盛し先天坐が世に広まる事は今後ありえません。中国発祥の教えなど、日本人の心に深く感化される事が無いからです。
しかし、老祖の意を汲み、道院の垣根を越えて、その救済の法を広めようとされる方もいます。(「生きる意味と方法!」の著者、炁楽仙女さん等。)
先天坐により、気を挽回し、心中に真炁を合し、天人合化を為したのであれば、道心は輝き、人心の中にある欲心は即座に霧散するのです。是を道院では真人とよび、妙山(神界)の働きを為す者となるのです。
にほんブログ村


哲学・思想 ブログランキングへ
上記三カ所のクリックを宜しくお願い致します。
道とは、歩むべき生命の元であり、太乙北極真経では、道胞、即ち「先天の炁胞」と述べられ、五教(道教、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教)の宗であり、根源なる至高の存在なのです。道院という団体では、根源鳴(な)る存在をを「至聖先天老祖」と述べています。
一部の宗教団体、霊能者ではこの神を北極星、北極神と述べたりしていますが完全なる誤りです。木を見て森を見ず、川を見て大海を知らず、半端な霊覚でしか捉えていませんね。
道、道心と相反する心が魔であり、欲心であります。人には好きな人、嫌いな人がいます。この好悪の根源こそが自己の中の欲望であります。人類発祥以来、その想念の蓄積が幽界の存在であり、悪魔の正体でもあります。そして誰しもの心には魔が存在するのです。ゆえに、吾が道が高まれば、魔も相対し、高くなるのです。
魔の正体は自己の欲心でありますが、自己の欲望を取り除く事は、今の現世の社会生活ではほぼ不可能です。様々な情報を得ている事態が興味心という欲であり、自身の生命エネルギーである「気」がそれにより消耗している真実を理解していても、どうすることもできないからです。
しかし、気の挽回する方法こそが坐であり、古より真理の探究者がこころざした法であります。しかし、坐することにより、真理を得た教えが長い年月を経て、人から人へと受け継がれていく中で、法が捻じ曲げられたり、魔の障壁があり、真実なる真我、内なる神との出会いである坐法が、下法である、人である師への恭順や信奉、帰依とされてきました。
ここに於いて、至聖先天老祖は人類の救済の筏、宝筏として、先天坐法を世に降ろしました。
しかし、それは、残念ながら、石門の弟子(六万年前より繋がる有縁の士)にのみ伝経されたにすぎません。
道院には道統があり、神様が決められた網則があり、道院に求修された方しか、先天坐を伝授されません。その門は狭いのです。ましてや日本の道院が隆盛し先天坐が世に広まる事は今後ありえません。中国発祥の教えなど、日本人の心に深く感化される事が無いからです。
しかし、老祖の意を汲み、道院の垣根を越えて、その救済の法を広めようとされる方もいます。(「生きる意味と方法!」の著者、炁楽仙女さん等。)
先天坐により、気を挽回し、心中に真炁を合し、天人合化を為したのであれば、道心は輝き、人心の中にある欲心は即座に霧散するのです。是を道院では真人とよび、妙山(神界)の働きを為す者となるのです。



哲学・思想 ブログランキングへ
上記三カ所のクリックを宜しくお願い致します。