善は一切の宗家
北極真経に曰(い)う。
真道有るは、「善道に他ならず」、又曰う「吾が善、気を練り、吾が善、行を踏み、吾が善、霊を回するに如かず」と。
こうして、修養一切に関して、わが老修(道の先輩)は能(よ)く研鑽して実行したものである。
新しい修方においては、只善の一字に対して、徹底して明らかにせねばならない。
或いは言う、善の字は即ち、良い事をすることであると。
しかし、誠心ある修方にとっては、善の一字は、そう簡単な事では無いと覚える。
われわれ修人は、善を以て一切の宗となす。
つまり、善における、その範囲を詳細に分析、解明して、新しい修方のために、ここに先覚の経験や、その効果の大要を分析し.諸子と共に、これを討議、研鑽することにしようではないか。
善といっても、その種類は多い。
善に真と偽がある。
直と曲がある。
陰と陽がある。
是と非がある。
偏と正、半と満、大と小、難と易のように、善にして、その理は、際限がないものである。
善を行うに、その真理を極めなければ、いくら、自分は善を実行している積もりでも、豈はからんや、罪を造る事になる。
折角の努力も水泡に帰してしまう。
何をもって真、偽と曰(い)うか。
昔、儒教を学ぶ数人があった。
天目山に参詣して、高僧普応国師、中峰和尚に質問し、「仏教家は、善悪応報は、形に影が添うようなものだと言うが、現在、ある人は善であったが、その子孫は、必ずしも栄えなかった。これに反して、悪人の家が隆盛となっているが、仏説は真実ではない。」
中峰、答えて曰う。
「俗情(世間一般の人)は、まだ、洗われて(仏の道、また、人の道を学ばれていない)おらず、正しい眼織は、まだ開かれていない。善を以て悪とみたり、悪を指して善となすのは、己の是非(自己の正義)が傾倒しているのをうらまず憾(うら)まず、して、反(かえ)って天の応報の違いを逆恨みするのか。」
さらに数人が問うて、「善と悪はどうして、相反するや。」
中峰曰う。
「例えばどんなことか。」
儒者一人が言う「人を罵り、人を殴ることは悪であり、人を敬し、人に礼を尽くすことか、善となる。」
中峰曰う、「未だ然らず。」
また、一人が言う「財を貪り、矢鱈に取得することは悪であり、清廉潔白を守ることは善である。」
中峰曰う、「未だ然らず。」
数人は互いにそれぞれの所見を述べたが、中峰は「そうではない」と。
中峰曰く「人に益することは善であって、己を益する事は悪である。
人が益することならば、たとえ罵ろうと、殴ろうとも、これは、皆善である。
これに反し、己の益することは、たとえ、人を敬し、礼を尽くしてもみな、悪である。
人に益することは、[公]である。
公は即ち真となる。
己に益することは、[私]である。
私は即ち偽である。
また、良心に根(もとづ)く者を真と言う。
他人の形だけ真似るのは偽である。
無為にして為すのは、真。
有為(人為)にして為すのは、偽である、
人に益することと、己に益することと、これ(悪)をよく分解して修行上の規準とするならば、一心の妙法は、その経験と思慮によって時々刻々、簡潔にして明白となるものである。」
何を以て正、曲と曰うか。
今の人は、謹厳といわれる士を見て、おおむね、善なる仁というだろう。
しかるに、聖人はむしろ、狂狷(変人)の方を取る。
狂は、積極性を有しているが、短期で小中に拘束されない。
狷は、進所出退を厳行するが軽挙を肯じない。
謹厳居士は、同郷の者を是(よし)とはするが、聖人は、偽善者と見る。
つまり、郷里に在っては表面恭順を装い、内心では奸智策謀を有しているからである。
これ、一般世人の善悪観と聖人のそれとは、全く相反していることは、明白である。
以上の推論を以て種々、取捨選択すれば、すべて誤っている。
およそ天地の善を福にし、悪を禍いにすることは、聖人の是非する所と同じであるが、世俗の取捨と、相反するものである。
善を為さんと欲すれば、只見た形ではなく、須らく心の奥から浄めて、世の為、世を救うという心こそが真の正である。
少しでも世に媚び諂う所あれば、曲である。
少しでも世に憤る事があれば曲であるし、純粋に人を愛するは正である。
純粋に人を敬うは正であるし、これを弄ぶようならば、曲である。
何を以て陰、陽と曰うか。
善を行っても、これを人に知らせないことは陰徳である。
人に知らせたならば陽善である。
陽善は世に名声を享ける。
陰徳は天から報われる。
名声も幸いであるが、しかし、造物主からは忌む所である。
名声を享けて、もし、実が伴わなければ、必ず不測の禍いがあるものである。
これに反して、罪なくして、悪名を被せられた者は、その子孫は急に栄えるのである。
何を以て是、非と曰うか。
昔、魯(孔子のおられた戦国時代)の国に一定の法があり、すべて諸侯にそれぞれ家臣や侍女を政府より、奨金を得て、買い戻しをする者は貰える制度であった。
当時の官吏や宮廷の役人は、罪を犯せば、家中の者が皆、奴隷となって終身、自由を得られなかった。
ある義人が金を出して、これらの家臣家僕を自由の身に戻してやろうとしたので、魯の国人は、これを義挙とし、魯の政府もまた、金を出してこれを褒賞した。
子貢(孔子十大弟子の一人)は、家臣を贖ったが、政府からの金を受けなかった。
孔子はこれを聞いて、「間違っている。聖人が事を為すには、一般の世俗に影響しやすいのように、百姓町民に道を教えてやらねばならぬ。魯の国には富める者は少なく、貧者が多い。金をうけることを潔しとしないが、何をもって贖ってやろうとするか。今後も諸侯が、人を贖(か)わなくなるだろう。子貢の賢明は理財に適い富む事であろう。金を受け取らないことは是と思ったが、豈図らんや、是は大非であった。」
子路(孔子十大弟子の一人)は、溺れる人を救い、その人は牛を以てお礼にした。
子路はこれを受け、牛を貰った。
孔子は喜んで曰う、「今後、魯の国で.多くの人が溺れる者を救うであろう。表面だけを見れば、子貢が優で、子路は劣で、これは現時点を以て論ずるからである。それでは、将来の流弊は大である。善を為すには今後の流弊如何をよく顧みて、一人の行為だけ、適すれば、良いというものではなく、一身のみさえ、相合すれば良いものでもない。」
大衆の力が良く行えるか否か、天下に利害が何に多いか、少ないのか、衡(はか)って事の是非を弁(わきまえ)るのである。
何を以て偏、正と曰うか。
昔、呂文懿公が大臣を罷めて帰郷した時、海内の人々は泰山の如く、北斗の如く仰ぎ迎えた。
ある村人が酒に酔って呂文公を詈(ののし)ったが、公は動ずることなく、下僕に曰う「彼は酔っているから、門を閉して謝った。(酔っ払いには帰ってもらった)」
翌年、この人は殺人をして死刑を判決される。
呂文公は、これを悔いて曰う、「われ、その時の酔っ払いを懲らしめれば良かった。わしが厚い心を以て、その悪をここ迄、養っておった事を計り知らなかった。」
これは善心を以て悪を行うことになる。
また、悪心を以て善事を行う者もある。
ある所に、一つの自家のみが栄える富家があった。
丁度飢饉で荒れた年、飢えた民主が白昼、町に於いて掠奪、暴行を働いた。
これを受けた県の役所はこれを処理しなかった。
暴徒は益々勢いを増し、まさに大乱とならんとする時に、富家がその首領を捕らえ、懲らしめて、その争乱は遂に息(や)んで了った。
本来は正者は善を為し、偏者は悪を為すことを、知っておる。
しかし、善心を以て悪事を行う、正中の偏。
悪心を以て善事を行う、偏中の正。
まことに、微妙な次第であるが、道を修め、心を修める者は、明白に理解出来るのである。
何を以て半、満と曰うか。
易に曰う、「善は積らなければ、名を成すに足らず、悪は積らなければ、身を滅ぼすに足らず」。
積もることは満つることである。
怠慢は、不満ということである。
次の様な話がある。
ある娘が寺に行った。
施しをしたいと思い、身体のあちこちを探して、僅かに二文の金を全部施した。
この時、それを見た大僧正は自ら、その娘の回向を行った。
後日、娘は富貴の身となり、数千金を携えて、施しにやって来た時、大僧正は、弟子に回向をやらせた。
娘は問うて言う「昔、二文を施した時、大師、御自分で回向をしてくださった。今、数千金を以て施したが、大師は弟子に回向をさせたのは、何故か」大師は曰う「昔、二文を施した時、その心は甚だ真であった。私自らでなければ、その徳を報いられないからだ。今、高額を施すといえども、その心は二文の時ほど、真(まこと)ではない。弟子で十分である。」
これは二文が満であり、数千金は半である。
かつて、鍾離(中国八仙の一人呂祖の師)、呂祖(中国八仙の一人)に法授して曰う、「この法によって鉄が金になる。金をもって、世を救いなさい。」呂祖曰う「何時までも変わらないか。」鍾離曰う「五百年後に元通りに変わる。」呂祖曰う「この弊害が五百年後の人に及ぶ。吾はそのようなことは願わない。」鍾離曰う「仙を修めるため、先ず三千の善行を為さねばならない。汝の一言は、三千の善が円満となる。善を為さんとして、善に執われないならば、至るところで成就し、皆、円満を得る。もし、善に執着すれば、終日勤勉し能(よ)く励んだとしても、得る所のものは半満である。」
大小の極致も同じである。
衛仲達(宋の官吏、夢にて鬼に拘束され閻魔に引き合わせられる)の訴状を以て、生涯の罪悪を化除する事が出来た。
その一念は万民の上に有るから、その功徳もまた、斯く不可思議である。
だから天下に志しあらば、小もまた、多であり、志が一身にある者は多もまた、小である。
大小の計量は如何に心に存するかということである。
何を以て難、易と曰うか。
昔、二年を要して僅かに得た給金があった。
人の夫妻をまっとうする為にその給金を全部与えた。
また、十年貯蓄したものを全部、他人の借金を代わって返済し、人の妻子を活かした。
さらに、ある老人は子供がなく、幼女の奴隷がいたが、これを郷里に帰し、金を支払った。
これらは、皆、為し難い処を為し、忍び難い処を忍んだので、天は福を以て特に厚く報いるのである。
富と財がある者や、勢力のある者は、徳を立てることは非常に容易なようでも、それを為さないのは、むしろ、自爆である。
貧賤の者は礼を尽くすことは難しい。
この難しい中を能(よ)く為せば、それは、貴いことである。
根本問題は、いわゆる、難とか、易とかの問題ではなく、すべては、一心にして、善行を実践するにしても、この一心を肯(うべな)うか、否かにかかるのみである。
以上は、簡略に種々概要を列挙したが、各位の参考の一助とされたし。